太田述正コラム#2699(2008.7.30)
<劣等感の固まりの支那?>(2008.9.8公開)
1 始めに
 米ニューズウィーク誌に、支那の劣等感(inferiority complex)をとりあげた記事(
http://www.newsweek.com/id/148997/page/3
。7月30日アクセス)が載っているので、その記事のさわりをご紹介しましょう。最後に私の感想を付します。
2 記事のさわり
 「・・・<支那の>これみよがしの(proud)苛立ち(prickliness)には、支那、欧米、そして日本にすら関わるところの、根深い歴史的ルーツがある。・・・支那の近代的アイデンティティを形成した最大の決定的要素は19世紀半ばのアヘン戦争(複数)での敗北と米国への支那人移民が米国で受けた恥ずべき扱いから始まるところの、外国人の手による支那の「屈辱」なる遺産なのだ。
 このプロセスは、日本が産業化に成功したことによって更に悪化せしめられた。第二次世界大戦中の日本による支那本土侵略と占領は様々な意味で欧米諸国の支那への介入よりも心理的によりひどい影響を与えた。というのは、日本はアジアの大国であって近代化に成功したのに対し、<同じくアジアの大国である>支那はそれに失敗したからだ。
 この劣等感は支那人の頭の中に巣くってしまっている。20世紀初頭に支那は、かかる犠牲者意識を取り上げてテーマとし、この意識を、当時醸成されつつあった集団的アイデンティティの根本的要素とした
 新しい文藝(literature)が「百年国恥(bainian guochi)」という観念を巡って勃興した。1919年のベルサイユ条約がドイツの支那における利権を何と日本に与えると、「勿忘国恥(wuwang guochi)」という表現、すなわちわれわれの国家的屈辱を決して忘れまい、というのが共通のスローガンになった。支那の国家的失敗を直視しないことは非愛国的であるとみなされるに至った。その時以来、支那の歴史家や思想家(ideological overseers)は、・・・「その時代時代の政治的、イデオロギー的、修辞学的、かつ/または感情的ニーズに資するために」支那の過去の受難(sufferings)を抉り出すことを決して躊躇しなくなった。
 例えば、孫逸仙(Sun Yat-sen)は1924年の支那を「何十年にもわたって外国勢力の経済的抑圧を経験した」ところの「ばらばらの砂の一塊」であると表現した。また、蒋介石は、その1947年の著書『支那の運命』の中で、「過去100年にわたって外国人に特別な「利権」を与えた不平等諸条約と治外法権の軛の下で苦しんできたところの、支那全土の市民達は、国恥の仇討ちをすることを求める点において一致している」と記した。そして、1949年に中華人民共和国が建国された時、毛沢東は、「われわれの国は、もう侮辱と屈辱の対象とされることはない」と宣言した。・・・
 「欧米による屈辱の問題は、無意識的にわれわれの奥にわだかまっている」と映画制作者の陳土争(Chen Shi-Zheng)・・彼の最近制作した映画『ダークマター』はこのテーマを追求している・・が私に語った。「外国による批判や貶めに対して自動的な、そしてしばしば極端な反応を引き起こすものがわれわれのDNAの中にあると言っても決して過言ではない」と。また、支那の最も有名な随筆家にして社会批判家たる魯迅(Lu Xun)は、ほとんど75年前に、「長年にわたって支那人達は外国人達に対して一つの見方しかしてこなかった。すなわち、彼らを神として崇めるか、野獣として見下すかだ」と記している。・・・
 <外国に対して批判する一方で、>過去100年の大部分の期間、支那は自らの文化と歴史に対する継続的な攻撃を行ってきた。このような累次の容赦のない自己批判は、支那の改革者達が伝統的な儒教文化を、何よりもそれが支那を欧米のテクノロジーの力の前に余りに無力に放置したように見えたことから、告発し始めた20世紀初頭に遡る。
 1930年代と40年代までには、このような攻撃は、中国国民党に対して向けられるようになった。東と西の諸要素を結合した新しいアイデンティティを形成し始めていたところの、蒋介石とそのウェレズリー(Wellesley)大学で学んだキリスト教徒の妻は、何よりも、過度に欧米化し過ぎているとして批判の対象となったのだ。
 そして、毛率いる共産党は、30年間にわたって支那の新しい革命的アイデンティティを形成しようとしたわけだが、トウ小平(Deng Xiaoping)が登場すると、またも破壊的行動がなされた。今度破壊されたのは、革命それ自体だった。
 このように次々に自己再発明(self-reinvention)努力が行われては失敗してきた結果、支那は、文化的、政治的方向性を見失って漂流することとなり、現在に至っている。・・・
 私は、支那政府が、抗議を受けても仕方がない原因を山のようにつくりだしていることを認めるにやぶさかではない。また、激しい異議申し立てが支那当局との交渉において常に非生産的であるというわけでもない。しかし、私はこの<五輪の>時期においては<激しい異議申し立てを行うのは>いかがなものかと思っている。・・・
 <支那の>ある官吏が怒り狂って、あの優しいダライラマを「人間の顔をした、しかし野獣の心を持った怪物」と表現した<のは、このような文脈の中で理解すべきだろう。>」
3 終わりに代えて
 支那を劣等感の固まりのいじめられっ子だとする、このニューズウィークの記事は一面の真理をついていると思います。
 「・・・<ドーハで開催されたWTO総会において>最後の最後の議論が先週末にかけて行われたが、米国とEUは農業支援についていくつかの譲歩を行い、WTOの事務局長のパスカル・ラミー(Pascal Lamy)が妥協案を提出すると、少なくとも参加諸国から暫定的承認くらいは得られるのではないかと期待された。ところが、まさにその時、インドと支那は、「輸入攻勢」から両国の貧しい農民達を守るための関税アップの広範な権利を求めることによって、議論に有り体に言えば魚雷をぶちこんだのだ。支那は、議論の大部分の期間中比較的静かにしていたというのに、その悪罵は、米国にブラジルを含むいくつかの発展途上国が賛意を表したというのに、米国の主張を「馬鹿げたもの」と切り捨てる激しいものだった。
 ドーハ・ラウンドの失敗に果たした支那の役割には特に嘆かわしいものがある。というのは、支那は、WTOに米国の強い支持の下で加盟してからの7年間で世界貿易から巨大な利益を受けてきたからだ。支那の輸出は、大部分、米国の市場への自由なアクセスのおかげで、2002年の3,000億米ドルから2007年の1兆2,000億米ドルへと4倍にも増えた。米国内の支那のWTO加盟支持者達は、支那を多国間のギブアンドテークのシステムに引き入れれば、そのナショナリスティックな傾向が弱まるに違いないと主張したものだ。しかし、支那がそのような物の見方をしていないことがここに明らかになった。これにより、支那も、そして世界も貧しくなってしまうことは避けられまい。」(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/07/29/AR2008072902110_pf.html
。7月30日アクセス)
 
 このような、ドーハ・ラウンドの土壇場での支那の嘆かわしい行動もまた、支那が劣等感の固まりであることに由来しているのかもしれませんね。
 仮にそうだとして、いじけたいじめられっ子たる支那が大人になる日は、果たしてやって来るのでしょうか。