太田述正コラム#2237(2007.12.15)
<私の手がけた2度目の白書(詳述篇)(その1)>(2008.6.15公開)
             –始めに–
 私の手がけた2度目の防衛白書について、先般(コラム#2206で)とりあげたところですが、この防衛白書について「防衛学研究」(防衛大学防衛学研究会)2000年4月号に掲載した少し詳しい拙稿があるのでご披露しておきます。
 お手元に昭和57年防衛白書と平成11年防衛白書がないと、分かりにくい箇所もあろうかと思いますが、適宜斜め読みしていただければ幸いです。
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            平成11年防衛白書について
1 始めに
 本日は、7月27日の閣議に報告・了承され、8月30日に発行された平成11年版防衛白書について、担当審議官であった立場から話を申し上げたい。 
 今回の白書にも、例年通り大臣の巻頭言が収録されているが、私の話は話として、こちらの方も読んでいただければと思う。今回の巻頭言は、野呂田大臣サイドの手になる長文の力作であり、不祥事、周辺事態法、北朝鮮2事案の3つを強調した上で、省昇格問題に有事法制問題と併せて言及し、情報公開に触れて終わっている。(巻頭言は、白書が閣議報告・了承されてからつけられるものだが、私は閣議報告・了承直後の8月1日付で仙台防衛施設局長に発令されたため、今回の巻頭言の収録には直接関与していない。なお、今回の白書に初めて添付されて発行されたCD-ROMも閣議報告・了承の対象にはなっていないが、私の監修の下、閣議報告・了承の時点で既にベータ版の形で出来上がっていた。)
 さて、いかなる官庁白書にあっても、編纂担当者にその官庁のホンネをストレートに盛り込む自由があるとは言えないだろうが、防衛白書の場合はなおさらだ。第一、陸海空自衛隊と防衛大学校等の諸機関からなる巨大で複雑な防衛庁に、果たして庁としての単一のホンネなぞあるのかという悩ましい現実もある。
 しかし、だからと言って、防衛白書の編纂は、公式論を羅列するだけであって、腕のふるいようがないということにはならない。歴代の白書編纂担当者は、公式論を、どのように料理して分かり易く読者に提供するかに腐心してきた。それにあき足らなければ、素材としては公式論を用いながら、記述に際し、その取捨選択やウェートの置き方、更には配列等を工夫することによって、編纂担当者の意図を白書に織り込むという手もある。この編纂担当者の意図を、白書の行間を読む意欲と能力を持った読者が、的確に把握し、指摘してくれた時の達成感は何者にも換えがたいものがある。
 ところで、私は、17年前にも昭和57年版防衛白書の編纂に白書室長として携わった経験がある。今回の白書の話に入る前に、比較する意味で、この昭和57年(1982年)白書の話を少ししてみたい。
この白書に対しては、「82年「防衛白書」は、カラー刷りでわかりやすい白書といわれる。だが、変わったのはそれだけではない。その姿勢も、弁明型白書から、防衛はこうするという主張型白書へと一転した。いやそれ以上に、内容が一変したのである。」(林茂夫「1982年「防衛白書」の特徴とその問題点」(「法学セミナー増刊 市民の平和白書’83 平和への戦略」1983年 日本評論社 に収録 PP180)という批評がなされている。以下、林氏の論旨を私なりに整理して紹介しよう。
 林氏の言う「防衛はこうする」とは、昭和57年白書において、初めて日本に対する大小の軍事的脅威のスペクトラムを提示した上で、そのうちの在来兵器による本格的武力侵攻について三つのシナリオを提示し、この三つのシナリオ下の「自衛隊の基本的な作戦」をイラスト入りで紹介するとともに、初めて作戦継続(有事)の間の「国民生活を維持するための施策」の必要性を訴えたことを指している。(林 前掲書 PP184,185)
そして、林氏の言う「内容の一変」とは、
一、 初めて米国を中心とする西側諸国との連帯の必要性について、節のレベル(当時は、「部」「章」制であったので、現行の「章」「節」制に置き直した。以下同じ。)で訴え、かつ、初めて日米安全保障条約と日米共同宣言(この白書にあっては、日米「同盟」関係を明記した鈴木・レーガン共同声明)を資料として収録したこと、(林 前掲 PP180、182)
二、また、国際軍事情勢の章の中で、初めて米国とその他のNATO諸国の国防努力をまとめて記述することにより、米国を西側陣営中の同輩者中の筆頭者として相対化した上で、「アジア及びその周辺の軍事情勢」という名称の節において、中東から東アジア(西太平洋)に至る地域・・日本を母港とする米第7艦隊の当時の管轄地域・・の軍事情勢を初めて一くくりにして記述し、安全保障の観点から見た日本の「周辺」を、米国、すなわち西側の対東側戦略と吻合する形で実質的に拡大したこと、(林 前掲 PP183)
三、更に、日本国憲法を始めとする諸々の防衛政策の典拠文書について、それまでは「防衛政策の基本」と呼んでいたのを「防衛政策のフレームワーク」に改め、神聖視、絶対視されてきたこれら文書の世俗化、相対化を図ったこと(林 前掲 PP184)
四、3番目の章(最終章)である「わが国防衛の現状と課題」中の「自衛隊」という節の中に「教育訓練」と「自衛官」という項を設け、初めて自衛隊の日々の業務と隊員のライフサイクル・・いわば、自衛隊の日常・・を紹介したこと、(林氏は、この節の中の「自衛官」という項に着目して紹介している。(林 前掲 PP186))
等を指している。
 もう時効だろうから明らかにしてもよかろうが、いわゆる市民派の評論家である林氏が、私の意図をおおむね的確に把握し、指摘してくれたことに、当時密かに快哉を叫んだものだ。                        
 若干補足しておきたい。
 第一に、「自衛隊の基本的な作戦」や「国民生活を維持するための施策」について記述した点だが、私としては、昭和57年当時、日本が在来型の侵攻を受ける差し迫った危険性があると思っていたわけではない。当時のソ連の軍事的脅威なるものは、核攻撃という西側諸国にとっての普遍的な脅威を除けば、在来兵力による侵攻の脅威はもっぱらヨーロッパ正面にむけられていたからだ。(このほか、第三世界における東西間の陣取り合戦があった。)かかる認識を踏まえ、私はこの白書で、前年の昭和56年白書がプレイアップしたソ連(の日本に対する)軍事的脅威論からソ連悪者論へと軌道修正を図るべく、第1章の軍事情勢の叙述ぶりに苦心したものだ。
 そういうわけで、「自衛隊の基本的な作戦」や「国民生活を維持するための施策」を初めて紹介したのは、あくまでも、それまでの形而上学的な憲法論議を中心とした不毛の防衛論議が、より地に足のついたものになることを期待してのことである。
 ところが、「基本的な作戦」を記述する方針を決めたとたん、陸海空自衛隊のせめぎあいが始まり、陸自中心のもの、海自中心のもの、空自中心のものの三つの基本的作戦と、これら基本的作戦に対応した三つの侵攻シナリオが記述されることになった。そればかりか、これを導き出す伏線として、「わが国の防衛力の意義と役割」という項において、初めて陸、海、空自衛隊それぞれの特性が並列的に記述されることになってしまった。当時の私の力の至らなかったためであり、統合マインドの欠如と言われれば、その通りだ。
 とまれ、昭和57年白書では、以上のように、一、陸海空各自衛隊の特性、二、「自衛隊の基本的な作戦」、及び三、「国民生活を維持するための施策」が初めて記述されたのだが、その後、一は、基本的に「防衛力の意義・・」という節の中で同じ記述が繰り返されることとなり、二も、基本的に毎年の白書で同じ記述が繰り返された後、平成3年からは節に昇格し爾後その節が維持されることとなり、また、三についても、基本的に「国民生活を維持するための施策」を記述する項が毎年維持されることとなって、平成10年の白書に至る。
 今回の白書では、二は維持したが、一の「防衛力の意義」の節と三の「国民生活を維持するための施策」の項は廃止した。
 第二に、昭和57年白書当時までは、対外政策に係わることや日米安保の話は、外務省が自らの専権事項として、防衛白書において踏み込んだ記述をすることなど許さないという態度を堅持していた。
 しかし、それでは日本の防衛政策・・これを安全保障政策と言い換えても良い・・の全体像が読者にはつかめない。林氏の指摘どおり、私自身に「西側諸国との連帯」を白書の中で強く訴えたいという気持ちがあったのは確かだが、それと同時に、この防衛白書のかかえていた問題(・・その背後には防衛庁や外務省等を包摂する、日本としての総合的な安全保障政策が存在しない、と言う根本的な問題が横たわっていた・・)を打破したいという気持ちもあった。
 案ずるより生むが易し。昭和54年暮れのソ連軍のアフガン侵攻を契機として緊迫した状況が続いていた当時の世界情勢の下で、「西側諸国との連帯」を謳うことに外務省が反対することは困難だった。調整の結果、当該部分を「わが国の安全保障と日米関係」という名称の節の形で防衛白書に盛り込むこととなり、その中で日米安保について記述することにも成功した。実は、いきなり章にしようと試みたのだが、さすがにそこまでは外務省がつきあってはくれなかったという経緯がある。
 その後、この節は、基本的に各年の白書において踏襲されて行くこととなり、対外政策に関する部分については、10年後の平成4年白書に至って、自衛隊のPKO参加等を背景として、「国際貢献と自衛隊」という章になり、その更に4年後の平成8年白書で、今度は日米安保に関する部分が「自衛隊の多様な役割と日米安保体制の信頼性向上」という形で章レベルに姿を現わす。もっとも、対外政策に関する章は、2年続いた後、平成6年から一旦姿を消し、また、章の名称のレベルにおける日米安保への言及も平成8年だけで、平成9年には取り止められてしまう。しかし、「日米防衛協力のための指針」が改訂されたことを背景として、同じ年の白書で対外政策に関する章が、「より安定した安全保障環境の構築への我が国の貢献」という名称で復活し、その更に翌年の平成10年白書では、対外政策と日米安保の両方が、それぞれ「より安定した安全保障環境構築への取組」及び「日米安全保障体制に関連する諸施策」という名称で章として揃い踏みをするに至る。
 要するに、対外政策に関する部分については、章レベルに昇格するまで10年ないし15年、日米安保に関する部分については、同じく14年ないし16年かかったことになる。
 今回の白書では、日米安保に関する章は維持しつつ、対外政策に関する章は節に戻した。
 第三に、中東までを包摂していたところの「アジア及びその周辺」という節は、翌昭和58年の白書で再び解体されてしまっただけでなく、「日本の周辺」は、東南アジアを含んでいた昭和56年の白書よりも更に縮小して北東アジアだけになってしまう。これが、やっと昭和56白書並の範囲に戻ったのが平成元年の白書だ。この状態が10年間そのまま維持されて平成10年白書に至る。
 11年白書では、「アジア太平洋地域の軍事情勢」という節のタイトルは維持しつつも、初めてこの中で大洋州にも明確に言及した。この節の中で57年の白書並にインド亜大陸や中東について記述するのか、また、中国の隣接地帯の一つである中央アジアにも言及するのか等は、あえて課題として残した。
 第四に、「防衛政策のフレームワーク」についても、翌昭和58年の白書で再び「防衛政策の基本」に戻されてしまったが、平成3年から平成7年の白書では「わが国の防衛政策の基本的考え方」、平成8年から10年までは「我が国防衛の基本的考え方」となり、心もち昭和57年白書の名称の方向に回帰したとも言える。
 今回の白書では、「防衛政策の基本的考え方」とした。
 ちなみに、ここで「我が国」という言葉を切り落としたのは、諸外国では殆ど見られない表現だからだ。本当は他の個所でも、すべて、切り落とすか、「日本」等に置き換えたかったのだが、公文書の中で用いられている場合はどうしようもないし、置き換える場合、「日本」なのか「政府」なのか、はたまた「防衛庁」なのか等々、軽々に決めかねる場合が続出したため、抜本的対応は将来に待つことにした。
 第五に、初めて「教育訓練」や「自衛官」という項を設け、自衛隊の日常を紹介したのは、当時の担当審議官の松本宗和氏(防衛施設庁長官で退官)等の発意によるものだ。これらの項の導入は、自衛隊の基本的な作戦について記述したことと同様、防衛論議をより地に足のついたものにすることを意図したものでもある。いずれにせよ、このことにより、防衛白書は、国民一般をターゲットに純粋公共財としての防衛力について説明する白書としての性格に加えて、特定の国民のグループ(「教育訓練」や「自衛官」の項の場合であれば、自衛隊員、自衛隊員希望者、自衛隊OB及びそれらの家族)をターゲットとして、その自衛隊等への関心に答える白書としての性格を合わせ持つこととなった。 
 防衛白書の海外における読者が、もっぱら前段の意味での白書に関心を示すことは言うまでもない。
 今回の白書でも、この白書の、二重の性格は維持した。
 昭和57年当時から、その後17年が経過し、冷戦期からポスト冷戦期へと時代は大きく変わった。昭和57年白書が、単純明快な国内外情勢の下で、いわば、意識の遅れた国民に対し、防衛庁が高みに立って教え諭す啓蒙型白書の典型であったとすれば、今回の平成11年白書は、複雑な国内外情勢の下で、今や意識は必ずしも遅れてはいないものの、醒めているのか目覚めているのか依然微妙であるところの国民に対し、防衛庁が腰を低くして国民自らに考えてもらうことを意図した、初の情報公開型白書となった。
 こういうわけで、今回の白書では、(白書室長と担当審議官という立場の違いもあったわけだが、)昭和57年白書当時とは異なり、私の意図をストレートに織り込むことは極力控えた。
 
 しかし、このような変化にもかかわらず、アッピール性(昭和57年白書における、官庁白書としては初めてのカラー化の実現・・これも、松本審議官等の発意によるもの・・に対するに、平成11年白書の、これは初めてとは言えないがマルティメディア化の実現)並びに分かり易さ(平明な語句、文章及び図表による分かり易さとともに、論理的体系的記述による分かり易さ)を追求した点、つまりはマーケティング志向である点は変わっていない。三つ子の魂百までというところか。
(続く)