太田述正コラム#13354(2023.3.11)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その3)>(2023.6.6公開)

 「・・・北は、病院の別室に陸軍将校らを集め、今後について相談した。
 将校のうち、安藤中尉はこのとき初めて北と面識を持った。
 相談の結果、・・・菅波三郎<(注9)>(陸軍中尉)・村中孝次<(注10)>(たかじ)(同)・・・朝山小二郎<(注11)>(同)・・・栗原安秀<(注12)>(同)・・・大蔵栄一<(注13)>(<同>)・・・の5人が、荒木貞夫陸相に直接、要望することに決めた。」(27、30~31)

 (注9)不詳。
 (注10)1903~1937年。幼年学校、陸士(37期)、陸大入学。「1934年(昭和9年)、陸軍大尉に進級するも、同年磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。翌1935年(昭和10年)、停職中に磯部と図って陸軍士官学校事件やそれ以前のクーデター未遂事件を暴露した怪文書である『粛軍に関する意見書』を作成・配布したことにより免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は、統制派の中心人物である永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする『真崎教育統監更迭事情』を作成した。これら怪文書を作成した影響は大きく、これの影響を受けた皇道派系の相沢三郎中佐が永田軍務局長を斬殺した相沢事件に繋がった。
 1936年(昭和11年)の二・二六事件の首謀者の一人となり、東京陸軍軍法会議にて死刑(銃殺刑)を宣告される。翌1937年(昭和12年)8月19日に磯部や北、西田と共に刑が執行された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%AD%E5%AD%9D%E6%AC%A1
 「陸軍大学校卒業生一覧」中に村中は出てこない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
が、これは、「陸軍大学校在学中<に>・・・停職処分(のち免職)をうけ<た。>」ため。
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%AD%E5%AD%9D%E6%AC%A1-1114834
 (注11)あさやまこじろう(1903~?年)。陸士(37期)。「大分県<出身。>・・・中佐<で終戦。>」
https://shirakaba.link/betula/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E5%B0%8F%E4%BA%8C%E9%83%8E
 (注12)1908~1936年。陸士(41期)。「栗原は1933年の救国埼玉青年挺身隊事件に関連。栗原は主犯格にも似た立場であったが、栗原自身への処分はなかった。しかし、盟友の中橋基明歩兵中尉は規律厳しい近衛師団(近衛歩兵第3聯隊)に属していたためか歩兵第18聯隊(豊橋)に異動のうえ満州に飛ばされた。1935年(昭和10年)3月、栗原が戦車第2聯隊から歩兵第1聯隊へ戻ってき<たが、それには、>・・・小藤(恵)聯隊長・・・は、歩一に来る前は陸軍省の補任課長をしていた。その時、札つきの栗原中尉を受け入れてくれる聯隊がどこにもないことを知った。自分がその出身の歩一の聯隊長でゆくことが内定していたので、それでは栗原中尉は自分が引き受けようと、同じ出身の歩一に帰した<という背景があった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E5%8E%9F%E5%AE%89%E7%A7%80
 (注13)1903~1979年。幼年学校、陸士(37期)。「熊本幼年学校の同期には、後の同志となる菅波三郎・香田清貞・朝山小二郎が<、>・・・陸軍士官学校の同期には、菅波・香田・朝山や村中孝次がいる。・・・1931年(昭和6年)5月、初めて桜会の偕行社での会合に出席。この時菅波と再会し、菅波の紹介で西田税と出会っている。そして、西田からは北一輝を紹介され、その後は大久保百人町の北の自宅に足繁く通<っ>・・・ている。また、代々木の西田の自宅において血盟団の井上日召・小沼正・古内栄司・田中邦雄・四元義隆・池袋正釟郎や、後に五・一五事件を決起する古賀清志・中村義雄・山岸宏らと出会い、会合を重ね親交を深めている。
 1931年9月、桜会の会合において橋本欣五郎中佐のクーデター計画が喧伝され、大蔵も下士官学生を率いてこのクーデターに参加すべく準備を進めたが、事前に計画が漏れ、橋本以下十数名が逮捕され計画は失敗に終わった(十月事件)。1932年(昭和7年)2月の血盟団事件では、首謀者の一人である古内栄司を自宅に匿っている。・・・
 1935年12月、定期異動により、歩兵第73連隊中隊長として朝鮮<勤務>を命じられる。もしこの異動がなければ、大蔵自身も二・二六事件の決行メンバーの一人となっていた可能性もあるが、東京を去る前に、決起を逸る磯部に対し、まだその時機ではないと自重を促しており、大蔵が不在となったことにより、他の革新派青年将校への抑制が効かなくなったことによって決行が早まったとの見方もある。・・・
 二・二六事件の翌年1937年(昭和12年)1月18日、「叛乱者を利する為に、擅に策動して軍の統制を紊し、軍事上の利益を害した」として、禁錮4年の判決を受ける。1939年(昭和14年)4月、仮釈放となり、その後神戸の同成貿易株式会社に勤務。この会社は陸軍省兵務局防衛課と隠密裡に連絡を持った、諜報機関としての性格を兼ねた商社であった。1941年(昭和16年)9月、同成貿易株式会社の上海支店開設のため上海に渡り、そのまま上海において終戦を迎え<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%A0%84%E4%B8%80
 「救国埼玉青年挺身隊事件は、1933年(昭和8年)11月13日に発覚した、日本のクーデター未遂事件である。2年3ヶ月後に二・二六事件を起こす青年将校と当時拓殖大学学生であった吉田豊隆が主宰する救国埼玉青年挺身隊隊員が協力してクーデターを起こす計画であったが、計画段階で斎藤実、牧野伸顕、西園寺公望ら重臣の暗殺計画は中止となり、裁判では挺身隊により11月14日川越で行われる予定の立憲政友会関東大会に来訪する鈴木喜三郎総裁の暗殺を計画していた部分だけが対象とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E5%9B%BD%E5%9F%BC%E7%8E%89%E9%9D%92%E5%B9%B4%E6%8C%BA%E8%BA%AB%E9%9A%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒「注13」からも分かるように、中等教育や高等教育の場がどこか、で、同期生達を通じてその時代のいかなる雰囲気を身につけるかが決定され、その後の人生を規定してしまう場合があることが分かります。
 また、同じ「注13」から、西園寺公望と牧野伸顕が、何度も何度も暗殺されそうになったこと、にもかかわらず、それが中止されるか未遂に終わり、2人とも天寿を全うしたことを我々は知っています。
 これは、1931年から36年に至る、暗殺事件(暗殺未遂事件を含む)群やクーデタ未遂事件群、が、杉山らによって使嗾される一方で、西園寺と牧野両名については、何らかの形で、暗殺中止ないし未遂となるような工作が同時にとられたことを推察させるものである、と、私は見ている次第です。(太田)

(続く)