太田述正コラム#13506(2023.5.26)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その34)>(2023.8.21公開)

 「・・・1943年2月4日、ガダルカナル敗北のころ・・・近衛と木戸、松平康昌<(コラム#12833)>と<の>会談<で、>近衛は戦局の前途を極めて悲観し、これ以上国内諸事情に無理が生じれば、赤化運動の激化は必至となるから1日も早く戦争終結に動く必要があると語った。・・・
 1943年3月18日、近衛は荻外荘を訪ねた小林躋造<(注71)(コラム#10658)海軍>大将に対し、・・・「・・・実は前から支那事変を拡大し長期戦に突入せしめたその動因に大きな魔手即『赤』があるとの説は縷々聞かされていた<。>……しかし当時は余りに穿ち過ぎた所見として重きを置かなかったが……どうも之を是認せざるを得ぬ感じがする」・・・<と>語った。・・・

 (注71)「小林は4年半の・・・台湾総督・・・任期中に南進基地化と台湾の「皇民化」政策を推進した。・・・
 総督就任4年目の1940年(昭和15年)11月、紀元二千六百年記念式典出席の折、近衛首相および秋田拓相に辞意を申し入れ、同月27日に辞職した。
 <総督の>後任<は、>・・・現役<海軍>将官<の>・・・長谷川清<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BA%8B%E9%80%A0

 <小林は、>いわゆる条約派の中心人物であり、二・二六事件後予備役に編入されたが、日米戦争回避のために動き、戦時中は近衛や吉田、真崎グループに接近して反東條側に立っ<てい>た。

⇒いくら帝国海軍の指導層は国際/国内の陸上情勢に疎い者が大部分だったとはいえ、さすがに、山本五十六の上を行く、海大首席、英、次いで米駐在武官補佐官、海軍次官、連合艦隊司令長官、を歴任した小林(上掲)のことですから、この近衛の話に吹き出し嘲笑を抑えるのに必死だったことでしょうが、恐らく彼も、杉山元らと同様、近衛を利用しがいのあるトロい人物と思って接近をしていただけなので、黙って傾聴しているフリをしていたと想像されます。(太田)

 <更に、>高松宮日記に、近衛が・・・1943年7月15日・・・に・・・語ったことが書かれている。
 「・・・統制派ハインテリデアリ、転向者ヲ周囲ニ集メテヰルノデ変革論者デアル。……池田久大(※純久<(コラム#12948)>の誤記)、秋永月三<(コラム#10694)>ヲ中心トスル・・・統制派ハ現在ハ大分閥ニナッテヰル……支那事変発端ニモ陸軍省ハ杉山・梅津デ、南<次郎(注72)>大将ハ当時朝鮮カラ総理大臣宛ニ香港、広東マデ拡大スベキ旨ヲ電報ニテ意見具申シ……北支軍デハ池田大佐ガヰテ支那事変ヲ拡大シ……梅津ハ拡大ニ動カシテイッタ……<次>期政権ノ問題ニナルト「梅津」トナル算大ナルモ、之ハ統制派ノ赤化計画ニ乗ゼラル危険アリ。戦争ノ推移困難ナル場合、少クモ国体変革ニ及バザル様ニスル必要アリ……」・・・

(注72)「大分県国東郡高田町(後・西国東郡高田町、現・豊後高田市)生まれ。・・・
 満州事変<の時の>陸軍大臣<。>・・・<日支戦争勃発当時は、>朝鮮総督<で、>・・・内鮮一体化を唱え、民族語の復活<、>朝鮮語教育の推進[要出典]<、>創氏改名<、>などの政策を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AC%A1%E9%83%8E

 <そして、>1944年7月2日<に、>近衛<は、>日記<に>次のように書いている。
 「・・・左翼分子はあらゆる方面に潜在し、何れも近く来るべき敗戦を機会に革命を扇動せんとしつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にしてその真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じていかなる策動に出づるや想像に難からず」
 <また、>1944年7月14日の近衛日記には、平沼・近衛会談の記載がある。
 平沼が「梅津の周囲には赤が沢山いる。随って左翼的革新派が軍部の中心となるおそれがある」と言うと、近衛が「敗戦恐るべし、然も敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし……」として、梅津、池田、秋永の同郷の大分閥の元老たる南大将が、近衛第一次内閣当時、朝鮮総督たる身分をもって、近衛に『支那事変を益々拡大すべし』と打電してきたことを始め、統制派の陸軍幹部が支那事変を起こして煽り、国内を赤化しようとしつつある、などと述べた。」(211~212)

⇒今度は、大分閥なるものまで登場です。
 しかし、(さすがに旧小笠原氏の小倉藩の小倉出身の杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
についてはご愛敬で登場させたのでしょうが、)「池田は1894年、[実質薩摩藩の旧中津藩の]大分県中津市に生まれた<が、彼の>中津市生まれの先輩に梅津美治郎陸軍参謀総長、陸大同期の秋永月三内閣総合計画局長官がいる」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/27684
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E5%B8%82 ([]内)
ことは確かではあるものの、御大格の南次郎の出身の「国東郡」は、旧「幕府領(熊本藩預地)、旗本領、豊後杵築藩、肥前島原藩」です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9D%B1%E9%83%A1
から、幕末においては、実質薩摩藩と譜代諸藩の違いがあったところ、かつて事実上薩摩藩と一心同体であった近衛家の嫡流の文麿が、この両者を一括りにするのは、いささか乱暴過ぎるというものです。
 それにしても、平沼もてんでダメですねえ。(太田)

(続く)