太田述正コラム#13438(2023.4.22)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その42)>(2023.7.18公開)

「・・・<東条首相暗殺計画には、>三上・四元・西郷<隆秀(注131)>・・・佐々弘雄<(注132)>(朝日新聞記者、海軍調査課懇談会員)・・・のほか、近衛側近の後藤隆之助<(コラム#10379)>(元大政翼賛会組織局長)、工学博士の松前重義<(注133)>(元大政翼賛会総務部長)らも協力する手はずとなった。

 (注131)1907~1985年。西郷隆盛の此の菊次郎(京都市長)の子。拓大卒。後に拓大理事長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%A7%80
 (注132)1897~1948年。五高、東大法。「外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。・・・九州帝国大学法文学部教授に就任して政治学を担当した。佐々自身は議会制民主主義や立憲君主制を志向していたが、同僚でマルクス経済学者の向坂逸郎と交遊があったのが仇となり、1928年(昭和3年)の三・一五事件の余波による九大事件で、「赤化教師」として大学を追放される。・・・<数年後、>東京朝日新聞社に入社して編集局勤務、次いで大阪朝日新聞論説委員(東京在勤)となる。
 1933年近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に参加して、同じ朝日新聞論説委員の笠信太郎、記者の尾崎秀実らとともに中心メンバーの一人となり、また近衛を囲む「朝食会(朝飯会)」の主要メンバーとして近衛新体制運動の政治理論面を担当した。1938年(昭和13年)9月、平貞蔵とともに、昭和研究会の教育機関的性格を持った昭和塾を設立する。
 当時麻布区材木町にあった佐々の自宅には、皇道派重鎮の柳川平助や小畑敏四郎、二・二六事件で知られることとなる安藤輝三と栗原安秀ら青年将校、海軍左派の高木惣吉、自由主義者の高山岩男らなど、多種多様な者が出入りしていた。血盟団事件で服役し恩赦により出所していた四元義隆を近衛文麿に紹介し、四元は1941年(昭和16年)から近衛の秘書になっている。・・・
 ゾルゲ事件後に昭和研究会・朝飯会が解散したとき、佐々は近衛から5万円を渡されており、そのうちの1万円を四元に分配している。特高警察の監視を躱すため、このとき現金を運んで四元に渡す役目を追ったのは当時中学生であった淳行であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E5%BC%98%E9%9B%84
 (注133)1901~1991年。東北大卒、逓信省技官、東北大博士(工学)。「当時は社会の指導者として法学部出身者を最優先する風潮があり、技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造にあたり、新体制運動へ傾倒する。・・・
 1940年(昭和15年)に大政翼賛会が発足すると総務局総務部長に就任するが、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年(昭和16年)に逓信省工務局長に就任する。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)に航空科学専門学校を、1944年(昭和19年)に電波科学専門学校・・<後の>東海大学・・をそれぞれ創立する。・・・
 日米開戦後に日本の生産力は<米>国に遠く及ばない現実を知りそれを各方面へ報告したことから、勅任官であるが二等兵として召集されて1944年(昭和19年)に南方戦線へ送られた。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮により、軍政顧問として勤務して無事に復員し、のちに技術院参技官として終戦を迎える。・・・
 日本を戦争に導いたのは陸軍ではなく、東大法科卒の官僚たちだと考えていたことから、1985年まで・・・東海大学<に>・・・法学部を設置しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E9%87%8D%E7%BE%A9

⇒佐々弘雄の子の淳行と防衛庁(当時)時代に私は接点があった(コラム#省略)こともあり、弘雄の事績には興味がありますが、近衛文麿は、「文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった」というのに、「京都<大学学生時代には、>・・・大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
というのだから、近衛家の真の懐具合はどうだったのか、よく分かりませんが、いずれにせよ、5万円という大金を近衛がポケットマネーから出せたとは思えず、杉山らが陸軍がらみのカネを近衛/昭和研究会に渡していた、と、私は見ています。(太田)

 厚木海軍航空隊の小園安名中佐も、実行者を台湾に飛ばす役割を引き受けたという。
 高木の計画は近衛文麿にも届いており、7月3日、近衛は友人の作家山本有三を呼び出して、暗殺後の声明文を依頼した・・・。
 また海軍大佐の高松宮宣仁(のぶひと)親王にも計画が伝わっていたという。・・・
 実行方法は、海軍省前交差点でのオープンカー襲撃。
 7人が3台の車に分乗し、前方と両脇から挟み撃ちにして衝突し、銃撃で射殺。・・・
 決行日は、7月14日。・・・
 ところが、計画の中心にあった神大佐に、連合艦隊司令部参謀への転出内示が出される。
 7月13日付である。
 そのため計画の実行は一週間延期された。
 そしてその間に、サイパン失陥の責任をとる形で、東条内閣は7月18日に総辞職する。」(244)

⇒局長の高木惣吉への事前打診とその同意なくして、その局の筆頭課長の神の異動人事が行われるわけがないのであって、東条内閣総辞職の情報を掴んだ高木が、神と相談の上、人事局や次官に根回しをした上で、この暗殺計画を流すために神を急遽異動させることにしたのでしょう。
 とまれ、余りにもはではでしい暗殺計画であり、仮に実行されていた場合、成功か失敗かを問わず、すぐに海軍が黒幕であると分かってしまい、陸海軍関係悪化は必至だったと思いますが、高木自身もこのことを後に認めているところです(コラム#13134)。(太田)

(続く)