太田述正コラム#2343(2008.2.3)
<米市民権運動の起源>(2008.8.3公開)
1 始めに
 米国において、支配層はファシズムに、被支配層は共産主義に、それぞれシンパシーを寄せていた時期があったことを教えてくれるのが、米市民権運動の起源を明らかにしたギルモア(Glenda Elizabeth Gilmore)が上梓したばかりの’DEFYING DIXIE: The Radical Roots of Civil Rights, 1919-1950 by Glenda Elizabeth Gilmore’です。
 さっそく、この本の内容の概要をご紹介しましょう。
 (以下、
http://www.latimes.com/features/books/la-bk-boyd3feb03,0,517648,print.story
http://www.nytimes.com/2008/01/04/books/04Book.html?_r=1&oref=slogin&ref=books&pagewanted=print
http://www.arcamax.com/bookreviews/s-286942-180780
http://polizeros.com/2008/01/16/forgotten-revolutionaries-of-the-civil-right-movement/
http://legalhistoryblog.blogspot.com/2008/01/garrow-reviews-gilmore-defying-dixie.html
(いずれも2月3日アクセス)による。)
2 米市民権運動の起源
 米国の南部には、1954~55年に始まる市民権運動によってつき崩されるまで、ジム・クロウ(Jim Crow)と称された黒人差別制度があった。
 余り知られていないが、その市民権運動の起源は第一次世界大戦終結の頃まで遡ることができる。
 第一次世界大戦において、米国は自由・民主主義を標榜して欧州で戦ったが、その中には黒人達もいた。復員した黒人の中には、戦中における黒人差別のひどさと戦後の黒人への暴力の頻発に強く反発した者がおり、彼らによって黒人差別撤廃に向けての闘争が始まった。
 1919年にはフォート=ホワイトマン(Lovett Fort-Whiteman)が米国初の黒人共産党員となった。
 彼は、黒人差別撤廃と労働者の地位向上や資本主義体制の転覆とが密接不可分の関係にあると考えた。
 1924年にソ連に渡ってそこに8ヶ月間滞在し、共産主義理論に磨きをかけたホワイトマンは、シカゴを中心に活動を続け、タイム誌は、当時彼を「黒人の中で最も赤い人物」と評した。
 やがて挫折した彼はソ連に逃れ、最終的にはソ連当局ににらまれて1939年にシベリアのラーゲリで殺されるという数奇な運命を辿るのだが、ホワイトマンを始めとする黒人共産主義者達は、1930年代までに、米国のジム・クロウ制度はナチスの人種差別よりもひどいという観念を米国の世論に植え付けることに成功した。
 だからこそ、第二次世界大戦が終戦を迎える頃、アインシュタインは、「ベルリンの陥落はファシズムの終焉を意味しない。・・なぜなら、米国にもファシストがいるからだ」と述べたのだし、ほぼ同じ頃、ボッブ・ホープやフランク・シナトラが、ヒットラー一派まがいの「人種的偏見」に対し警告を発したのだ。
 これらが、1950年代から60年代にかけて起こったローザ・パークス(コラム#984)やマーチン・ルーサー・キング牧師らによる市民権運動の地均しをしたわけだ。
 実のところ、市民権運動はもっと早く始まってしかるべきだったのだが、1939年のナチスドイツとソ連との間で締結された協定の衝撃によって米国における左翼とリベラルとの人民戦線が粉砕され、ジム・クロウ制度は米国のファシズムであるという議論の腰を折ってしまったことが響いたのだ。
 黒人分離主義者(segregationist)達は、米国の共産主義者達がモスクワに隷属していたことを、共産主義者達と同盟関係にあったリベラルと社会主義者達を貶めるために最大限利用した。
 そして、第二次世界大戦後、ソ連のスパイ活動に米国の共産主義者達が協力した証拠が挙げられるようになると、白人至上主義者ではなく、左翼こそ非米的である、というレッテルが貼られてしまったために、この肝腎な時にリベラルが黒人差別撤廃運動に関われなくなってしまった、というわけだ。
 この結果、1940年代中には、白人と黒人の間の交流を推進していた南部地域評議会(Southern Regional Council)といった有力組織でさえ、黒人分離主義反対(desegreration)を掲げられなかったのだ。
 ちなみに、黒人の共産主義者で、市民権運動に直接関わった人物が一人いる。
 ウィリアムス(Robert F. Williams)だ。
 彼は1950年代に北カロライナ州で黒人差別撤廃運動に取り組んだ。
 彼は黒人も銃で自衛せよと訴えた本を1962年に出版し、後に過激に黒人解放を唱えたブラックパンサー(Black Panthers)等に大きな影響を与えた。
 その頃からFBI等に監視されるようになったウィリアムスは、キューバに逃げ、米国の南部に向けて黒人差別撤廃を訴えるラジオ番組への出演を続けた。それから彼は中共に移り、そこで賓客待遇を受けた。
 1969年に米国に戻ったウィリアムスは、中共学者として働き、革命家ないし自由の闘士としては稀なことに平穏な晩年を送り、1996年に71歳で亡くなった。
 葬儀ではローザ・パークスが弔辞を読み、ウィリアムスは毛沢東から贈られた背広を着て埋葬された。
3 終わりに
 共産主義の功罪と言えば、圧倒的に「罪」が大きいと言うべきですが、「功」もなかったわけではない、というお話でした。