太田述正コラム#13560(2023.6.22)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか–タタールのくびき』を読む(その1)>(2023.9.17公開)

1 始めに

 この本を取り上げようと思ったのは、副題が「タタールのくびき」・・私の言うところの「モンゴルの軛」・・だったからであり、私が唱えたところの、一、モンゴルに征服されてしまい・・事実上征服された地域を含む・・その征服状態を長きにわたって脱することができなかったのは、ロシア(ルーシ)・・当時、ロシア(ルーシ)的概念が成立していたかどうかは改めて論じたい・・が分裂していたからであるとの認識の下、分裂を許さない強力かつ独裁的な指導者を戴くことが習いとなった、また、二、モンゴルないしその手先による奴隷狩りに晒され続けたことが強いトラウマとなって現在に至っている、という2点がその後のロシアを規定したとの説(コラム#省略)、の妥当性を検証するためです。
 しかし、結論から申し上げれば、この本の内容が余り整理されていないことから、一については果して検証ができるのか悲観的になり、二については、やや趣の異なるところの、「多くのルーシ人がタタール軍により捕虜として連れ出されました。・・・彼らはタタールが支配する各地で奴隷や従者として使用されましたが、ほかにもドナウ方面、そしてエジプトやビザンツ、シリアに売却されています。」(44)という一節が出て来るだけであり、検証に資するどころか全く参考にならないとがっかりした、次第です。
 しかし、せっかく買った本なので、これをじっくり再読する過程で、英語文献も参照する形で、私自身の「モンゴルの軛」説の検証を試みるとともに、最近考え始めたところの、現在のロシアを規定する第三の要素であると思われるところの、その嗜虐性(コラム#13541)、のよってきたるゆえん・・モンゴルの軛との関係性の有無を含む・・も追究してみたいと思います。
 ちなみに、宮野裕は、「1972年東京都立川市に生まれる。1999年北海道大学大学院文学研究科博士後期課程西洋史学専攻退学。2006年北海道大学より博士(文学)を取得。1999~2009年北海道大学大学院文学研究科歴史地域文化学専攻(西洋史学)助手並びに助教を経て、2010年より岐阜聖徳学園大学教育学部に在職。現在、岐阜聖徳学園大学教育学部教授」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%AE%AE%E9%87%8E%E8%A3%95_200000000726071/biography/
という人物です。

2 「ロシア」は、いかにして生まれたか–タタールのくびき』を読む

 「・・・「キエフ・ルーシ国家」<ないし>・・・「ルーシ国家」<は、>・・・およそ現在の<欧州>・ロシア、ウクライナ中・西部、ベラルーシ、そして部分的にはモルドヴァなどを含んで<おり、>・・・『原初年代記』<(注1)>の伝説によると、<この>ルーシ国家はスカンディナヴィアから到来したリューリク<(注2)>他2名の兄弟に始まる公の血筋により、主に東スラヴ人に対する支配を礎として始まりました。

 (注1)「『原初年代記』は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記(レートピシ)である。初版は1113年に編纂された。『過ぎし年月の物語』・・・とも。
 初版はキエフ洞窟修道院の修道士年代記者ネストルの手によって完成されたと思われ、故に本書は『ネストル年代記』、『ネストル原稿』とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%88%9D%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98
 レートピシ(летопись)=Χρόνος(Chronicle)=annālis(Annals)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%B7
 (注2)Рюрикъ≒Roderick(英語)。830?~879?年。「862年にラドガ(現在のロシア連邦・スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。・・・
 相互の争いに疲弊したスラヴ人が自分たちを治める指導者を求めてヴァリャーギ(スカンジナヴィア人)にすがり、リューリクら三兄弟(リューリクの弟、シネウスとトルヴォル)を得た<。>・・・
 彼の後継者オレーグは、リューリクの息子イーゴリを伴いキエフに公座を移し、キエフ大公国を建国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF

 当初はノヴゴロド<(注3)>を、次いで10世紀半ば以降はキエフを母都市とし、ヴォルガ水系やドニエプル水系などの国際交易路を覆う形で広がりました。」(12)

 (注3)Но́вгород(Novgorod)「<この>都市が開かれたのかがいつかは正確には分かっていないが、・・・『原初年代記』・・・によると854年か859年といわれている。考古学調査により、860年代か870年代に火災によって焼失しておりその後再建されたという。
 862年スウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)のノルマン人・ルス族(ロシアの語源)が首長リューリク(?~879年)に率いられてノヴゴロドを占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家を建設した。
 コンスタンティノープルに近いキエフが政治の中心になるに従って、ノヴゴロドは商業・工業に優れた独自の自由都市へと変遷していく。名目上の長として外部から公を招きつつも、大主教や都市貴族を中心とした民主共和政体が敷かれており、公が大主教や都市貴族達の意に沿わなくなると自由に罷免する権利を有していた。
 1240年、モンゴル帝国が侵攻し、キエフが灰燼に帰す中、運良く侵攻を免れたノヴゴロドはその後モスクワがロシアの歴史の表舞台に登場するまでの間、ロシアの中心都市として機能することになる。ハンザ同盟の外交施設である「商館」が置かれ、ドイツ商人たちが農産物や毛皮の買い付けにやって来た。
 1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89

(続く)