太田述正コラム#13548(2023.6.16)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その55)>(2023.9.11公開)

 「・・・繆斌工作が潰れた原因は、重光の反対が最も大きかったが、米内海相と杉山陸相が、冷たく梯子を外したためでもあった。
 杉山は、押された方に開く「便所のドア」と揶揄されていた。・・・
 岩畔豪雄は、「出世するためには杉山元なんというのが代表的人物なんですよ。案を誰かが持って行くと『ああ、そうだ』と言うと、次の人がまた別の案を持って行くと・・・『ああ、そうだな』とすぐ変わるのだ」と回想する(岩畔豪雄『昭和陸軍謀略秘史』・・・)。 

⇒岩畔が、戦後、戦前の陸軍の謀略史を書いた目的は、杉山構想を隠蔽するための謀略だった、というオチです。(太田)

 <杉山は、>繆斌工作では、今井武夫らの働きかけにより、無線機や技師などを同行させたいとの繆斌側の要請を拒み、いわばアリバイ的に繆斌一人を来日させることで小磯と緒方<(注102)>の梯子を外した。」(315~316)

 (注102)「1945年3月、繆は蔣介石政権の密命を受けたとして訪日し、南京国民政府の解消と交換に日本軍の中国撤退や満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を日本の小磯内閣に提案した。・・・
 この交渉を主導したのは小磯國昭内閣総理大臣や情報局総裁の緒方竹虎国務大臣らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦王もこの和平工作に賛成していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。ところが、重光葵外務大臣はこの工作に猛反対であり、内大臣の木戸幸一も重光を支持した。重光外相は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「繆斌に蔣介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰ってそれを手土産に蔣介石に寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」として、それを示す情報を陸海軍首脳に提示した。重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した。参謀総長の梅津美治郎も反対の意向を示した。
 小磯首相はあくまで交渉の続行にこだわり、陸海外の3大臣が反対するなか、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを上奏した。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買った。昭和天皇の見解は「繆斌は汪精衛(汪兆銘)を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が蔣介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」というものであった。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯内閣の不統一が露呈し、小磯首相は退陣するにいたった。・・・
 日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の「漢奸(民族の裏切り者、売国奴)」を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられた。繆斌もまた、・・・逮捕されている。繆は獄中で『私の対日工作(原題「我的対日工作」)』を執筆して弁明しているが、1946年4月3日より江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日に敵国通謀の罪(いわゆる「漢奸」の罪)で死刑判決が言い渡されている。処刑は同年5月21日のことであり、「漢奸1号」としての死刑であった。判決から死刑執行までのスピードの不自然なまでの速さについては、単なる「漢奸」としての処断以外にも目的があったのではないかという見方がある。たとえば歴史学者劉傑や伝記作家鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した蔣介石による「口封じ」だったのではないかと推論している。繆斌工作が明るみに出れば、蔣介石がカイロ会談で徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見し、自身の政治的立場が危うくなるわけである。この推論が正しいとすれば、繆を通じての和平は蔣介石の真意だったことになる。・・・
 重光葵の対重慶和平外交は、東条内閣時代の対支新政策を継承して、南京国民政府と重慶との関係改善を重視するものであった。重光は、南京国民政府の首班汪兆銘が最も信頼を寄せていた日本の要人であった。それに対し、小磯國昭は、繆斌工作に先立って宇垣一成を中国大使に起用し、重慶と直接工作を行う構想をもっていた。重光のみるところでは、宇垣は南京政府に反対の立場からの重慶工作派であった。宇垣の立場は、小磯首相・緒方国務相・美土路昌一などに近いものであり、重光支持派は、木戸幸一や杉山陸相などであった。重光によれば、大東亜会議を支持した東条が重光外交のよき理解者であったのに対し、小磯は「対外的に何等の識見を有せぬ謀略家」にすぎなかった。内閣の不一致は、繆斌の来日以前から小磯内閣に胚胎していたといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C%E5%B7%A5%E4%BD%9C

⇒この杉山陸相による、繆斌来日前の妨害工作の話には典拠が付されていませんが、事実だとすると、杉山元らは、繆斌が蒋介石の密命を帯びて来日したと見ていたからこそ妨害したと考えざるを得ません。
 蒋介石らは、米国政府が、自分達を見捨て、事実上、中国共産党に乗り換えつつあることに気付いていたはずであり、日本に接近しようとしたとしても決して不思議ではありませんからね。
 しかし、そんな話に乗ったら、日本だけではなく蒋介石政権まで孤立する形に変わるだけで大東亜戦争はいたずらに続き、仮にソ連が対日参戦したとしても、後顧の憂いがなくなった支那派遣軍がソ連に全面的に抵抗できるので、ソ連軍の侵攻は遅々たるものとなり、国民感情からも国体護持だけで終戦という訳にいかなくなりかねない上、蒋介石政権のことも顧慮しなければならず、日本政府は終戦に持ち込むのが極めて困難になるはずであり、こんなことは、杉山元らとしては絶対に避けたかったのでしょう。
 それにしても、杉山と梅津と(天皇を物の見事に騙した)木戸の見事な連携プレイでした。
 対して、重光と米内は、杉山元らの掌中で踊らされたピエロだったわけです。(太田)

(続く)