太田述正コラム#13412(2023.4.9)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その29)>(2023.7.5公開)

 「・・・両社ともに軍関係者からの激しい抗議を受けているように、地域社会における在郷軍人の存在は軽視できないものがあった。
 在郷軍人を中心とする政治団体は、1933年に多数成立している。
 明倫会<(注94)>(5月結成・田中国重<(注95)>陸軍大将総裁)、皇道会<(注96)>(4月結成・等々力森蔵<(注97)>陸軍中将総裁)などである。

 (注94)「総裁 田中国重 (陸軍大将)
 理事 伊丹松雄 (陸軍中将)、二小石官太郎(陸軍中将)、東郷吉太郎(陸軍中将)、山田秀夫(伯爵)、堀口九万一(元全権公使)、清水清三郎(元全権公使)、大山卯次郎(法学博士)、石原広一郎(実業家)
 統制部長 渡辺良三(陸軍中将)
 政務部長 匝瑳胤次(海軍少将)
 宣伝部長 二見甚郷(元公使)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%80%AB%E4%BC%9A
 「国体明徴運動を推進した。その主張は「明治天皇の遺業を体し,これに酬いる」ことを目的とし,忠君愛国,滅私奉公,皇室中心の政治,大アジア主義の実現,民族の海外発展によって国民生活の安定をはかるなどというものであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E5%80%AB%E4%BC%9A-141181
 (注95)1870~1941年。陸士4期、陸大14期(優等)。「薩摩国出身。・・・参謀本部員、大本営参謀を経て、日露戦争に満州軍参謀として出征した。後備混成第4旅団参謀長、<米>大使館付武官、騎兵第16連隊長、侍従武官、<英>大使館付武官などを経て、1918年7月、陸軍少将に進級。パリ講和会議全権委員随員、参謀本部第2部長、ワシントン会議随員、騎兵第3旅団長を歴任。1922年8月、陸軍中将に進級し、第15師団長、近衛師団長、台湾軍司令官を務める。1928年8月、陸軍大将となり、軍事参議官を勤め、1929年3月、予備役に編入された。」営門大将に近い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%87%8D
 (注96)「在郷軍人と平野力三らの日本農民組合(日農)とによって結成された団体。大恐慌下での国民生活の窮迫,〈思想の悪化〉に危機感を抱いた在京の在郷軍人の一部は,1933年1月,大衆的政治運動に乗り出そうとして,ファッショ的方向に転換していた日農と提携した。同年4月,既成政党打破,〈資本主義機構の改革〉等をめざして正式に結成された。当初は,軍と農民運動とが結びついた〈兵農一致〉の運動として一般の注目をひ<き、>・・・衆議院議員選挙では平野だけが当選したにとどまったが、地方議会には100名以上に上る議員を送っていた。全国に支部を設け、会員数も最盛時には1万名を超えた。・・・資金難に加えて,軍事費の膨張と農民生活の窮迫が進んだ結果,在郷軍人系幹部と日農系の意見の相違が深まり,1935,36年を境に会勢は不振の一途をたどった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E9%81%93%E4%BC%9A-1165099 
 平野力三(1898~1981年)は、岐阜県出身、早大政経卒。「建設者同盟をへて山梨県の農民運動を指導し、1924年日本農民組合(日農)山梨県連主事となる。1926年に日農の左傾化に反発して離脱し、全日本農民組合同盟を結成して会長に就任。
 社会民衆党の結成に関わるが、安部磯雄と対立し一時は麻生久らと共に日本大衆党を結成、党書記長となった。しかし大衆党の首脳部が財界から資金を受け取っていたことが判明したことから党内対立を招き、大衆党を追われる格好で平野は1926年10月に日本農民党を独自に結成し、幹事長に就任。
 1928年に日本農民党は日本労農党と合併して日本大衆党を結成し、平野は書記長に就任するが、第56回帝国議会での政府案賛成とひきかえに張作霖問題などを抱える田中義一首相から相当額を受領したことなどが暴露され、除名される(清党事件)。
 その後も田中・宇垣一成ら軍部首脳との関係は深く、1932年に日本国家社会党を組織し、更に在郷軍人団体と農民の提携を打ち出し1933年に皇道会を結成して常任幹事に就任する。1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙に皇道会公認で山梨県から立候補し、当選。以後、通算8期務める。
 戦後、日本社会党結成に参加する。社会党では右派に所属し、常任中央執行委員などを歴任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%8A%9B%E4%B8%89
 (注97)1873~?年。陸士6期。長野県出身。近衛歩兵第1旅団長、陸軍戸山学校長。営門中将。
https://shirakaba.link/betula/%E7%AD%89%E3%80%85%E5%8A%9B%E6%A3%AE%E8%97%8F

 これら軍人系の運動団体は、1933年に高揚する五・一五事件の被告減刑嘆願にも深く関係し、「陸軍パンフレット」問題<(注98)>(1934年)の擁護や、天皇機関説の排撃運動(1935年)などでも宣伝活動を担った。

 (注98)陸軍パンフレット事件。「満州事変下に軍部を中核とする国家総力戦体制を作り上げようと努めていた陸軍統制派の池田純久少佐らは,矢次一夫らの国策研究会の協力をえて国家革新構想をまとめ,これを広く一般に知らせることをはかった。陸軍は事変開始以来,陸軍省調査班から多数のパンフレットを発行していたが,池田らは発行を新聞班の所管に移し,1934年7月《躍進日本と列強》を刊行して〈昭和維新〉をうたい,さらに,その姉妹編として《国防の本義と其強化の提唱》を,永田鉄山軍務局長,林銑十郎陸相の承認のもとに10月1日付で発行,広く配布した。・・・
 軍部の政治関与として政友会・民政党,財界・言論界も反対,陸軍の釈明で一応の解決をみた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6-148509

 先鋭化する民間右翼とは異なり、あくまで合法活動を標榜した軍人系団体は、のちには代議士を議会に送り込むまでに成長する。
 さらに陸軍中央でも、すでに「新聞班」<(注99)>が設置(1919年)され、世論・メディアへの対策が重視されていた。」(181)

 (注99)「陸軍の宣伝広報活動や新聞検閲などを一元的に管掌した部局。前身は1914年8月16日陸軍省令第12号により陸軍大臣官房に官制外組織として設立された新聞検閲委員。その後1919年1月6日新聞係が新設され、4カ月後には新聞班として再編された。官制外組織として設立されたため官規上では編制表に存在しない機関であるが、設立当初は臨時軍事調査委員の監督下に置かれ、その後1922年3月より作戦資材整備会議、1926年10月より軍事調査委員(1933年12月に軍事調査部)、1936年8月より軍務局の所属下に置かれた。・・・1939年4月5日陸普1977号により情報部へと改称された。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0100-0020-0010-0020.html

⇒杉山元は、皇道会(1933年4月)と明倫会(5月)が結成された時には既に第12師団長から(1933年3月に)航空本部長として東京に戻ってきており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%9C%AC%E9%83%A8
また、「国防の本義と其強化の提唱」発表(陸軍パンフレット事件)時には(既に1934年8月から)参謀次長を務めていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
少なくとも(アジア主義を掲げる)明倫会の方の結成、と、「国防の本義と其強化の提唱」発表、に関しては、事実上の陣頭指揮を執ったと私は見ています。(太田) 

(続く)