太田述正コラム#13508(2023.5.27)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その35)>(2023.8.22公開)

 「・・・近衛の上奏文や、当時懇意の要人らに話した内容には、一部には、他人から吹き込まれたり、近衛の思い込みによる不正確なものも含まれていた。
 例えば、梅津美治郎を敗戦を機会に革命を扇動する者の中に含めたり、梅津や池田純久を支那事変拡大派としたとしたことなどは事実に反する。・・・

⇒我々は、梅津が「支那事変拡大派」だったことを知っていますが、先に進みましょう。(太田)

 <以下、>関係者の詳細な回想によ<る。>・・・
 梅津は、支那事変については、北上する中国軍に断乎たる一撃を加えて・・・から和平に持ち込もうと考えていた。・・・

⇒梅津が、蒋介石政権が、米英ソ・・当初は独も・・の支援の下、軍事的抵抗を続けるであろうこと、その蒋介石政権が腐敗していて「戦後」中国共産党に抗して生き残ることは困難であること、を、知っていて、なおかつ、わざわざ一撃講和論を語っていた、と言う可能性を、回想者達や著者がどうして考えないのか、私には不思議でなりません。(太田)

 1945年6月上旬、満州視察旅行から帰還した梅津は、在満支兵力は一会戦しかできないほど激減していることをありのまま上層して天皇を驚かせたが、これは天皇が和平に舵を明確に切るきっかけを作った。

⇒そろそろ終戦の時期が近づきつつあることを天皇に吹き込むのが狙いだった、と、回想者達や著者は・・(以下同文。)(太田)

 梅津は、ポツダム宣言受諾に反抗して陸軍内で起きたクーデターの動きを、阿南を後押しして毅然と抑え込んだ。

⇒目的をほぼ達成したので終戦に持ち込んだ以上、余計、不必要な陸軍内の動きを抑え込むのは当たり前だ、と、回想者達や著者が・・(以下同文)。(太田)

 ただ、梅津の判断が裏目に出ることもあった。
 梅津次官は1936年、支那駐屯軍の兵力を約2倍に増強することを省部で決定させた。
 その際、梅津は、現地軍民の反対を押し切って通州ではなく北京郊外の豊台に兵営を新設させることとしたが、これが盧溝橋事件発生の大きな原因となってしまった。
 しかし、梅津がそうした裏の理由には、関東軍が北支にまで行っていた干渉をやめさせようとの狙いがあった。・・・

⇒どちらも、当時北京の郊外、現在では北京市内であるところの、通州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E5%8C%BA_(%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82)
と豊台、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%8F%B0%E5%8C%BA
とは極めて近接しており、著者が何を言いたいのか、私にはさっぱり分かりません。
 ここで重要なのは支那駐屯軍の兵力を約2倍に増強したことの支那住民に対する挑発効果であり、まさに、それを狙って、梅津は、というか、私見では杉山元らが、そうしたのでしょう。
 (関東軍に管轄地域外への手出しを止めさせることが至上命題であったとすれば、その司令官以下の幹部達を総入れ替えした上で、管轄地域外への出兵禁止に対する処罰を名実ともに厳罰化すれば足りたはずです。)(太田)

 <また、>梅津は、阿南と共に戦争末期の対重慶の和平工作が必要だと考えていたが、繆斌工作については、杉山陸相と共にこれを妨害する側に回った。・・・

⇒繆斌工作には、外務省すら反対していて、海軍も途中から反対に回った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C%E5%B7%A5%E4%BD%9C
のですから、梅津が反対したことを問題にする方がおかしいでしょう。(太田)

 池田<に関して>は、盧溝橋事件勃発当時、現地において今井武夫<(前出)>らと、懸命に事変拡大のために奮闘した。・・・
 <しかし、>着任した香月清司<(注73)>中将が、それまでの不拡大論から拡大論に方針を転換し<、>・・・池田は企画院に異動させられることになったという。」(213~214)

(注73)かつききよし(1881~1950年)。陸士14期、陸大24期。「佐賀藩士・・・の長男<。>・・・[陸軍省軍務局兵務課長,陸大幹事〈、教育總監部本部長、〉などを歴任し,]第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
 田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部付を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%9C%88%E6%B8%85%E5%8F%B8
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%99%E6%9C%88%E6%B8%85%E5%8F%B8-1065588 ([]内)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/term/00001348 (<>内)

⇒香月の、支那駐屯軍司令官当時を回想した報告
https://ncode.syosetu.com/n6407gu/3/
を読むと、杉山/梅津が、「注73」から窺われるところの、支那通でもなく、しかも陸軍中央で重職に就いたこともない、軽量級の香月、を、彼に充分な権限を与えずに、あえて、緊迫の北支那に放り込んだ、という印象です。
 それもその筈であって、私見では、杉山元らと毛沢東の中国共産党が密かに手を結んでいて、中国共産党が、盧溝橋事件を引き起こし、これを日支戦争へと拡大して行く、という陰謀が成立していたのですからね。(太田)

(続く)