太田述正コラム#13452(2023.4.29)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その7)>(2023.7.25公開)

 「・・・簡単に屈服させられるはずの中国軍の抵抗により事変が長引いたことを苦慮した日本の政府・軍部は、1937年11月から、駐華ドイツ大使トラウトマンの仲介による和平工作を開始した。
 当初日本側が示した条件は合理的なものだったが、12月13日の南京陥落によって舞い上がった日本の政府・世論の強硬論により、当初の条件は大幅に加重され、中国には到底受け入れられないものとなった。・・・
 一連の会議で、近衛は聞き役にまわり、自分の意見を主張することはほとんどなかった。・・・
 大本営政府連絡会議では、交渉継続を主張する参謀本部多田次長と、強硬論を吐く末次<信正>内相らが激しく議論したが、多田の継続論は孤立し、受け入れられなかった。・・・
 <例えば、担当局長である外務省東亜局長の>石射猪太郎<(コラム#12960)>は、「12月14日の政府大本営連絡会議で石射は和平条件案を説明……近衛は終始沈黙……原案を忠実に支持したのは米内と古賀軍令部長のみ……末次、杉山、賀屋諸氏から出された異論によって条件が加重……末次内相は、米内海相に『海軍はこんな寛大な条件でいいのか~華南地区に海軍基地として永久占領地を持つ必要はないのか』と詰問を放った……わが広田外相に至っては一言も発言しない……私はもうがまんならなくなり『かくの如く条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう』と争ったがこの発言は冷たく無視された」と回想している・・・。・・・
 翌年1月16日、「爾後国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明<(注14)>によって、この工作は水泡に帰した。・・・

 (注14)第二次近衛声明<は、>・・・1938年(昭和13年)11月3日<の>・・・東亜新秩序建設に関する声明<であり、>・・・「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。この声明の狙いは蔣介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。・・・
 第三次近衛声明<は、>・・・1938年(昭和13年)12月22日<の>・・・対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した<もの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A3%B0%E6%98%8E

⇒対支政策のいわば共同主管官庁である陸軍省と外務省のトップであるところの、陸相の杉山と外相の廣田、が同志的タッグを組んで(コラム#省略)神輿に無能な近衛を載せている内閣なのですから、杉山は思うがままにこの内閣を動かせたわけです。(太田)

 近衛が末次を内相に起用したのは、末次が、右翼に顔が広いので、右翼を抑えるためには末次が役に立つと考えたためだった。・・・
当時参謀本部の作戦課長だった稲田正純<(コラム#12962)>は「これは近衛さんのイカ物食いだと思います。近衛さんは必ずこうしたことをやる人なのですね」と語っている。・・・

⇒「1930年(昭和5年)に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」の改正を目的として1935年(昭和10年)12月9日に・・・開かれた・・・第二次ロンドン海軍軍縮会議」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0
の時、近衛文麿は貴族院議長であった(1933年(昭和8年)6月9日~1937年(昭和12年)6月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ところ、1936年1月5日、「日本は真の軍縮を希求しているのであり、米国は優越感を捨てるべきである、と主張し」ており、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1970/41/1970_41_56/_pdf/-char/ja
「連合艦隊司令長官在職中、南雲忠一らが集めた軍縮条約から脱退を求める署名を海軍大臣・大角岑生に提出し、また伏見宮にも取り次い<だ末次に対して>伏見宮は加藤寛治と末次に注意を与えた<ところ、末次は、>軍事参議官として迎えた軍縮条約の延長問題に対しては、無条約無拘束を最上とし、次善の策として各国の最高軍備の限度を共通とすることを主張し<たが、彼は、>・・・連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎・松岡洋右・近衛文麿と交流を持<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3
、というのですから、1935年から36年にかけての頃以降、近衛は、そんな末次との間で、あたかも共鳴、共振関係が確立しているかのようにふるまっていた、と言っていいでしょう。(太田)

 しかし、末次は終始、対中強硬論で近衛を悩ませた。
 このような近衛の人事の方針は近衛のいわゆる「先手論」の表れでもある。
 ・・・このような「先手論」がしばしば結果が裏目に出て近衛を苦しめることとなり、これは第二次内閣での松岡外相起用の失敗を彷彿とさせる。」(64~65、67)
 
(続く)