太田述正コラム#13392(2023.3.30)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その19)>(2023.6.25公開)

 「8月25日、上京した藤井は西田・日召に会い、陸軍佐官級による満州決起の計画を告げた。
 西田も日召も、この計画は初耳であった。・・・
 8月26日、午前中に藤井は・・・菅波三郎・・・陸軍・・・中尉とともに、橋本欣五郎<(注80)>中佐を参謀本部へ訪ねた。

 (注80)1890~1957年。幼年学校、陸士(23期)、陸大(32期)。「岡山県岡山市に生まれ7歳の時福岡県門司市に移る。・・・
 トルコ公使館付武官。この時、ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」となったらしい。
 その後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を組織。三月事件・十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる。・・・
 1936年2月の二・二六事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で予備役へ回される事となる。
 その後、日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集されたが、南京攻略戦の際の1937年12月12日に、<英>砲艦レディバード号に被害を与え(レディバード号事件)、さらに同日、中国空軍基地に運ぶガソリンを載せた油槽船3隻を護送中の<米>砲艦パナイに砲撃を行っている。 パナイ号は陸軍の砲撃による損傷こそなかったものの、その後南京上流に停泊中、陸軍より攻撃協力の要請を受けた海軍現地(上海)航空隊の空襲により撃沈、死傷者を出す(パナイ号事件)。橋本はこれらの責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。
 予備役中の1936年に大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した(そのため、戦後公職追放となる)。・・・
 出獄後に結婚した3度目の妻がいたが、橋本の臨終間際に離婚を申し出て去っていった。葬儀は、三月事件以来サポートを受けていた徳川義親が面倒を見た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%AC%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
 「1930年9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐、陸軍省の坂田義朗中佐、東京警備司令部の樋口季一郎中佐が発起人となり・・・桜会<を>・・・設立した。参謀本部や陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、長勇、今井武夫、永井八津次などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く、20数名が参加していた。その設立趣意書には、政党政治の腐敗と軍縮への呪詛が述べられ、軍部独裁政権樹立による国家改造を目的としていた。会員は翌1931年5月頃には100余名まで増加したが、内部は破壊派・建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があったという。
 橋本・長らを中心とした急進的なグループは、大川周明らと結んで、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。軍部の独走を助けた。桜会の会合は毎月偕行社を利用していたが、やがて資金が豊富になると急進派は新橋桝田屋で美妓を侍らせておこなったので、のちの青年将校に”宴会派”と呼ばれるようになった。
 桜会は十月事件後に解散させられたが、その残党たちは、統制派寄りの清軍派という弱小派閥を形成した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BC%9A

 ・・・藤井は・・・「長氏よりも大物」だと感じた<。>」(80~81)

⇒橋本は、旧小倉藩の門司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%B8%82
で小学校低学年時代を過ごしており、小倉出身の杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
と、早期から陸軍内の同郷会的なものを通じて同郷者としての面識があったと思われ、その縁で、杉山から、汚れ役としてリクルートされた、と、私は見ています。
 橋本は、ケマル・パシャから学んだのではなく、杉山によってアジア主義者に仕立て上げられた上でトルコに赴任したではないでしょうか。
 また、橋本が作った桜会の「資金が豊富」だったのは、元々スポンサー魔であった徳川義親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E8%A6%AA
に杉山が陸軍次官当時に話をつけた上で、陸軍のカネを、大川や清水を通じて親交があったと見ているところの、義親、を濾過器として利用して、義親経由で橋本らに流したからである、とも見ています。
 (ちなみに、「徳川義親<は、>・・・清水行之助<(注81)>や大川周明らによる三月事件などの国家革新運動の支援に傾倒、早くから南進を志向して、1932年に大川、石原広一郎らと神武会・明倫会を創設、1936年の二・二六事件では叛乱軍将校の宮中参内の取次ぎを申し出<ています。>」(上掲))

 (注81)こうのすけ(1985~1981年)。「[福岡県の小倉に生まれる。]・・・19歳のとき上海にわたり,辛亥革命にかかわる。北一輝,大川周明らと活動し,大正13年大行社を結成。昭和6年の三月事件に関係し,満州(中国東北部)での鉱山経営にも関与。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%A1%8C%E4%B9%8B%E5%8A%A9-1081142
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%A1%8C%E4%B9%8B%E5%8A%A9 ([])

 そして、藤井が、海軍からのカネに加えて、陸軍からのカネも使えるように、杉山らは、菅波をして藤井を橋本に面会させたのでしょう。(太田)

(続く)