太田述正コラム#13566(2023.6.25)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その4)>(2023.9.20公開)

 「この国が最初に経験した重要な出来事であったのが、988年に生じた<、>・・・当時のキエフ公ウラジーミル<(注6)による>・・・キリスト教の導入<(注6)>でした。」(13~14)

 (注6)955年頃~1015年。「キエフ大公・スヴャトスラフ1世の子として生まれた。・・・
 正嫡の兄として、長兄ヤロポルク1世と次兄オレーグがいた。
 ウラジーミルは、父スヴャトスラフ1世存命中からノヴゴロド公に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の975年にヤロポルクがオレーグと争い、殺害にいたると、977年ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡した。37歳の時、ノルマン人(ヴァリャーグ)人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、キエフ大公に即位した。・・・
 キエフ進撃の途上で、他のヴァリャーグ系の国家であるポロツク公国を滅ぼし、公ログヴォロドと息子たちを殺害した上、かつて自身を「奴隷の子」と呼んで侮辱した公女ログネダを略奪して妻とした。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。981年にヴャチチ族、984年にラヂミチ族を従属させた。・・・
 980年頃、ルーシに伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後のキリスト教導入に至る。987年に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの洗礼に続き、988年に彼も洗礼を受けた。そして異教の偶像を破壊するよう命じた。
 海外で信仰の実状を探った家臣らは「私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはこのような光景も美しさもなく、また物語ることもできないからです。あそこでは神は人々と共におられ、彼らの勤行がすべての国にまさっていることだけは間違いありません」と正教の儀式の報告を受けて、ウラジーミルは正教を国教としてビザンチン帝国から導入することに決めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB1%E4%B8%96

⇒「注6」に出て来る「異教」とは、かつてスウェーデン(等?)で存在していて、ルーシのヴァイキング系支配層もかつて信仰していたと考えられる、北欧神話に基づくところの、人間の犠牲の捧呈を伴う宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%97%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%AE%BF
ではなく、ルーシのスラヴ系被支配層が信仰していた東スラヴの神話に基づく宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E7%A5%9E%E8%A9%B1
でした、
 さて、ルーシ支配層の故地の可能性が高いヴァイキング2地域は、ウラジーミル1世の頃、カトリック化の途上でしたが、その進捗は必ずしもはかばかしくありませんでした。↓

 「990年代に王位を継いだウーロヴ・シェートコヌングは、スウェーデン王としては最初のキリスト教徒となった。異教の神殿の信奉者は、信仰の自由について相互に許容するように、<ウーロヴ>に対して提案した。キリスト教と異教は、11世紀の終わり頃まで、対等の立場で公認されて共存した。
 <しかし、その後も、>キリスト教徒と異教徒との間で・・・暴力的な事件<が何度も生起した。>・・・
 スウェーデンは12世紀までにほぼ全域がキリスト教化された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8C%96
 「デンマーク<の>・・・ハラルド青歯王(911年頃 – 986年頃)はキリスト教徒となった。その理由はハラルドがザクセン公国のオットー家に敗れたためである。この頃に、デンマークの最初の司教区がシュレスヴィッヒ、リーベン、オーフスの3カ所に置かれた。イェリング墳墓群の石碑で、ハラルド青歯王は「デーン人をキリスト教徒とした」ことを誇りとしている。しかし彼の息子、スヴェン双叉髭王が異教徒であって、ハラルド青歯王と対立して985年にこれを倒した。スヴェン双叉髭王は、即位に際してキリスト教徒となったとも、ブレーメンのアダムが伝えるように西暦1000年のスヴォルドの海戦の後にキリスト教徒になったとも言われている。スヴェンはまた、ノルウェーでのキリスト教化を推し進めていったという。」(同上)

 そこで、ウラジーミルは、カトリックではなく、正教を国教として選んだのだと想像されます。
 その目的は、ルーシのヴァイキング系支配層と東スラヴ系被支配層を同一宗教によって融合することだったのではないでしょうか。
 いずれにせよ、特徴的なのは、このキリスト教化に抵抗する動きがルーシ地域内で見られなかった、いや、少なくともそのような動きが記録に残っていない、ことです。(太田)

(続く)