太田述正コラム#13348(2023.3.8)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その22)>(2023.6.3公開)


[末法とは何だったのか?]

 「正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、仏教の初期の段階の経や律にすでに含まれている。初期経典の犍度には、正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまったという記述がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3
というが、その背景には、「釈尊の死後から100年後、戒律の1つの僧侶の財産の所有禁止という項目を巡って、上座部と大衆部との間で論争が起き、教団は2つに分裂した(根本分裂)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
なる大事件の深刻視があったのではなかろうか。
 また、本格的な末法思想の生誕は、末法という言葉が初出する6世紀の『大集経』である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9B%86%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3 前掲
らしいところ、その背景には、「6世紀<の>エフタルの王ミヒラクラ<の>インド侵攻と仏像破壊<(注50)>」(上掲)という大法難があった、と見たい。

 (注50)「5世紀中期にアフガニスタンで勃興し、5世紀末にはグプタ朝と衝突し、ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた。この王のことは、『洛陽伽藍記』に附載される、北魏の官吏宋雲と沙門恵生の旅行記『宋雲行記』に見ることが出来る。ミヒラクラは、ゾロアスター教系と思われる天神火神を信仰し、仏教を弾圧したとされる。弾圧された仏教側では、この事件を契機に末法思想が盛んになり、東アジアに伝えられることとなる。隋代に<支那>に来朝した訳経僧那連提耶舎は、釈迦が外道の蓮華面の転生であるミヒラクラ王の破仏のことを予言した、とする内容を説く『蓮華面経』を漢訳している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%BC%BE%E5%9C%A7

 その上でだが、「日蓮も末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた」(上掲)というのが通説的な説明であるところ、私は、日蓮のホンネは、末法なるものは、釈迦の説いたものが正法(正しい教え)でなかったために失敗が最初から運命づけられていて、案の定、惨憺たる失敗に終わってしまったところ、そのことを表徴すると同時に糊塗するためにでっち上げられた観念に過ぎない、というものだった、というのが私の見方だ。

 仮に私のこの見方が正しければ、石原莞爾が、大真面目で、様々な経典の末法に係る諸記述を自分の都合が良いように解釈して、「五五百歳二重説」(末法二重説」)をひねり出した(コラム#13298)ことなんぞは噴飯物だ、ということになろう。


[日蓮の朝廷への直訴]

「弘安4年<(1281年)>、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

 これについては、鎌倉幕府が、武力を用いての人間主義の世界への普及事業に乗り出す可能性なしと見放し、朝廷のイニシアティヴでこれを行っていただけないか、と受け止めて欲しい内容の直訴を日蓮が朝廷に対して行ったところ、何と、時の天皇・・大覚寺統二代目にして後の後醍醐天皇の父親の後宇多天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E7%B5%B1
・・がこの直訴の趣旨を的確に理解した上で、機会を見てそうしようと返答した、ということだと私は受け止めている。
 当然、日蓮の一番弟子の日昭が密かに行った根回しに従い、当時、権大納言で従一位になったばかりだったと思われる近衛家基
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
・・日昭の「甥」の子!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3
・・が、後宇多天皇との仲立ちを務めたものと思われる。

 この後宇多天皇の返答の趣旨を、将来、時の天皇が、機会を見て、上記事業に乗り出しそうな武士を武家の棟梁に指名することになろう、という趣旨であると解するか・・信長流日蓮主義・・、将来、時の天皇自らが、機会を見て、上記事業に乗り出すことになろう、という趣旨であると解するか・・秀吉流日蓮主義・・が、後に深刻な問題になった、というのが私の見解である、というわけだ。

最後に一言。
 このシリーズを書いていての印象ですが、戦後日本の文系学問全般が振るわない中、日本宗教史、就中日蓮宗史については、とりわけ振るわないのではないか、という気がします。
 そもそも、関係用語の辞典的なものがネット上にあってなきがごとしです。
 そのこともあり、ほんのちょっとだけ例をあげると、日蓮にとっての「二乗作仏」の意味も「地涌菩薩」の意味も、私にはよく分かりませんでした。↓

〇二乗作仏
http://monnbutuji.la.coocan.jp/yougo/4/478b.html ←日蓮宗系の説明
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%8C%E4%B9%97%E4%BD%9C%E4%BB%8F ←浄土宗系の説明
〇地涌菩薩
https://www.totetu.org/assets/media/paper/t164_151.pdf ←創価大教授の説明

 恐らくは、戦後の日本における相対的にまともな国史史学者や宗教学者すら、余り力を入れていない分野なのだからではないでしょうか。
 戦後日本の文系学者の多くが下部構造を重視するマルクス主義史観の呪縛から抜けきっていない中、宗教は上部構造の最たるものですし、日蓮論に関しては、創価学会等、こわもての利害関係者が多く、敬して遠ざけられがちだ、といったことが、その原因かもしれません。
 というわけで、量においてはともかく質において遜色あると言わざるをえない典拠しか基本的に得られなかったため、私は、日蓮のホンネを剔抉するのに苦労を強いられ、一応の結論は出したものの、自信満々というレベルには達していない感があります。
 何せ、日蓮が拠った法華経一つとっても、原文(サンスクリット)/同和訳、漢訳/同和訳、と、様々なバージョンがあり、漢訳にどの程度誤訳があるのか、その漢訳を日蓮がどう読んだか、方便的に誤読した箇所はないか、等々、私の手におえないことだらけですし、現代語訳があってなきがごとしの日蓮自身の夥しい著作や記録に残っている言動、の的確な理解、に至っては、私はほぼお手上げ状態なのですからね。
 僭越ながら、私としては、自分が提示したところの、鎌倉時代以降先の大戦の終戦までに至る日本の歴史を基本的に日蓮主義でもって説明する仮説的な太田史観を、将来、様々な専門分野の人々がプロジェクトチームを組んで、検証し、掘り下げていってくれることを切に望んでいるところ、その際、何と言ってもイの一番にやってもらわなければならないのは、私の、仮説と言うのも憚られる、仮置き的な日蓮論、の検証と掘り下げ、です、と申し上げて、このシリーズを擱筆したいと思います。(太田)

(完)