太田述正コラム#13394(2023.3.31)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その20)>(2023.6.26公開)

 「・・・同じく<1931年>8月26日の午後、神宮外苑の日本青年館に「郷詩会」<(注82)>の会合が開かれた。・・・

 (注82)「郷詩会<は、>・・・陸軍の青年将校、海軍の革新派士官、それに民間側から北一輝系、井上日召系、農本主義者の橘孝三郎ら、いわばこの期に国家改造運動を進めている人物たちの顔見せともいうべき集まりであった。
 結果的になるが、昭和7年2月、3月の血盟団事件、同年5月の<五・一五>事件、昭和11年2月の<二・二六>事件に連座する者の顔見せの集まりであり、事件にはならなかったにせよ、昭和6年10月の十月事件などもこの会合で計画が練られた。郷詩会には国家改造のために身を挺する若手、中堅の軍人や民間右翼の大同団結という意味があった。
 とはいえ国内の国家改造といいながら、その運動方針などは理論よりも行動が先行する傾向が強かった。例えばこの日、陸軍の中堅将校で国家改造運動に積極的な橋本欣五郎は、いま自分たちが計画しているクーデター(これが十月事件)に同志の協力者が必要だと言い、座長格の西田税を動かして、十月事件を支援するために行動することを決めている。その協力の中身として、陸軍の戸山学校、砲工学校の青年将校、学生たちで抜刀隊を組織化し、要所を押さえるといった計画も橋本らは打ち合わせをした。
 結局、この計画は中止になっている。事前に軍の上層部に情報が漏れて、十月事件の決行予定者が拘禁されたのだ。首謀者たちは逮捕されたり、軟禁状態になって実際は動けなかったとも言えるだろう。しかし民間右翼と青年将校の側には焦りが強まり、軍の上層部からは危険分子としてマークされることになった。郷詩会に出席した者の中から、井上日召系の青年たちが、まず起こしたのが血盟団事件であった。」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/257968
 「郷詩会・・・は、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件の主要関係者が一堂に会した会合として有名だが、実態としては、西田税をまとめ役として選出したことと連絡網が出来た[・・陸軍は大岸、海軍は藤井、民間は西田が中心に運動を進めると取り決めた・・]程度で、それ以外には、[・・陸軍は・・・大岸頼好・・・、海軍は藤井<斉>、民間は西田<税>が中心に運動を進めると取り決めた・・]単に自己紹介をし互いに語り合っただけの会合だった。
 郷詩会は、クーデターを実行するとは言ったもののその計画は全く白紙だった。
 急進派だった血盟団のメンバーや橘孝三郎らは会合に失望した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://note.com/azumaebisu1936/n/n59b097f2fd3a ([]内)
 大岸頼好(おおぎしよりよし。1902~1952年)は、陸士(35期)で、「1930年西田税の指導する秘密結社「天剣党」に参加、皇道派青年将校運動のリーダーとなり、1931年9月「皇政維新法案大綱」という国家改造計画を起草した。1936年の2.26事件に関係して待命となり、左翼から転向の中村義明とともに右翼団体「あけぼの社」を設立。同年12月大尉で予備役。1940年9月近衛新体制に即応、革新青年団結のため結成された皇道翼賛青年連盟委員となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%B8%E9%A0%BC%E5%A5%BD
 
 のちの血盟団、五・一五、そして二・二六事件にかかわる人物が一堂に会した、著名な会合である。

⇒杉山元らは、1930年、3月事件に失敗し、日本国内では、上からのクーデタではなく、下からのテロ事件やクーデタ未遂でもって日本の総動員体制の樹立を図ることとし、9月に開始する満州事変直前の8月末に郷詩会を参謀本部の橋本欣五郎中佐に黒幕として開催させ、西田税がリーダー、民間はその西田が直轄、陸軍は大岸をアバターとして橋本が直轄、海軍は藤井斉が統制、という形の杉山構想別働鉄砲玉集団を立ち上げさせた、ということでしょう。
 「計画は全く白紙だった」のは当たり前であり、そんなものをまともに明かしておれば、(当初から未遂で終らせる予定だったと私が見ているところの10月事件は別として、)血盟団事件も五・一五事件も二・二六事件も失敗したに違いありません。(太田)

 会合は井上日召の提案で、<元陸軍予備役少尉の>西田税<(注83)>を首領とすることから始まった。

 (注83)「大川周明・北一輝と並んで「猶存社の三尊」と呼ばれる・・・満川亀太郎・・は、北の『日本改造法案大綱』に感銘を受け、辛亥革命後上海にいた北を日本に呼び戻した人物だった。
 この満川の紹介で、西田は大川周明の世話になる。大川は当時、江戸城本丸の天守跡に近い大学寮と呼ばれる社会教育研究所を主宰しており、西田はここで、機関誌『日本』の編集と、軍人であることを活かし、軍事学について民間の青年たちに教えていた。
 一方で、やはり軍人であることを活かし、軍人に改造思想を啓蒙し、同志の獲得を図っている。」
https://note.com/azumaebisu1936/n/n59b097f2fd3a
 満川亀太郎(みつかわかめたろう。1888~1936年)。「大阪府出身。早稲田大学を中退後、新聞記者を経て老壮会の世話人、さらに大川周明や北一輝らとともに猶存社を結成。猶存社解散後は安田共済事件まで行地社に所属するなど、アジア主義に立脚した国家改造運動をすすめた。拓殖大学教授。
 大川や北らをはじめとするアジア主義者や国家主義者、政界・官界・軍部だけではなく、社会主義者やデモクラットらとも幅広い親交を結んだ。大川と北とは、思想的に対極に位置するが、一時期、二人は行動を共にした。これは、二人の間を穏やかで世話好きな満川が二人の間を取り持ったからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9D%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E
 「老壮会<は、>・・・1918年(大正7年)10月9日の創立。・・・[満川が,ロシア革命や米騒動などを契機とするデモクラシー思想の広がりや社会不安の増大に刺激され,現状打開の方向をさぐろうと設立したもの。]・・・1921年(大正10年)頃まで続いたが、主に左翼派の脱会者が数多くなるに従いのちに分裂。・・・ただし満川はソ連政府を承認すべきことを論じ(「何故に過激派を敵とする乎」)、大川はその見解に対し賛意を示すなど、右翼とはいうもののこの二人は「反<ソ>」ではない。
 参加者<は、>左翼派(当時)<は、>堺利彦、高畠素之、大杉栄<ら、>・・・右翼派(当時)<は>北一輝、大川周明、権藤成卿、満川亀太郎、・・・鹿子木員信、・・・清水行之助<ら、>・・・その他<は、>大井憲太郎、・・・中野正剛、・・・伊達順之助<ら。>・・・
 <右翼派の多くは、分裂後、>猶存社へ<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%A3%AE%E4%BC%9A
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9D%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E-1112720 ([]内)
 「1923年の猶存社の解散後、北一輝の「日本改造法案大綱」の思想を継承するべく、1924年4月、当時の東京市南青山で創立された<のが>・・・大川周明が主宰した・・・行地社<であり、この行地社が>・・・設立し<たのが>・・・社会教育研究所<であり、>・・・1924年1月には月刊「日本精神研究」(社会教育研究所)を発刊し日本主義、大アジア主義思想を鼓舞して1925年8月には大阪行地社をも設立した。他にも京都をはじめ主要都市に支部を設立した。また東京帝国大学・京都帝国大学内に学生行地社を設けた。
 翌1925年4月には綱領を掲げ、機関誌「日本」を刊行。・・・当初は満川亀太郎、笠木良明、安岡正篤、西田税、等の猶存社の主要メンバーが集まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9C%B0%E7%A4%BE

⇒行地社/社会教育研究所、は、杉山元らが作ったダミー団体であり、彼らが、その団体の神輿に載らせたのが大川周明、で、神輿を担がせたのが満川亀太郎である、と、見ればいいでしょう。
 だとすれば、当然ながら、『日本精神研究/日本』は、実質、杉山元らの機関誌だったということになります。(太田)

 西田は新たな組織の段取りをとりきめ、中央本部の設立と連絡役の割り当てを行った。」(81~82)

(続く)