太田述正コラム#13546(2023.6.15)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その54)>(2023.9.10公開)

 「・・・相澤淳<(注100)は、>・・・米内について、海軍省の臨時調査課内の文書で・・・「海相ノ事変以来ノ手腕ハ満州事変当時ニ於ケル安保海相ニモ劣ルモノニシテ大臣ノ此ノ腑抜ケサ加減ハ海軍大臣独自ノ意見処置トハ到底考ヘラレズ……海相ハ指揮官トシテ名声アリシモ軍政方面ニハ全ク経験モナク見識モナシ」などと酷評しており、米内自身も「己ハ政治ハ嫌ダ……己ハ政策的ナコトハ出来ヌ」と公言していたという。・・・

 (注100)1959年~。防大卒、上智大博士(国際関係論)、「防衛研究所戦史部主任研究官、第2戦史研究室長、戦史研究センター安全保障政策史研究室長等を経て・・・防衛大学校防衛学教育学群教授」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E6%B7%B3_200000000484271/biography/

 米内<が>、盧溝橋事件勃発の当時は非拡大論で動いたが、上海事変において、大山事件発生後や、旗艦出雲が蒋介石軍の攻撃を受けるなどしてからは、天皇も心配するほど、強硬路線に転化し<たのは、>・・・非拡大論を主張し<たこと>が裏目に出たことから、・・・このような省内の批判論を受け、上海事変以降強硬論に転じたのかもしれない。・・・

⇒阿南の割腹自殺直前の「米内を斬れ」発言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
を思い出しますね。
 米内のような、無能ないい子ぶりっこ人間と、軍部大臣としてのカウンターパートとして、閣議等を共にしつつ、日本の最大の禍機において終戦の時期を探り決定しなければならなかったところの、阿南の怒りが想像できます。(太田)

 阿南が陸相<に>就任したばかりのころ、参謀本部第二部長の有末精三<(注101)>が、「ソ連を通じて対連合国、特に対米和平を促進する案」を考えて阿南に持って行こうとした。

 (注101)1895~1992年。陸士29期(3番/536名)、陸大36期(優等)。「最終階級は陸軍中将。・・・1932年(昭和7年)、荒木貞夫・・・陸相秘書官に就任する。以降、林銑十郎陸相・・・と二代にわたり秘書官を務めた。
 1935年(昭和10年)8月、陸軍省軍務局勤務となった有末は、相沢三郎歩兵中佐が陸軍省軍務局長永田鉄山少将(陸士16期首席)を白昼に惨殺する(相沢事件)に遭遇する。
 二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、陸軍省軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。[要出典]
 戦後は、ソ連や中国の動向を注視していた占領軍の諜報部参謀第2部(G2)との関係を急速に深め、有末の働きかけにより、大本営の参謀たちは諜報部に次々とスカウトされていった。彼らは諜報部の意向を受けてソ連や中国などへのスパイ活動に従事し、戦犯となることを回避した。[要出典]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%9C%AB%E7%B2%BE%E4%B8%89

 新参謀次長の河辺虎四郎<(コラム#13144)>は、「ソ連はなかなかの曲者だから難しかろう」と容易に賛成しなかったが、「愚案だが、他に方策の見出せぬ今、やむを得ない」とようやく同意した。
 そこで、有末は阿南にこの案を進言した。
 しかし、有末は、「阿南さんの答えは『不同意』と、まことにきっぱりとしたものだった。
 『ソ連は信頼できる国ではない。和平工作なら、今もなお蒋介石政権との間で進めるべきだ』と阿南さんは言われた」と回想する。・・・
 有末<が>・・・強く対ソ工作の意見を具申すると、ようやく阿南は「統帥部として、謀略としてやられるのなら目をつぶりましょう」と答えた。
 「しかし、梅津参謀総長は果してご同意かな」と首をかしげた。・・・
 しかし、梅津は、基本的に部下が検討した対ソ工作に賛同していた。
 有末が梅津に報告し「目をつぶろう」との阿南の言葉を伝えると、梅津はすかさず陸軍大臣室に行き、阿南の了解をとりつけた。
 有末は両者の深い信頼関係を感じたという。」(306~307、312~313)

⇒阿南の前任の陸相である杉山元と梅津参謀総長との親密な関係(コラム#)を彷彿とさせます。
 杉山構想を開示されていたところの、陸軍内のごく少数の人々の中で、杉山と梅津と阿南の3人は、とりわけ、肝胆相照らす関係であったように見受けられます。
 なお、著者、海軍嫌いで陸軍大好き人間のようで、この点は私と一致していますね。
 もっとも、陸軍大好きの理由が、私とは全く異なりますが・・。(太田)

(続く)