太田述正コラム#13524(2023.6.4)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その43)>(2023.8.30公開)

 「工藤美代子<(前出)や>・・・大野芳<(注86)や>・・・鳥居民<(前出)>・・・などが、この事態の変化をもたらした直接の契機は、当時、カナダからGHQに派遣され、対敵諜報部分析課長として日本の戦犯候補者の選別作業に従事していたハーバート・ノーマン<(コラム#12833)>による近衛非難の報告であり、その背後に、近衛を貶める一方、木戸の責任を矮小化しようとした木戸幸一と都留重人<(注87)>、ノーマンの画策があったと詳述している。・・・

 (注86)おおのかおる(1941年~)。明大法卒。「出版社へ入社し、雑誌記者を経て、ノンフィクション作家になる[要出典]。1975年、岩手県遠野市でかっぱ伝承に触れ、中河与一を村長としてかっぱ村を設立した。中河の没後は2代目村長となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E8%8A%B3
 (注87)1912~2006年。「第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の<支那>侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。
 日本の大学に進学できなくなったため、<米>ウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学し、・・・その後ハーバード大学の学部に入学し、1935年(昭和10年)に優等賞を取得し卒業、同期でただ一人大学院に進学した。大学院では・・・ポール・サミュエルソンが同窓生。1936年(昭和11年)、同大大学院で修士号取得。結婚後、1940年(昭和15年)、同大大学院で博士号 (Ph.D.) を取得。博士論文は“Development of capitalism & business cycles in Japan, 1868-1897”。そのままハーバード大学講師となる。
 1942年(昭和17年)、第二次世界大戦勃発(日米開戦)を受けて辞職して交換船で帰国後、妻の伯父である木戸幸一が重光葵に頼み、外務省嘱託として就職。
 1943年(昭和18年)、旧制東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)嘱託研究員。その後都城で二等兵を務めたのち、外務省勤務。
 1944年(昭和19年)6月、東條英機により、意見が対立していた木戸に圧力を掛ける目的で、解雇された上、召集令状が出されて陸軍に徴兵された。しかし、木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄 に頼み込んだので、赤松は木戸の依頼に応え、外務省から都留のために「余人をもって替えがたし」という申し入れを陸軍に出させるように取り計らい、3カ月で除隊となった。
 連合国軍最高司令官総司令部経済科学局調査統計課勤務を経て、1947年(昭和22年)、片山内閣の下で経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任、第1回経済白書『経済実相報告書』を執筆した。
 1948年(昭和23年)、東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E7%95%99%E9%87%8D%E4%BA%BA

⇒歴史学や政治学の教育を受けた形跡がない3名の著書群など典拠としては弱過ぎるのであって、彼らの典拠・・明示されておればですが・・を著者には挙げて欲しかったところです。
 なお、「注87」中の、東條と木戸との軋轢は、後者が東條を近衛の後の首相に据えたことや、そもそも、私見では両者が杉山らの一味であることからして、眉唾物ですが、立ち入りません。(太田)

 戦前、ノーマンはマルクス主義者だった羽仁五郎<(注88)>から、二か月間、毎日午前中、日本歴史の講義を受けた。

 (注88)一高、東大法に入学後、「ハイデルベルク大学哲学科でリッケルトに歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、イタリア旅行中に生家を訪れるも扉を叩かず。しかし、生涯在野の哲学者であったクローチェの影響を色濃く受けた。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。
 1926年(大正15年)4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。
 マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BB%81%E4%BA%94%E9%83%8E

 しかし、羽仁<と違って、>・・・ノーマンは、公刊された論文等を見る限り、日本に対してはマルクス主義歴史観に基いて厳しく批判・断罪しながら、自己が属する大英帝国圏のアジア侵略支配についてはなんら言及しておらず、思想的な一貫性がないというべきだろう。
 ノーマンは知的研究者としてはマルクス主義の影響を深く受けながら、外交官等として厳しい政治外交の現実の中で、自己の思想と立ち位置を調和・統合させることができず懊悩していたのかもしれない。

⇒やれやれ、ノーマンに思想的な一貫性があるからこそ、「自己が属する大英帝国圏のアジア侵略支配」を一切擁護することなく、沈黙を貫いたんでしょうが。
 というのも、彼、外交官等、カナダ政府職員でいることが、自分の研究にとって得策であると考えていたと思われるところ、沈黙を貫かなかったら、その職を失ってしまうのですからね。
 なお、羽仁とノーマンの馴れ初めを知りたかったところです。(太田)

 <別の>拙著・・・では、中国・東南アジア戦線で、英仏が戦前からの植民地・帝国主義的支配を、戦後も強欲に維持しようとしていたことを詳述した。

⇒米国は、世界中に軍事基地網を形成するという形でのネオ「植民地。帝国主義的支配を、戦後」において「強欲に」確立しようとしていたことも「詳述し」てもらわなきゃ困ります!(太田)

 ノーマン、木戸、都留の三人には深いつながりがあった。
 都留は、木戸の弟の娘の夫<で、>・・・ハーバード大学の<時に>・・・同級のノーマンと深く交流した。」(271、274)

(続く)