太田述正コラム#13408(2023.4.7)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その27)>(2023.7.3公開)

 「斉藤内閣の組閣にあたり、裏で全面的に尽力したのは、ロンドン海軍軍縮条約会議の全権・財部彪であった。
 海相には条約派の岡田啓介が就き、斉藤首相自身も条約賛成である。
 政党政治はたしかに後退したとはいえ、成立したのはロンドン海軍軍縮条約を推進した海軍軍人を中核とする内閣であり、明らかに現状維持派の政権であった。
 海軍部内で「昭和維新」を唱えた青年将校らに同情的な人々にとっては、きわめて不本意な結果である。
 また・・・陸軍では、・・・荒木が続投する。
 陸軍部内の昭和維新運動を慰撫するための措置といえよう。
 だが同じく留任した高橋是清蔵相、さらに山本達雄<(注91)>内相(民政党、元蔵相・日銀総裁)の両名が財界重鎮として睨みを利かせる内閣で、荒木が陸軍の予算要望を貫きとおすのは至難であった。

 (注91)「豊後国臼杵藩士・山本確の次男として・・・生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。そこで当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した。卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として1年勤めたがここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から1883年(明治16年)に郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った。そこで川田小一郎より才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任する。
 1890年(明治23年)、当時総裁であった川田の要請によって35歳で日本銀行に入行する。1895年(明治28年)には、川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた。更に1896年(明治29年)4月には金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された。ところが、1898年(明治31年)10月に日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如日本に呼び戻されて第5代総裁に任じられたのである。日本銀行に入ってから8年目の43歳のことであった。
 総裁に就任した山本は、当時の日本経済が過熱気味で正貨流出の危惧があり、また政府から日本銀行に対する融資要請が相次いだために、山本は金融の引締めと政府の赤字財政体質の改善を要求して政府の激しい反発を買った。政府は山本に圧力を加えたが、山本は「日本銀行の主体性」を唱えてこれを拒んだ。だが、私学出身で中途採用・入行8年目の山本総裁の誕生に対する日銀内部の反感は根強く、また山本自身も一徹者であったために就任からわずか4ヶ月目に幹部にあたる支店長・局長・理事の大半にあたる11名が辞表を提出して山本の失脚を企てた。だが、山本はすぐに辞表を受理して直ちに人事の刷新を図った。これには内外は騒然としたが、伊藤博文や山縣有朋らは山本の方針を認めたために、山本はそのまま任期切れを迎える1903年(明治36年)まで総裁を続投した。日本銀行総裁退任後の1903年11月20日に貴族院勅選議員となり、1909年(明治42年)には日本勧業銀行総裁に就任した。
 その運命を大きく変えたのが、1911年(明治44年)に成立した第2次西園寺内閣において西園寺公望総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣したことであった。健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。だが、以後の山本は西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の第1次山本内閣では政友会の推挙で農商務大臣に就任して、山本の2代後の日本銀行総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが、シーメンス事件で志半ばで挫折する。この農商務大臣在任中に正式に政友会に入党した。政友会による本格的な政党内閣である原内閣においても再度農商務大臣を務めた。ところが、この頃より積極財政主義の高橋と健全財政主義の山本の間で意見対立が目立つようになった。この傾向は原敬総理が暗殺されて閣僚はそのままで高橋が政友会総裁として高橋内閣を率いるようになってから一層拍車をかけた。その頃、原の後継者として台頭してきたのは横田千之助と床次竹二郎の2人であったが、横田は高橋を支える路線を取ったため、これに不満を抱く山本と床次は自然と接近するようになる。
 1925年(大正14年)、第2次護憲運動への政友会の参加問題を巡って、参加に反対する床次は政友会を離脱した。山本もこれに同調し、中橋徳五郎・元田肇・鳩山一郎らも加わって政友本党を結成した。だが、政友本党は国民の支持を得られずに勢力を減退、また路線対立から中橋・鳩山・元田らは次々と政友会に復帰した。昭和2年(1927年)、政友本党は憲政会と合同して立憲民政党を結成、山本は床次とともに最高顧問に就任した。だが、床次もまた政友会に復党してしまい、旧政友本党幹部で山本だけが民政党に取り残されることになったが、山本は1940年(昭和15年)の大政翼賛会結成による民政党解党まで同党に属することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%81%94%E9%9B%84_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)

⇒山本達雄は、(伊藤にもですが、)山縣に加えて、何よりも、西園寺に気に入られており、短期間とはいえ、福澤諭吉の謦咳にも接しており、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったと思われますし、既述したように、岡田啓介はともかくとして、齋藤實もその齋藤の組閣に全面的に尽力した財部もそうであり、高橋・・「ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
はノンポリ的な人物(上掲)であったけれども、積極財政主義者であったが故に、杉山らに起用され、その後積極財政主義から軌道修正を図ったために杉山らによって二・二六事件で殺されるところとなる、と、いった具合であり、齋藤内閣は、概ね杉山らの意図通りの挙国一致内閣となった、というのが私の見解です。(太田)

 つまり斉藤内閣は非政党内閣であっても、現状維持を使命とする意味で、昭和維新運動と対峙する厚い壁であった。

⇒一見、「現状維持を使命とする」内閣のように見せかける・・どうしてそう見えたかは小山の記述からも分かるように、齋藤自身がその二・二六事件の時の暗殺死に至るまでホンネを秘匿し続けたこと、が大きいと思います・・衝撃緩和を図ったのでしょう。(太田)

 陸海軍は、ともに不満であった。
 くすぶる不満は、さまざまな形で野火となって現れ、やがて大火へと燃え上がりかねない。
 五・一五事件から1年後、事件の全容が明らかにされたのは、まさにそのような状勢のなかであった。」(163~164)

(続く)