太田述正コラム#13526(2023.6.5)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その44)>(2023.8.31公開)

 「・・・ノーマンの近衛批判には相当な根拠がある。
 しかし、明らかな誤りもある。
 例えば、ノーマンは、近衛が、陸軍大臣に「関東軍系の最も冷酷な巨頭の一人板垣征四郎を選んだ」「東條を初めて重要な政治的官職につけ……陸軍次官にした」としている。
 しかし、<既に>詳論したように、近衛が板垣を陸相にしたのは、陸軍から「クーデター」だとの激しい批判を受けてさえも、戦争拡大の防ぐための懸命な努力の結果だった・・・。
 また東條を陸軍次官に引き入れさせたのは、梅津美治郎であり、近衛はなんら実質的に関与していない・・・。・・・
 
⇒どちらも、既に取り上げた話ですが、私の観点からは、杉山が陸相になってから以降の歴代陸軍大臣には、杉山らの意向に反する者が就くことはない一方、対米英戦開戦時を除き、杉山構想を開示された者が就く必要はないこと、また、杉山が次官になってから以降の歴代陸軍次官には全て杉山構想が開示されたと想像されること、を強調しておきたいと思います。(太田)

 <他方、>ノーマンの木戸に対する評価・・・は、明らかに甘い。
 木戸は、内大臣として東條を首相に推挙したし、東條内閣がサイパンの玉砕後に総辞職に追い込まれるまでの間は、東條を支え続けたので、ノーマンも、木戸の戦争責任は明らかで、内大臣の職を辞任させ、将来いかなる公職をも占めないようにすべきだとしている。
 しかし、木戸が、東條内閣の辞職後も、積極的に降伏、和平の道を探ることはせず、重臣たちとの間に立ちはだかっていかなる和平の進言をも天皇の耳に届けさせなかったことの言及は全くない。
 この間、近衛をはじめとして様々な和平の工作が進められていたが木戸はそれに協力支援することは一切しなかった。
 繆斌工作を妨害し、潰したのも木戸の責任が大きかった・・・。
 しかし、ノーマンは、「木戸が最初に降伏を決定した重要政治人物の一人であった……決心がつくと、かれは考えられるあらゆる影響力を使って、天皇とその顧問たちに降伏の必要を説いた……かれは果断で鋭敏な人物であり……近衛とは対照的に、心が決れば敏速に行動する」などと、あたかも和平工作の中心を担ったのは木戸であるかのように持ち上げた。
 しかし、・・・ノーマンや都留はマルキストであったが、木戸自身もそうだったとまでは思えない<ものの、>少なくとも木戸にはソ連や共産主義に対する警戒心が乏しかった。・・・
 1945年3月3日、木戸は、友人の宗像久敬<(注39)>・・・に「ソ連に頼って和平を行えば、ソ連は共産主義者の入閣を求めてくるのであろうが、それは受け入れてもよい、と言い、「共産主義というが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り、残るは米国位のものではないか」と語ったので、宗像は「木戸は陸軍内の親ソ・強硬派に篭絡された」という印象を持ったという・・・。」(276~278)

(注89)「宗像<と>・・・南原繁・・・は・・・それぞれ六高と一高を出、東京帝国大学法科大學に入った。そこで出会った二人は、・・・政治学科の卒業に際して、異例ながら二人で銀時計を受けた。同点首席だったためである。・・・<その後、>両者の軌跡は、一度だけ、・・・1945年における終戦工作・・・をめぐって近づいた。・・・45年の3月、南原は東京帝国大学の法学部長に就任し・・・高木八尺・田中耕太郎・末延三次・我妻栄・岡義武・鈴木武雄の六教授とはかって、終戦工作に乗り出した。彼等は、・・・ドイツ降伏の時期を捉えて、ソ連ではなくアメリカを相手とする終戦工作に入るべきことを、近衛文麿・若槻礼次郎らの重臣や木戸幸一内大臣、東郷重徳外務大臣、宇垣一成陸軍大将、高木惣吉海軍少将らに秘密裡に働きかけた。彼らの考えた終戦工作の概要は、天皇制の護持のみを条件とする「無条件」降伏とし、徹底抗戦論の強い陸軍を比較的柔軟な海軍に説得させ、昭和天皇の詔勅により終戦させる、終戦後天皇は退位する、というものであった。・・・南原と高木は、5月7日と6月1日に木戸内大臣を訪れて終戦につき意見を述べているが、木戸はそれらの情報に基づき、6月8日に「時局収拾対策試案」を起草し、翌日天皇にこれを進言し<た>・・・。木戸の試案が唯一南原らの工作と異なっていたのは、終戦工作を米英とではなく中立国であるソ連を仲介として行うべし、としている点である。・・・
 この頃近衛は・・・終戦工作について大磯の吉田茂・池田斉彬・原田熊雄・・・らと連絡を取り、岡田啓介・若槻礼次郎・平沼騏一郎らの重臣と対策を協議していた。四重臣は1月13日にも終戦工作を協議したが、木戸が重臣を天皇から遮断している以上、その実現は不可能に見えた。そこで・・・原田が選んだのが、自分と日銀の同期の親友で、木戸とも個人的に親しい宗像であった。宗像は原田の依頼で、頑なな木戸に、重臣の意思を天皇に取り次ぐ機会を作るよう、説得する役目を請け負ったのである。・・・1月27日の木戸の日記には「五時、宗像久敬氏来邸、原田君の伝言にて重臣云々の話ありたり」とある。」(松浦正孝(コラム#9902)「宗像久敬ともうひとつの主戦工作(上)(下)」より)

⇒著書の言及する3月3日の挿話は、宗像が木戸を再訪した時のものです(上掲)が、この時、宗像は、「共産主義になったら皇室はどうなるのか、国体と皇室の擁護は国民の念願であり木戸の思いでもあるはずだ、と木戸に問い返し・・・たのである」(上掲)というわけですが、私見では、木戸は、杉山らの一味であって、終戦の時期を調整するためにソ連に和平を仲介させる試みを、絶対成就しないことを知りつつ推進しているところだったので、そのような共産主義論・・マルクスは人間主義者だったのですから、共産主義を(人間主義に立脚した)社会主義に置き換えれば、かつまた、木戸は、中国共産党が、まさにそのような社会主義政党であることも知っていたと考えられる以上は、それほど奇矯な言明ではありません。
 また、杉山らも、従って木戸も、米国が昭和天皇の戦争責任は追及せず、むしろ同天皇を円滑な占領実施のために利用するであろうこと、を予想していた、と、私は考えるに至っており、木戸は、かかる米国の期待を台無しにしないよう、昭和天皇を「守る」ために、同天皇を政府と軍部以外から、重臣達を含め、隔離してきた、というのが私の見方です。
 ノーマンが、木戸について「甘い」「評価」をしたのも、同様、占領政策に沿って、昭和天皇の戦争責任を問わないためには、天皇に最も近い存在で天皇と一心同体だったと外部から見えていた木戸もまた守る必要があったからでしょう。(太田)

(続く)