太田述正コラム#13366(2023.3.17)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その9)>(2023.6.12公開)

 「1929年11月、第20期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転属となった・・・藤井斉中尉は、・・・休暇が出れば比較的自由な行動ができ、しかも霞ヶ浦には藤井に理解のある上官が多かった。

⇒藤井斉が社会教育研究所を訪れたのは1924年であったところ、その時点で、大川⇒牧野/杉山、のルートで藤井が海軍内での来るべき杉山構想の協力者として白羽の矢が立てられ、その1924年4月に佐世保鎮守府司令長官から軍事参議官に転じていた伏見宮博恭王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
が、1929年に至って、(同王の子息で海兵同期の博信王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%96%89
を通じてその人となりを聴取できたところの)藤井斉を霞ヶ浦海軍航空隊に転属させるよう海軍当局に口添えして欲しい旨の牧野/杉山からの依頼を受けて、それを行い、実現させた、と、見たらどうでしょうか。
 ちなみに、伏見宮博恭王は、その3年後の1932年に海軍軍令部長に就任します。(太田)

 小林省三郎<(コラム#13092)>少将(航空隊指令)を筆頭に、のち神兵隊事件<(注22)>(1933年のクーデター未遂事件)に参加した山口三郎<(注23)>中佐や、敗戦時に厚木航空隊を率いて反乱を起こした小園安名(こぞのやすな)大尉らが、教官として在籍していた。・・・」(48)

 (注22)「1933年(昭和8年)7月11日に発覚した、愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件。「神兵隊」という名称は、会沢正志斎の詩に「神兵之利」、その著作『新論』に「天神之兵」とあるのにもとづいて、前田虎雄がつけたという。
 血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣僚・元老などの政界要人を倒して皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した。警視庁特別高等警察部捜査により未然に発覚し、東京・渋谷の金王八幡神社の集結所で天野辰夫ら約50人が検挙され、内乱罪が適用されたが、刑は免除された。・・・
 検挙後、池田純久少佐、武藤章中佐、綾部少佐らが、警視庁の安倍源基特別高等警察部長を訪問し、「なぜ検挙したか」と詰問した。事件後、今田新太郎が辻政信大尉とともに新疆方面に出張を命じられたのは、参考人として取り調べられることを避けるためだと伝えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%B5%E9%9A%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注23)1889~1934年。海兵39期(中位の成績)。「英国の航空学校で航空戦術などを学び、航空隊の教員や飛行長、飛行隊長を歴任。優れた後進を多数育成し<た。>・・・
 神兵隊事件では7月7日に首相官邸、警視庁を爆撃する予定であったが、同月11日に延期となるうちに計画が発覚。山口は逮捕され、予審中に死去した。・・・
 山口が神兵隊事件に参加した背景には、井上日召とのつながりが指摘されている。井上の長兄は海兵33期出身の井上二三雄中佐であるが、井上中佐は山口に操縦技術を教えた教官であった。また海軍青年将校運動の指導者であった藤井斉は井上と盟約を結んでいたが、山口の教え子である。山口に参加を勧誘した前田虎雄は、井上日召とは満鉄従業員養成所以来の仲で、神兵隊事件の首謀者の一人である本間憲一郎と前田、井上は血盟三人男の異名があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%B8%89%E9%83%8E_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
 井上二三雄(1883~1919年(機乗訓練中事故死))。海兵33期。「二三雄は日召の学費を援助していた。杉本健は日召が藤井斉、古賀清志ら海軍航空将校とのつながりを深めた理由に、二三雄への思慕があったと指摘し、高橋正衛も二三雄の事故死が日召と海軍の結びつきの契機であったと指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%BA%8C%E4%B8%89%E9%9B%84

⇒藤井斉は、「大洗の護国堂<(注24)>を頻繁に訪れては、所在していた井上と議論を重ね、盟約を結んだ。」とされています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%96%89
が、私は、彼が、(予め与えられていた情報をもとに、)井上日召の、亡くなった兄の二三雄への思慕を利用して、井上を使い捨て鉄砲玉としてリクルートした、と見るに至っています。

 (注24)「宮内大臣などを歴任した伯爵・田中光顕が、明治天皇より拝領した記念品を収蔵しておくために計画した明治記念館(=常陽明治記念館、現幕末と明治の博物館)の付属施設として、1928年(昭和3年)に立正護国堂と号して建立された。協力者は茨城交通の竹内勇之助。・・・
 <現在は、>日蓮宗の寺院・・・護国寺<。>・・・ 
 日蓮宗の僧侶・井上日召が・・・昭和3年の暮れから昭和5年10月まで・・・定住し、布教のみならず国家主義による指導育成を行った。・・・
 藤井斉(霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生)とこの護国堂で提携を成立させた井上は、藤井が水戸を去り長崎(大村海軍航空隊)へと転じる時機に合わせて護国堂を離れ、上京して金鶏学院などで暗躍を続ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA_(%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E6%B4%97%E7%94%BA)

 日召は、満鉄時代に諜報活動にも従事しており、藤井の語る陰謀計画に魅せられた、とも。(太田)

(続く)