太田述正コラム#13759(2023.9.30)
<皆さんとディスカッション(続x5670)/和辻哲郎の躓きが私を導き、厩戸皇子を再訪させ、かつ、日本文学発祥の秘密を解明させた(続)>

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

 ウクライナ問題。↓

 <およよ。↓>
 European Support for Ukraine Aid Is Plummeting・・・
https://www.newsweek.com/european-support-ukraine-aid-plummeting-1830926
 US Government Shutdown Would Play Right Into Putin’s Hands・・・
https://www.newsweek.com/us-government-shutdown-ukraine-military-aid-vladimir-putin-1830835
 
 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 見出しからも分かるが、日本食店の話がメイン。
 英国で流行ってるのねえ。↓

 ‘A moment of dependable zen on a helter-skelter day’: Grace Dent on the joy of chain restaurants・・・
https://www.theguardian.com/food/2023/sep/29/grace-dent-comfort-food-chain-restaurants-dependable-zen-helterskelter-day

 高校の場合、教師の給与はどの都立校でも同じなんだから、要は、生徒の質を高くすることでやりがいを教師に与えるしかないんだが、・・というか、生徒の質が高くなればなるほど、生徒の相互啓発度が上がり、教師なんて極端に言えばどうでもよくなるんだが、とにかく頑張って!↓

 「“格差社会の縮図”…医学部受験で都立日比谷高校が高い実績を出せる理由・・・
 「予備校講師並みに大学入試に直結した教え方ができる教員を数多く採用したんです。東大だけでなく、医学部受験も意識した陣容になった」(日比谷高関係者)・・・
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E7%B8%AE%E5%9B%B3-%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E5%8F%97%E9%A8%93%E3%81%A7%E9%83%BD%E7%AB%8B%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E9%AB%98%E6%A0%A1%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%84%E5%AE%9F%E7%B8%BE%E3%82%92%E5%87%BA%E3%81%9B%E3%82%8B%E7%90%86%E7%94%B1/ar-AA1hsToI?ocid=msedgntp&cvid=62e783bb9ae34877b44664aa3c6e679c&ei=23#image=1

 オンリー・イエスタデイ、といった感じだな。↓

 「長野県佐久穂町のトリデロック遺跡で今夏、後期旧石器時代初頭の石器が見つかり、年代測定で29日までに国内最古となる3万6900年前の石刃(せきじん)石器群と判明した。・・・
 ユーラシア大陸の最古段階と同様の石刃石器群が日本にあったことを、より確かに確認できた・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E7%9F%B3%E5%99%A8-%E5%9B%BD%E5%86%85%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E7%9F%B3%E5%88%83%E3%81%A8%E5%88%A4%E6%98%8E-%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E5%8F%B2%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%AB%E5%BD%B1%E9%9F%BF/ar-AA1hr9qD?ocid=msedgntp&cvid=97568f026c5c40f7b952d1435a9c704a&ei=60

 日・文カルト問題。↓

 <そんなん教えたもらわなくっても・・。↓>
 「・・・福島の汚染水は、キャンプ・デービッド会議など韓米日軍事協力が強化される中、(革新系最大野党の)民主党と市民団体がこれを阻止するための“弱い環”として利用したものだ。しかし多くの韓国国民は、韓米日軍事協力の基調は正しいと判断し、扇動に巻き込まれなかった。ここに、狂牛病学習効果で韓国国民が民主党ではなく科学者らの言葉を信頼した結果がある・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/09/23/2023092380017.html
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/09/23/2023092380017.html
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/09/23/2023092380019.html
 <また日本を引き合いに。↓>
 「<杭州アジア競技大会>日本に逆転負け…5点残して崩れた韓国女子、フェンシング団体戦で銅・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/309638
 <健闘を祈る。↓>
 「尹大統領、原爆被害者を招いて昼食…「韓日未来志向的発展していくだろう」・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/309639
 <そんなこたあないで。↓>
 「韓国統一長官「北、ソウル通らず東京・ワシントンに行けない」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/309641
 <そやねー。↓>
 「日本で人気の中国コスメ、作っているのは韓国企業だった?=韓国ネット「また愚かなことを…」・・・韓国・マネートゥデイ・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b921343-s39-c20-d0191.html

 女性の知的能力の男性のそれに比しての標準偏差の小ささから、知的能力が問われるどんな分野でも上澄みの人数の少なさとトップクラス不存在が運命づけられてるってだけのことさ。↓

 The Guardian view on female composers: a forgotten musical powerhouse–For centuries the achievements of women have been ignored in classical composition. ・・・
https://www.theguardian.com/commentisfree/2023/sep/29/the-guardian-view-on-female-composers-a-forgotten-musical-powerhouse

 ウーン、私も手掛けなきゃいかんような・・。↓

 「・・・国家の起源の探求・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%85%B1%E9%80%9A%E7%82%B9%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E8%A6%96%E5%BA%A7%E3%82%92%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B-%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AE%E6%8E%A2%E6%B1%82/ar-AA1hqNaA?ocid=msedgntp&cvid=62e783bb9ae34877b44664aa3c6e679c&ei=26#image=1

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <今度ムリして買って食べてみようかしら。↓>
 「・・・安徽網・・・記事は「ブドウのエルメス」と称され、かつては500グラム数百元で売られていたシャインマスカットが値崩れを起こし、今や同10元(約200円)にまで下落したと紹介。また、最近ではネット上で「シャインマスカットは栽培過程で何十回も農薬が与えられるので、残留農薬が大幅に基準を超えている」「シャイマスカットには人工甘味料が用いられている」「シャインマスカットが1カ月も保存できるのは、薬品水漬けにするからだ」などといった情報が飛び交っており、消費者を不安にさせていると伝えた。
 その上で、浙江省農業科学院農産品品質安全・栄養研究所の専門家がこれらの情報を事実ではないと否定し<た。>・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b921406-s25-c30-d0193.html
 <もっとコイコイ。↓>
 「北京発東京行きの便は「ほぼ満席」に? 中国ネット「フェイクでは」「日本に行くのは…」・・・中国のSNS・微博(ウェイボー)・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b921409-s25-c30-d0052.html
 <ご愛顧に深謝。↓>
 「「呪術廻戦」は漫画の王道パターンから完全に外れている!?中国ネットで議論呼ぶ・・・中国のSNS・微博(ウェイボー)・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b921348-s25-c30-d0203.html
 「中国・上海市の名門・復旦大学で日本のアニメ「【推しの子】」のダンスが披露され注目を集めた。・・・中国のSNS・微博(ウェイボー)でアニメ情報を発信する複数のアカウント・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b921281-s25-c30-d0203.html

<太田>

 まあ同意。↓

 「高齢者が生き生きと過ごすために、おすすめの趣味は何か。脳科学者の瀧靖之さんは「音楽は聴くだけでなく、演奏するといい。自らの手で音楽を“創造”することで、脳の『報酬系』と呼ばれる領域が活発になり快感を覚えるうえ、脳の認知機能を司る部分を刺激し、身体の協調運動をつかさどるさまざまな脳領域も活性化する」という――。・・・」

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%B8%80%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E9%A8%93%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E5%BF%AB%E6%84%9F%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%88-%E3%83%9C%E3%82%B1%E3%81%AA%E3%81%84-%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%8C-%E9%AB%98%E9%BD%A2%E8%80%85%E3%81%AF%E7%9C%9F%E3%81%A3%E5%85%88%E3%81%AB%E3%82%84%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%84-%E3%81%A8%E8%AA%AC%E3%81%8F-%E7%BF%92%E3%81%84%E4%BA%8B%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E/ar-AA1hqv8U?ocid=msedgntp&cvid=5643bc5cc1904f7f8aa97f406328a04c&ei=10

 一人題名のない音楽会です。
 引き続き、ラフマニノフのピアノ曲をお送りします。

Rachmaninov Sonata No. 2 Op. 36(注a) – 1913 version ピアノ:Zoltan Kocsis 23.01分
https://www.youtube.com/watch?v=tlQwBHKVros&t=0s

(注a)「ラフマニノフは1913年の1月から8月まで、合唱交響曲《鐘》の構想と作曲のために、先人チャイコフスキーに倣ってイタリアに滞在していた。しかし、ローマで娘が病に倒れたため、名医を求めてドレスデンに立ち寄り、その地で《ピアノ・ソナタ第2番》を着想している。完成は<同じ年だが、>ロシア帝国に戻ってからであ<った。>・・・
 ラフマニノフは1917年のロシア革命で亡命するまで、国内の演奏会でこの作品を演奏したが、今ひとつ評判が芳しくないことを悔やんでおり、渡米後の1931年に・・・「新版」こと改訂版を発表した。・・・
 合唱交響曲《鐘》の構想中に着想されたためもあってか、ロシア正教の大小の鐘の音を模した音型が終始鳴り響いており、有名な《前奏曲》作品3-2や2つのピアノ協奏曲(《第2番》、《第3番》)と、発想の上で密接なつながりを保っている。・・・
 第1楽章展開部には、ラフマニノフがしばしば好んで引用したグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の主題が現れる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95)

–和辻哲郎の躓きが私を導き、厩戸皇子を再訪させ、かつ、日本文学発祥の秘密を解明させた(続)–

[オープニング]

 今回の「講演」を準備していて、戦後日本の広義の歴史学における上部構造無視の原因として、マルクス主義史観の影響、口伝の伝統、のほか、日本で形式的にも実質的にも最も信徒数が多い宗教である仏教・・教義なき「宗教」である神道のことは話がややこしくなるので、ここでは忘れていただきたい・・と日本人との日常的接触の無さ、もあげられる、という気がしてきた。
 私自身を振り返っても、両親が殆ど(お寺とご縁があることが多い)墓参りに行かなかったこともあり、お寺との接点は、葬儀と観光時のみだった。
 後は、ウチが一応、浄土真宗大谷派の檀家だったことが頭の片隅にあったこともあり、大学の教養課程で親鸞のゼミに出席したくらいだった。
 もっとも、これも、そのゼミが、高校の日本史の教科書の編纂者であった笠原一男教授のゼミであったことが、このゼミを選んだ理由としては遥かに大きかった。
 このゼミの話は前にもしたことがあると思うが、ぶったまげたのは、笠原教授が親鸞ないし浄土真宗の悪口に終始したことだ。
 それほど嫌いなものを研究対象にし、業績を残すこともできるんだ、そういう人もいるんだ、と感じ入ると同時に、有力研究者の中に、こんな、浄土真宗、ひいては仏教・・と言ってしまっては必ずしも妥当ではないという話も本日するけれど・・、が嫌いな人がいる日本の仏教の将来が思いやられたものだ。
 この危惧の念は、その後、直葬や墓仕舞いが出現し、増えてくる、つまりは、仏教と日本人との接触が観光時だけになりつつある、と言う形で的中してしまった。
 しかし、だからと言って、世界史はもちろんのことだが、日本史を振り返るにあたっても、宗教や思想といった上部構造、を重視しなかったり、無視したりするようなことがあってはならない。
 そんなことでは、日本史は全く分からないと言っても過言ではないからだ。
 とまあ、偉そうなことを言うこの私自身、本日のこの「講演」の中で、仏教についてのこれまでの自分の見解についていくつもの訂正を余儀なくされたことに端的に現れているところの、仏教に関する知識の浅薄さを、後期高齢者入り寸前の現在にもなって、改めて痛感させられたことに、汗顔の至りだ。
で、改めて、前回の前篇と今回の後篇の両「講演」原稿を通しての読み方なのだが、全て、人間主義・・今回に関しては、それを慈悲と読み替える・・を補助線として論旨が展開されている、ということを念頭に置いていただければ、と思う。
 前篇については、(後出しで恐縮ながら、)和辻哲郎は人間主義的視点に到達できなかった、日本文学は人間主義広宣文書群としてスタートした、ということを言っているつもりだし、後篇に関しては、(種明かし的として恐縮すべきかもしれないが、)厩戸皇子を含む、日本古代の統治者達は、相対的に人間主義的であるところの、支那の南朝、にシンパシーを抱き続けた、仏教、就中大乗仏教の精華は慈悲、すなわち、人間主義、その実践の奨励にある、日本の天武朝の歴史は、慈悲(人間主義)の実践、非実践を巡って展開した、ということを言っているつもりだ。

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5 どうして和辻哲郎は躓いたのか(続)

[邪馬台国と魏/晋]


[鄧小平以降の中共の対日戦略]
一 始めに
二 日本に係る政策
 (一)東北工程
 (二)日本再軍備/独立戦略
  ア  北朝鮮核武装協力
  イ 尖閣攻勢(東シナ海攻勢)
  ウ 中印国境攻勢
  エ 南シナ海攻勢
 (三)日本文明総体継受「宣言」

三 一帯一路(参考)


[支那における仏教の初期]


[道教と朝鮮半島・日本]


[古代日支交流史]


[十七条憲法]


[欧米と日本の社会福祉]
一 欧米

二 日本


[百済仏教と厩戸皇子の仏教]
一 百済仏教

二 厩戸皇子の仏教


[維摩経について]

6 付論1:仏教について
 (1)始めに・・バラモン教
 (2)釈迦

  ア 釈迦自身の言動

[ジャイナ教]

  イ 釈迦と仏教についての私見

[釈迦は五比丘への説法後、カピラ城に直行したのかしなかったのか]


[マガダ国のビンビサーラ王]


[アショーカ王とカニシカ王の位置付け]
一 アショーカ王
 (一)チャンドラグプタ(?~BC298?年)
 (二)ビンドゥサーラ(BC293?~268?年)
 (三)アショーカ(阿育王。BC1268?~BC232?年)

二 カニシカ王(概ね2世紀半ばの人物)

 (3)仏教を巡って
  ア 部派仏教(小乗仏教≒上座部仏教(Theravada Buddhism))
  イ 中観派
  ウ 瑜伽行派(唯識派)
  エ 大乗仏教(Mahayana Buddhism)
オ 浄土教
  カ 弥勒信仰
  キ 鎮護国家
  ク 密教(タントリズム)
  (ア)始めに
  (イ)密教
  ケ チベット仏教
  コ 現行の上座部仏教(参考1)
  サ ナヴァヤーナ「仏教」(参考2)

 (4)私見

[ヴィパッサナー瞑想再考]
一 インダス文明
二 ヨーガ(後出)
三 ヴィパッサナー瞑想

四 マインドフルネス


[インド亜大陸における仏教のほぼ消滅]
一 ヒンドゥー教の成立
 (一)始めに
 (二)その歴史
二 仏教の衰退

三 インドにおける仏教のほぼ消滅への過程

7 付論2:仏教的観点からの天武朝小試論
 (1)始めに
 (2)概観
 (3)天武朝下の諸事件
  ア 大津皇子の死(686年)
  イ 長屋王の変(729年)
  ウ 藤原広嗣の乱(740年)
  エ 橘奈良麻呂の乱(757年)
  オ 藤原仲麻呂の乱(764年)
  カ 宇佐八幡宮神託事件(769年)

8 終わりに

5 どうして和辻哲郎は躓いたのか(続)

 以下、和辻哲郎『日本古代文化』(改稿1939年)より。(執筆時間節約のため、新字、新かなづかいに改めた)

 「・・・日本人は太古から魚貝と植物とを食っていたのである。従つて稲の耕作を学び取った後にも、食糧の上に質的変化はなかったであろう。日本人は本来菜魚食人種としての温和な性情を持っていたのである。だから、西暦起源前後3<、>400年の時代に、日本人が急激に発達を始めた時にも彼等はこの優美な自然に似つかわしい温良な民族であった。そうしてこの特色は、暴王の烈しい征服欲や酒池肉林のあくどい享楽欲を以て特性づけられている古代支那人、或は荒涼たる大陸の原野を馳駆するのがその快楽であるらしい凶暴な外蛮諸族と著しい対照をなすのである。・・・」(12~13)
 「世界史的に<見>れば3世紀より8世紀に至る時期は、古代文化を完成した民族と入れ代わって、新しい若い民族が勃興した時代である。現在世界の文化国民はすべてこの時期に生れ出たと云ってもいい。これらの若い民族は既に一度完成せられた文化を吸収することによってその新しい生活を強め深めることが出来た。そうしてやがては古代文化の相続者となってその新しい開展を実現し得るに至った。日本民族も亦その例に洩れない。」(14)
 「国家統一の完成後間もない頃に、日本人の勢威が半島南部を圧していたことは、歴史的事実として存在する。・・・
 当時の軍人とは要するに一般民衆と変りのない農人である。少数の指揮者を除いて大部分は平和な農村の生活から立った。それが国内を行軍し、無数の船舶に乗り、多量の武器食糧をたずさえて国外に押し出し、そうして重大なことには、異民族と戦ったのである。たとい百済王に頼まれたとしても、ただ政府の道楽にこれだけの大事を始めるわけはない。団体心が強い意義を持つ時代にあっては、国民の間に大きい興奮がなくてどうしてこういう事業に取りかかれよう。」(80、82)

⇒私は、かねてより、弥生時代から、日本列島の弥生人/縄文人居住部分と朝鮮半島南部は同一文明圏を構成していたと考えており(コラム#省略)、ヤマト王権成立当時も、まだ、その実態も、従って、意識も変わっていなかったと見ているので、このような和辻の筆致には違和感を覚える。
 縄文人はいざ知らず、弥生人が(稲作の伝播が朝鮮半島南部を通じて日本列島になされた、つまりは、弥生人が、朝鮮半島南部を経由して日本列島に渡来したとすれば、考えようによっては、)元から朝鮮半島南端にいたとすれば、「大事」だの「興奮」の出番はないはずでは、ということだ。(太田)

 「百済が北魏と交通を始めたのは471-2の頃である。(魏書東夷伝)高句麗は既にその半世紀前から北魏と交通し、新羅は10余年前から新しく活動を起していた。百済は北魏との交通によって高句麗や新羅の圧迫に対抗する力を幾分かでも得ようとしていたに相違ない。任那を領有する日本がこの形勢に巻き込まれるのは当然の勢いである。」(111)

⇒同様、この和辻のような任那についての日本人達の説、それに反発する韓国人達の説や彼らに「迎合」する日本人達の説、そして、この両者の折衷的な説(下出)、のいずれにも、私は違和感を覚える。
 新羅は日本列島に住んでいた人々と同じ人々が支配層の相当部分を占めていたと思われる(コラム#省略)し、任那に相当する地域に、日本列島に住んでいた人々と同じ人々も、とりわけ、(上述したことから、)弥生人、が住んでいなかった方がおかしい、と、私は思っているからだ。(太田)

 「雄略天皇は新羅親征を企てられ、神にはばまれて思い留められたという。
 この伝説は当時の対韓関係に就て一つの暗示を投げる。
 この時代の人心は朝鮮出征に就てもはや前世紀のような興奮や緊張を持たなかったのである。
 神意とはこの時代にもなお全体意思の表現であった。
 たとい任那府を中心とする幾度かの征戦があったとしても、それは高句麗の勢力を圧迫して百済の滅亡を救うというような活気のあるものではない。
 百済再興というのもただ王族を救い小さい土地を与えたと云う程度に過ぎぬ。
 この後2世紀に亘る対韓関係は、主として任那府<(注1)>の「維持」が目的なのである。

 (注1)任那日本府については、現在、「井上秀雄 … 日本府はヤマト王権のものではなく、加羅諸国の在地豪族の合議体であるという説。金鉉球 … 百済が加羅諸国を支配するために置いた機関とする説。奥田尚 … 加羅諸国が対倭外交のために設置した機関とする説。大山誠一 … ヤマト王権の代表と加羅諸国の首長層の合議体であるとする説」に分かれている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C
らしいが、中共は、「中華人民共和国外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)の「韓国概況」の古代史に関する記述・・・で、任那日本府に言及し、「5世紀初め、ヤマト王権が隆盛した時期に、その勢力が朝鮮半島の南部まで拡張された」と紹介し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B
というわけで、諸説が入り乱れている状況だ。

⇒「『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする・・・。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる。・・・
 倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭および三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩や川本芳昭はとっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
といった問題意識を、和辻は、当時そういった議論が出ていなかったか、或いは不勉強ゆえか、抱いた形跡がない。
 具体的には、北魏が華北を統一したのは439~442年であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
倭王(讃?)が東晋に貢物を献じたと支那側が主張する413年にも倭王(讃)が宋に朝献し除授の詔を受けた421年にも、華北は五胡十六時代の末期でまだ統一されていなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
わけだが、邪馬台国は華北の魏(220~265年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
に238年と243年に使者を送り、前者の時に「親魏倭王」に任じられており、また、卑弥呼の後を襲った壹與は晋(西晋)に朝貢している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
というのに、その後、3世紀中葉~4世紀前葉に倭(日本)が統一され、ヤマト王権が成立した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9
にもかかわらず、東晋(317~420年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
が滅亡寸前の時期に至るまでの間、倭から全く支那の王朝とのコンタクトがなくなってしまったのはどうしてなのか、また、コンタクトを再開してから、442年に北魏が華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた・・但し、その時点では山東半島は宋の領土だった・・というのに、北魏が534年に滅びる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
まで、一切、北魏とコンタクトを取ろうとしなかったのは一体どうしてなのか、が問題となる。
 今回は、後者の問題に絞ることにするが、これは、倭(日本)が「北魏の文化的影響を強く受けている」(注2)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F 
ようにも見えるだけに大きな問題であると言えよう。

 (注2)「・福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。
・伊東忠太によれば、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。法隆寺は元は百済様式であったが、壬申の乱の時期に火災を被り、再建後には北魏様式となった。
・杉山正明によれば、日本の源氏という皇別氏族の興りは、北魏の太武帝が同族の源賀に源姓を名乗らせたことに影響された可能性がある。
・北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京<(コラム#13640)>・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。」(上掲)
 「414年・・・、西秦の乞伏熾磐に南涼が滅ぼされると、・・・禿髪・・・破羌は北涼の沮渠蒙遜のもとに逃れた。まもなく北魏に亡命し、太武帝により西平侯の爵位を受け、龍驤将軍の号を加えられた。太武帝は禿髪氏と拓跋氏の源が同じであるとして、破羌に源氏の姓を与えた(ちなみに日本の源氏はこの故事に由来する)。・・・<451年、>太武帝は破羌に賀の名を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%B3%80
 「賢愚経<(けんぐきょう)>(大聖武<(おおじょうむ)>)・・・は・・・北魏の慧覚らの漢訳した、賢者・愚者に関する小話を収めた経典。」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/508382
 「天平(てんへい)は、南北朝時代の東魏において、孝静帝の治世に使用された元号である。534年10月 – 537年12月。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%B3_(%E6%9D%B1%E9%AD%8F)
 「神亀(しんき)は、南北朝時代の北魏において、孝明帝の治世に使用された元号。518年2月 – 520年7月。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BA%80_(%E5%8C%97%E9%AD%8F)
 (北魏と嵯峨の関係については調べがつかなかった。)

 (調べがつかなかったところの嵯峨天皇のケースを除けば、日本が、首都の名称を平城京としたのも、また、神亀や天平という年号を用いたのも、天武朝なる逸脱王朝の間であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BA%80
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%B9%B3-578821
逸脱していたからこそ、天武朝は光仁/桓武天皇によって「打倒」された、と、考えればよい、というのが私の考えだ。)
 さて、このような倭の支那との関係は、「高句麗<が、支那の>・・・南北両朝の双方に朝貢を行って友好を保ち、581年に隋の文帝が即位すると、隋からもすぐに冊封を受けた。しかし、589年に隋が南朝の陳を平定して<支那>が統一されたことにより長きにわたる南北朝時代が終了し、東アジアの国際情勢は根本的な変化を迎えた。その距離的な近さ故に、隋による<支那>統一に高句麗と百済は迅速に反応し、589年中に百済が、翌年には高句麗が隋への遣使を行っている。やや遅れて594年には新羅も隋へ朝貢して冊封を受け、東アジア諸国が隋を中心とした一元的な国際秩序の中に組み込まれて行くこととなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
こととは対照的であり、当然、初期においては高句麗の属国であった新羅とも異なる。↓

 「377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は高句麗と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

 しかし、高句麗/新羅とは違って、「<支那>が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に<支那>の南朝と通交していた。・・・
 百済と<支那>王朝の通交を記す記録の中で最も古い出来事に触れている記事は372年の東晋への朝貢記事である。これは同時に百済について記した最初の確実な国外記録でもある。当時の王である近肖古王は前年に高句麗から平壌を奪い高句麗王を戦死させて一躍有力勢力として台頭しはじめており、それを背景に東晋への遣使を行った。この遣使により鎮東将軍領楽浪太守として冊封された。以後、百済は南朝を中心に歴代の<支那>王朝への朝貢を行い、その国際的地位の向上を目指した。<すなわち、>387年には太子余暉が東晋から冊封を受け、416年には東晋に取って代わった宋から、腆支王が使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とされ、間もなく鎮東大将軍に進号した。
 これら、最初の朝貢記録のある372年から、漢城が高句麗に奪われ一時滅亡する475年までの漢城時代において、百済と<支那>王朝の通交は記録に残るものだけで20回にも及<ぶ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
と、倭の支那通交と極めて似通った通交姿勢を続けている。
 「仏教は<、三国中、>・・・最も北にあり、<支那>に近かった高句麗へは372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された<が、>大和朝廷と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿莘<(あしん)>王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している<ところ、>・・・残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという<けれど、日本には、>・・・6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
ところ、その、日本に仏教をもたらしてくれた百済がもっぱら南朝に朝貢してきた(上出)こと、や、百済が推奨した仏教を最初の北朝である北魏が弾圧したことがある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AD%A6%E4%B8%80%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3
こと、から、倭も、もっぱら南朝に朝貢することにしたのではないか、と、一見言えそうだ。
 しかし、支那の南北朝が隋によって統一されそうになると、「百済(および高句麗)は隋が統一事業を達成する前から新羅や倭国に先んじて隋への入朝を開始しており、隋が陳を滅ぼした際には、済州島に漂着した軍艦からこの情報を得て、すぐさま祝賀使を送り、隋側の好感情を引き出すことに成功した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
というのに、倭は、隋による南北統一の589年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
から10年以上経った600年にもなってようやく準備不足の遣使を送ったばかりか、国書を持った正式の遣使を行ったのは607年で、しかも、その国書は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」という挑発的なものだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
というのだから、倭は、百済とは異なる理由で、もっぱら南朝に朝貢してきた、ということが推察できようというものだ。
 和辻が、このことに気付いた形跡はない。
 私は、倭(ヤマト王権)は、北朝は、遊牧民を中心とした好戦的な非漢人が漢人地域を侵略し占領したところの、非正統王朝、である、という認識の下、北朝には朝貢して来ず、この北朝の後継で南北統一を果たした隋にも、朝貢、すなわち臣従すること、をよしとしなかった、と、見るに至っている次第だ。(太田)


[邪馬台国と魏/晋]

 220年に曹丕は献帝から禅譲を受けて魏を建国し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
222年に魏に称臣していた孫権が魏からの独立を宣言して呉を建国していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
が、邪馬台国の女王の卑弥呼は、238年に、難升米らを派遣し、初めて魏に入貢している。
 邪馬台国と魏との交流は、247年に卑弥呼の死去に伴い、壹與がその後を襲った後も続き、266年に魏への最期の入貢が行なわれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
 「『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注(現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀と四夷伝では、266年に倭人が朝貢したことは書かれているが、女王という記述は無い。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼が死んだのは早くて正始8年、どんなに遅くとも249年(正始10年)である(『梁書』)ことから、近年ではこの倭国女王は<壹與>のことであると考えられている。
 [この時点では、呉はまだ健在であり、晋は支那の統一を果たせていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D) ]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E4%B8%8E

 というわけだが、どうして、邪馬台国は呉ではなく魏/晋に入貢したのだろうか。
(壹與が晋に朝貢したのは、晋が魏の後継王朝だからだろう。)
 まず、邪馬台国が、「三国時代」の朝鮮半島の新羅とこの頃敵対関係にあったらしいことが、『三国史記』の下掲記述から窺える。
 (この『三国史記』については、「朝鮮半島に現存する最古の歴史書<で>1143年執筆開始、1145年完成<したものだが、>・・・日本では<支那>史料と対応する記事が認められない3世紀頃までの記事は、にわかには信じがたいとする考え方が主流である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
ことを念頭に置いて読む必要があるが・・。)↓

 「173年 – 倭の女王卑彌乎・・卑弥呼が即位したのは180年代と推定されるので173年には未だ女王卑弥呼は誕生していないので、この年紀は干支1運60年繰り上がった233年ではないかと考えられる・・が新羅に使者を派遣した。
193年 – 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ押し寄せた。
208年 – 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
232年 – 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
287年 – 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。・・・
233年 – 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
249年 – 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。」(上掲)

 また、東北工程
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B
「史観」に基づき、「中華人民共和国国営出版社の人民出版社が発行している中<共>の大学歴史教材『世界通史』は、「三国時代」から高句麗を除外し、「三国時代」を「新羅、百済、伽耶」と規定、「武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、その領土に郡県制を施行した。辰国が衰弱して分裂後、新羅、百済、伽耶の三国が形成された」と記述、高句麗を「漢の玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、漢、魏晋南北朝、隋、唐にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」と記述、唐・新羅戦争を「中国の地方政権である高句麗が分裂傾向をみせると、中央政府である唐が単独で懲罰し、直轄領とした」と記述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6)
としているけれど、「高句麗は1世紀から独立国家としての躍進を始め・・・漢の四郡や遼東を繰り返し攻め<、>244年、三国時代の魏の部将、毌丘倹は高句麗を攻め、丸都を蹂躙し<、更に>魏は259年に再び攻めたが敗けた<ところ、>同時代の遼東公孫氏の公孫度は高句麗を討伐して遼東政権を築い<たが、>高句麗がその支配を遼東にまで広げると、313年に最後の漢四郡である楽浪郡を美川王が支配して朝鮮半島の北部を手に入れ<、>これにより400年続いた<支那>の朝鮮半島の支配を終わらせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2
といった具合に、この頃には、漢の後継王朝たる魏/晋と高句麗は敵対関係にあり、他方、新羅は高句麗と248年までは良好な関係を保っていたところ、前述したように、その新羅と邪馬台国は敵対関係にあったことから、邪馬台国にとって、魏/晋は敵・・新羅/高句麗・・の敵だったからこそ、入貢して誼を通じる意義があったと考えられる。

 入貢相手が呉では意味がなかったというわけだ。


[鄧小平以降の中共の対日戦略]

一 始めに

 表記について、まとめて記述したことがなかったので、この際、やっておきたい。
 表記に係る一連の政策が誰のイニシアティヴによるものであったのかを考える手がかりは、鄧小平と江沢民と胡錦涛と習近平の経歴↓にある。

 鄧小平:党軍事委主席1981年6月29日~1989年11月9日・死1997年2月19日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
 江沢民:党軍事委主席1990年3月19日・鄧小平の死1997年2月19日~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91
 胡錦涛:次期国家主席含みの国家副主席就任1998年3月15日・党軍事委主席2004年9月19日~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4
 習近平:次期国家主席含みの国家副主席就任2008年3月15日・党軍事委主席2012年11月15日~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3

 鄧小平の先例から、党軍事委主席が中共の名実ともの最高権力者であること、また、それぞれ次の国家主席になることが決っていたところの、胡錦涛と習近平の2人に関してだけは、国家副主席就任時に事実上最高権力者になったと言えること、を、念頭に置くべきだろう。

二 日本に係る政策

 (一)東北工程

 21世紀に入ってからの中共の対日攻勢の一環として、中共による東北工程を位置付けるべきだ、と私が考えるに至ったのは最近のことだ。
 表記の立ち上がりは次の通りだ。↓

 「1996年に中国社会科学院において中国東北部・旧満州における歴史研究を重点研究課題とすることが決定された。この研究プロジェクトは東北工程と称され、2002年から研究が本格的に開始され、2003年頃に高句麗や渤海は「古代<支那>にいた少数民族であるツングース系の夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗が<支那>の一部であり自国の地方政権である」との中<共>見解が中国国外に知れ渡ることになった。また2007年には百済や新羅も同様に「<支那>史の一部」との中国見解が伝えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B

 私は、鄧小平(1904~1997年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
が遺言として残した対日戦略に則って、江沢民が、東北工程も日本再軍備(独立)「要求」(後出)も日本文明総体継受「宣言」(後出)も全て行うこととし、早くも自分の後継者含みで1992年10月に中央政治局常務委員に選出させた胡錦涛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4 前掲
に東北工程に着手させた、と、見るに至っている。
 その胡錦涛は、韓国民主化後初の文民大統領であった金泳三が、「就任の挨拶で金泳三大統領は「同盟は民族以上のものではない」と宣言<し、>北朝鮮に融和路線を提示<した>」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%A0%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C
かつ、その対「日本<政策が>、日本側の歴史認識を問題にし・・・、常に攻撃的な反日姿勢を顕著にし・・・、経済政策よりは、民主化の深化・軍部の政治からの一掃・反日ポピュリズムへの便乗と過激化にばかり重点が偏ってしまっ<ていたところへ、>村山内閣の江藤隆美総務庁長官が「村山発言は誤りだ」「日韓併合条約は、法的に有効だった」「植民地時代、日本はいいこともした」・・・との発言に反発し、1995年11月14日に当時の中国の江沢民国家主席との会談の中で、「日本の悪い癖(朝鮮語:ポルジャンモリ、日本語で「バカたれ」などに相当する、上の立場の者が下の者を叱る朝鮮語の俗語)を叩き直してやる!」などと強気の発言<を>し<、>また現在まで続く両国の領土問題である竹島問題についても、任期中の1995年に大韓民国政府として船の接岸施設など初めて施設を建設するなどの強硬態度を打って出<、>この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられ<、>同年11月にも「今回こそ、日本のその無礼を必ず直さなければなりません」と発言し反日世論を形成した。就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応では、非協力的で日本側に不興の声も上が<り、>また、いわゆる韓国の独立記念「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、・・・旧朝鮮総督府解体のほか、風水に基づく全国規模での測量用鉄杭除去など反日政策を積極的に進めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B3%B3%E4%B8%89
という、韓国トップの公然たる反日政策への着手が、それまでなされてきたところの、学校教育課程における反日教育によって醸成されてきた一般韓国民の反日感情に火をくべ、日韓関係が深刻化することが必至であることを懸念し、北朝鮮の核武装に協力すること等・・「等」については後述・・によって韓国の反北朝鮮感情を維持し、出来得ればより高めると共に、事大主義に由来するところの、韓国の親中共ムード、も、ぶち壊して反中共へと切り替えさせることで、(韓国に、北朝鮮と中共に加えて日本と関係までも深刻化させるわけにはいかないという気にさせることで、)日韓関係の深刻化に歯止めをかけようと図った、と、見るに至っている。
 付言すれば、北朝鮮の脅威をいかに高めようと、その脅威が直接的には韓国に対するものである以上、日韓関係が深刻化した状態では、米国に韓国防衛をまかせ、自らが再軍備して韓国防衛に貢献しようとまでは思わないだろう、ということだ。
 (もちろん、北朝鮮の核武装への協力そのものが、この核武装が韓国と米国を志向したものである以上、客観的には日本をも志向したものであることから、これは日本再軍備/独立「要求」の一環でもある。)
 そして、その後の成行は次の通りだ。↓

 「「東北工程」をめぐり、担当機関の中国社会科学院辺疆(へんきょう)史地研究センターが、公式研究書に百済と新羅の歴史も「<支那>史の一部」と記述していたことが・・・分かった。徐吉洙(ソ・ギルス)西江大教授(高句麗研究会理事長)によると、同センターが 2001年に出版した『古代中国高句麗歴史叢論(そうろん)』の完訳本を出す過程でこうした事実が明らかになったという。徐教授はこの本の翻訳版を『中国が書いた高句麗史』(与猶堂刊)として今週中に出版する予定だ。
 『古代中国高句麗歴史叢論』<(2001年?)>は<支那>が百済と新羅を武力を使わず従順な国王や統治者を選んで懐柔する「羈縻(きび)政策」と呼ばれる方法で治めたと記述している。羈縻政策では周辺民族の領土を<支那>の行政区域に編入し、自治を認定していた。百済に対しては「(高句麗と)同様に古代<支那>の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」(275ページ)とし、新羅については「唐は(百済が滅亡した) 660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」(277ページ)と記述した。また、新羅は「<支那>の秦の亡命者が樹立した政権」(266ページ)であり、「<支那>の藩属国として唐が管轄権を持っていた」(272ページ)とした。」
https://web.archive.org/web/20070606081836/http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

 (二)日本再軍備/独立戦略

  ア  北朝鮮核武装協力

 表記を念頭に、中共が最初にやったのは、北朝鮮の核保有計画への協力だった。↓

 「1992年8月24日:中<共>と韓国が北京で国連憲章の原則と主権と領土保全の相互尊重主権、相互不可侵・内政不干渉、相互の平等と互恵、台湾は中<共>の一部、朝鮮半島の平和統一支持を骨子とする中韓修交共同声明(中韓国交成立)。しかし、その後の1999年のにんにく騒動やTHAAD報復など「台湾は中国の一部」という中<共>に有利な内容以外中<共>側は無視。にんにく騒動では金大中政権は「中国産ニンニクに対する韓国側のセーフガード(緊急輸入制限)措置をこれ以上延長しない」と中<共>側と秘密合意。交渉当時に通商交渉本部長を務めていた青瓦台経済首席秘書官の韓悳洙、次官補を務めていた農林部次官の徐圭竜などが2002年の合意発覚後に更迭。
 1993年3月13日:金泳三は就任1ヶ月足らずで未転向長期囚を無条件で北朝鮮に渡すなどスタートから融和路線していたが、北朝鮮がNPTからの離脱を宣言し、韓国に対して「ソウル火の海」と脅迫されるなど核への脅威を受けて北朝鮮への路線転換<。>
 1994年6月:北朝鮮がIAEAからの脱退を宣言<。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%A0%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C 前掲

⇒上述の中で示唆したように、鄧小平は、対朝鮮半島戦略も対日戦略の一環と位置づけていた、と、私は見ており、北朝鮮に核武装させて日本の再軍備/独立を促す計画を発動していたところ、韓国の金泳三の北朝鮮接近を危惧し、核を保有したところの、経済的にも強大な朝鮮半島統一国の出現・・これは中共の国益にも再軍備後日本の国益にも反する・・を回避するため、あえて、韓国と国交を樹立した上で、北朝鮮に核保有計画を発動させ、かつまた、中共が韓国に対して、東北工程を始めとする反感を買うような動きを重ねていくことによって、韓国内の朝鮮半島統一への気運に水をかけ続けると共に、韓国が将来、日本と安全保障面での関係を深め、更には、日本に集団的自衛権行使を求めるようになることすらも期待した、と、見る。(太田)

  イ 尖閣攻勢(東シナ海攻勢)

 「2012年1月17日には人民日報は尖閣諸島を「核心的利益」と表現した。2012年10月25日には中国国家海洋局の劉賜貴局長が再び「南シナ海での権益保護は我が国の核心的利益にかかわる」と発言し、同局サイトにも掲載され、事実上公式の発言となった。2013年4月26日には中国外務省の華春瑩副報道局長が「釣魚島問題は中国の領土主権の問題であり、当然中国の核心的利益に属する」と明言した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
 「2012年(平成24年)9月11日 – 日本政府は魚釣島、北小島と南小島の3島を埼玉県に所在する地権者から20億5000万円で購入し、日本国への所有権移転登記を完了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
 「2012年7月11日、中国国土資源省国家海洋局所管の海洋環境監視監測船隊(海監総隊)の孫書賢副総隊長が「もし日本が釣魚島(尖閣諸島)問題で挑発し続けるなら、一戦も辞さない」と発言した。また南シナ海の南沙諸島問題に関してベトナムやフィリピンに対しても同様に一戦も辞さないと発言した。
 さらに7月13日には、中国共産党機関紙の『人民日報』が論説で、野田政権の尖閣諸島国有化方針を受けて「釣魚島問題を制御できなくなる危険性がある」「日本の政治家たちはその覚悟があるのか」と武力衝突に発展する可能性を示唆した。・・・
 2013年11月23日、中国国防省は東シナ海に「防空識別圏」を設定し、それについて声明と公告を発表した。公告では午前10時(日本時間午前11時)より施行されたと明記している。設定された防空識別圏には尖閣諸島が含まれ、日本がすでに設定している防空識別圏と重なっているところがあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C

⇒尖閣攻勢は、形の上では、胡錦涛・・党軍事委主席/党総書記(~2012年11月)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4 前掲
の最後の置き土産だったが、実質的には、当時国家副主席で、次期最高権力者となることが決っていた習近平がやったことだろう。(太田)

  ウ 中印国境攻勢

 「1962年に・・・中印戦争<が>・・・勃発した<。>・・・
 2013年4月15日、中国軍は中国側で野営地を設営した。インド軍も中国軍の野営地近くに部隊を派遣してにらみ合いを続けていたが、同年5月5日までに両国が共に部隊を撤収させることで合意し、同日中に両軍とも撤収を始めた。
 2017年6月16日、中国軍がドグラム高原道路建設を始めたため、ブータンの防衛を担当するインド軍が出撃する。工事を阻止しようとするインド軍と中国軍はもみ合いになり、インド側の塹壕二つが重機で破壊されている。以降は工事が停止し、二か月にわたりにらみ合いとなる。同年8月15日インド・カシミール地方パンゴン湖北岸の国境にて中国軍兵士はインド兵士と投石などの小競り合いが起きて両軍兵士達が負傷している。その後両軍は陣営に戻り、以降は沈静化した。同年8月28日にはドグラム高原でにらみ合いの続いている両部隊を撤退させることで合意し、両軍とも部隊を引き上げるとインド当局が発表する。しかし中国外交部は撤退するのはインドのみであり、規模は縮小するものの中警備を継続すると発表している。
 2020年5月9日、シッキム州の国境付近で中印両軍の殴り合いによる衝突が発生し・・・、中印軍の総勢150名が関与し、中国側7名とインド側4名の計11名が負傷した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8D%B0%E5%9B%BD%E5%A2%83%E7%B4%9B%E4%BA%89

⇒半世紀間中印間では軍事的事件が起っていなかったのに、2013年に中共側から、つまり、2012年11月に中共の最高権力者・・党軍事委主席/党総書記・・になった直後の習近平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3 前掲
が、この事件を起こしたわけだ。(太田)

  エ 南シナ海攻勢

「2014年6月1日、シンガポールで開催中のアジア安全保障会議 (シャングリラ対話) において、中国側代表の王冠中・人民解放軍副総参謀長 (当時) は、南シナ海の島々は2,000年以上前の漢代に中国が発見して管理してきたという旨の発言をした。また王は、名指しを避けながら中国に自制を求めた日本の安倍晋三首相 (当時) に対して、「安倍総理大臣は、遠回しに中国を攻撃し、ヘーゲル長官は率直に非難した。ヘーゲル長官のほうがましだ」と述べ、これに対して小野寺防衛相 (当時) は、「中国の反応は理解できない」と反論した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%B5%B7

⇒習近平が、ダメ押し的に、最後に着手したのが南シナ海攻勢だった。

 (三)日本文明総体継受「宣言」

 「人民網が日本礼賛記事を載せるようになったのはここ数年のことだと思います」(コラム#6410(2013.8.25))

⇒習近平が日本文明総体継受「宣言」を行ったのも、最高権力者になった直後の2013年だ。(太田)

三 一帯一路(参考)

 「正式名称<が>シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード・・・The Belt and Road Initiative・・・)、一帯一路はその略称である<ところの>・・・構想は習総書記が行った2013年9月7日のカザフスタンのナザルバエフ大学での演説、「一路」構想は同年10月3日のインドネシア国会での演説でアジアインフラ投資銀行(AIIB)とともに初めて提唱された。AIIBや中国・ユーラシア経済協力基金、シルクロード基金などでインフラ投資を拡大させ、また発展途上国への経済援助を通じ、人民元の国際準備通貨化による中国を中心とした世界経済圏の確立を目指すとされる。
 中国政府の李克強国務院総理は沿線国に支持を呼び掛け、100を超える国と地域から支持あるいは協力協定を得、さらに国際連合安全保障理事会、国際連合総会、東南アジア諸国連合(ASEAN)、アラブ連盟、アフリカ連合、欧州連合(EU)、ユーラシア経済連合、アジア協力対話、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)、上海協力機構(SCO)など多くの国際組織が支持を表明した。李克強首相は「『一帯一路』の建設と地域の開発・開放を結合させ、新ユーラシアランドブリッジ、陸海通関拠点の建設を強化する必要がある」としている。
 2017年2月、中国は北京市で一帯一路国際協力サミットフォーラムを5月に開催すると発表し、グテーレス国際連合事務総長ら70を超える国際機関代表団やロシアのプーチン大統領ら29カ国の首脳が出席を表明したのをはじめとして、世界130カ国超の政府代表団が参加を決定し、5月14日から15日にかけてフォーラムが開催された。
 しかし、G7は閣僚級などを出席させて首脳のほとんどは欠席し、出席したのはイタリアの首相パオロ・ジェンティローニだけとなった。イタリアはギリシャなどとともにEU加盟国では一帯一路への協力に積極的な国の一つとされ、後にジュゼッペ・コンテ政権はG7で初めて一帯一路に関する覚書を中国と締結している。一帯一路を中国主導の巨大経済圏構想と警戒してAIIB参加を見送ってきた日米は政府代表団を派遣した。
 2017年10月の中国共産党第十九回全国代表大会で、党規約に「一帯一路」が盛り込まれた。
 2019年4月25日、第2回一帯一路国際協力サミットフォーラムが北京で開催され、国連事務総長らと37カ国の首脳や日本など150カ国を超える代表団が出席するも前回参加した米国は一帯一路への批判を強めたために出席を見送った。
 順調にインフラ投資は続けられてきたが、2010年代後半になると新興国向け融資の焦げつきが増加した。アメリカのシンクタンクによると、金利を減免した債権は2020年 – 2021年に計520億ドルと2年前(2018年 – 2019年)の3倍を超した。新規貸し出しに慎重になり、2020年の貸出額は2018年の約4割に急減した。
 2023年9月9日、G7で唯一参加していたイタリアが離脱の方針である報道された。G20サミット中にイタリアのメローニ首相が中国の李強首相と会談し、この中で「一帯一路」から離脱する方針を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF

⇒これは、かつて日本が掲げた大東亜共栄圏の拡大版であり、大欧亜共栄圏といったところか。

 また、この「一帯一路」のネーミングは、「事実上、松田壽男説に拠っている、と言えそうです。」と申し上げたところだ(コラム#13728)。

 雄略期にはまた呉<・・宋のこと(太田)・・>との・・・478年<の>・・・交通がある<(注3)>。・・・。

 (注3)「史部(書記官)である渡来系の身狭村主青(むさのすぐりあお)と、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)・・・の二人は<雄略天皇>即位8年と即位12年に大陸への使者として派遣されている。これに関連して即位6年に呉国から使者があったとする短い記述が『<日本>書紀』にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒邪馬台国は三国時代の魏/晋、と交流したところ、ヤマト王権が支那の王朝とすぐには交流せず、南北朝時代の413年になって南朝の東晋と交流を開始し、その東晋も、その後継王朝である宋も、「呉」、と、実に日本書紀が編纂された8世紀前半
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
まで称し続けたのは、東晋を呉の後継王朝、宋をその更に後継王朝、とみなしたからではないか、そして、そうみなした理由は、呉と対峙したところの、三国時代の魏/晋、が既に非漢人勢力を積極的に招致することによって非漢人王朝化のきっかけを作ったと考えていたからではないか・・「(魏の事実上の創建者たる)曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や烏桓<(うがん)(コラム#13628)>族や氐<(てい)(コラム#13652)>族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。魏の初代皇帝となった曹丕も冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
 そして、倭がそう考えていたからこそ、邪馬台国の時代の後にヤマト王権が成立してからも、魏は三国時代の三国の一つに過ぎなかったのに対して魏の後継王朝たる晋は支那統一を果たすに至っていたにもかかわらず、西晋皇帝の傍流である東晋皇族が土着漢人勢力や華北漢人避難民達の上に落下傘降下して成立したところの、東晋が317年に成立して
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
から、更に実に1世紀近く後の時期まで、それが漢人王朝であるとも言えるかどうか見極めようとしたからではないか、と想像されるところ、だからこそ413年にもなって、倭は、ようやく晋(東晋)に初朝貢した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
、とも。(太田)

 そこに記された倭王武<(雄略天皇)>の上表は立派な漢文で、帰化人の作らしいと云われている。
 その翌年(479)にも遣使の事が記されている。・・・
 この時代の南支那との交通は、既に半世紀間帰化人の影響が蓄積せられていただけに、前代よりも遥かに多くの意味を持ったらしい。
 乎末<(注4)>才伎<(注5)>(タナスエテヒト)の・・・韓国<(朝鮮半島)や>・・・呉<、すなわち、宋からの>・・・輸入がその事実を語っている。」(112~113)

 (注4)不詳。
 (注5)才伎=手人「 履(くつ)を縫ったり機を織ったり、技芸にたずさわる者。朝鮮半島から渡来した技術者。」
https://kotobank.jp/word/%E6%89%8B%E4%BA%BA-576675

 「・・・欽明前後の時代の記録に著しく現われた特徴は、大臣<(注6)>大連<(注7)>の執政と外交関係とである。

 (注6)「大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 (注7)「大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏と物部氏が大連となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)

⇒私は、大臣は非軍事を、大連は軍事を所管していて、外交は両者の共管事項であった、という仮説を抱いている。(太田)

 大連大臣の重用は既に雄略期に始まっているらしいが、それによって造られた政務執行の組織は、雄略天皇崩によって明かにその形を見わして来た。
 天皇は屡々皇嗣なく、皇位継承のために遠国より皇族が探し出されるという事件が起ったが、既に貴族によって固められた政治の組織は、この危機をも容易に切りぬけることが出来たのである。
 この際注目すべきことは、大連大臣の類が専制的に事を行わずして、貴族間の合議により事を決したという調和的な気風の存在することである。
 大伴金村<(注8)>は雄略期以来の最高位の家に生れ、武烈期に於ては天皇のために大臣平群を誅滅した人であるが、継体天皇を擁立するに当り、物部、許勢<(注9)>、その他の臣連と合議せずしては何事も行わなかった。・・・

 (注8)?~?年。「仁賢天皇11年(498年)仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥、鮪父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇8年(506年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。
 『日本書紀』によると継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、金村はこれを承認する代わりに五経博士を渡来させた。継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱では物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。・・・
 欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%87%91%E6%9D%91
 (注9)「巨勢・・・とも記す。奈良盆地南西部を本拠地(《和名抄》に,高市郡巨勢郷がみえる。現,御所市古瀬)とした臣姓の有力古代豪族。その祖,巨勢小柄宿禰は,武内宿禰の子と伝承されており,蘇我氏,波多氏,葛城氏らとともに,武内宿禰の後裔と称していた。巨勢氏の本拠地は,・・・蘇我氏,波多氏,葛城氏の本拠地とも近く,いずれの地も,曾我川の灌漑範囲であること,紀路沿いであることが,武内宿禰を共通の祖と仰ぐ同族意識をはぐくんだのであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%B1%E5%8B%A2%E6%B0%8F-1318449

 政策が悉く詔勅に基いて行われたに拘らず、その責任が常に大連に帰せられ、諸臣またその政策を批評するということは、政務運行の実際の動力が貴族間の全体意志にあったことを語るのである。
 だから平群の大臣<(注10)>の如く専横の振舞あるものは、やがて他の貴族によって打ち砕かれなくてはならない。<(注11)>

 (注10)「平群真鳥(へぐりのまとり、?~498年)。「仁賢天皇の没後、自ら大王になろうとしたが、これに不満を抱いた大伴金村は小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)の命令を受け平群真鳥とその子鮪を討ち、さらに平群一族を皆殺しにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%BE%A4%E7%9C%9F%E9%B3%A5
 (注11)「従来群臣<会議>の権限とされてきたもののうち、・・・特に重要な<ものが>王位継承決定権・軍隊統帥権・重要政策決定権<だが、>・・・王位継承権については、・・・<例えば、>舒明の即位は群臣層の主導によるものではなく、むしろ大臣の主導によると言うべき・・・であ<って、>・・・名実ともに群臣による王位の決定と認めうるのは大体初期倭王権の段階までであって、以降になると、「王子+群臣」型⇒大臣主導型⇒王室主導型というように、王権の位相の変化とともに王位継承の主導型も変化してきた<。>軍隊統帥権については、軍隊の編成・統帥に群臣層が関係していたこと自体は認められるが、それが群臣の権限に基づいてのことであるとは言いがたく、また軍隊の指揮官は群臣層だけでなく、場合によっては王族・非群臣層からも選任された<。>次に、重要政策決定権は・・・群臣会議<が>大王の諮問に応じる形で召集され、国政の重要事項を審議する一種の朝廷会議ではあるものの、群臣には決定権がなく、また群臣間の合意の存在も資料上認めがたい<のであって、>最高決定権はあくまで大王に属していた<。>」(李在●<(石偏に頁)>「大化前代の王権と群臣(Abstract_要旨)」(1998年)より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/182226/1/ybunk00119.pdf

⇒私の上記仮説は「注11」と整合性があると言えそうだ。
 大連が軍事を所管しているとしても、対内外戦争の際に誰を司令官にするかはケースバイケースだろうからだ。(太田)

 この様な政治状態に於ては天皇の神聖な権威は常に政争を超越する。
 武烈紀等に描かれたような専制君主は決して天皇の御姿ではない。」(123、125~126)

 「・・・仏教伝来<の頃>・・・の時代の支那の影響が前代に比を見ない力強さを以て朝鮮と日本に及んで来たことは、これらの諸国の文化がこの頃に漸く深さを増して来たという事情にもよるであろうが、主としては支那そのものの質的変化に基くらしい。
 南方に余喘を保っ<(注12)>た漢人の文化は、海東の諸国と古い交通があったに拘らず、さほど著しい影響を与えることが出来なかった。

 (注12)よぜんをたもつ。「今にも絶えそうな息をしながら、やっと生き続けている。転じて、滅亡しそうなものが、かろうじて続いている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%99%E5%96%98%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A4-654421

 しかし民族の混融によって新しく興された北方異民族の文化は、その若々しい活気を以て海東の若い国民の心に喰い入って来る。
 その文化は古い漢人の文化を新しい血によって生かせた意味に於て、確かに新生の文化である。
 そこには西域の文化が、印度の文化が、異様な新鮮さを以て融け込んでいる。
 高句麗に仏教を伝えたと称せられる前秦の符堅は西域を平定し鳩摩羅什を招聘した氏族の王である。
 符堅の治世は短かったが、やがて起った拓跋の北魏にも高句麗は少なからぬ影響をうけた。
 高句麗古墳に残存する驚異すべき壁画は、漢式の線と西域式の彩色とを以て、この時代の末の異様な心的緊張を語っている。
 百済に仏教を伝えたと称せられる摩羅難陀<(注13)>も西域の僧であって、民族混乱の北支那を通って来た。

 (注13)まらなんだ。「『三国史記』によると、384年に<支那>南朝東晋から百済に渡った。百済枕流王は摩羅難陀を宮中に迎え入れ礼敬を致し、385年に漢山に仏寺を創建し、10人の僧を得度して住まわせたとされている。『晋書』は384年7月の百済の朝貢を伝えており、摩羅難陀の渡来は、この朝貢使の帰国に付随したものとみられる。しかしながら、これらの所伝は疑問視されており、百済の仏教受容は6世紀初頭とする見解が有力である。末松保和は、百済仏教の384年渡来説をやや早きに過ぎると疑っており、『日本書紀』推古三十二年条に引かれた百済僧観勒の上奏文に、漢・百済・日本の仏教初伝年次にふれた叙述があることに着目し、この一節の解釈から、百済仏教の伝来年次を推古三十二年(624年)より100年前の524年頃と推定した。末松保和の主張は、妥当な見解として現在も多くの学者から支持されている。百済が漢城に都した時代(371年から475年)に属する仏教関係遺物・遺跡が皆無であり、文献史料の乏しいことも、末松保和の主張を支持する有力な証左とみなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E7%BE%85%E9%9B%A3%E9%99%80

⇒和辻が、『三国史記』ないしはそれを典拠とする史書を読んでいないのか、意図的にぼかして書いたのか、は分からないが、摩羅難陀は東晋から百済に来たのであって、しかも、376年までは西域は、東晋の属国であるところの、漢人が統治する前涼、が支配していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%B6%BC
ので、摩羅難陀は、「民族混乱の北支那」を通らずに東晋にやって来て、384年に東晋の揚子江河口付近から船で百済に渡ってくることは十分ありえたはずだ。(太田)

 その後1世紀の間に百済が最も多く影響をうけたのは、遺物によって明かな如く、北魏の文化である。

⇒当時の日本の支那/朝鮮半島史研究者達がそういう認識であった可能性は皆無ではないけれど、「南朝への継続的な入朝と冊封は、国内における権威付けにおいても重要であったと考えられる。・・・<475年に>漢城が<高句麗によって>陥落した後熊津<(ゆうしん)>で再興した後も変わらず活発な交渉が行われていた。熊津時代は<支那>からの正式な冊封が行われる頻度が高くなり、考古学的にも最も<支那>(南朝)の影響が強く見られる時期となる。<538年の>泗沘<(しび)>への遷都に際しては、<支那>の南朝へ『涅槃経』を始めとした経典、工匠、画師などの造寺工を求めていることが多数<支那>の正史の記録に残されていることから、泗沘造営には南朝の技術と仏教思想が深く関わっていたと推定される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
という史実から、百済が、一貫して最も多く影響を受けたのは、和辻の言うところの北魏の文化ではなく南朝の文化だった、と言えそうだ。(太田)

 そうしてこの北魏の文化が、若々しい活気を以て漢文化の改鋳を敢行し始めたのは、5世紀の公判即ち我国の雄略朝に当る時代であった。
 特にその孝文帝が漢文化の大胆な復興を試みたのは5世紀の末であり、次で立った宣武帝が仏教を奨励して「僧徒の西域より来るもの三千余人、仏閣の数一万三千余」に及んだというのは6世紀の初頭、我国の清寧武烈朝に当る時代である。・・・
 三韓に於て・・・仏教渡来が4世紀末のこととして伝えられるに拘らず、その仏教の興隆は北魏の形勢をうけた6世紀前半のことであろう。
 少くとも古韓彫刻の遺物はこの事実を語っているのである。
 従って欽明朝に於ける戊午の年538の仏教渡来も、北魏文化の影響をうける意味に於て、百済よりさほど遅れているわけではない。

⇒北魏云々についてはさておき、百済への仏教伝来の時期については、現在でも、なお、議論に決着がついていないようだ。↓
 「<384年伝来説については、>漢城時代の百済で発見されている仏教の痕跡が希薄であることや、長期に渡り仏教関係の記事が見られないことから疑問視する意見も根強い。・・・<実際、>漢城時代における百済での仏教の痕跡は極僅かであるが、1959年にソウル市で小さな金銅如来坐像が発見されてい<て、>これは当初<支那>製と考えられていたが、当時の<支那>の仏像と比較して技術的に稚拙な点が見られることから、中国製の仏像を模倣して朝鮮半島で造られたものと見られるようになり、5世紀頃に作られた百済仏像の原型を示すものと認識されている。」(上掲)
 いずれにせよ、「527年に造営された大通寺は、現在確認できる百済最古の本格的な伽藍を持つ寺院である。この寺は南から塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ、日本における四天王寺式伽藍配置と同様の伽藍配置を取る寺院であり、南朝の梁の武帝のために聖王の時代に建立されたと伝えられている」(上掲)ところであり、百済仏教の北魏ならぬ南朝から受けた影響の強さは歴然としている。(太田)

 ただ地理的関係の故に百済を経て日本に渡来したというまでである。
 継体朝に於ける五経博士段揚爾及び漢(あや)の高安茂の渡来<(注14)>も、畢竟百済を通じて来た北魏の影響を示すのであって、百済の影響と見るべきではなかろう。」(131~133)

 (注14)「五経博士の派遣について、日本学者の意見は大体3つに要約でき、第1は、百済が領土(任那)を拡張したことに対する代価として、日本に官人と五経博士を派遣した。第2は、<支那>人が日本に来て交代に勤めた。第3は、百済が日本に献する人質が制度化されていたということである。第2の点を付言すると、平野邦雄は「五経博士を率いた百済官人を除いては南朝人である」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB
 平野邦雄(1923~2014年。」東大文(国史)卒、九州工大講師、助教授、教授、文化庁主任文化財調査官、東女教授、東大博士(文学)、東女名誉教授、横浜市歴史博物館館長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%82%A6%E9%9B%84

⇒平野説の典拠は知らないが、ここでも、和辻は、その理由はともあれ、「間違っている」わけだ。(太田)

 「・・・新撰姓氏録<によれば、>・・・平安京奠都後間もない時代に於ては、皇別と称する貴族357、神別と称する貴族449に対して、374の多数な貴族が外国人の後裔であることを標榜していた。・・・
 その帰化族の内の3分の2は漢種である。
 彼等自らの称するところによれば、秦、漢、魏等の命族の後である。
 漢種以外の帰化姓の内3分の2は百済種である<。>・・・」(138~139)

⇒8世紀末の貴族の家の、374/1180≒1/3、が比較的最近に日本に「帰化」した者の子孫であるとの自覚があった、ということは、5世紀の倭の5王の時代はもとより、6世紀末から7世紀初の厩戸皇子の時代にすら、日本が、いかに、国際色の豊かな・・バイリンガルであっても不思議ではない廷臣達が1/3を占める!・・的確な国際情勢分析ができる政府を持っていたか、に思いを致すべきだろう。(太田)


[支那における仏教の初期]

漢人で最初に出家した人物であるとされるのは3世紀中期に魏(曹魏)の都の洛陽において、朱士行だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%A3%AB%E8%A1%8C
 「<この>頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。・・・この時代の主流は、支遁(314年 – 366年)に代表される格義仏教<(注15)>であった。・・・

 (注15)「仏教の経典を、<支那>古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて解釈しようとした態度のこと。「格義」とは「義(教え)を格(あ)てる」という意味である。・・・
 例えば、竺法雅や康法郎といった漢人の僧は、仏教の五戒を儒教の五常(仁・義・礼・智・信)に配当して説き、貴族や士大夫への講釈で人気を得ていた。 五胡十六国時代になり、仏図澄の門人だった釈道安は、格義仏教では仏教本来の思想を正しく理解することが困難であり、仏教の理解には仏教本来の解釈によらなければならない、と、時には自ら格義を用いつつも安易な解釈法を批判し、中国仏教の修正を図った。時を同じくして長安に来朝した鳩摩羅什による新たな大量の訳経と相まって、格義仏教は一転して影をひそめることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E7%BE%A9%E4%BB%8F%E6%95%99

 釈道安(314年 – 385年)・・・が出て、・・・格義仏教より脱却した<支那>仏教の流れが始まる。・・・
 5世紀になると、『華厳経』・『法華経』・『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476年 – 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。
 またこの時代、北朝の北魏<(注16)>では、太武帝の廃仏<(注17)>(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、平城郊外には大規模な仏教石窟寺院である雲岡石窟が開削された。

 (注16)「<支那>,北朝 (→南北朝) の最初の王朝 (386~534) 。・・・鮮卑の拓跋 (たくばつ) 部によって建てられた。淝水 (ひすい) の戦いで前秦が大敗すると,配下の拓跋珪 (→道武帝) は自立して<支那>進出をはかった。珪は国号を魏と定め,・・・396・・・ 年に皇帝の位についた。・・・
 道武帝は諸部族を解散して族長から統率権を奪い、部族民を皇帝権に直結するという画期的な改革を行い、漢人官僚を重用して統一国家の整備に努めたが、急激な改革は国内に動揺をもたらし、帝はその子に弑(しい)された。政権の安定に意を用いた第2代明元帝を経て、第3代太武帝(燾(とう))[(在位:423~452)]は漢人名族崔浩(さいこう)をブレーンに、四囲の征服に乗り出し、夏(か)、北燕、北涼(りょう)などの諸国を平定、華北全域を統一して五胡十六国時代に終止符を打った。この過程で被征服民を強制的に首都周辺やその他の要地に移住させ、その故地には鮮卑兵を主力とする中央軍を派遣して軍政支配を行った。太武帝は新天師道を唱える道士寇謙之(こうけんし)を信任して廃仏を断行し、漢人貴族を政界に招致するなど、漢文化尊重に傾いたが、彼も非業の最期を遂げた。その後しばらく宮廷内の混乱が続いたが、文明太后馮(ふう)氏(第4代文成帝の皇后)は事態を収拾して実権を握り、第6代孝文帝(宏)の後見役として均田制、租庸調制、三長制、俸禄(ほうろく)制などを断行し、農村の再建や財政の確立を図った。これらは以後唐代まで歴代国制の基本となった。
 太后が死んで孝文帝が親政すると、・・・都を洛陽に定め,・・・朝廷内における胡族の言語、風俗を禁じ、胡姓を漢姓に改め、漢人貴族制を胡人に及ぼすなど、一連の漢化政策を行った。拓跋氏もこのとき元氏と改めた。また都を洛陽(らくよう)に移し、南朝と対決する態勢を固めたが、その死後反動の気運が起こって政争を生み、鮮卑人近衛(このえ)軍士の暴動事件に続いて、524年北辺長城地帯の鎮民が蜂起(ほうき)した(六鎮(りくちん)の乱)。貴族制の導入によって立身を阻まれ、これまでの名誉ある軍士の地位がかえって賤民(せんみん)視されることに対する不満がその原因である。内乱は全国に広がり、そのなかから鎮民出身の軍閥、高歓と宇文泰が華北を東西に二分して争った。534年高歓のいただく孝武帝が洛陽を出奔して長安の宇文泰についたことから、北魏政権は東魏と西魏に分裂した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%AD%8F-132681 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AD%A6%E4%B8%80%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3 ([]内)
 (注17)「弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を意味する訳ではない。一般施設や住居に転用される場合が多い)と財産の没収、僧の還俗であ<る。>・・・
 軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が<支那>には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは、必要に迫られた事情であったと言える。」(上掲)

 その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に伝えられている。・・・
 一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、南朝梁の武帝の時期が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。
 このような北魏及び南朝梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北魏においては六鎮の乱に始まる東魏・西魏分裂、南朝梁では侯景の乱によるあっけない南朝の衰退によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝[(在位:560~578年)(上掲)]の仏教・道教二教の廃毀と、通道観<(注18)>の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。

 (注18)「仏道二教廃毀以前に武帝が盛んに行わせていた儒教・仏教・道教の三教に関する優劣論争の後を受けて、「至道」の名の下に、三教の教理を研究したい旧僧道の中で優秀な者を、公費の研修員として収容するための機関であったようである。通道観には、120名(一説に300名)の学士が置かれ、儒教・仏教・道教の研究に従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E9%81%93%E8%A6%B3

 当時、慧思<(えし)>の「立誓願文」に見られるような、<支那>で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、<支那>仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99


[道教と朝鮮半島・日本]

 「道教・・・は、<支那>三大宗教(三教、儒教・仏教・道教の三つ)の一つであり、・・・漢民族の固有の宗教。時には外来宗教を除いてその後に残る<支那>の宗教形式をすべて「道教」の名で呼称する場合もある。多神教であり、その概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵<(注19)>が教祖となって教団が創設されたと語られることが多い。

 (注19)34?~156?年。「彼の教法の中心は、祈祷を主体とした治病であり、信者に5斗(日本の5升=9リットル)の米を供出させたことから、五斗米道という呼称が生まれた。・・・
 その教団は、子の張衡・孫の張魯へと伝わり、広まった。張陵を尊称して「天師」と呼び、子孫は龍虎山へと移住し、道教中の一派である正一教となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%99%B5

 一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされる。ほかにも、『墨子』の鬼神信仰や、儒教の倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想)なども道教を構成する要素として挙げられる。道教は<支那>のさまざまな伝統文化の中から生まれており、<支那>で古くから発達した金属の精錬技術や医学理論との関係も深い。
 しかし、道教は<支那>の歴史上の道家とは別物であ<る。>・・・
 道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った。その長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い・姓名判断・風水といった巫術や迷信と結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあった。一方で、社会の上層にも浸透し、道士が皇帝個人の不老長生の欲求に奉仕したり、皇帝が道教の力を借りて支配を強めることもあった。また、隠遁生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多い。こうした醸成された道教とその文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している。・・・
 <支那本土>においては、五四運動や日中戦争、また中国共産党の宗教禁止政策などで下火になったが、近年徐々に復興している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

 「五斗米道(ごとべいどう)は、・・・呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%97%E7%B1%B3%E9%81%93
 「南北朝時代の北魏では、嵩山の道士の寇謙之が太上老君のお告げにより、張陵ののち空位になっていた天師の位に就いたとして、新天師道を興した。寇謙之は五斗米道の教法を改革し、仏教の要素を取り入れて道教の教義や戒律を整備した。寇謙之の活躍により道教は北魏の国教となった。道教研究者の窪徳忠は、五斗米道が一般に天師道と呼ばれるようになったきっかけが新天師道だったのではないかと述べている。・・・
 北宋には、龍虎山を本山とする天師道の第24代天師の張正随が真宗に召されて朝廷の庇護の下に入った。元代になると、第36代天師の張宗演が世祖クビライに召され、任じられて江南道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。元代の華北では、金代に興った新しい道教である全真教が教勢を拡大し、いつしか正一教と全真教は道教を南北に二分する二大宗派となった。・・・
 全真教の道士は修身養性の出家主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の在家主義的といわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%80%E6%95%99 ([]内も)

 「寇謙之<(こうけんし。365~448年)・・・は、424>年に北魏の太武帝に書を献じたが、宰相の崔浩が特に寇謙之に師事し、さらに帝に勧めて都の平城の南北に天師道場を起こさせた。五層の重壇にして120人の道士を仕えさせ、一日6回の祈祷を行わせる。
 442年(太平真君3年)、世祖は道壇に登って符籙(道士としての資格の一つ)を受けた。世祖はこの新天師道を尊崇し、道教を北魏の国教とし、自ら「太平真君」と称し、446年以降、仏教を排斥するようになった(三武一宗の法難の内の一つ)。
 寇謙之は仏教の戒律などを参考にして、「雲中音誦新科之誡」をさだめた。さらに修業の段階に応じて資格を与え、師弟の関係を秩序づけ、道教の組織を寺院・教会のように確立した。
 <支那>北部における道教は、以後の王朝によって国教に準ずる扱いを受け、唐代以降の隆盛を準備するのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%87%E8%AC%99%E4%B9%8B
 「崔浩<(さいこう。?/381~450年)は、>・・・崔浩の母系である盧氏が天師道の信者であったため、崔浩は寇謙之に帰心した。両者が協力することで、<失脚していた崔浩は、>ようやく太武帝への接近を果たした。
 崔浩は、太武帝の華北統一を戦略面などで助け、東郡公・太常卿、撫軍大将軍を授けられ最も信頼する参謀となり、遂には司徒となった。・・・その政治信条は、・・・儒家的な統治を実現することを理想としていた。 協力者の寇謙之を帝の国師とし、3代にわたって元老として仕え440年には太武帝を道君皇帝とならしめた。446年の仏教弾圧(三武一宗の法難の最初)も、崔浩・寇謙之の意を反映したものであった。
 しかし、崔浩が国史編纂にあたり、漢化が進む以前の時期の鮮卑<(注20)>族拓跋部(北魏帝室の出身部族)の風俗、信条をありのまま記述し、その内容を石碑に刻して公開したことは、既に漢化が進んでいた太武帝や鮮卑系貴族には北族への侮辱とみなされ、彼らの憤激を招いた。このため崔浩をはじめとした一族、盧氏、郭氏など、さらに繋がりのある漢族系の有力貴族は誅殺され(国史の獄)、鮮卑を侮辱したと目された書物はことごとく破棄されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%B5%A9

 (注20)「初め、鮮卑の各部族長は大人(たいじん)と呼ばれていたが、匈奴のように統一的な君主号がなかった。・・・
 鮮卑の言語系統について、古くは テュルク系であるとする説があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説もあるがまだ明らかではない。近年には夫余語との共通点が注目されている。
 だが鮮卑の部族にはもとは匈奴に参加していた部族もいるなど、非鮮卑系の異民族も参加していたため、鮮卑の部族全ての言語を特定することは難しい。・・・
 主に放牧を生業とするが、農耕することも知っている。
 檀石槐の死後は大人たちの位は・・・世襲されること<が多く>なった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91

 「劉裕<(りゅうゆう。420~422年)は、>・・・宋書では漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の子孫と記されているが、実態は東晋の中級官吏の出身<。>・・・劉裕は・・・419年・・・、・・・安帝を暗殺、その弟である司馬徳文を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには・・・420年・・・に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年・・・にはこれを殺害した。・・・
 『後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた。・・・
 高句麗の高璉に征東大将軍、百済の夫余腆に鎮東大将軍の官位をそれぞれ授け、北魏への牽制としている。・・・
 仏教との濃密な関係<が見られる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A3%95
 「蕭道成<(しょうどうせい。479~482年)は、>・・・前漢の丞相である蕭何の子孫と称した。・・・父の蕭承之は南朝宋初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。・・・
 即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて南朝宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E9%81%93%E6%88%90
 「蕭衍<(しょうえん。502~549年)は、>・・・南朝斉宗室の支族にあたる。・・・
 雍州刺史であった時、暴政を敷いていた皇帝蕭宝巻が蕭衍の長兄の蕭懿(次兄の蕭敷は早世)を誅殺したこともあり、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏・蕭偉・蕭恢とともに蕭宝融(和帝)を奉じて、皇帝打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて蕭宝巻を弑した。彼が代わって擁立した和帝から禅譲を受けて天監元年(502年)に帝位に即き、南朝梁を興した。・・・
 治世前半、天監年間の武帝は、沈約や范雲に代表される主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約を奨励して、官制の整備、梁律の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げた。また、土断法を実施し、流民対策でも有効的な施策を実施した。
 ・・・520年・・・に改元した<が、それ>以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めた。
 ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また朱异に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。
 ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩<(注21)>」とも称された。

 (注21)「仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9

 このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来<(注22)>」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。

 (注22)「如来とは、サンスクリットのタターガタ(・・・tathāgata)の漢訳であり、語義は諸説あるが、仏教で釈迦や諸仏の称呼に用いられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%9D%A5
 「仏教復興後、・・・曇曜<(どんよう。生没年不詳)>・・・は師賢の後を継いで、2代目の沙門統[・・太武帝による廃仏(三武一宗の廃仏の第1回)の後、次の文成帝によって仏教が復興され、同時に設置された仏教を管轄する監福曹(のちの昭玄曹)の長官が、沙門統であ<り、>初代の沙門統は、西域渡来僧であった師賢である。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%96%80%E7%B5%B1 ]となった。文成帝の和平元年(460年)のことであったという。
 その後、献文帝から孝文帝の太和年間(477年 – 499年)に至るまで、30年以上にわたり3代の皇帝に仕えてその職にあった。
 曇曜の業績として一番に挙げられるのは、雲崗に石窟寺院を造営したことである。中でも、曇曜五窟と称せられる5体の大仏は、北魏仏教の性格を端的に表すものとして著名である。その、第16窟より第20窟に至る石窟に彫られた大仏は、それぞれ、北魏の太祖道武帝・2代明元帝・3代太武帝・4代南安王・5代文成帝の5代の皇帝の姿に似せて彫らせたものであると言われている。これは、「皇帝即如来」とまで言う北朝仏教の考え方を造形化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%87%E6%9B%9C

 また南朝梁は東南アジアや西域諸国・百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれ、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であった。日本(倭国)へも百済を仲介して影響がある。」
 [侯景は東魏の権臣高歓の有力な武臣のひとりであり、高歓の死後に東魏から離反して南朝梁に降った。しかしほどなく梁の武帝が東魏と結んだため、孤立を恐れた侯景は548年に反乱を起こし、梁の都の建康を包囲した。翌年に建康を陥落させ、武帝を横死させた。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E8%A1%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%AF%E6%99%AF%E3%81%AE%E4%B9%B1 ([]内)
 「陳霸先<(ちんはせん。557~559年)は、>・・・陳寔<(注23)>の末裔を自称<し、>・・・南朝梁の軍人として活躍し、・・・547年・・・に交州で反乱を起こした李賁を討って頭角を現した。侯景が反乱を起こした時も、王僧弁と協力して・・・552年・・・にこれを討っている。これらの功績から征北将軍に任じられた。
 ・・・554年・・・に元帝が西魏とその傀儡の後梁の軍により殺害されると、陳霸先は王僧弁と共に敬帝蕭方智を擁立する。だが、その後北斉により閔帝蕭淵明が皇帝として送り込まれると、閔帝を支持する王僧弁と対立し、結局・・・555年・・・には王僧弁を討って閔帝を廃し、自らは敬帝を擁して実権を掌握した。さらにその後、南下してきた北斉の大軍を打ち破るなどして、確実に実力と人望をつけた陳霸先は、・・・557年・・・に敬帝に禅譲を迫り、南朝陳を開いた。敬帝は同年のうちに殺害されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%9C%B8%E5%85%88

 (注23)ちんしょく。「陳寔<(104~186年)>は、後漢の人。・・・太丘県の長を務めていた<が、>・・・公平無私で寛容な政治を行ったので民からすこぶる評判がよかったが、宦官の専横に反対したため、党錮の禁を受けることとなる。官を辞した後は郷里で隠居していたが、その村人達は訴訟事が起これば彼に裁断を求め、そのとき陳寔は道理を以って解決した為、郷里の人々は誰も彼を怨むことが無く、『陳寔様に正しくないと言われるくらいなら、むしろ刑罰を受けるほうがましである』と言わしめた。
 後に禁が解けると何進らは人を遣って陳寔を官職に召し出そうとしたが、出仕することを拒み、そのまま亡くなった。その葬式の際には国中から参列者が3万人集まったという。また、喪に服した者も韓融・荀爽らをはじめ100人を超えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%AF%94

(参考)

一 全真教

 「<全真教の>開祖<の>王重陽<(1113~1170年)>・・・にとって<、>全真教とは、単に旧道教に対する新道教ではなく、その名のもとに、儒教・仏教をも含めた三教を摂取し融合しようとするものであった。また道士の修煉については、自分自身の修行である真功と人々の救済を行う真行の、功と行を二つながら全くする「功行両全」を主張し、自己救済の修行だけでなく他者の救済も実践しなくてはならないとした。・・・
 全真教<は>金朝によって公認された。・・・
 西方にチンギス・ハンのモンゴルが次第に勢力を伸ばして来ると、・・・七人の開祖の高弟たち・・七真人・・<の1人の>丘長春<(1148~1227年)>は、高齢を押して、遠くインダス河畔まで西征途上のチンギス・ハンを訪れるための旅をしている(1220年 – 1224年)。その旅行記は、「長春真人西遊記」として、今日に伝えられている。その結果、元代になっても、全真教は、前代にも増して発展することができ、道蔵の編纂や道教石窟の開鑿等の大事業も行われて、江南の龍虎山に本拠を置く正一教と勢力を二分するまでになった。 フビライ・ハンの時代に元の国教が仏教に定められ、道教は禁令によって地下に潜ることを余儀なくされたが、元朝は全真教に対しては好意的であり、その勢力を大きく延ばした。
 明代に入ると、王室の正一教優遇と全真教排斥の宗教政策に加えて、影響力のある道士が出なかったことも相俟って沈滞の時代となる。しかし、満州族が南下して明を滅ぼして清朝が成立する変革の時期に、王常月(1520年 – 1680年)という中興の祖が現われて公開的に伝戒を行うよう改革した。これにより南北に戒壇を設けて多くの道士に伝戒を行った。これによって清王室の認めるところとなり、全真教はふたたび隆盛を取り戻し、今日に至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%9C%9F%E6%95%99

二 日本と道教

 「日本には道教の文化要素は入っているが、従来の研究によれば、<支那>の道士は入っていないし、日本人で道士になった者もいない。
 日本が唐から道士をもちこむ契機が、記録によれば2度あったが、周知のように、1度目の・・・735<年>閏11月の中臣名代の申請では「老子経」と「天尊像」だけを懇願して道士の来日は要請しておらず、2度目の・・・753<年>の鑑真招請の際には玄宗から道士の同行を求められたのに対して、春桃原らを長安に残して道教の学習をさせるという口実によって拒んでいる。
 これに対して朝鮮半島の国では、・・・この2度の契機より百年以上も前に唐から道士が入ったことを示す史料がある。」(土屋昌明(注24)「唐の道教をめぐる高句麗・新羅と入唐留学生の諸問題」より) 
https://core.ac.uk/download/pdf/71785576.pdf

 (注24)1960年~。國學院大學文学部卒業。國學院大学大学院文学研究科博士課程修了。西安交通大学、中国人民大学、富士フェニックス短期大学の講師を経て・・・専修大学経済学部教授。専門は中国文学・思想史・文学論。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%98%8E


[古代日支交流史]

57年 :倭奴国が朝貢したとされている。このとき後漢の光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。
107年:倭国王帥升 が後漢の安楽帝に人材(労働者か)を百六十人献上した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8
238年:卑弥呼が魏の皇帝明帝(曹叡)に朝貢、魏は卑弥呼を親魏倭王と為した。
266年:(恐らく)壹與が魏に代わって成立した晋の皇帝武帝(司馬炎)に朝貢した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
 なお、280年に晋が呉を滅ぼすまでは、魏も晋も支那の北部だけの国だった。
 しかし、魏/晋も呉も漢人国家であった点で、その後、「匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以<後>・・・華北<が>五胡十六国時代に入り、北部が遊牧民系の征服王朝、南部が漢人系の王朝となった南北朝時代とは異なる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
413年 東晋・・・讃? 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。
421年 宋・・・・讃 宋に朝献し、武帝から除授・・・。おそらく「安東将軍倭国王」。
425年 宋・・・・讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。
430年 宋・・・・? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。
438年 宋・・・・珍 これより先(前の意味、以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。詔して「安東将軍倭国王」に除す。・・・4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。・・・珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。
443年 宋・・・・済 これより先、珍と済が別人ならば珍が没し済が立った筈であるが・・・そうした記事は無い。この年、済は宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。
451年 宋・・・・済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。・・・7月、「安東大将軍」に進号する。・・・また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。
460年 宋・・・・? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 宋・・・・興 これより先、済没し、世子の興が遣使貢献する。3月、宋・孝武帝、興を「安東将軍倭国王」とする。
477年 宋・・・・武? 11月、遣使して貢物を献ずる。・・・これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。
478年 宋・・・・武 上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。・・・(「武」と明記したもので初めて)
479年 斉・・・・武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。
502年 梁・・・・武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。・・・
 倭の五王と<支那>王朝との交渉は421年の讃の宋への遣使にはじまるが、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗王・百済王もその地位を進められたが、倭王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官されており、この違いは、宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る、という指摘がある。
 478年の遣宋使を最後として、倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」及び「武」の遣使時期と重なり・・・、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、<支那>皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。
 あるいは、倭の五王が宋に使節を派遣したのは、宋が倭王の権威の保障となる存在であったからであり、斉に1度使節を派遣したものの2度目以降が無かったのは、斉が倭王の権威の保障にならない存在であったからであるとする見方もある。
 <なお、>日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする・・・。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) 上掲

⇒既に前述したところだが、倭の諸王や諸大王が交流したのは、後漢、魏、(全土統一前の)晋、東晋、宋、斉、梁、と、支那全土の後漢、支那北部の魏、(全土統一前の)晋、支那南部の東晋、宋、斉、梁、と、漢人系(非征服)王朝ばかりであり、倭の支配層は、非漢人系(征服)諸王朝(注25)を華夷秩序における中華と認めない姿勢を貫いたと言えよう。

 (注25)「六鎮とは、懐朔鎮<、>武川鎮<、>撫冥鎮<、>柔玄鎮<、>沃野鎮<、>懐荒鎮<、>の6つをいい、北魏の北方の辺境地帯に置かれた鎮のことである。北魏は建国当初は各地に数十の鎮をもうけていたが、孝文帝の即位までに六鎮を除く大部分は州や郡に変えられていた。六鎮は都の平城(現在の山西省大同市平城区)の北方の至近距離におかれ、ほぼ北緯41度線上で東西に並ぶ。
 北魏は、自らと同じ北方の民族の侵入を防ぐために生命線ともいうべき北方の守りを重要視し、鮮卑や匈奴の有力豪族を選びさらに漢族を加えて、六鎮に代表される北方警備の鎮民として移住させる政策をとった。鎮民たちは望族(名族)としての特権を与えられていた。
 しかしながら、孝文帝の漢化政策によって都が平城より洛陽に遷都されると、これらの北方の鎮民は、次第に冷遇されるようになっていった。やがて、「府戸」という出世の見込みを断たれた戸に編制され、中央から赴任してきた長官である都大将に搾取される身になり、一挙に不平不満が増大することとなった。
 このような背景のもと、その鬱積された不満が爆発したのが523年の沃野鎮民の挙兵である。破六韓抜陵を首領とした反乱兵たちは鎮将を殺害し、それがたちまちのうちにその他の諸鎮に伝播していった。河北では定州を中心に鮮于修礼・杜洛周・葛栄らが、関隴では高平を中心に胡琛・万俟醜奴らが反乱を指導した。反乱自体は530年・・・に将軍の爾朱栄らにより鎮圧されたが、その間に北魏に対して南朝梁の軍隊の侵攻があり、また国内では爾朱氏の専横が起こって、北魏が東西に分裂して滅亡する遠因となった。
 六鎮の有力者のうち、六鎮の乱を経て、北魏の滅亡の過程で権力中枢に登りつめた者が続出した。東魏の実権を掌握し北斉の基となった高歓は懐朔鎮の出身であり、当初は反乱軍側に与したものの途中で朝廷軍の爾朱栄の下に鞍替えし、爾朱栄の死後は爾朱一族を滅ぼして権力を得た。また、武川鎮出身の有力者は、武川鎮軍閥と呼ばれ、西魏・北周・隋から唐に至る変遷の中で、各王朝の中核となる権力集団として君臨した。北周の宇文泰・隋の楊堅・唐の李淵といった各王朝の創始者はいずれも武川鎮の有力者一族の出身である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%8E%AE%E3%81%AE%E4%B9%B1

 だからこそ、非漢人系の(北周から禅譲で生まれた)隋が589年に支那の再統一を果たした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
ことを受け、593年に推古天皇の皇太子となった厩戸皇子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
は、北魏-北周-隋、という鮮卑系の諸王朝が、2度にわたる廃仏(北魏、北周)や道教国教化(北周)、を行い、廃仏をしていない時は仏教を冒瀆する皇帝即如来論を奨励してきたところの、軍事に長けた諸王朝であったことに、警戒心と脅威を抱き、だからこそ南朝と親交してきたところの、5世紀の諸天皇の事績を踏まえ、隋を潜在敵国と見なして、対等の国交を結び、遣隋使を派遣して、隋等の非漢人(遊牧民)の軍事力に対抗できる強靭な軍事力のあり方の模索、と、強靭な軍事力が日本人の人間主義を破壊しない方策を旧南朝における皇帝菩薩論を採用していた隋・・文帝は菩薩戒を受けていた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
仏教の学習、を行わせた、と、私は見るに至っている次第だ。
 なお、5世紀の諸天皇の南朝との親交を、「高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) 前掲
を念頭に置いたところの、安全保障上の思惑によるもの、とは私は考えない。
 高句麗の初期と同様、両朝と親交すればよかったはずだからだ。
 また、北魏が当初山東半島を領有しておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
事実上、南朝としか通航できなかったからだ、とも私は考えない。
 北魏、ひいては北朝、が山東半島を領有した以降も親交を試みなかったからだ。
 以上の傍証として、以下の事柄がある。↓

 「北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
・福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。
・伊東忠太によれば、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。法隆寺は元は百済様式であったが、壬申の乱の時期に火災を被り、再建後には北魏様式となった。
・杉山正明によれば、日本の源氏という皇別氏族の興りは、北魏の太武帝が同族の源賀に源姓を名乗らせたことに影響された可能性がある。
・北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F

 朝鮮半島経由で(南朝に比して)北朝の文化が流入し易かったことから、このように、日本は北朝の文化に南朝の文化よりも大きな影響を受け続けたにも拘わらず、南朝と親交を続けた、というわけだ。(太田)

 今度は、和辻の『日本精神史研究(改訂版1940年)』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49905_63366.html
からだ。↓

 「・・・祭事という言葉自身が示しているように、宗教と政治とは別のものでない。また統率さるることが民衆自身の要求であったがゆえに、統率者と被統率者との対抗もない。君民一致は字義通りの事実だったのである。自然の脅威に対する戦いが唯一の関心事である自然人にとっては、隣国<支那>の古き政治史が示すような権力欲の争いや民衆を圧制する政治のごときは、いまだ思いも寄らぬことであった。

⇒人間主義的統治しか知らなかった古代日本人は、支那の史書を読んでそうではない統治が存在することを知った、というわけだ。
 但し、(和辻は言及していないが、)古代日本にあっても、奴婢(注26)はかかる統治の埒外の存在であったことを忘れてはなるまい。
 なお、和辻は、支那において、儒教(孟子)に仁政の主張がなされた
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E6%94%BF-538042
ことや、支那でも南北朝時代や隋唐時代に相当程度盛んであった仏教が慈悲を説かれたことは知りつつも、仁政が実際に実施されたことはないかのような記述ぶりをしている・・私自身もつい最近までそう思い込んでいた・・けれど、それは必ずしも正しくないことを後述する。(太田)

 (注26)「奴隷自体は、三国志魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき100人以上の奴婢を殉葬したと言う記述や、生口と呼ばれる奴隷を魏に朝貢したと言う記述が見られるように、少なくとも邪馬台国の時代には既に存在していた。仲哀紀には神功皇后の三韓征伐でも新羅の捕虜を奴婢として連れ去ったという記述がある。また蘇我氏物部氏の争いの時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢としたという記述がある。これらの古代から存在していた奴隷を、律令制を取り入れるときに整理しなおされたとされる。
 ヤマト王権では、もともと奴隷階級であったものを「ヤツコ(夜都古)」と呼び、奴婢はその子孫であるか、捕虜、あるいは罪人で奴婢に落とされた者であった。律令法においては、良民を奪って奴婢とすることは賊盗律で禁じられていたが、逆に言えば誘拐して奴婢とする習慣があったということである。経済的理由で奴婢となる者もおり、債務返済では役身折酬と呼ばれる返済方法が認められていたので、多額の負債を背負わされて奴婢に落とされて使役される者もいた。
 奴婢はもともと売買の対象であったが、律令が整備される過程で田畑と同じような扱いを受けるようになり、弘仁式によると持統天皇4年(690年)に、いったん奴婢の売買が禁止されたが、翌691年2月にはあらためて詔を発して官司への届出を条件に売買が許可されることになった。
 律令制における賤民は、五色の賎(ごしきのせん)と呼ばれ、5段階のランクに分けられていたが、下の2段階が奴婢であった。これらは、雇い主によって、2種類に分類された。
 公奴婢(くぬひ)または官奴婢(かんぬひ)…朝廷が所有した者。宮内省の官奴司(かんぬし)の管理を受けた。これらは66歳を過ぎると官戸に昇格し、76歳を越えると良民として解放された。職務形態も時とともに変遷を繰り返しており、初期は嶋宮奴婢といい、散在していた各皇族、豪族の宮殿がそれぞれ支配していた。やがて、藤原京や平城京の整備、上流階級の京内への集住が進むと、奴婢もまた都の近くの村に在住し、その都度朝廷に呼び出されて職務に当たっていた(常奴婢)。更に時代が下ると、宮中の一角に集住し、皇室の日常業務(内廷)に、幅広く専従するようになり、一部豪族の屋敷へも、派遣されるかたちでその家政にあたるようになった(今奴婢)。
 私奴婢(しぬひ)…民間所有の者。子孫に相続された。口分田として良民の1/3が支給された。・・・
 奴婢は、良賤法の他の3種と違い戸を成すことが許されず、主家に従属して生活した。父母のどちらかが奴婢ならば、その子も奴婢とされた。日本の律令制下における奴婢の割合は、全人口の10~20%前後だったと言われ、五色の賤の中では最も多かった。その職務としては、主に耕作に従事していた。
 皇朝律例によると、官司に報告することなく罪を犯した奴婢を殺した家長(=所有者)は杖罪70。罪なき奴婢を殴殺した者は徒刑3年。同じく罪なき奴婢を故殺した者は流刑二等と定められていた。捕亡令によると、逃亡した公私の奴婢を捕まえた場合、持ち主は捕縛者に報奨することが定められていた。逃亡後1ヵ月なら奴婢の価値の1/20、1年以上ならば1/10を支払うものとされた。逃げた奴婢が病気や70歳以上の高齢で使役に利用できない場合はこれらの額が半減。奴婢が以前の持ち主のもとに逃げて捕まえられた場合も半減とされた。奴婢が幼くて持ち主を特定できない場合は立札で告知され、1年以内に名乗り出なかった場合は公奴婢に組み入れ、捕縛の報酬は官が払うことになった。
 日本の奴婢制度は律令制の崩壊と共に瓦解した。10世紀初頭である平安時代中期の寛平の治から延喜の治の間に、奴婢廃止令が出されたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%A9%A2

 シナ文化を摂取して人々が歴史的記録を残そうと努め始めたころには、彼らはシナの史書から学んだ視点をもってこの国の古き伝説を解釈しようとしたが、しかし彼らの文飾をもってしても自然人的な素朴な祭事の実情は覆い隠すことができなかった。・・・
 国家の目的を道徳的理想の実現に認めるということは、単に「憲法」において思想として現われたに留まらず、推古時代の政治の著しい特徴であったらしい。


[十七条憲法]

 「十七条憲法<は、>・・・聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、推古天皇8年(600)に初めて遣隋使を送った倭 (やまと)王権が、<支那>の先例(西魏の二十四条新制・十二条新制<(注27)>、北周の六条詔書<(注28)>、北斉の五条詔書<(注29)>など)に倣って、<支那>風の道徳的規範を制定することに迫られ、国内の中央豪族をはじめとして、隋や朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)にまでそれを誇負 (こふ)することをねらったものと思われる。・・・[新川登亀男]・・・

 (注27)「宇文泰のとつた極端な漢化政策は、鮮卑種としての宇文泰が漢民族と同化し、漢化した結果として出て来たものでなくて、その政策の古典依拠が極端であるだけに、彼の立場からする意識的な作為であり、擬装としての漢化政策であったと考えられる。・・・
 <そして、>その政治<は、>儒教古典主義に則つたもの・・・であ<った。>・・・
 その主たる理由は、彼の率いていた鮮卑系将士の絶対数が極めて少なかつたこと、従つて劣弱な西魏軍を強化する為には、広く漢中土着の漢族豪右をを中心とする農民を自己の中央軍に吸収しなければならなかつたこと、更に・・・宇文泰の版図である関西の地は、北魏時代中央の統制弱く、殊に粛宗の正光5年依頼は流賊が猖獗を極めたところであつて、多年の戦乱の結果として多数の<私兵>を擁した豪族も少くなかつたであろうから、これら豪右の中央軍への編入は国内治安の上からも極めて必要な手段であつたと見なければならない。・・・
 宇文泰の内政確立の欲求は、・・・先ず儀制の整備からはじめられた。
 ・・・大統元年の24条の新制、更に大統10年5月、これら新制を集大成した中興永式がそれである。・・・
 宇文泰によつて樹立された・・・諸機構は殆んど改変されることなく、北周に継承された<。>」(大川富士夫「西魏における宇文泰の漢化政策について」より)
https://rissho.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2382&file_id=20&file_no=1&nc_session=o37g4q546n37iuft52tg3bemp5%20target=
 (注28)「六条詔書<は、>・・・地方官の心得を説いた<ものだった。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%98%87%E7%B6%BD-90064
 (注29)不明。「北斉王朝は東魏の実権者高歓 (神武帝) によって事実上築かれたが,形式的には高歓の第2子高洋が天保1 (550) 年東魏の孝静帝に位を譲らせ,帝位について国を斉と号し,鄴 (ぎょう) に都したのに始る。国号は斉であるが,南斉と区別してこの名で呼ばれる。山西,河北,山東を根拠地とし,その政策は鮮卑中心主義が大きく打出されていたが,<支那>的な貴族制もやや形式的ながら維持された。一時は国力も充実していたが,のち北周の武帝によって滅ぼされた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%96%89-132723

⇒詳細を確認できなかったが、要は、支那における「先例」なるものは、支配鮮卑族による漢人向け見せ金スローガンであったと見ればよかろう。
 そんなものは、厩戸皇子としては、歯牙にもかけなかったはずだ。(太田)

 7世紀初めに聖徳太子が作ったと伝える法制で,日本最初の成文法とされる。・・・
 その内容は法制とはいっても近代の憲法や法律規定とはやや異なり,むしろ一般的な訓戒を述べたもので,当時の朝廷に仕える諸氏族の人々に対して,守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規定ともいうべきものである。その文章は正格な漢文で,漢・魏の遺風ありとか先秦の文字に類するとかいわれる古風を存した文体であり,後周の蘇綽の六条詔書や北斉の五条の文といわれるものと,内容的に類似した点があることも指摘されているが,実際には《詩経》《尚書》《孝経》《論語》《左伝》《礼記》《管子》《孟子》《墨子》《荘子》《韓非子》などのごとき儒家,法家,老荘家その他の諸子の書,《史記》《漢書》などのごとき史書,《文選》,仏典などにわたる雑多な書籍の語句を数多く利用して,文章を構成しているから,思想上,文体上の統一性はほとんどないといってよい。またこの憲法の各条の内容をみると,誠実に服務すべきことを述べた条項(5,7,8,13,15条)が最も多く,そのほかに君主の地位を絶対視する思想を述べた条項(3,12条)もあり,すでに公地公民の理念がうかがわれるとされる条項(12条)もあるが,全般的にみて,専制君主制あるいは律令的な中央集権的官僚制への志向が明白に打ち出されているとはいいがたい。・・・[関晃]・・・
 政治思想としては、君臣を天地に譬え、詔を承けては必ず謹めとする第三条、率土の兆民は王を主とし、所任の官司はみな王臣であるから、国司国造は百姓を斂(おさめと)ってはならないとする第十二条その他において、君主の人民直接支配の方針が示されており、もしこれが聖徳太子の作、あるいは太子の時代の作であるとすれば、すでに大化改新以後の中央集権的官司制度への方向をめざす思想とみることができる。貧しい民の訴えをよく聴くことを命ずる第五条、民への仁を説く第六条、農桑の節に民を使うのを禁じた第十六条などは、君主の恩恵としての仁政の思想を示すものであって、儒教的支配者意識のあらわれと考えられる一方、賞罰を明すべしとする第十一条、私に背いて公に向かうべしとする第十五条などには、法家の政治思想の色彩がうかがわれる。しかし、それらよりもさらに注目されるのは仏教思想であって、篤(あつ)く三宝を敬え、三宝は四生の終帰、万の国の極宗であるとする第二条のほかに、「我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず、共にこれ凡夫のみ、是非の理、たれかよく定むべけむ」(原漢文)と説く第十条のごとく、政治的訓示の域を超えた深い宗教的諦観の吐露と感ぜられる文言さえある。「和を以て貴しとす」(同)という第一条の冒頭の句は、直接には儒教古典に出典が見出されるけれど、むしろ仏教思想を根底に置いて解すべきであるとの説もある<(注30)>。

 (注30)「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。・・・
 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。・・・
 十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
 「「論語―学而」には「礼は之和を用って貴しと為す」とあります。なお、儒学の「和」は、名分を守り秩序を重んじる「礼」を行うにあたって、やわらぎ睦み合うことの重要性を説いたものですが、十七条憲法の「和」は、そうした儒学の「和」の概念を超えて仏教の和合の精神の大切さを説いたものとされています。」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E3%82%92%E4%BB%A5%E3%81%A6%E8%B2%B4%E3%81%97%E3%81%A8%E7%82%BA%E3%81%99-2236499
 「和合<とは、>二つ以上のものが結合し、とけあうこと。
※勝鬘経義疏(611)一乗章「此法身則能与レ理和合、亦為二僧宝一」 〔韓詩外伝‐巻三〕」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E5%90%88-664970
 「『論語』では「礼」が一番中心にあって、「礼」をどうやって貫いていくのかというときに「和」も大事にしましょう、という話です。この文脈では、「和」は副次的なものだと思うのです。
 「十七条憲法」の中では、「礼」について言及している条文が別にございますので、それに対する副次的なものを最初に持ってくるのは、少し変な感じがします。・・・
 ここではやはり仏教の「和合僧(わごうそう)」ということも考える必要があるかと思います。
 和合僧の「僧」は「僧伽(さんが)」で、仏教の教団を表します。お坊さん一人一人も僧と言いますが、お坊さんの集団である教団も「僧」と呼んでいます。僧伽を意味する僧の中では、お坊さん同士が和合して協調し合いながら一所懸命修行しましょう、というのが「和合僧」の考え方です。
 例えばどういうところで「和」が言われるかというと、お坊さんたちはいろいろ議論するものですが、議論をしていて、もし一人でも反対する人がいれば、そのことについては決めないという決まりがあります。・・・
 第一条の後半では、「事を論(あげつ)らふ」ということを言っております。「事を論らふ」というのは何かというと、議論するということです。・・・
 「忖度する」とか「空気を読む」とか、そうして表面的な調和を保っていくというようなことではなく、十分議論したうえでみんなが納得して調和しましょうということを言っているわけなのです。・・・
 第一条で言っているように、人というのは「党(たむら)有り」で、要するにみんなそれぞれ、自分自身の党派性があるということです。利害関係があって、なかなか意見がまとまらないということは、聖徳太子もちゃんと分かっているのです。」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3768

⇒いや、「和を以て貴しとす」の「和」は、儒教の和でも仏教の和合/和合僧でもなく、私の言う人間主義、を宣明したものだろう。
 「注30」の冒頭の最初の段落、から、和=上和下睦、であるところ、=(私の言う)人間主義、と解することができる、と私は判断している。
 (ちなみに、十七条憲法の現代語訳は、ウィキペディアではなく、下掲を参照することを勧める。↓
https://intojapanwaraku.com/culture/10397/ )(太田)

 また、独断をやめ、必ず衆と論ずべしと説く第十七条は、詔を承けては必ず謹めという専制君主主義と矛盾する面もあるが、群臣の共議により大事を決定した歴史的事実<(注31)>や、その反映かと思われる八百万(やおよろず)の神の神集(かむつどい)の神話<(注32)>などにみられるような、古代日本の衆議の慣行から着想されたものであるかもしれない。

 (注31)「推古の死後、皇位継承をめぐっての紛争があ<り、>・・・大臣蘇我蝦夷の主導のもとに、皇位継承者を田村皇子(舒明)と山背大兄王とのいずれとするか、群臣(大夫)会議が開かれ<、>・・・はじめは意見の分かれていた群臣が、結局は田村皇子を推すことで合意し、それによって即位が決定した・・・。
 っここで注意したいことは、・・・この皇位継承者を決定する会議に、王族は一人も参加していないということである。・・・
 しかし、時代は下るが、持統朝においては、その会議に王族(皇子)<が>・・・参加していた・・・。
 舒明朝の段階と持統朝の段階とでは、明らかに王族のあり方に変化がみとめられるのである。」(篠川賢「律令制以前の王族–その国政参与に関して–(下)」より)
https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/164/164-03.pdf
 篠川賢(1950年~)。神奈川県生まれ。北大文(史学)卒、同大院博士課程単位取得満期退学。同大博士(文学)、成城大文芸学部助教授、教授、名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B7%9D%E8%B3%A2
 (注32)「平安時代の書物には既に、「神無月には諸国の神様が出雲に集まる」という記載があります。神様が旅立つのは出雲へ集まるため、と限定されたのです。
 神様の集合地が出雲と定まったのは何故か。どうやら出雲大社の御祭神大国主命(おおくにぬしのみこと)が神話の中で、「目に見えない世界の統治」を任されたことが最大の理由のようです。
 すなわち、目に見えない人間の縁や運命を司るのが大国主命であり、そのお膝元で会議をするために全国から神様が集まる、というわけです。こうした信仰はそもそも出雲独自のものとして発達したと考えられますが、やがて他所の神な月信仰と結びつき、融合し、神様はひと月出雲に滞在するという神無月・神在月の信仰が生まれ、全国に浸透したのでしょう。」
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2104/htmls/p04.html

⇒私は、第十七条は、東アジアにおける、漢人王朝の皇帝専制とも遊牧民王朝のクリルタイ的制度・・「王族および有力諸部族の首長・重臣たちからなる・・・最高の政治会議」・・とも異なる、王の群臣が最重要事項を会議で決定する群臣共議制を宣明したもの、と考える。
 念のためだが、十七条憲法は、「官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されて<いる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
ものである以上、天皇や皇族は憲法授与者であり憲法の対象ではないから、そういうことになる。
 (これが天武朝において、クリルタイ的制度へと堕落した後、桓武天皇構想に基づいて国家制度が意図的に荒廃化させられ、やがて封建制の時代となり、群臣共議制は幕末まで停止されることになる。)(太田)

 体制の構想としては、律令制国家への志向の先駆といえる命題を強くうち出しながらも、仏教の政治への奉仕を内容とする鎮護国家思想と異なり、人間の有限性の自覚を明らかにした内省を基調としつつ、仏教を為政者の心術として勧奨する十七条憲法は、大化改新以後の国家と仏教との結合につらなっておらず、むしろインドのアショーカ王の石刻詔勅<(注33)>やチベットのソンツェン=ガンポ王・・・の十六条法<(注34)>などの、哲人政治家の教誡に類似しており、強大な王朝確立期に、部族対立時代に見られなかった普遍的指導理念が表現されるという、世界思想史共通の現象の一例に数える見解もある。

 (注33)「紀元前3世紀にアショーカ王が石柱や摩崖(岩)などに刻ませた詔勅である。アショーカ王の法勅(ほうちょく)とも呼ぶ。現在のインド・ネパール・パキスタン・アフガニスタンに残る。
 王である自らが仏法を重んじ、動物の犠牲を減らすこと、薬草を備えたり木を植えるなどのつとめに励むことなどを記している。一般に対して要求する法としては、父母の言うことを聞き、師やバラモン・沙門を敬い、真実を語り、生き物を大切にするなど、ごく一般的な教えを述べている。また他の宗教を非難することを戒めている。・・・
 インダス文字を別にすれば、アショーカ王の法勅はインドに現存する文字資料のうちほぼ最古のものであり、言語学的・歴史的・宗教的な価値がきわめて大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B%E7%A2%91%E6%96%87
 碑文英訳
 THE FOURTEEN ROCK EDICTS
 1 ・・・ no living beings are to be slaughtered or offered in sacrifice.・・・
 2 ・・・Wherever medical herbs suitable for humans or animals are not available, I have had them imported and grown. Wherever medical roots or fruits are not available I have had them imported and grown. Along roads I have had wells dug and trees planted for the benefit of humans and animals.
 3 ・・・shall go on inspection tours every five years for the purpose of Dhamma instruction and also to conduct other business. Respect for mother and father is good, generosity to friends, acquaintances, relatives, Brahmans and ascetics is good, not killing living beings is good, moderation in spending and moderation in saving is good.・・・
 4 ・・・promotes restraint in the killing and harming of living beings, proper behavior towards relatives, Brahmans and ascetics, and respect for mother, father and elders・・・
 5 ・・・establishment of Dhamma・・・
 6 ・・・I consider the welfare of all to be my duty, and the root of this is exertion and the prompt despatch of business. There is no better work than promoting the welfare of all the people and whatever efforts I am making is to repay the debt I owe to all beings to assure their happiness in this life, and attain heaven in the next.・・・
 7 ・・・all religions should reside everywhere・・・
 8 ・・・institute・・・Dhamma tours.・・・
 9 ・・・ proper behavior towards servants and employees, respect for teachers, restraint towards living beings, and generosity towards ascetics and Brahmans.・・・
 10 ・・・respect Dhamma and practice Dhamma・・・
 11 ・・・proper behavior towards servants and employees, respect for mother and father, generosity to friends, companions, relations, Brahmans and ascetics, and not killing living beings. ・・・
 12 ・・・honor other religions・・・
 13 ・・・ may not consider making new conquests, or that if military conquests are made, that they be done with forbearance and light punishment, or better still, that they consider making conquest by Dhamma only・・・
 14 ・・・
https://www.cs.colostate.edu/~malaiya/ashoka.html
 「マウリヤ朝の第3代の・・・父王・・・ビンドゥサーラが病に倒れると、彼は長男スシーマ(スリランカの伝説ではスマナ)を後継者とするよう遺言したと言われている。しかしアショーカは急遽パータリプトラを目指して進軍し、スシーマと争ってこれを殺し他の異母兄弟の多くも殺して王座を手に入れたと言う。
 仏教の伝説では、アショーカは99人の兄弟を殺した。同じく仏典の記録によれば、彼は即位した後も即位の儀式を行う事が出来ず、更に大臣達も自分達の協力によってアショーカが王位に就く事が出来たのだと考え、アショーカを軽視したという。アショーカは大臣達が自分の命令に従わないことに怒り、500人の大臣を誅殺したと伝えられる。即位した後には、彼の通った所はすべて焼き払われ草木が一本も生えていない、といわれるほどの暴君だったが、あまりにも無残な戦争(カリンガ王国征服)を反省し仏教に深く帰依したとされる。
 だが、これは恐らく後世の仏教徒たちがアショーカ王の仏教改宗を劇的なものとするために殊更に改宗前の残虐非道を書き連ねたものと考えられる。アショーカ王時代の記録には彼の兄弟が何人も地方の総督の地位にあったことが記されており、少なくとも兄弟の殆どを殺害したという仏典の伝説とは一致しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
 「カリンガ戦争(・・・Kalinga War)は、古代インドにおいて、マガダ国マウリヤ朝のアショーカ王が、カリンガ国を征服するために行った戦争。侵略されたカリンガ国(主に現在のオリッサ州)が戦地となった。
 アショーカ王の祖父にあたるチャンドラグプタ王も、カリンガ国を征服する戦を起こしていたが、撃退されていた。父であるビンドゥサーラ王の死後の壮絶な後継者争いに勝利したのち、アショーカ王は、・・・カリンガ国併合へと動いた。アショーカ王の治世9年目に、戦争が始まった。・・・
 この戦争も凄惨を極め、戦場となったダヤー川の下流は、戦闘による人血によって真っ赤に染まったという。カリンガ国民は100,000人が死亡し、マウリヤ朝軍も10,000人の死者を出したとされる。戦後に刻まれたアショーカ王碑文によると、アショーカ王はこの戦いによって戦争の悲惨さを痛感したとされ、戦後に不殺生・不戦を誓い、より深く仏教に帰依した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%88%A6%E4%BA%89
 (注34)ソンツェン・ガンポ(Songsten Gampo。581~649年)。「チベット初の統一王国(吐蕃)を樹立し、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる。・・・
 ラサ南東のヤルルン地方の部族長ナムリ・ソンツェン(ティ・ルンツェン)の子として生まれる。
 13歳のときに父のナムリ・ソンツェンによって名目上の王に立てられたが、4年後に政敵によって父は毒殺される。ナムリ・ソンツェンの死後、ヤルルンに従属していたシャンシュン族とスムパ族、ヤルルン王家の親族であるコンポ、ニャンポ、タクポが独立を図った。ソンツェン・ガンポは苛烈な報復を行って支持を失い、608年にカム地方の家臣団が「附国」を称して独自に隋に朝貢した。
 翌609年に隋の煬帝の攻撃を受けた吐谷渾<(タングート)>の王の伏允が黄河上流域に逃げ込むと、・・・宰相のニャンの説得により、長年吐谷渾の攻撃に晒されていた東方のスムパ族のパイラン氏が吐蕃に臣従し、吐蕃・パイラン・吐谷渾に囲まれた附国は再び吐蕃に従属した。
 吐谷渾に対しては、620年以前に王女を嫁がせて接近し、・・・南のリッチャヴィ朝ネパールとは同盟を結び、平和が保たれる。
 ソンツェン・ガンポは唐を攻撃し、征服活動を行った。唐を圧迫し、唐王室より公主(皇族の女性)を貢女として送ることを強要した。634年唐は拒否して、ソンツェン・ガンポは怒って25万の大軍に唐の首都の攻撃を命じた。また、・・・吐谷渾を攻撃し、638年に唐の青海の松州まで征服した。吐蕃から攻撃を受けた唐は賠償金を支払った。また、青海以外に雲南、ビルマ北部、ネパールへも軍を派遣した。
 638年、ソンツェン・ガンポの子のグンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位する。唐は吐蕃の要求を受け入れ、640年(もしくは641年)にソンツェン・ガンポの妾として太宗の娘文成公主が貢女された。・・・
 ソンツェン・ガンポは唐の文成公主とともに、リッチャヴィ朝ネパールの有力者アンシュ・ヴァルマーの娘のチツン(ティツゥン、ブリクティー・デーヴィー)を<子のグンソン・グンツェンの妾>として迎え入れ<息子の死後、自分の妾にし>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9D
https://en.wikipedia.org/wiki/Songtsen_Gampo
 「ソンツェンガンポの十六浄人法
三宝を師として供養しなさい。
今生ならびに来世に利益のある正法を成しなさい。
父母の恩に報い、父母に奉仕しなさい。
功徳の有るものを勝れたものと見て敬いなさい。
勝れた種族や長老を敬い立てるべきである。
家族や友人と付きあう時は、慣れ慣れしくせず、堅固に付きあうべきである。
近隣の土地に住む隣人たちや劣った者たちにできるだけ役立つことをすべきである。
他人の言葉に左右されるのではなく、心をまっすぐに固くあるべきである。
外から見て上品に見える振舞いを見習うべきである。
馬鹿正直であったり策略深いという極端に陥いることなく生活できるようにせよ。
恩を受けたらそれを忘れず必ず恩返しをするように努めるべきである。
秤を使って商売する時でも誤魔化したりするべきではない。
親疎の区別をすることなく、他人の財産に嫉妬をするのをやめるべきである。
策略家や悪友の言葉を聞くべきではない。
穏やかな言葉遣いで他人の耳に心地よい話上手になるべきである。
仏法と政治の両方に努力を惜しまず志を広く高くもつべきである。」
https://www.mmba.jp/archives/9211
 ’Sixteen_pure_human_laws・・・said to have been issued by decree during the reign of Songtsen Gampo’
https://www.rigpawiki.org/index.php?title=Sixteen_pure_human_laws

⇒紀元前3世紀のアショーカ王(阿育王)も厩戸皇子の同世代人たるソンツェン・ガンポも、(アショーカの場合は誇張があるとしても、)悪逆非道を繰り返しつつ戦争に明け暮れた挙句、自身が仏罰から逃れるため、かつまた、臣民達の反逆を防止する、という功利的魂胆から、仏道実践を、自らに課すと共に臣民達に事実上強制するために、それぞれ、石刻詔勅と十六浄人方を発布した、と言えよう。(なお、ソンツェン・ガンポが十六浄人法を発布した確証はないことに注意。)
 他方、十七条憲法は、「第1回遣隋使での隋文帝の政治が未開だと改革を訓令されたものに応えた、603年(推古11年)小墾田宮<(注35)>新造、604年冠位十二階<(注36)>制定と同期の、政治改革の一環だとの・・・石井正敏<(注37)や>・・・榎本淳一<(注38)の>・・・指摘がある<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

 (注35)おはりだのみや。「603年(推古11年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。国家権力の中心地として築造し、遷宮したと考えられる。第1回遣隋使に、政治が未開状態だと隋文帝に改革を訓令された失敗から、政治改革を実現し、その後に第2回遣隋使と、それによる隋使の来訪と歓待を意識した宮の新造だと指摘されている。
 その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、603年(推古11年)冠位十二階の制定、604年(推古12年)十七条憲法の制定、607年(推古15年)第2回遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの原型と思われる。608年(推古16年)隋煬帝の勅使裴世清を迎えて、朝庭で隋国書の宣読と国書と国進物の進上儀式が行われた。数日後に宮で隋使饗宴が開催された・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A2%BE%E7%94%B0%E5%AE%AE
 (注36)「冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた<。>・・・
 天皇が臣下のそれぞれに冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表すものである。前代の氏姓制度と異なり、氏ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象にならない。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので、政治上の意義が大きかった。大化3年(647年)に七色十三階冠が制定され、翌大化4年(648年)4月1日に廃止されたが、その後もいくたびかの改変を経て律令制の位階制度となり、遺制は現代まで及ぶ。
 冠と結びつかないが同様に人に等級を付ける制度は高句麗・新羅・百済の官位があり、日本の冠位に先行している。同じ時代の隋・唐の官品には似ないが、より以前の漢代や南北朝時代の思想制度の影響が指摘される。
 制定の目的は『日本書紀』等に記されない。よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。
 氏姓制度の姓(カバネ)と比べたときの冠位の特徴は、姓が氏に対して授けられるのに対し、冠位は個人に授けられる点である。そして姓は世襲されるが、冠位は一身限りで世襲されない。また、それまでの氏はそれぞれ個別的に天皇への奉仕を誓っており、対等な氏に属する人を組み合わせて上司と部下という職務上の上下関係を結ばせるのは簡単ではなかった。冠位を媒介にすることで、官僚的な上下関係を納得させやすくする。場合によっては生れが賤しい者を生れが良い者の上に立たせることも可能になる。冠位は旧来の氏姓の貴賤を否定するものではないが、旧来の豪族を官人に脱皮させる上で大きな役割を果たした。
 外交では、高句麗・新羅・百済に類似した官人序列の制度があり、<支那>にも官品制度があった。こうした諸国との使者の応接に際しては、その使者の地位の高下や、応接する人の地位が気にかかる。この点官位はわかりやすい指標で、日本に同様のものがあればこれら諸国との交際に便があるだけでなく、日本も劣らず制度が整った国であるという対外的威容を備えることができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E
 「『三国史記』等の史書に官爵、位、秩、官階、官銜などと記され、日本の冠位・位階にあたる高句麗・百済・新羅の等級を、官位と呼ぶ。よって、朝鮮三国の官位と日本の官位は別物で、朝鮮三国の官位と日本の冠位(あるいは位階)が互いに相同である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E4%BD%8D
 (注37)1947~2015年。法大文(史学)卒、中大院博士課程単位修了、國學院第博士(歴史学)、中大文兼任嚆矢、東大資料編さじょ助手、助教授、中大文助教授、教授、没後名誉教授。「戦後の日本における渤海研究の第一人者」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%AD%A3%E6%95%8F
 (注38)東大文卒、同大博士(文学)。工学院大助教授、教授、立正大文学部歴史学科教授。
https://www.tais.ac.jp/chinavi/result/no-0097/
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000080245646/

 また、内容的にも、小墾田宮の造営的なことはどこにでもあるが、「冠位十二階」の制定、や、「十七条憲法」の制定、は、東アジアにおいて、他に例を見ない、日本独自のものだと、私としては、力説したい。
 (冠位十二階については、その軍事的意義を指摘(コラム#11164)しつつも、どうしてそのように考えたかについての説明を、これまで行っていなかったことに気付いた。
 その理由は、「冠の色の違いで身分の高下を表す」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E
必要など、平時においてはないからだ。
 というのも、平時に特定の職位に就いていた者が欠けたら、人事権者が、冠の色ならぬ、登録された冠位の者達の中から、当該職位に見合う冠位の者を新たにその職位に就ければいいだけだからだ。
 しかし、有事において特定の職位が欠け、直ちに誰かがその職位に就かなければならない場合がある。
 それは、戦争で指揮官が欠けた場合だ。
 そんな場合、人事権者が誰もその場にいないこともあり、いずれにせよ、登録された冠位の者達リストを参照することができない状況下で、指揮官候補が誰であるかが、特定の色のついた冠を被っているかどうかで分かり、しかも、その上下もまた色によって分かれば、そのうちの誰がその指揮官職位に就くべきかも直ちに分かる、というわけだ。
 理由として付け加えるべきは、冠位が女性には与えられなかった(コラム#11375)ことだ。
 時期的には、冠位十二階の時代ではなく、その後の官位(律令制)の時代のことだが、「日本の律令は唐の法体系を手本に作られたが、女官については彼我でまったく異なっていた。「唐の女官は後宮という隔絶した空間のなかで皇帝の『家』のために奉仕したが、日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部」だった・・・。・・・日本では村や共同体から宮廷、さらに国政に至るまで、マツリゴト(政治)に女性が関与してきた歴史は、律令が導入されるより古く、国家システムの基盤を担ってきた<の>だ。
 それゆえ日本の古代女官は、皇帝や国王に属す側妾(そくしょう)候補ではなく、結婚もタブー視されてはいなかった。それどころか、奈良時代には官僚のトップである大臣の妻が女官という夫婦は、ごく普通に見られた<のであり、>・・・日本に去勢した男性官吏である宦官(かんがん)がいなかったのも、もともと男女がともに働いていたため導入する理由がなかったから<だ。>」(水無田気流「伊集院 葉子『古代の女性官僚』書評」より)
https://book.asahi.com/article/11599185
は、やや筆が滑り気味とはいえ、日本の古代には女性の官僚もいたことは事実であり、にも拘わらず、彼女らに冠位が与えられなかったのは、彼女達が戦争に従事することがありえなかったからだ、というのが私の見方なのだ。)
 更にまた、「十七条憲法」については、仏教的倫理群・・政治最高権力者に求められる仏教的倫理群を含む・・を基本的には抽象的に宣明したに過ぎないアショーカ王の詔勅・・例えば、THE FOURTEEN ROCK EDICTS中の、Wherever medical herbs suitable for humans or animals are not available, I have had them imported and grown. Wherever medical roots or fruits are not available I have had them imported and grown. Along roads I have had wells dug and trees planted、だけは踏み込んだ具体的内容が記されているけれど、同王の、KALINGA ROCK EDICTS、MINOR ROCK EDICTS、THE SEVEN PILLAR EDICTS、THE MINOR PILLAR EDICTS、では、この薬草類の話は登場しないので、実行はなされなかったのではないかと思われ、また、街道沿いの井戸等の整備も書かれているけれど、そもそもそれは軍事目的であったと考えられる上、THE SEVEN PILLAR EDICTSの中でしか繰り返されていないので、重視されていなかったと思われる・・とは違って、官吏に対してあるべき公務姿勢を網羅的かつ具体的に列記しており、十七条憲法はアショーカ王の詔勅群とは全く性格が異なると言えよう。
 ちなみに、「<支那>の『北史』『後周書』の蘇綽<(注39)>伝にみえる六条詔書<(注40)>、北斉の五条の文<(注41)>に先例を求める学説や、燉煌本『十戒経』の十戒や『持身之品』のような俗経に暗示を得たのではないかとする推論もあ<る>・・・」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1948
が、六条詔書は、上位官たる刺史の下位官たる太守の業務に介入できる場合を列挙した「近代的」行政法にほかならず、やはり十七条憲法とは似て非なるものだ。(太田)

 (注39)蘇綽(そしゃく。498~546年)。「[北魏の実力者・・・<で>西魏<を>成立<させた>]宇文泰は強国富民の道を広めるべく、ときの政治の改革を志し、蘇綽もこれに協力した。官員を減らして、二長を置き、屯田を設けて軍事や国事の資本に充てた。また545年・・・には六条詔書の文案を作って、これを施行させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%B6%BD
 「宇文泰<(うぶんたい。505~556年)は、>・・・祖先は匈奴系の宇文部の族長であった。後漢末に宇文部は鮮卑連合部族に加わり、<北魏を立てた>。・・・
 宇文泰は内政面では李弼・独孤信らの<鮮卑、匈奴系の>人を軍中より抜擢<すると共に>、蘇綽らの漢人儒士を任用して農業の振興に力を注ぎ、均田制を復活させて租税の安定収入を図った。また公文書の書式を定め、朱と墨を用いた財政文書書式・・・、戸籍に基づく課役制度など<を>・・・確立<した>・・・。また後には六条詔書により地方官僚の倫理規定を定めてもいる。
 軍事面では<特定の家に対して永代の兵役義務を負わせる>府兵制
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6 >
を確立し、兵士の確保を容易にした。・・・また形式上は鮮卑の八部制を残したが、実際には軍を十二軍に再編して八柱国に統率させ、府兵制を創立して軍事力の増強に努めた。同時に北魏の孝文帝が奨励した鮮卑の漢化制度を取り止めて、鮮卑固有の文化に戻すために、鮮卑貴族の楊氏(隋)を普六茹氏、李氏(唐)を大野氏など、鮮卑姓に復姓させる政策を意欲的に定めた。
 また、徳治を統治の基礎とし、法治はその補助とする原則を追究した。文化的にも儒学を重んじ、捕虜の身であった漢人儒家の王褒や宗懍らを厚遇した。後に周礼によって官制改革を実施し、北周の六官制を実施した。要するに国号を周と名づけたように、古代の周の制度を北周の制度として積極的に奨励したのである。
 西魏の執政の座にあること二十余年で、府兵制など後の北周の基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%96%87%E6%B3%B0 ([]内も)
 (注40)「六条詔書<は、>・・・1つ目は、豪族が定めを越えて兼併を図ろうという時。2つ目は、太守<が>詔書の命令を守らず、私腹を肥やして民を苦しめている時。3つ目は、太守が裁判に情けをかけず、人を殺させるよう使嗾したり、怒りに任せて刑罰を決めたり、自分の気分で恩賞を与えたり、命令が煩雑で過酷だったりといった事で民に憎まれていて、天も警告を発している時。4つ目は、太守の部下の任用が不公平で自分のお気に入りを優遇している時。5つ目は、太守の子弟が太守の権勢を笠に着てい不正を働いている時。6つ目は、太守が公よりも私を優先し、豪族と癒着し賄賂が横行している時。
 ・・・上記の6項目以外の部分であれば本来は刺史が口を出すべきではない<、という内容だった>・・・。」
https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/05/24/000100
 「刺史(しし)は、・・・<当時、>州の長官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E5%8F%B2
 「太守(たいしゅ)は、・・・郡の長官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%88
 「秦の郡県制を継いだ漢では,地方行政権を握った郡の太守を監督するため,全国を13州に分かち,刺史 (しし) を設置した。後漢 (ごかん) 代には,州は郡県に対する上級行政機関として明確化され<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9E%E7%9C%8C%E5%88%B6-1335598
 (注41)「北斉<で>・・・五条詔書を諸州郡国の使人に班<(あか)>つ」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249746/1/shirin_047_1_68.pdf

という文章を見つけたが、それ以上のことは分からなかった。

 たとえば四天王寺<(注42)>経営の伝説はかかる理想実現の努力を語っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%A9%A2

 (注42)「四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。・・・
 聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。・・・
 伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園および薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA

 元来この寺は、書紀によると、仏教の流布に反対して亡ぼされた物部一族の領地領民をその経済的基礎としたものであるが、その当時の寺の組織として後代の縁起<(えんぎ)>の語るところによると、それは明らかに仏教の慈悲を社会的に具体化せんとする努力を示したものである。敬田院<(きょうでんいん)>には、救世観音<(くせかんのん)>を本尊とする金堂を中心に伽藍がある。ここに精神的な救いの手が民衆に向かってひろげられている。その北方には薬草の栽培、製薬、施薬等を事業とする施薬院<(注43)>、一切の男女の無縁の病者を寄宿せしめて「師長父母」のごとくに愛撫し療病することを事業とする療病院、貧窮の孤独、単己<(たんこ)>頼るなきものを寄宿せしめ日々眷顧<(けんこ)>して飢※(「飮のへん+曷」・・・)を救うを業とした悲田院<(注43)>などが付属する。

 (注43)<実在したことが確かなのは、>奈良時代に設置された令外官である庶民救済施設・薬園。「施」の字はなぜか読まれないことが多く、中世以降は主に「やくいん」と呼ばれた。
 ・・・730[(723年)]年・・・、光明皇后の発願により、[興福寺に]悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を無料で貧民に施した。東大寺正倉院所蔵の人参や桂心などの薬草も供されている。また、光明皇后自ら病人の看護を行ったとの伝説も残る。
 光明皇后崩御の後は知院事2名が置かれ、平安京へ遷都後も、施薬院は五条室町近くに移されて続行し、山城国乙訓郡に施薬院用の薬園が設けられた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2
 (注44)<実在したことが確かなものに関し、>興福寺の施薬院・悲田院と、光明皇后の皇后宮職に設置された施薬院・悲田院とを同一の施設とみる説と、両者は別個に設置されたものとみる説とがある。
 また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された[要出典]。
 平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた。
 鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E7%94%B0%E9%99%A2
 「唐ではすでに悲田院が設置されて活動していた.名称を悲田院としたのはわが国では全く縁由のない称呼であり,またこの院名では,その内容を知ることができないにもかかわらず,このような名称を用いたのは,唐の名称によったからであり,唐ではその長官に「使」を用い,わが国でも長官に「使」を用いていることなどを総合して考えれば,この制度は唐の開元の制をモデルとしたものであることは明らかである.これらには仏教の福田思想,善行,因果応報の思想がある。」
http://jsmh.umin.jp/journal/57-3/57-3_371-372.pdf

 これらはまことに嘆賞すべき慈悲の実行である。我々はこの伝説がどの程度に事実を伝えているかを知らないが、しかし四天王寺にこの種の施設のあったことが確実であり、そうして他にその創設の伝承がないとすれば、我々は暫しばらくそれを信じてよいであろう。

⇒「聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初<の>・・・悲田院<である>・・・とする伝承があ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E7%94%B0%E9%99%A2
わけだが、悲田院的なものを含め、福祉施設は隋代にはなく、唐には悲田院、療病院、施薬院、からなる秘伝養病坊があった、
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj02PXLo7uBAxUGsVYBHWR6AaQQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Fstars.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D146%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0P1DY02kQITl_pQYAU1mxp&opi=89978449
ところ、唐のものに倣ったとした方が、天武朝においては受け入れられ易いことから、光明皇后がそのような説明を行って再興することに成功し、厩戸皇子がかつて設置して廃れていたらしい福祉施設は、後付けで、隋のものに倣った、とした上で、唐や光明皇后が作ったものと同じ名称と役割だったということにした、と想像される。
 いずれにせよ、厩戸皇子が四天王寺に何らかの福祉施設を作ったことは事実だったのであろう、とも。
 その上でだが、厩戸皇子を評価すべきところは、漢の時代にはあった国設福祉施設が、南北朝時代の北朝系の諸王朝にも、その後継たる隋にもなく、南朝系の諸王朝においても、斉と梁にしかなかったようである(上掲)のに、国設福祉施設を設けたことだ。(太田) 

 かかる努力にこそまさに当時の政治の意義が見いだされるのである。

⇒ここは、和辻の言う通りだと思う。
 補足的に付け加えれば、以前に記したことがある(コラム#省略)けれど、仁徳天皇の事績は、人間主義的統治(道徳的理想の実現を目的とする統治)が厩戸皇子の時代よりはるか前から日本にあったことを示している。
 なお、「津田左右吉は、仁徳天皇の仁政記事は、史記の堯・舜・禹の伝説をもとにして書かれたものであり、史実ではないと指摘して、津田事件に発展した<し、>直木孝次郎も、<支那>の史書をもとに創作された記事で、王朝の初めに聖天子が現れるという思想をもとに書かれたものであり史実ではないとしている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、栗原薫は、『大化前代の紀年(三)』(1982年)の中で、「『日本書紀』仁徳紀4年に、仁徳天皇が高楼にのぼって民の煙の少いのを見て、民の窮乏を察して3年の課役を免じたとあるが、仁徳紀に理由は書かれていない。しかし仁徳4年は丙子で、これを辛酉起点半年一年の紀年とすると、その通常紀年は戊戌、すなわち、398年となる。398年は『好太王碑』によると、倭・高句麗戦争がはじまった399年の前年にあたる。したがって、倭は対高句麗戦のために大規模な軍事動員をはじめたので、家々に働きざかりの男子がいなくなり、労働力が不足し薪を十分取りに行く事が出来なくなり、民の竈に煙がたたなくなった。3年の課役免除は、大規模な出兵の続いている間の不急不要の工事・行事を停止し、それによって浮いた課役を免除したものであり、その後、3年の課役免除は6年にもわたり、課役が復活して宮室が構築されはじめたのは仁徳10年に至ってであり、仁徳10年は壬午で、その通常紀年は辛丑401年であり、この年、朝鮮半島事情が好転したため、大規模な動員解除が行われ、課役復活が可能となった。『資治通鑑』によると、399年、高句麗宥和政策をとっていた後燕の慕容宝が死亡し、400年に慕容盛は、高句麗王が後燕に対する仕えが惰慢なので、兵3万をひきいて襲い、新城と南蘇の二城を抜き、領土をひろげ、5千余戸の人民を、後燕の旧領内に移しており、昔日の勢威はないにしても後燕が背後より高句麗をついたので、倭にとって朝鮮半島情勢が好転し、かなりの動員解除が可能になったとする見解」を記しており(前掲)、仁徳天皇の仁政記事は事実であった可能性を指摘している。
 もっとも、仮にこれが事実だとすると、半島遠征軍は自活を強いられたことになるわけであり、高句麗に敗北したのはそのためだったということにもなりかねないが・・。
 とまれ、これが事実だったとすると、支那において、漢代には大規模災害発生時の税の免除制度があったものの、南北朝時代、隋代にはそれがなくなり、ようやく、唐の時代に税の減免制度という形で復活した
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj02PXLo7uBAxUGsVYBHWR6AaQQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Fstars.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D146%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0P1DY02kQITl_pQYAU1mxp&opi=89978449 前掲
ところ、まさに、南北朝時代真っ最中の時代に、仁徳天皇が、何年にもわたる税の免除を行ったことになり、偉業である、と、言うべきだろう。(太田)


[欧米と日本の社会福祉]

一 欧米

 「社会福祉の起源は、1601年にイギリスで制定されたエリザベス救貧法であるとされており、世界で最初に福祉国家を打ち立てたのもイギリスである。」
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Report%20on%20Economic%20Thought%202000-3.htm
「この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所・刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。・・・
 20世紀の戦間期、特に世界恐慌の余波を受けて福祉制度が充実された。これをひとつの契機に、イギリスで社会主義思想が大きく支持を集めて労働党が躍進した。救貧法が最終的に廃止されるのは、労働党が政権を担った戦後、アトリー政権での1948年の国民生活扶助法成立によってであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%B2%A7%E6%B3%95

二 日本

 「恤救規則(じゅっきゅうきそく)は、1874年から1931年までの日本にあった法令である。・・・
 救済は家族および親族、ならびに近隣による扶養や相互扶助にて行うべきであるとし、どうしても放置できない「無告の窮民」(身寄りのない貧困者)だけはやむをえずこの規則により国庫で救済してよいとされた。
 救済対象者は極貧者、老衰者、廃疾者、孤児等で、救済方法は米代を支給した。・・・
 恤救規則は1929年(昭和4年)の救護法、戦後1950年(昭和25年)の生活保護法へ引き継がれることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A4%E6%95%91%E8%A6%8F%E5%89%87

⇒欧米をイギリスで代表させるのはかなり乱暴な上、要約し過ぎていて恐縮ながら、イギリスの社会福祉が日本を凌駕していたのは、戦間期から戦後のしばらくの間だけであり、それ以後はもとより、それ以前においても、日本が一貫してイギリスを凌駕していた、と言えそうでは?(太田)

 しかしながら推古時代における政治的理想はなお十分に実現の力を伴なわなかった。それは大化の改新においてきわめて現実的な実現の努力となって現われ、天武朝より天平時代へかけて現実的と理想的との渾融せる実現の努力となって現われたのである。すなわち大化の改新においては主として社会的経済的制度の革新として、天武朝より天平時代へかけては精神的文化の力強い創造として。・・・
 白鳳天平の仏菩薩像は、嬰児の美を生かせる点において決して原本的であるとは言えぬが、しかもそれを純粋に生かせ、それを強調し、そこから特殊な美を造り出した点において実に唯一だと見られてよい。これらの彫刻家は、嬰児の美から仏菩薩を造り出すという全過程を自分でやったのではないかも知れぬ。彼らはすでにこの方向に高い程度において完成せられた彫像をうけ入れ、それに追随し、それによって準備を整えたであろう。が、最後の一着手は、――すなわちこの完成せる様式を踏襲しつつその中の一つの特殊点を、嬰児の美を、強調することは、――彼の原本的な創作心においてなし遂げられたのである。それは一方から見れば、唐の彫像の有する豊かな美を狭め、従って芸術を小さくすることにもなるであろう。しかし他方から見れば、それは仏菩薩の表現としての芸術を最も純粋に、最も目的に近く、押し進めたのである。この仕事は造像の全技巧から見れば、ただわずかの部分的な変更に過ぎぬかも知れぬが、しかし作品に実現された統一は、このわずかの変更のゆえに、著しくその質を変ずるのである。これによって我々は、様式の上からは全然区別することのできない、そうして実際上には印象を異にする唐の彫像と白鳳天平の彫像との間の、真実の差違を理解し得ようかと思う。・・・
 仏教美術と『万葉』の歌とがともに同一の精神生活の表現であり、従って当時の仏教美術が単なる模造品複製品のごときものでないという事は幾分明らかになると思う。
 最後に一言断わっておきたいのは、仏教美術なるものが当時の人々にとっては礼拝の対象だったことである。彼らは事実上には仏像に対して美的受用の態度にあった。しかし彼ら自らはそれを美的受用とは解しなかった。それに反して花鳥風月のごとき自然の美に対しては彼らのとる態度が美的受用である事を自ら意識していた。従って歌は彼らにとっても芸術であった。この区別を閑却してはならない。寺塔や仏像の芸術的な美しさを彼らが歌わなかったのは、この区別が彼らの心を縛っていたからであろう。宗教的情緒の領域と叙情詩の領域とが截然区別されるということは別に不思議なことではない。・・・」

⇒言葉の綾的な部分を度外視すれば、要するに、和辻は、厩戸皇太子の時代から中大兄皇子/天智天皇時代へ、そして、天武朝時代へ、と、次第に政治的文化的に進歩して行った、と、主張しているわけだが、当時の日本史学の水準からして限界があったとはいえ、天武朝時代における政治的文化的な退行を全く感じ取っていなかった、のは残念であると言うべきか。(太田)


[百済仏教と厩戸皇子の仏教]

一 百済仏教

 「三国の中で高句麗の次に仏教が伝えられた国は、百済である。第15代枕流王元年 (384)に、摩羅難陀が東晋から仏教を初めて伝え、翌年漢山に寺を建て10人の僧侶を置いたとある。
 以後、『三国遺事』には、阿莘王<(注45)>が百姓たちに「仏法を信じ福を求めよ」と言ったとあり、仏教が当時の王室の主導のもと国家の平安と発展を祈る護国仏教の性格を持っていたことがわかる。

 (注45)阿莘王(あしんおう。?~405年。百済王:392~405年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%8E%98%E7%8E%8B

 聖王<(注46)>四年 (526)に は謙益が中インドに渡って、五分律などを翻訳し、曇旭 、恵仁は律疏三十六巻を書いた。

 (注46)?~554年。百済王:523~554年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%8E%8B_(%E7%99%BE%E6%B8%88)

⇒調べがつかなかったが、そんなことができるのなら、梁に仏教について教えを乞う↓必要などないとも思われるところ、何かの間違いでは?(太田)

 以後、聖三十九年 (541)に 梁に使臣を派遣し、毛詩博士と『涅槃経』などの注釈書とともに工匠・画師などを招請し、梁武帝がこれを聞き入れたとする。
 このような事実からみて、聖王以後の百済仏教は、戒律主義的な傾向を持っていたものと看取される。

⇒「梁の武帝の仏教思想の中心は、般若経と涅槃経であるが、最も深く傾倒したのは涅槃仏性であり、それは、<支那の>江南で盛んだった涅槃学派の影響をうけており、529年の武帝の捨身では、同泰寺で涅槃経を講じた。したがって、百済が「涅槃等の経義」の下賜を梁に申請したことは、南朝仏教の動向を的確に把握した武帝の思想をみきわめた措置である。」(上掲)というわけだが、「涅槃宗<が>・・・隋代の天台宗の勃興などにおされ衰退し<、>天台宗に併合されたのは、当時の涅槃宗が教理教学の研究だけに終始し実践を伴わないものになってしまって<いたところ>へ<、>当時の仏教界において教学面と実践面の両面を備えた、天台大師智顗<(ちぎ。538~597年)>が登場し、当時としては革新的及び論理的な教理教学を打ちたて、法華一乗を唱えたためであると推察されている。・・・
 天台大師智顗は、涅槃経より法華経が優れていると判じた。その論は以下の<通り>。・・・涅槃経は法華経の説を重ねて追って述べたもの。・・・涅槃経は法華経の救いに漏れた機根の低い衆生のための教えである。・・・涅槃経は仏滅後にお<いて>・・・戒律を守るよう扶(たす)けただけの方便の教えである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83%E5%AE%97
 「百済は、武王4年(603)に 金銅弥勒 菩薩像を日本に送ったが、 当時の聖徳太子は臣下泰川勝にそれを贈った。彼が蜂岡寺(広隆寺)を建立してその仏像を奉安したのであるが、その像は恭敬尊す る人々に願いごとを叶えてくれたという霊験談の不思議な話しが伝えられている。
 百済仏教に対しては、早くから戒律的性格が強調されていたが、これは当時流行った弥勒信仰 と密接な関わりがあると思われる。
 弥勒信仰は十善戒を中心とする持戒を強調する信仰である。弥勒上生信仰において、兜率天に往 生するために持戒の重要性を強調している。下生信仰においても人々は十善戒<(注47)>をまもり、心性と品性を備えると弥勒仏が出現するという。

 (注47)「『十地経』(『華厳経』十地品)第二「菩薩住離垢地」で勧められる、菩薩・・・比丘・・・としてなすべき十の良いことをすることの戒め。
身業
不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。※
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。※※
口業
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
意業
不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん) (因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%96%84%E6%88%92
 「在家信者が守るべき基本的な五つの戒(シーラ)・・・
 不殺生戒・・・不偸盗戒・・・不邪淫戒・・・不妄語戒・・・不飲酒戒」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%88%92
 「八斎戒(はっさいかい)とは、仏教における戒律のひとつで、在家の信徒がある特定の日に、出家生活にならって一日だけ守るべき8つの生活規則のことである。・・・
 不殺生戒・・・不偸盗戒・・・不淫戒・・・不妄語戒・・・不飲酒戒・・・正午以降は食事をしない。(不得過日中食戒)・・・歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。(不得歌舞作楽塗身香油戒)・・・地面に敷いた臥具だけを用い、贅沢な寝具や座具でくつろがない。(不得坐高広大床戒)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%96%8E%E6%88%92

 また弥勒仏が出現して竜華三会の説法の時、この竜華三会に参加する為には、衆生が戒律を守り実践しなければならない。
 百済仏教は東晋から伝わったのであるが、当時、東晋仏教は戒律に厳しく、戒律を重要視したのは社会的に重要な意味を持っている。
 すなわち、当時の仏教徒においては戒律をよく守る者が一般庶民から尊敬され<た>。」(金永晃「弥勒仏信仰と仏像-韓国古代弥勒信仰を中心に-」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bukkyobunka1992/2008/16/2008_16_l1/_pdf/-char/ja
 「注47」からは、出家は不邪淫でよいのかそれとも不淫でなければならないのか、判断できないが、ことほどさように、仏教を解説する諸文献は緻密ではない印象を受けるが、そのことはさておき、少なくとも、厩戸皇子<(574~622年)>は、(上生であれ下生であれ)弥勒信仰にも、従って持戒を強調する信仰にも、(従ってまた、持戒が身上である出家にも、)距離を置いていたことが感じ取れる。
 なお、厩戸皇子は、唐の時代に登場することになる華厳宗もその実質的創始者である法蔵(コラム#13684)も知る由がなかったこともあり、華厳経にも注目していなかったようだ。(太田)

 しかし、王室をはじめとする貴族的文化を発展させた戒律主義は、大衆的な展開をみることはなかった。すなわち、百済仏教は律令制度の確立に寄与し、貴族層によって洗練された文化を発展させたが、その文化能力を他の階層に拡散させることには成功しなかった。
 以後、新しい文化運動が起きるが、これは弥勒上生信仰を下生信仰化して仏教の大衆化を企図するものであった。弥勒寺はこれを代表するが、百済仏教の大衆化は大衆的な文化階層を包容しながら展開したのではなく、結局貴族文化を大衆に伝播させるに留まったといえる。 また、あくまで貴族文化を基盤としたため、武王が追求した仏教の伝播は一代限りで終わったものとみられる。」(金哲主・卓京柏「韓日古代寺院の整備方法研究–6~8世紀の寺院を中心に–」より)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/7576/1/BA86039590_1_363_396.pdf

⇒厩戸皇子の仏教理解は、皇子の当時までの支那における南北朝や隋、更には朝鮮半島におけるところの、仏教を重視した諸君主、のレベル・・極端に言えば、鎮護国家を含むところの、公私の現世利益を追求するための手段視していた・・をはるかに超えており、一世代しか違いがない智顗の謦咳に直接接したかのような高いレベルだと言えそうであって、後世、「聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 – 577年)の生まれ変わりであるとする・・・説」が日本で唱えられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
のもむべなるかなだ。
 (石井公成は、「経典の講義をしたり注釈を書いたりするほど仏教に打ち込み、菩薩天子と称された梁の武帝(注48)(在位502~549)のことを、太子は模範として仰いでいたらしい」と指摘している
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20210421-001.html
が、そんなことはありえまい。
 
 (注48)蕭衍(464~549年。梁皇帝:502~549年)。「雍州刺史であった時、暴政を敷いていた・・・斉<の>・・・皇帝蕭宝巻が蕭衍の長兄の蕭懿(次兄の蕭敷は早世)を誅殺したこともあり、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏・蕭偉・蕭恢とともに蕭宝融(和帝)を奉じて、皇帝打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて蕭宝巻を弑した。彼が代わって擁立した和帝から禅譲を受けて天監元年(502年)に帝位に即き、南朝梁を興した。
 治世<初期>・・・の武帝は、・・・主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約を奨励して、官制の整備、梁律の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げた。また、土断法を実施し、流民対策でも有効的な施策を実施した。
 ・・・520年・・・に改元した。それ以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めた。
 ついには・・・527年・・・以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また・・・寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。
 ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。・・・
 527年)には曹仲宗・韋放・陳慶之らに北伐を命じ、北魏の大軍に勝利した。・・・529年・・・、北魏の北海王である元顥が南朝梁に亡命してきたため、陳慶之に彼を北魏に送るよう命じ、陳慶之は7000人の寡兵で洛陽を陥落することに成功した。すぐに北魏の爾朱栄に洛陽を取り返されたが、これは南朝で最後の北伐成功(洛陽・長安の二都のどちらかを奪還)になる。・・・
 548年・・・、東魏の武将侯景が南朝梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしまう。
 その後、武帝は侯景に軍を保持したまま南朝梁に投降することを許可するが、やがて侯景は南朝梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし、都城の建康を包囲した。・・・
 侯景は、・・・奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。・・・
 3日のうちに侯景軍の兵力は激増し、・・・549年・・・3月、・・・ついに城は陥落した。・・・
 侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。蜜を求めたが与えられず、飢えと渇きの中で死んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E8%A1%8D

 「注48」のように、苛斂誅求、軍人軽視にして恣意的な人事、軍の弱体化、冒険主義的戦争、の結果、拘束下で死亡し、自分の建てた王朝を一代で実質的に滅亡させてしまった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E5%8D%97%E6%9C%9D) 及び上掲
ような人物を、皇子が「模範として仰いでい」たはずがなかろう。)(太田)

二 厩戸皇子の仏教

 厩戸皇子の仏教理解のレベルの高さが如実に表れているのが、604年皇子作成とされる十七条憲法の第二条だ。↓

 書き下し文:「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。」
 要旨:「仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬え。仏法は四生(生物)が最終的に帰する処であり、万国にとっての究極の宗教である。いつの時代の誰であろうと仏法を尊べないような者はいない。世の中、極悪人は少なく、大抵は教えによって従えることができるが、三宝(仏教)に依らなければ、曲がった心を直すことはできない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

⇒実は、上掲には、「現代語訳」というのも載っているのだが、出来が悪く、他方、「要旨」は出来が良いところの、事実上のもう一つの現代語訳であることから、第二条に関しては、そちらの方を採用した。
 ここで、大切なのは、別のサイトの筆者のように、「篤く仏教を信仰せよ。仏教はあらゆる生きものの最後に帰するところ、すべての国々の仰ぐ究極のよりどころである。どのような時代のどのような人々でも、この法をあがめないことがあろうか。心底からの悪人はまれであり、よく教え諭せば必ず従わせることができる。仏教に帰依しないで、どうしてよこしまな心を正すことができよう。」
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/10397/
といった具合に現代語訳して欲しくないことだ。
 厩戸皇子は、仏教徒になれと言っているのではなく、倫理の根本を突き止め、それを追求しているところの仏教に敬意を持て、と言っているのだ。
 その倫理の根本とは、利他行(人間主義的実践)だ。
 皇子著とされる、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、「『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称で<、>・・・それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書(義疏、注疏)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
ところ、『法華経』が利他行を勧めている(コラム#省略)ことについては改めて説明の要はなかろうが、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、「勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)は、古代インドの在家仏教徒<にして>舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(はしのくおう)と彼の妃ある末利夫人(まりぶにん、マッリカー夫人)との娘<で>阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃<であるところ、>・・・彼女もそれに応え誓願と説法を述べた<とされ、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%AC%98%E5%A4%AB%E4%BA%BA
「世尊よ、今後、私は自分自身の享楽のために財産を蓄えることはいたしません。ただ、世尊よ、貧乏で苦しんだり、身寄りのない衆生を成熟させるためには、大いに蓄えたいと思います。世尊よ、この第六の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。
 世尊よ、今後、私は(布施と愛語と利行と同事という)四つの人をひきつけること(四摂事)によって、衆生たちのために役に立ちたいと望みます。(けっして)、自分のために利益を求めて衆生たちをひきつけるのではありません。ただ、世尊よ、無雑念、無倦怠、不退転の心をもって、衆生たちを暖かく包容しようと望みます。世尊よ、この第七の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。
 世尊よ、今後、私は身寄りのないもの、牢につながれたもの、捕縛されたもの、病気で苦しむもの、思い悩むもの、貧しきもの、困窮者、大厄にあった衆生たちを見たならば、彼らを助けずには、一歩たりとも見捨てて行ってしまったりいたしません。世尊よ、私がそのような苦しみに悩む衆生たちを見たならば、それらの苦しみから逃れさせるために、財産の蓄えをもって(彼らの救助を)成就してのちはじめて、私は身を引くでしょう。世尊よ、この第八の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%AC%98%E7%B5%8C
といった具合に、利他行を推奨している。
 なお、『維摩<(注49)>経』については、「『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている<(注50)ことと、>・・・『日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』と『法華経』を講じたという記事があること」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
「35歳条<(609年)>に、勝鬘経を推古天皇の御前で講讃<したこと>」
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1666
から、私は、皇子の真撰(著作)ではなく、後世に、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』の体裁、文体等を模して、(女性在家のための経典と対になるところの、男性在家のための経典、という着意から)作られたものである、と、見ている。

 (注49)維摩居士(ヴィマラ・キールティ)。「文殊が「菩薩云何通達佛道(どうしたら仏道を成ずることができるか)」と問うと、維摩は「若菩薩行於非道、是為通達佛道(非道・・貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと・・を行ぜよ・・「非道を行ず」でなく「非道を行く」と読み下すべきであるという指摘があ<り、>・・・この場合、「非道を行う」というより「道を外れた進路を進む」という意味となる<。>・・)」と答えた。次に文殊が「云何菩薩行於非道(菩薩は非道をどのように行ずるのか)」と問うと、維摩は「若菩薩行五無間而無惱恚(もし菩薩、五無間・・無間地獄に入るべき五つの罪悪・・を行ずれども、悩恚・・悩みと瞋り・・無し)」「示有妻妾采女而常遠離五欲淤泥(妻妾、采女・・女奴隷・・有ることを示せども、常に五欲・・色声香味触・・の汚泥を遠離す)」等と答える。彼の真意は「非道を行じているように見えても、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E5%B1%85%E5%A3%AB
 (注50)「三経が摺経として印刷されたのは、鎌倉時代の宝治元年(1247)に法隆寺で開版された「法隆寺版」(出版史において「寺院版」と総称される古い出版物の一つ)が最初で、これは聖徳太子自筆の書体を写したものと言われています。」
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/collection/features/digital_showcase/054/02/index.html

 皇子が『法華義疏』を書いた理由は改めて記す必要はなかろうが、『勝鬘経義疏』については、『勝鬘経』の講義を推古天皇に行ったのは、「仏教において,古来より女性は五障の一つとして,女性のままでは悟りを開けず (成仏できない) ,いったん男性に生れ変ってのちに初めて悟りを開きうるという考え。男性に生れ変ることを変成男子 (へんじょうなんし) といい,『無量寿経』や『法華経』などにこの考え方が現れている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E4%BA%BA%E6%88%90%E4%BB%8F-110685
ことについて、推古天皇から質問があり、それに答えた際の備忘録的なものを、答弁後にこの答弁に立ち会った関係者が皇子の監修の下に作成したものが伝えられたのではなかろうか。
 それに対し、『維摩経義疏』については、皇子の存命中には執筆したり講じたりする機会がなかったものを、608年に遣隋使として隋に派遣され、622年の皇子の死後の632年に唐から帰国した旻、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%BB
640年に唐から帰国した高向玄理と南渕請安
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86
らが、609年に2度目の帰国を果たしていたところの、遣隋使使者、小野妹子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90
が存命であれば、645年の大化の改新後、舒明天皇とその子の中大兄皇子の了解をとった上で、藤原鎌足(注51)が指示し、小野妹子をプロジェクトリーダーとして、聖徳太子コンセンサス(初出コラム#11164)の最重点である日本の弥生性の強化を仏教の観点から「擁護」させるべく、生前、皇子が注目していた『維摩経』(注52)の義疏を作成させた、と、見たらどうだろうか。

 (注51)「維摩会<(ゆいまえ)は、>・・・維摩経を講ずる法会。・・・藤原鎌足・・・が斉明天皇三年(六五七)に陶原(すえはら)の家に精舎をたてて、その翌年に行なったことに始まる。もとは・・・山階寺(やましなでら)<、すなわち、>・・・興福寺に限らず、また藤原氏とも特別な関係はなかったが、藤原氏一族の法会として興福寺に移されたのは和銅七年(七一四)で、・・・八〇一・・・以後は勅会(ちょくえ)となり、その講師を勤めることは僧綱となるための重要な関門ともなった。南京三会(なんきょうさんえ)の一つ。・・・
 陰暦一〇月一〇日から藤原鎌足の忌日である一六日まで行なわれた<。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E4%BC%9A-144570
 (注52)「そのサンスクリット原典の写本が、二十世紀末に発見された。」
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E7%89%88%E5%85%A8%E8%A8%B3-%E7%B6%AD%E6%91%A9%E7%B5%8C-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A4%8D%E6%9C%A8/dp/4044004870
 「この経のなかの「絶対平等の境地」(入不二法門(にゅうふにほうもん))を説いた第9章は、後世とりわけ注目され、有名である。絶対平等の境地は、ことばもなく、説くことも示すことも認知することもできない境地のことである、と自らの見解を述べたうえで、維摩の考えを問うた文殊菩薩に対して、維摩は黙然として語らなかった、という。ことばによって真理を説くことは、たとえそれがどのように巧妙なものであっても、つねに一つの説明でしかないわけであり、あらゆる対立を超えた絶対平等の境地を偏向なく示しえない。維摩の沈黙はこうしたことをみごとに語っているのであり、それだけに注目されるところとなったのであろう。『維摩経』は空を説いて、とらわれを捨てることを教える経であるが、その本旨は、とらわれを捨てるというそのことが身をもってなされねばならないことを強く訴えようとするところにある。・・・
 在家(ざいけ)主義の立場にたって・・・在俗信者の維摩が,教義にのみとらわれている僧の蒙をひらいていくという形で,般若皆空を説く。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E7%B5%8C-144571
 「出家者を中心に形骸化・硬直化が進んでいた紀元前後のインド仏教界。そこに風穴を開けようと、リベラルな在家仏教者が起こしたのが「大乗仏教」のムーブメントだ。「維摩経」の主人公・維摩居士は、それを体現するような人物。都市に住む一市民で、俗世間の汚れの中にありながらも決してその汚れにそまらない。・・・
 自分より他人を先とし、この世に苦しむ人が一人でもいる間はその汚れた世界にとどまり続け、自分だけが悟りの境地を目指さないという菩薩の生き方が象徴的に示されている。・・・
 「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと」「すべては関係性によって成立しており、実体はない」「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ」。維摩の主張には、既存仏教の枠組みさえ解体しかねない破壊力があります。それどころか、現代人の私たちがつい陥りがちな「役に立つ・役に立たない」「損・得」「敵・味方」「仕事・遊び」「公的・私的」のように、全てを二項対立で考えてしまう思考法をことごとく粉砕します。その結果、全てを引き受け苦悩の世の中を生き抜く覚悟へと私たちを導いてくれるのです。」
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/66_yuimakyo/index.html

 つまり、『維摩経義疏』は、人は在家のままで出家する必要など必ずしもないし、ぶっちゃけ言えば、その人が弥生性を発揮して、脅迫、欺罔、暴行、傷害、殺人をやらかしたとしても、社会性や他者性を重視し、社会のため、他者のためにやらかしたのであれば、気にすることはなく、咎められることではない、ということを、(私の言うところの、)将来日本に輩出されるであろうところの、縄文的弥生人(武士)、に言い聞かせるために、私の言う聖徳太子コンセンサスを開示されていた、というか、形成した、と、推察されるところの、中大兄皇子と藤原鎌足、の監修の下で厩戸皇子に仮託されて書かれた、と、私は見たいわけだ。(太田)

 「・・・問題になるのは、この憲法の中に敬神のことが掲げて無いことである。しかし敬神のことについては<十七条>憲法制定の後三年、推古十五年に詔を下して、今朕が世に当つて、神祇を祭祀ること堂に怠りあらんや、と仰せられ、やがて皇太子及び大臣が百僚を率いて以て神舐を祭り拝みたもうたということが日本紀に見えている。決して神舐の祭祀をおろそかにせられたわけではない。従ってここに神祇崇敬のことが見えないのは、憲法十七条は当時の朝臣等に与えられた訓戒であつて、敬神のごときは余りにも広く普通に行われていることであり、ことさらにこれを喩す必要がなかつたのではあるまいかといわれる。・・・
 自覚されない主体としての神道・・・
 古代日本人の考え方は極めて寛容であつて、「あれか、これか」と対決して二者択一を迫るという風でなく、むしろ「あれも、これも」とそのままに受容して時をかけてお互いに話し合い納得した上で和合してゆくというあり方をとつたものと思う。・・・
 十七条に神道が説かれていないことにこそ、却つて神道の本領を見得るのではあるまいか。」(藤田清「習合思想から見た憲法十七条」より)
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC28%E5%B7%BB%E7%AC%AC1%E5%8F%B7/Vol.28%20,%20No.1(1979)073%E8%97%A4%E7%94%B0%20%E6%B8%85%E3%80%8C%E7%BF%92%E5%90%88%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E3%80%8D.pdf
 藤田清(1907年~)、仏教学者。それ以外は不詳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%B8%85

⇒厩戸皇子の神道に対する姿勢は藤田の言う通りではなかろうか。
 そもそも、神道には教義がない(コラム#省略)のだから、当然、十七条憲法が表現の上において拠っているところの、仏教や儒教や法家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

とは違って、神道において拠るべき倫理的文言を見出すことなど不可能なのであるし・・。(太田)


[維摩経について]

 以下、植木雅俊訳・解説『サンスクリット版全訳 現代語訳 維摩経』(コラム#13051)(角川ソフィア文庫)からだ。
 (亡き父の蔵書に大正11年発行の、岩野眞雄(注53)訳著『現代意譯 維摩経經 解深密經』(佛敎經典叢書刊行會)があるが、今まで・・恐らく父自身も・・読んでいなかった。

 (注53)いわのしんゆう(1893~1968年)。「東京・三ノ輪の浄閑寺に長男として生まれる。仏教学研鑚に励み、渡辺海旭に師事。大正15年東京・芝に大東出版社を設立、一切経(大蔵経)の日本語全訳に着手。昭和3年に「国訳一切経」第1巻を刊行、戦中、戦後の中断をはさんで出版を続け、43年に12巻を残して死去。没後、夫人の岩野喜久代、長女の文世らが遺志を継ぎ、63年全255巻の完結にこぎつけた。」
https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%B2%A9%E9%87%8E%E7%9C%9F%E9%9B%84 )

 なお、植木雅俊(1951年~)は、九大理(物理)卒、同大院修士、東洋大院博士後期課程中退(文学修士)、「1979年からジャーナリストとして学芸関係の執筆・編集に携わる。1991年から東方学院で中村元に学ぶ。1992年、小説『サーカスの少女』でコスモス文学新人賞受賞。2002年「仏教におけるジェンダー平等の研究──『法華経』に至るインド仏教からの考察」でお茶の水女子大学から博士(人文科学)の学位を取得(男性初)。2008年から2013年まで東京工業大学世界文明センターで非常勤講師を務める。NHK文化センター、朝日カルチャーセンターでも講座を持つ。・・・
 岩波文庫および中央公論社版の『法華経』の各サンスクリット原典翻訳の問題点(前者に関しては500箇所余り)を検討・批判した注釈で、1.サンスクリット原文、2.鳩摩羅什訳の書き下し文と、3.サンスクリット語からの現代語訳を対照した『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上・下)で、2008年に第62回毎日出版文化賞を受賞。1999年にチベットのポタラ宮殿で発見された『維摩経』のサンスクリット原典を現代語訳した『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』で、2013年に第11回パピルス賞を受賞」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E9%9B%85%E4%BF%8A
という人物だ。
 
 「『維摩経』は、『般若経』に続き、『法華経』よりやや先行して著わされた代表的な初期大乗仏典の一つである。
 『維摩経』は『般若経』と同様、「空」の思想を説くものだが、『般若経』に呪術的なことが多く説かれているのに対して、『維摩経』には呪術性は全くない。・・・
 在家主義、男女平等といった思想が、極めて戯曲的な手法で展開されてい<る。>」(12)

⇒「空」や「在家主義」に関して上掲囲み記事内で記したことに加え、「男女平等」を唱えている点も、維摩経は、女性在家に係る『勝鬘経』を推古天皇に講じた厩戸皇子の御眼鏡にかなった経典だった、と考えられるわけだ。(太田)

 「この経典の主人公はヴィマラキールティ・・・という名前であり、・・・鳩摩羅什<ら>・・・は「維摩詰」と音写した。・・・
 『維摩経』の舞台は、ガンジス河中流域の北方、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリー(毘耶離)という都城で、マガダ国の首都パータリプトラ(現在のパトナ)から北へ50キロメートルほど離れたところに位置している。
 ・・・ヴァッジ国では、釈尊のころから共和制によって政治を行なっていたことが知られているが、、・・・合議制で国が運営され、国主は選挙で選ばれるということが行なわれていたようである。
 ヴァイシャーリーは商業都市で、種々の民族が集い、自由主義的な気風に満ちていた。

⇒インダス文明の特異性については、前にも取り上げたことがある(コラム#省略)が、「他の四大文明であるメソポタミア文明やエジプト文明、並びに黄河文明と言われる殷王朝と比較して、インダス文明の最大の特徴であり、他の三つの文明との一番の違いは、宮殿や神殿がないこと、そして、王墓や王の像が存在しないことです。都市を守る壁は低いですし、武器類もほとんど発見されません。つまり、軍事力により征服した強力な王が存在したわけではないのです。ドラヴィダ人達は、合議制で国を運営していたのかもしれません。もちろん、何らかの指導者、もしくはリーダーが存在したのでしょうが、軍備や暴力ではない、もしかすると商人であったのか、はたまた、卑弥呼のような鬼道を操る神官であったのかはわかりませんが、非常に平和的な国家を形成していたのです。」(喜多暢之『にほんの素 古代史探求レポート』より)
https://books.google.co.jp/books?id=hT4DEAAAQBAJ&pg=PT29&lpg=PT29&dq=%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%96%87%E6%98%8E+%E9%83%BD%E5%B8%82+%E5%90%88%E8%AD%B0&source=bl&ots=w8LzEIq988&sig=ACfU3U2Mxhe_6TfTCTKzawEfJy2PrGTIFA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj604mEoPqAAxULgFYBHZ4xD9UQ6AF6BAgYEAM
という感じであるところ、アーリア人の侵入以降も北インドでドラヴィダ人中心の都市国家が残っていて、そこでは商人が力を持ったところの、合議制による統治、が行なわれ、ヴァイシャ-リーを首都とするヴァッジ国もそうだったのかもしれない。
 当然、そういう場所では仏教が受け入れられ易かったと思われる。
 (なお、注意すべきは、合議制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E8%AD%B0%E5%88%B6
は戦争には不適で、遊牧民やヴァイキングの有事指導者選挙制・・ウィキペディアが存在しない!・・の方が適していることだ。
 戦争時等の有事において、合議制でやっていたのでは、意思決定が遅れるし情報が洩れ易く、碌なことがないからだ。)(太田)

 釈尊滅後百年たったころヴァイシャーリーで行なわれた第二回仏典結集(けつじゅう)(編纂会議)において、ヴァイシャーリーの出家者らが十事(十項目の戒律の緩和)を要求したことが記録に残っている。
 『維摩経』は、ヴァイシャーリーのこうした自由主義的な気風を受けて、伝統的・保守的仏教への批判と、大乗仏教を宣揚するものとして編纂されたといえよう。
 ヴィマラキールティは、菩薩とはいっても、商業都市ヴァイシャーリーに住むリッチャヴィ族の資産家(居士<(注54)>)であり、在家の身である。・・・」(13~14)

 (注54)「 (gṛha-pati の訳語。・・・原義は「家の主」の意。・・・仏教興隆期の・・・インドにおいては四姓のうちの商工業者 vaiśyaの富豪をさす。・・・居士<は、>・・・中国では学徳がありながら、官に仕えず民間にある人。処士。・・・転じて・・・在家の仏道修行者を意味したが,現在,日本では仏教に帰依した男の在家信者の称。鎌倉時代以後,禅宗の有力な信者にこの号を贈り,武将の戒名の下に付けた。後世には一般化し,庶民も戒名の下につける。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%85%E5%A3%AB-64641

 「釈尊の生存年代は、中村元<説では、>・・・前463~前383年とされる。

⇒比較的最近とする説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
だが、いくら恩師とはいえ、著者の断定的筆致は気になる。(太田)

 その釈尊は、決して権威主義的であることはなく、自分のことを「人間」であり、「善き友人である私」と語っていた。
 弟子たちから「ゴータマ」、あるいは「ゴータマさん」「君よ」と呼ばれても、全く意に介することはなかった。
 在家であれ、出家であれ、男女の区別もなく、すべてが声聞(・・・仏弟子)とされていた。
 原始仏典では、ブッダ(・・・目覚めた人)という語も、特定の一人を指す固有名詞ではなく、普通名詞として複数形で用いられていた。」

⇒このくだりに典拠的なものが付されていないのは残念だ。(太田)

 とまれ、「目覚める」にはどうすればよいと釈迦は考えていたのか、を、著者も、また、その恩師たる中村元も、ほぼスルーしてしまっているように見え、とりわけ、瞑想、就中ヴィッパサナー瞑想の位置付けについて何も記していないが(これは、彼らに限らず、日本の仏教関係者の大部分が同じだが)、ひっかかる。(太田)

6 付論1:仏教について

 (1)始めに・・バラモン教

 ここで、仏教について、改めて頭の中を整理しておく必要があると思うに至った。
 そうなると、まずは、バラモン教から始めなければなるまい。

 英語ウィキペディアは、Indo-Aryan Vedic religion、と、Brahmanism、が、後者が前者の影響を受けつつ前者の後に形成されたとしている
https://en.wikipedia.org/wiki/Historical_Vedic_religion
が、残念ながら整理された記述になっていないので、Brahmanism=Vedic Religion、とする下掲
https://www.worldhistory.org/Brahmanism/
に、(その筆者は米SUNY College at New PaltzのMAでしかない、Joshua J. Mark だし、典拠も付されていないけれど、分かり易いし説得力があるので、)やむを得ず、私が自身の見解を展開するとっかかりにすることにした。
 (本項での、英語での引用は全てこれによる。)
 
 ’<T>he Vedic vision developed in Central Asia (around the region of the Kingdom of Mitanni<(注55)>, modern-day northern Iraq, Syria, and Turkey) and arrived in India during the decline of the Indus Valley Civilization (c. 7000 – c. 600 BCE) sometime between c. 2000-1500 BCE. ・・・

 (注55)「ミタンニ<は、>・・・フルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国した王国である。多民族社会で戦士階級に支配される封建的国家であり、支配階級はインド・アーリア語派の出自を持つと推定される。・・・
 ミタンニは周囲の国との間で政略結婚を繰り返した。・・・<例えば、>トゥシュラッタ(ダシャラッタ)<王の>・・・娘ダドゥキパ<は、>・・・エジプト第18王朝<の>・・・アメンホテプ4世の2番目の后キヤ(KiYa)、あるいは王妃ネフェルティティであると言われている。・・・
 フルリ人自体はインド系ではないが、文書の中には明らかにサンスクリットで解釈できる単語が多い。ヒッタイトとミタンニとの間の条約ではインドのヴェーダの神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられている。また人名にもサンスクリットで解釈できるものが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B

 A number of gods’ names – notably Indra – were known in Central Asia, and one of the most important concepts of Brahmanism, rita (“cosmic order”) was also well established there. It is thought that, sometime around the 3rd millennium BCE, a group of nomadic Aryan tribes migrated into Central Asia and two of these, now known as Indo-Iranians and Indo-Aryans, parted ways; the Indo-Iranians settling the Iranian Plateau and the Indo-Aryans continuing south to the Indian subcontinent.・・・
 The Indus Valley Civilization was among the most advanced of the ancient world and clearly had some form of religious observance but, because their script remains undeciphered, no one knows what that might have been. Statuary and seals suggest they worshiped spirits known as yakshas which had to be placated and honored through sacrifices and some sort of observance. The yaksha cults seem to have focused solely on the day-to-day needs of the people without addressing cosmological questions.

⇒私見ではその大部分が人間主義者であったところの、古今東西、日本以外にはこれまで出現したことがない、人間主義に立脚した社会、を形成していたインダス文明の人々(コラム#省略)は、神道のような「宗教」を信じていたと見てよさそうだ。(太田)

 Discussions of the origin of the universe and the meaning of life only arose – as far as the present extant evidence shows at least – with the development of Vedic thought, which may have merged with the yaksha rituals.・・・
 The Indo-Aryans are also known as the Vedic peoples, who wrote in Sanskrit and whose religious and cosmographical vision is thought to have merged with that of the Indus Valley Civilization. The Vedas moved the peoples’ relationship with the supernatural from the day-to-day rituals of honoring spirits in a quid pro quo kind of contract to understanding the origin of all existence and the meaning of one’s life. Vedism – the attempt at answering the deepest questions of existence – became Brahmanism once a First Cause was identified.

⇒(自然環境の変化に伴い、インダス文明は衰退してしまい、ガンガー(ガンジス)河流域に住んでいたところの、このインダス文明を担っていた人々の「未開」版のドラヴィダ人の下へ、(ミタンニ発祥の)アーリア人の、宇宙の起源や人生の意味、を追究する世界観が入って来た。
 この(非高度文明版)ドラヴィダ人達は、(縄文人が弥生人に対してそうであったように、)侵入してきたアーリア人に抵抗らしい抵抗をしなかったと想像される。
 その結果、アーリア人の世界観とドラヴィダ人の神道的な世界観が比較的平和裏に混交していった。(太田)

 The Vedic sages recognized that the world operated according to rules that suggested order and the Vedas attributed this order to many gods who, generally, reflected human characteristics. The rules were defined as rita, and their existence implied a rule-maker, but one greater than the gods described in the texts, a god-behind-the-gods who informed them; this god was Brahman.

⇒こうして、(神々の神とでも言うべき)究極の存在であるところの、ブラフマン(brahman)、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
神々、並びに、生きとし生けるもの(Jiva)・・個々の生物・・、及び、これらの諸存在の「意識の最も深い内側にある個の根源」たるアートマン(真我)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
という新しい世界観が生まれた。(太田)

 Brahman was understood as an individual entity but so immensely powerful that the human mind could not comprehend it. This being existed in reality (it could be apprehended), outside of reality (in the realm of pre-existence), and was reality all at once. Brahman had always existed and would always exist but was far too immense for a human being to connect with. The gods of the Vedic pantheon were avatars of this being, but in order to have a personal connection, there had to be some aspect of the human constitution that would allow for it.
 It was not thought possible that the source of all life would create life without also providing for a way to commune with it. The human being was understood to be made up of a body, soul, and mind, but to these the Vedic sages added an “oversoul” – the Atman – that allows connection with Brahman because it is a part of Brahman. Every human being was understood to be carrying this spark of the divine within them, and all one had to do was recognize this and devote oneself to nurturing it in order to find peace and comfort in the presence of the divine.
 Just as each individual carried this divine spark, so too the many gods were all Brahman’s different aspects, each one tending to a specific human need but all of one indivisible essence. ・・・

⇒この、究極的存在と神々と(人間を含む)個々の生物、からなるバラモン教の世界観の問題点は、せっかく、聖なるものをあらゆる個々の生物が持っていることを認めながら、それが、自然や(人間を含む)個々の生物相互をヨコに繋ぐ(私の言うところの)人間主義性であることに気付いていたと想像されるドラヴィダ人達の気持ちを無視し、アーリア人達が、この聖なるものは、究極的存在と神々と個々の生物とをタテに繋いでいるとだけ考えてしまったところにある、と、言えそうだ。(太田)

 Gods and goddesses with human form and characteristics – even if sometimes depicted with a few extra arms or legs or the head of an elephant – were more relatable than a cosmic force. The priestly class (Brahmins) encouraged the people to embrace their deity of choice as all were equally aspects of the First Cause and Ultimate Reality. The chants, hymns, prayers, and mantras of the Vedas were recited by the Brahmins at ritual observances to assure the people that they already had the divine within them, that their lives and how they lived them needed to be in accord with cosmic order, and that such order did, in fact, exist even if they could not understand how it worked.’

⇒引用した上掲のくだりには出て来ないが、上述したことから、インド人(アーリア人/ドラヴィダ人)の社会は、ヨコの関係性が断ち切れたところの、究極の個人主義社会、になってしまい、だからこそ、アーリア人はドラヴィダ人に対し、アーリア人がドラヴィダ人を支配する上下関係にあるのは自然の秩序であると宣言し、ドラヴィダ人を肉体労働従事者と規定し、この発想の延長線上で、アーリア人を上下関係にある三つのグループ・・知を司るグループ、力を司るグループ、カネを司るグループ・・に分け、その上で、知を司るグループが中心となって、輪廻観念をでっち上げることによって、社会に秩序を与えようとした、と、私は考えるに至っている。
 その結果、次第に、バラモン(Brahmin)、クシャトリヤ(Kshatriya)、ヴァイシャ(Vaishya)、シュードラ(Shudra)、そしてダリット(Dalit)、というヴァルナないしカーストが形成され、それが輪廻観念と結び付いたところの、社会、が、インドで確立していった、と。
 釈迦が生まれたのは、かかる社会が確立しつつあるインド社会だったのだ。
 以上、下掲を参照した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Brahmin
https://en.wikipedia.org/wiki/Kshatriya
https://en.wikipedia.org/wiki/Vaishya
https://en.wikipedia.org/wiki/Shudra
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%A7%A6%E6%B0%91
 私に言わせれば、このバラモン教の下のインド社会で、一番ストレスが貯まっていたのはクシャトリヤ達だった。
 というのも、アーリア人は平和志向のドラヴィダ人を容易に支配することはできたものの、第一に、そんなドラヴィダ人を兵士に仕立てることはできず、統治を担当することになったクシャトリア達は、小国が分立し、相互に小競り合い的戦争を恒常的に繰り返しつつも、兵力不足で、領土拡張を行い、統一を達成することが容易ではない、という状況に加えて、第二に、各国内においても、知を司るバラモンがのさばっていて、一旦彼らが神の託宣として言い出したことには基本従わなければならない、という状況に、悩み多き毎日を送っていた、と、私は見ているからだ。

 (2)釈迦

  ア 釈迦自身の言動

 「釈迦は教義(ドグマ)をもつこと自体を否定した。
 仏教学者の中村元は、そもそも歴史に実在した人物としての釈迦は「仏教というものを説かなかった」と主張する。釈迦が「説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき<であると釈迦が考えた(太田)>真実<であると釈迦が考えた(太田)ところ>の道である。ところが後世の経典作者は(中略)仏教という特殊な教えをつくってしまったのである」 (<中村元・訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫、1980年>p.327)と述べ、仏典(いわゆる「お経」)が説く「仏教の教義」の多くは後世の創作であると指摘した。
 原始仏典『スッタニパータ』第803偈でも、釈迦は明確に「教義」をもつこと自体を否定している。<↓>

  1. Na kapapyanti na pure-k-kharonti, Dhammā pi tesaṃ na paṭicchitāse, na brāhmaṇo sīla-vatena neyyo, Pāraṃgato na pacceti tādī ti.
    <=>かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。(<中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』 (岩波文庫、1984/5/16)>p.180)  中村元は、仏教は、普通は「法を説く」<宗教である>と言われているのに、<釈迦は>ここでは「法」(dhamma)を否定している。その意味は<教義>なるものを否定しているのである。教義を否定したところに仏教がある[ちなみに、ここで paṭicchitāse というのは『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している]。(<同上>p.384)と力説している。
     中村は、歴史に実在した釈迦の最期の言葉にも着目する。パーリ仏典『大パリニッバーナ経』によれば、釈迦が臨終の直前に語った生涯で最後の言葉は、
    Handa dāni bhikkhave āmantayāmi vo vayadhammā saṅkhārā,appamādena sampādethā!
    <=>さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」と(<中村元・訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫、1980年 >p.168)
    であった。同様の文言は、漢訳仏典にも、『長阿含経』巻四や『大般涅槃経』巻下その他に釈迦の最後の教えとして収録されている。中村は自著(<中村元選集[決定版]第12巻『ゴータマ・ブッダⅡ』春秋社、1992年>p.347)の中で、<「>仏教の要訣は、無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる。<無常>の教えは、釈尊が老いて死んだという事実によってなによりもなまなましく印象づけられる。それがまた経典作者の意図であった。仏教の本質は、ここに尽きるのである。<」>とまで言い切っている。

⇒中村は、釈迦の仏教には教義がない、と言っているが、私は、教義がない神道も宗教だとすれば、釈迦だって教義なき点においては神道と同じところの、宗教、を始めたと言ってよいと思う。
 では、いかなる宗教かというと、(神道は、神社を建てたり維持したり、身を清めて神社に参拝したり、神社主催の祭りに参加したり、等をすべしとするのに対し、)釈迦の「宗教」については、中村元は釈迦は修行に精励すべしと言った、とするだけで、その修行の中身と目的を明らかにしてくれていないけれど、恐らくは、戒を守り、定を行うことで、慧を学んで理解し体得すること、なのだろう。(戒、定、慧については後述する。)(太田)

 中村の弟子で仏教学者の植木雅俊は、さまざまな原始仏典を引用し・・・ 原始仏典『サンユッタ・ニカーヤー』第1巻では、弟子が釈迦にむかって「君、ゴータマさんよ」と気さくに呼びかけるのが定型句となっており、釈迦の神格化は見られない (<植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年>p.59)。原始仏典『スッタニパータ』第927偈で、釈迦は迷信を否定し、呪法や夢占い、手相や顔相など相の占い、星占い、鳥や動物の声による占い、呪術的な懐妊術や医術を信奉することを仏教徒に禁じた(<同上>p.88)。また歴史に実在した釈迦は徹底した平等主義者であり、原始仏典『スッタニパータ』第608偈-第611偈は人間は本質的に平等であると説く(<同上>pp.143-144)。釈迦は女性や在家信者も弟子として出家信者と同等に扱い、教えを説いた。原始仏典『テーリー・ガーター』に出てくるアノーパマーという在家の女性は、釈迦の教えを聞いて阿羅漢の一つ手前のステージ「不還果<(注56)>」まで到った (<同上>p.149)。

 (注56)預流(よる)⇒一来(いちらい)⇒不還(ふげん)⇒阿羅漢(あらかん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
 三界:欲界(人間界)(地獄→餓鬼→畜生→人→天)⇒梵天界(色界(しきかい))(初禅→第二禅→第三禅→第四禅)⇒無色界
https://www.weblio.jp/content/%E6%A2%B5%E5%A4%A9%E7%95%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C
 「阿羅漢<は、>・・・三界には戻らず輪廻から解放<されている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2
 「不還・・・の位に達すると、もはや死後は人間界<(欲界)>にもどることなく、梵天界(初禅天)以上の階位に上り、梵天界での死後に阿羅漢とな・・・る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E9%82%84
 「一来・・・の段階に入ると、一度・・・天界に生れ、再び人間界に戻って、その次は二度と輪廻しなくなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A5
 「預流果に達すると退転することなく、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで<輪廻しなくな>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E6%B5%81

⇒この話だけでも、舌は噛みそうに、頭はハレーションを起しそうに、なってしまう。
 実のところ、私自身、インド人のコケ脅しの不必要な饒舌さには、何度も辟易させられた記憶がある。(太田)

 植木雅俊『仏教、本当の教え』<中公新書、2011年>第1章でも、同様の考証が展開されている。・・・、釈迦が主張した「本来の仏教」を以下のように推定復元している(<植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年>pp.340-341より引用)<。↓>
 <「>本来の仏教の目指した最低限のことは、一、徹底して平等の思想を説いた。二、迷信やドグマを徹底的に否定した。三、絶対神に対する約束事としての西洋的倫理観と異なり、人間対人間という現実において倫理を説いた。四、「自帰依」「法帰依」として自己と法に基づくことを強調した。五、釈尊自身が「私は人間である」と語っていたように、仏教は決して人間からかけ離れることのない人間<(にんげん)>主義であった――などの視点である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

⇒男性と女性とを平等に扱ったのであれば、男性たる在家も不還までで、阿羅漢にはなれなかったはずであり、釈迦は、出家と在家を平等には扱わなかった、ないしは、「出家と在家は平等ではなかった」、ということになるが、このことを、植木はどう説明するのだろうか。
 釈迦は、出家することを勧めたところの、つまりは、在家を差別したところの、出家主義者、だった、と、考えざるを得まい。
 これは、釈迦が作った宗教の、同じく教義なき宗教である神道と比較しての弱点であり、欠陥であった、と、言わざるをえない。(太田)

 「並川孝儀によれば、仏教の修行法や教義は釈迦の死後に、
・最古層経典:修行法はほぼ「戒」や「定」や「慧」に該当する内容で占められる。

⇒だから、釈迦が説いたのは、ここまでではなかろうか。(太田)

・古層経典:新たな修行法もみられるようになる。その代表的な修行法が七種の修行法(三十七道品)である。中でも「五根」が最も早くみられ、続いて「八正道(八聖道)」が「四諦(四聖諦)」と一体で説かれる。
・新層経典:新たに「四念処」「四正勤」「四神足」「五力」「七覚支」という修行法が説かれる。
と段階的に発展してきた(<並川 孝儀「初期韻文経典にみる修行に関する説示 : 三十七道品と三界」(小野田俊蔵教授 本庄良文教授古稀記念号)佛教大学仏教学会紀要 28 1-21, 2023-03-25>p.14)。並川は「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道という、後に三十七道品とも三十七菩提分法(bodhipakkhiyā dhammā)ともいわれる七種の修行法<(注57)>は、古層経典の時代になって説かれ始め、仏教が成立した当初から存在していたものではない。」(<上掲>,p.1)と述べる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

 (注57)「比丘たちよ、修習(バーヴァナー)を実践する比丘であれば、彼の心に「離貪し漏(āsrava)から解脱したい」との思いが起こらなくとも、彼の心は離貪し漏から解脱する。
それはなぜか。修習が達成されたからである。何の修習であるか?
 四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八聖道である。—パーリ仏典, 増支部 七集・・・
 内容的には重複している部分も多く、特に後の五科は概ね同じ内容を表している。・・・
 四念住(四念処) 四種の観想
  ・身念住(体をあるがままに観察する)
  ・受念住(受をあるがままに観察する)
  ・心念住(心をあるがままに観察する)
  ・法念住(法をあるがままに観察する)
 四正断(四正勤) 四つの努力
  ・已生悪断(すでに生じた悪は除くように)
  ・未生悪令不生(いまだ生じてない悪は生じないように)
  ・未生善令生(いまだ生じていない善は生ずるように)
  ・已生善令増長(すでに生じた善は増すように)
 四神足(四如意足) 四つの自在力
  ・欲(すぐれた瞑想を得ようと願う)
  ・精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する)
  ・念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
  ・思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)   
 五根 五つの能力
  ・信根(巴: saddhā、梵: śraddhā)- 如来の悟りへの信仰、十号の受容。
  ・精進根(勤, 巴: viriya、梵: virya) – 四正勤の努力。
  ・念根(巴: sati、梵: smṛti) – 四念処へ集中し、念(マインドフルネス)を獲得する。
  ・定根(巴: 梵: samādhi) – 定(サマーディ)を達成し、心一境性を獲得。
  ・慧根(巴: pañña、梵: prajñā)-苦の滅尽へ導く知恵(四諦)の理解。
 五力 五つの行動力
  ・信力
  ・精進力
  ・念力
  ・定力
  ・慧力
 七覚支 七つの悟りを構成するもの
  ・念(身・受・心・法の状態を観察、気をつけていること)- マインドフルネス
  ・択法(法を調べること)
  ・精進(努力)
  ・喜(修行を実践することで生まれる喜び)
  ・軽安(心身の軽やかさ)
  ・定(心を集中して乱さない)
  ・捨(対象への執着がない状態)
 八正道 八つの正しい行い
  ・正見(正しい見解)
  ・正思惟(正しい考え)
  ・正語(正しい言葉)
  ・正業(正しい行為)
  ・正命(正しい生業)
  ・正精進(正しい努力)
  ・正念(正しい念慮、気づき)
  ・正定(正しい集中)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81
 戒(かい)=シーラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3
 定(じょう)=サマーディ=三昧(さんまい)=禅定=止(シャマタ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
 慧(え)=パンヤー=般若 「すべての物事〔・・縁起<(注58)>・・〕の特性(三相)、すなわち無常<(注59)>、苦<(注60)>、 無我<(注61)>を理解<して、>・・・無明の闇から脱出」し、〔清浄への道<を歩むこと。>〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5 (「」内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9B%B8_(%E4%BB%8F%E6%95%99) (〔〕内)
 (注58)「全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
 (注59)「仏教における中核教義の一つであり、三相のひとつ。生滅変化してうつりかわり、しばらくも同じ状態に留まらないこと。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8
 (注60)「四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦(ドゥッカ、dukkha)の分類。
 根本的なドゥッカを生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし
生苦(jāti dukkha) – しょうく。衆生の生まれることに起因する苦しみ。
老苦(jarāpi dukkha) – 衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病苦(byādhipi dukkha) – 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
死苦(maraṇampi dukkha) – 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなど。
根本的な四つの苦に加え、
愛別離苦(あいべつりく、piyehi dukkha) – 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく、appiyehi dukkha) – 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく、yampiccha dukkha) – 求める物が思うように得られない苦しみ
五蘊取蘊(ごうんしゅく、pañcupādānakkhandhā dukkha) – 五蘊盛苦(ごうんじょうく)とも。五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6
 (注61)「あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

⇒「一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想(巴: samathabhāvanā)と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想(巴: vipassanā-bhāvanā)とが双習される。」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
或いは、「止<(サマタ)>・・・は静かな澄み切った心の状態であり、こうした上で対象を正しく観察するということが観<(ヴィパッサナー)>であ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3
とされるが、「一般に」が曲者だ。
 今頃気付いたのかと叱られそうだが、並川の言う最古層経典に記述されている定は、サマタ瞑想なのではないか。
 古層経典の五根中に定根(サマタ瞑想?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
と念根、八正道においても正定(サマタ瞑想?)と念、という二種の瞑想が登場する。
 しかし、「定は、もともと古代インドの宗教的実践として行われてきたものを仏教にも採用したもの」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
に過ぎないし、念=安那般那念(あんなはんなねん、巴: ānāpāna-sati:アーナーパーナ・サティ、梵: ānāpāna-smṛti:アーナーパーナ・スムリティ)、は、「初期仏教以来の瞑想の導入法として説かれており、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)という行法である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
というのだから、要するに、サマタ瞑想への導入法に過ぎない。
 しかし、「広義には、・・・四念処に相当する観行(ヴィパッサナー)の領域も含む。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5
というのがミソであり、これは、「釈迦自身は四念処<・・つまりはヴィパッサナー瞑想(太田)・・>を説いていない可能性がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
ことを示唆している。
 より端的に言えば、釈迦自身はヴィパッサナー瞑想を説かなかったらしいのに、そのことを糊塗するために、上座部仏教各派の一部が、念の概念を拡張してヴィパッサナー瞑想をも意味するものにした、と、見てよいのではないか。
 典拠が付されていないが、「ヴィパッサナ<ー>はインドから東南アジアへの貿易に伴いMahayana:マハヤ<ナ>仏教<(注62)>が拡大していた6世紀頃誕生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
も地雷まみれの表現であるところ、「大乗仏教が興隆中の6世紀頃、上座部仏教の一部においてヴィパッサナー瞑想が案出された」と、意訳すれば、中らずと雖も遠からずではないか。

 (注62)マハーヤーナ(Mahāyāna)仏教=大乗仏教。「大乗仏教は、民衆の宗教であり、諸仏・諸菩薩を信仰する。みずからは救われなくてもまず他人を救うという菩薩bodhisattvaの精神が強調された。諸仏・諸菩薩を熱心に信仰して念ずることを強調するために、多数の仏像が製作された。その製作の中心地は、ガンダーラGandhāra(パキスタン北部)とマトゥラーMathurāとであった。最初期の大乗仏教は、ストゥーパを崇拝していた一般民衆および修行僧のあいだから起ったと考えられるが、当時は荘園をもたなかった(当時荘園をもっていたのは、いわゆる小乗仏教だけである)。しかし民衆のあいだに根強かった呪術的要素をとりいれることによって、一般民衆のあいだにひろがった。多数の大乗経典が編纂された。まず多数の般若経典がつくられて、あらゆる事物は空である(一切皆空)ということを説いた。また従前の仏教諸派の超世俗的態度を排斥して、『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、世俗的な在家の生活のうちにあって真の仏道を実践すべしという態度を表明している。『華厳経(けごんきょう)』は菩薩の道を説いているが、一切のものは互いに入りまじり影響し合って成立しているという道理をくり返し表明し、唯心説までも述べている。浄土経典(『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』など)は、阿弥陀仏を信仰することによって極楽浄土に生まれることをすすめる。『法華経』は、その前半においては、仏教のいろいろな仕方の実践がどれも完成に達するための原因であるといって、種々の実践法の存在意義を認め(一乗思想)、後半においては、究極には久遠の本仏が存することを説いている。哲学学派としては、中観派(ちゅうがんは、Mādhyamika)と唯識派(ゆいしきは、Vijñānavādin)とが主なものである。中観派は、竜樹(りゅうじゅ、ナーガルジュナNāgārjuna)に始まるが、種々の論法をもって、あらゆるものが空であるということを論証する。「空」とは、縁起とか中道とかの教えと同じ趣意である。唯識派とは、別名ヨーガ行派Yogācāraともいうが、精神統一によって心を静め、外界の事物はすべて心の顕現したものであると観ずる。その教えは、弥勒(マイトレーヤMaitreya)と呼ばれた哲人に始まるというが、体系的な学説は世親(天親ともいう。Vasubandhu)により完成された。彼によると、われわれの存在の根底にアーラヤ識ālayavijñānaと名づけられる精神的原理があり、万有はそれから顕現したものにほかならない、ということを説いた。それが発展して、<支那>・日本では法相宗(ほっそうしゅう)となった。唯識説の系統から論理主義的な知識哲学が成立した。仏教論理学(バラモン教系統の古い論理学を「古因明」と呼ぶのに対して、これを「新因明」と呼ぶ)を確立したのは、陳那(じんな、ディグナーガDignāga)であるが、法称(ほっしょう、ダルマキールティDharmakīrti)がこれを大成した。因明は部分的に<支那>・日本に伝えられ、特に奈良で研学された。三二〇年にグプタGupta王朝が成立し、全インドにわたる集権的な国家体制が確立するとともに、ヒンドゥー教が盛んになったので、仏教も次第にそれに影響されて、ヒンドゥー教的なものに対し妥協適合をせざるを得なくなった。おそらく西ローマ帝国の滅亡に伴う海外貿易の衰退は、インドにおける商業資本の社会的勢威を衰退させ、農村に基盤をおくバラモン教ないしヒンドゥー教を優勢ならしめることとなった。そこで仏教もそれと妥協して真言密教(金剛乗Vajrayānaともいう)を成立させた。民衆の間で行われている多数の呪法を採用し、呪文(陀羅尼dhāra〓ī)を唱えて攘災招福を行なった。根本の仏としては大日如来を想定し、人間の感情欲望を肯定して、即身成仏を期した。それはまた仏教の堕落をひきおこし、密教はヒンドゥー教のうちに没入してしまう傾向があった。十一―十三世紀にわたるイスラム教徒のインド征服とともに、仏教はインドからほとんど消滅してしまった。」(中村元)
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1656

⇒「注62」と似たような話を、これから、私の観点から、強弱を付けつつ、・・独断と偏見で? 例えば、釈迦についても、中観派や唯識派についても、私は殆ど評価しない・・もう少し詳しく述べていくことになる。(太田)

 止観(シャマタ(サマタ)・ヴィパッサナー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3 前掲
という言葉は、それ以降に作られたのだろう。
 なお、新層経典においても、この四念住のほか四神足も、ヴィパッサナー瞑想だけを記してサマタ瞑想を斬り捨てたに等しい過激さだけれど、七覚支には瞑想に念(ヴィッパサナー瞑想)と定(サマタ瞑想)の二種の瞑想が登場し、四正断中にはそもそも瞑想的なものが一切登場せず、五力中は定力については説明が付されていないがサマタ瞑想と見てよかろうが、そのサマタ瞑想だけを登場させる、と、てんでバラバラだ。
 さて、釈迦の社会的環境は以下のようなものだった。↓

 「紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。気候の変化が理由だと言われる。
 紀元前1500年頃から、イラン高原からアーリア人のインド北西部への移住が始まる。・・・
 紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミン(バラモン)と、王族・貴族のクシャトリヤ、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。しかし近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が確認された。
 紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA
 「バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。・・・
 仏教は、バラモン教の習慣、言語習慣を用いて教えを説いた。・・・
 紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
 紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。※
 4世紀、新しい王[誰?]の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
 「ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族(巴: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲

⇒※に直接的な典拠は付されていないが、後で詳述するけれど、釈迦の出家生活を支えていたのは父たるシャーキャ国王(クシャトリア)であり、ブラフミン(バラモン)の権威を否定する思想の樹立をこの父は子に命じ、子が広く賢者や識者に教えを乞うたり、自ら勉強したり考えたりしてこの与えられた課題に取敢えずの答えを出すことに成功した、ということではなかったか。
 そして、先回りして申し上げれば、釈迦は、バラモンとクシャトリアは、在家時代から定を始め、慧の勉強を始めた上で、戒(注63)を遵守するところの、出家、になることによって、解脱することができ、バラモンとクシャトリアに関しては来世でバラモンはクシャトリア以下に、クシャトリアはバイシャ以下に転落すことを免れ、クシャトリアはバラモンに対する僻みと敵意を克服することができ、バラモンはクシャトリア以下への驕りとそれと裏腹の恐れを解消することができる、と、クシャトリア達に対して、バラモン達に対する仮想的な勝利、精神的な勝利、を説いた、と、私は考えるに至っている次第だ。

 (注63)見習僧(沙弥・沙弥尼)以上・・従って、比丘・比丘尼を含む・・には、
不殺生戒(ふせっしょうかい)<・・在家には課さず?>
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
不婬戒(ふいんかい) – 性行為をしない
不妄語戒(ふもうごかい)
不飲酒戒(ふおんじゅかい)
不塗飾香鬘戒(ふずじきこうまんかい) – 身体を飾らない
不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい) – 歌舞を観聴きしない
不坐高広大牀戒(ふざこうこうだいしょうかい) – 高広な寝台を用いない
不非時食戒(ふひじじきかい) – 午後から翌朝日の出まで、食事をしない
不蓄金銀宝戒(ふちくこんごんほうかい) – 蓄財をしない
の十戒が課される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92

 釈迦が慧という世界観の本来帰結であるはずの輪廻なる仮想世界それ自体の否定まで踏み込まなかったのは、輪廻的仮想世界の否定がクシャトリアなるヴァルナの否定、すなわち、クシャトリアが力を司るという「特権」の根拠の否定、に直結するからだろう、とも。
 また、釈迦が、社会に寄生する集団を生み出してしまう非生産的な出家主義をとったのは、諸々の戒の中に、不殺生、を入れ込むことに眼目があり、出家には不殺生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92 前掲
を含む戒を厳格に、在家にはそれなりに、遵守させることとする(注64)ことにより、クシャトリアを始めとするアーリア人達に、最も多数の殺生が生じるところの、小競り合い的戦争、をできるだけ抑制させるためであり、在家に対して不殺生を厳格に順守する必要を免除し、小競り合い的戦争に、在家のクシャトリアを筆頭とするアーリア人達が従事することを可能にするためだろう、とも。

 (注64)「原始仏教は犯罪人を罰する暴力的な方法や戦争について強い疑念を持っていた。それらはいずれも明示的に禁止されていなかったが、戦争解決の平和的方法と最低限の傷害を伴う刑罰が奨励された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC

 このように、釈迦は、私見では、当時の北東インドにおいてのみ、かつ、基本的に特定のヴァルナ(クシャトリア)の者だけに、意味を持つ説を主張したところの、時代と地域に規定されている、至って「ローカル」な思想家ないし宗教家だったのだ。
 全く同じ時期に、全く同じ意味で「ローカル」な宗教家たる、ジャイナ教の事実上の創始者のマハーヴィーラが出現している(後述)ことが、かつまた、釈迦を一応創始者と呼べる仏教は、一旦、北東インドならぬインド亜大陸全体をとっても絶滅に近い状態になり、ジャイナ教も絶滅に近い状態になって久しい(注65)ことが、このことを裏付けているのではなかろうか。

 (注65)「イスラーム王朝設立によるインドのイスラーム化により、イスラーム到来以前から衰退の途上にあったインドの仏教は決定的に没落した。インド仏教の衰退後も、ミャンマーに近いベンガル地方では戒律を重視する上座部仏教の集団が現代まで非常にわずかながらも存続しているが・・・、後期インド仏教であるタントラ仏教や後期密教はネパールやチベット地方に伝播してインドからは姿を消していった。・・・
 近代に入って、ダルマパーラら大菩提会(1891年設立)の運動によるスリランカからの仏教再移入があり、インド独立直後、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる新仏教運動)。
 インド政府の宗教統計によれば、インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%(約800万人)程度である。
 <また、その中には大乗仏教信徒だけではなく、ナヴァヤーナ(後出)信徒も上座部仏教(後出)信徒も含まれている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 「ジャイナ教徒は2001年のインド国勢調査(Census 2001)によれば450万人ほどを数え、これは全人口の0.5%にも満たない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99


[ジャイナ教]

 ジャイナ教(Jainism)は、「マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を<中興の祖>と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。・・・
 マハーヴィーラはマガダ(現ビハール州)のバイシャーリー市近郊のクンダ村に、クシャトリヤ(王族)出身として生まれた。・・・12年の苦行ののち真理を悟り「ジナ」(Jina、勝利者)となった(ジャイナ教とは「ジナの教え」の意味。・・・)・・・
 ジャイナ教の「相対論」(アネーカーンタ・ヴァーダ、anekānta-vāda)である。
 具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると(スヤート、syāt)」という限定を付すべきだとする、「スヤード論」(syād-vāda)を説いた。・・・
 解脱を目的として・・・戒律に従って正しい実践生活を送<らなければならない、とする。>・・・
 マハーヴィーラ在世時、マガダのセーニヤ(seṇiya、仏典中に見られるビンビサーラ)王やその王子クーニヤ(Kūṇiya、<同じく、>アジャータシャトル)などの帰依・保護を受けて、すでに強固な教団を形成していたと思われるが、彼の没後はその高弟(ガナダラ、「教団の統率者」)たちのなかで生き残ったスダルマン(sudharman、初代教団長)などにより順次受け継がれ、マウリヤ朝時代にはチャンドラグプタ王や宰相カウティリヤなどの庇護を得て教団はいっそうの拡大をみた。・・・
 殺生を禁じられたジャイナ教徒<・・但し、自己防衛の際、や、国を守るための戦争への従事の際、は別(後出)・・>の職業は<クシャトリアは別として(後出)、>カルナータカ州に例外的に知られているわずかな農民を除けばほとんどが商業関係の職業に従事しており、なかでも豪商と名高いジャイナ商人(ジェイン)が知られる。ジャイナ教団体によると、インドにおける個人所得税の2割はジャイナ教信徒により納税されている。その理由として、『嘘を禁忌として、約束は絶対に守る』『信徒は死後、生前の善行と悪行が帳簿の債権・債務のように集計され、来世の行方が決定づけられる』『事業の成功も泡沫のものである』と戒められ、また積極的な慈善行為、無所有主義など彼らが日頃から厳しい戒律を遵守していることから、清く正しい印象を客観づけられ、圧倒的な信用を集めているためと云われる。そのため、信用第一である宝石・貴金属商に従事する者が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
 「<バラモン教時代、>動物の継続的な犠牲を伴う祭式上の動物犠牲は顕著な慣習であって、非暴力の原理はあまり知られていなかったか、または尊重されていなかった。・・・
 ウパニシャッドで紀元前8世紀か紀元前7世紀の年代のものと思われている『チャーンドーギア・ウパニシャッド』は、ヒンドゥー教で馴染み深い意味(行動規範)でのアヒンサーという言葉の使用に対する最初の確証を含んでいる。それは「あらゆる生物」(sarva-bhuta)に対して暴力を禁止し、アヒンサーの実施者は転生の循環から解脱すると言われている・・・。・・・
 自己防衛時の暴力は正義であるということと戦争で敵を殺す戦士は合法的な義務を遂行しているということでは、ジャイナ教徒はヒンドゥー教徒と意見が一致している。ジャイナ教の共同社会では防衛のための軍力行使は許され、ジャイナ教徒の君主、軍事司令官、戦士が存在する。・・・
 理論上は全ての生命形態があらゆる種類の傷害から保護されるべき価値があると言われているけれども、ジャイナ教徒はこの概念が実際上は完全には実施できないことを認めている。移動性のある生き物が移動性のない生き物より高い保護を受けられている。移動性のある生き物に対して、彼らは1感覚の存在、2感覚の存在、3感覚の存在、4感覚の存在、5感覚の存在と区別する。1感覚の動物は唯一の感覚器官として触覚を持っている。より多くの感覚を持っている存在ほど、その保護に関してより注意が払われる。5感覚の存在のなかでは、理性のあるもの(人間)がジャイナ教のアヒンサーによって最も強く保護される。アヒンサーの遂行について、anuvrate(小誓戒)を受けた在家の人々に対してよりも、mahavrata(大誓戒)に拘束される僧侶や尼僧に対しての方が必要条件がより厳格である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC 前掲

⇒マハーヴィーラは、釈迦とほぼ同時代人で、ヴァルナ(カースト)も同じクシャトリアで、追求した課題も、輪廻からの解脱・・バラモンの権威を超越すること・・だったのだから、当時のクシャトリアの多くにとってそれが共通の課題だったということであり、2人が到達した解答もまた、似かよっていたものの、釈迦の解答の方が、当時は人気が高かった。

 しかし、結局、釈迦を始祖と仰ぐ仏教も、マハーヴィーラを実質的な始祖と仰ぐジャイナ教も、バラモン教がメタモルフォーゼしたところの、ヒンドゥー教(下述)、の席捲を許してしまうことになった。(太田)

 なお、「釈迦族の王族として生まれた釈迦は、あとつぎの男子をもうけたあと、29歳で王族の地位を捨て、林間で修行し、悟りを開き、布教の旅に出て、遊行の身のまま世を去った。古代インドの人生の理想「四住期」<(注66)>(梵: āśrama)の考えかたにのっとった人生であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
ことも、釈迦の「ローカル」さを裏付けている。

 (注66)「インドのバラモン教徒が生涯のうちに経過すべきものとして,バラモン教法典が規定する四つの段階で、・・・(1)師のもとでベーダ聖典を学習する学生(梵行)期brahmacarya,(2)家にあって子をもうけるとともに家庭内の祭式を主宰する家住期gārhasthya,(3)森に隠棲して修行する林棲期vānaprastha,(4)一定の住所をもたず乞食遊行する遊行期saṃnyāsaの4段階(〈四住期〉)を順次に経るものとされ,各段階に厳格な義務が定められている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E4%BD%8F%E6%9C%9F-1330374
 「古代インドにおいては、ダルマ(宗教的義務、dharma)・アルタ(財産、artha)・カーマ(性愛、kāma)が人生の3大目的とされ、この3つを満たしながら家庭生活を営んで子孫をのこすことが理想だとされ、いっぽう、ウパニシャッドの成立以降は瞑想や苦行などの実践によって解脱に達することが希求されたところから、両立の困難なこの2つの理想を、人生における時期を設定することによって実現に近づけようとしたものであろうと推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%9E
 「林棲期<には、>・・・乾地、或いは水中に生じたる野菜・花・根・果実、浄き樹木に生じたるもの、及び森林に生ずる果実より抽出したる油を食すべし」(マヌの法典6-13)
https://shinyokan.jp/senryu-blogs/akiko/20159/

 「注66」の最後の引用文から、菜食主義は、あくまでも出家に対する要請であって、釈迦が、在家に対して菜食主義を求めたようなことはなかったであろうことが分かる。
 とまれ、釈迦が発見し説明した慧は、私見では、人が人間(じんかん)的存在であることに釈迦が気付き、それを、史上初めて(釈迦なりに)説明したものであって、慧について説明したことだけは、釈迦によるところの普遍的意義のある画期的な業績だったと思う。
 注意を要するのは、だからと言って、釈迦は、人間主義を発見したわけでも、いわんや人間主義者になる方法論を発見したわけでも、ないことだ。
 そのことを思わせる記述が、諸経典中の釈迦の生涯・・前世における生涯ではない!・・についての記述中に存在しないからだ。(太田)

  イ 釈迦と仏教についての私見

 「釈迦がまだ29歳の太子・・・の時、王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにして、苦諦に対する目を開き、出家を決意した<とされている。>・・・
 修行者<は、>・・・繰り返し生まれ変わること(輪廻)から生じる苦しみ<に苛まれていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%96%80%E5%87%BA%E9%81%8A

⇒これは、釈迦が、人にとって苦の根源である輪廻からの解放(解脱)のリクツを構築した時に、後付けで作り上げた挿話だろう。
 とまれ、釈迦の悩み・・苦と思ったこと・・の中に、戦争も災害も飢餓もないことに注目すべきだろう。
 戦争がないのは、釈迦も力を司るクシャトリア出身であって、そのクシャトリアが戦争を避けて通れない以上は、釈迦が戦争を苦と言うわけにはいかなかったのだろうし、クシャトリアは統治等を行うという特権的立場にあって飢餓とは無縁だったからだし、災害がないのは、災害がもたらす主要な苦は、死と飢餓であるところ、前者は取り上げ済みだし、後者についてはたった今述べた事情による。
 以上を踏まえ、あえて言うが、釈迦の苦も出家も解脱も、ことごとく、彼がクシャトリア出身であったことによって規定されてしまっているところの、クシャトリアのカースト益の追求を一歩も出ていない代物である、という気が私にはしてきているわけだ。(太田)

 「カピラヴァストゥの城主<で、釈迦の父である>浄飯王<(じょうぽんおう)>は出家に反対した。しかし釈迦がついに出家すると、五比丘を遣わして警護させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E9%A3%AF%E7%8E%8B
 「釈迦<は、>・・・当時の大国であったマガダ国のラージャグリハ<も>訪れ、ビンビサーラ王に<も>出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

⇒釈迦は、クシャトリアである、浄飯王やビンビサーラ王、が、バラモンの権威を失墜させるリクツがないか、思い巡らしていることを受け、自分がそのリクツを構築しようと決意し、そのリクツ探求のフィールドワークへの出発希望を浄飯王に告げたところ、浄飯王は、(恐らくだが、)その気持ちは多とするけれど、何も自分の跡継ぎであるお前がやらなくてもいいだろう、と反対したので、釈迦は、(恐らくだが、)自分の子で浄飯王の孫であるラーフラ(羅睺羅)(上掲)を跡継ぎにすればよろしいのでは、と、説得することに成功し、四比丘をつけてもらい、(恐らくだが、)餞別ももらって出発し、更にビンビサーラ王の下を、(恐らくだが、)餞別をもらう目的で訪れ、ここでも目的を達した上で、本格的な旅立ちをした、と見ることも、あながじ不可能ではあるまい。(太田)

 「釈迦は、6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることができないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるため、やっとの思いで付近のナイランジャナー川(Nairañjanā、尼連禅河)で沐浴をした。
 スジャーターは、「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施しましょう」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャーターの下女プンナー(Puņņā)は樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャーターに知らせた。すると、スジャーターは、喜んでその場に赴いて、釈迦に供養した(乳粥供養)。釈迦は、スジャーターから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食して、ナイランジャナー川に沐浴した。・・・
 <釈迦は、>心身ともに回復した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
 「<その上で、>35歳のシッダールタは、・・・菩提樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)。・・・
 悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。・・・
 <しかし、その後、>釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した。・・・
 釈迦は五人の沙門・・五比丘<(注67)>・・に対して中道、四諦と八正道を説いた([鹿野苑での]初転法輪)<ところ、>五人は、・・・説法を聞くうちに解脱し<、その、>・・・結果、<この時点で>世界には6人の阿羅漢が存在<することになっ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88 ([]内)

 (注67)「阿若・憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ、アジュニャータ・カウンディンニャ、アンニャーシ・コンダンニャ)<、>阿説示(あせつじ、アッサジ)<、>摩訶摩男(まかなまん、マハーナーマン)<、>婆提梨迦(ばつだいりか、バドリカ、バッディヤ)<、>婆敷(ばしふ、ヴァシュフ、ワッパ、ヴァッパ)<。>・・・
 彼らは元々、ゴータマの父であるスッドダーナ(浄飯王)の要請によって苦行林に同行した(出家したゴータマの身辺警護のため父王の命令で派遣されたともいわれている)。彼らはともにウッダカ・ラーマプッタ仙人の下でバラモン修行を行うが、教えに満足して更なる修行を求めて出立する釈迦に同調し、ともに教団を離れた。6年に渡る苦行の後、釈迦は「苦行は悟りを得る真実の道ではない」として苦行林を去り、スジャーターから乳がゆの供養を得た様子を見て、鹿野苑へ去った(苦行放棄)。
 その後、釈迦はブッダガヤにて悟りを得、鹿野苑へ赴いて彼らへ最初に法を説いた。当初、この5人の比丘は、修行を捨てた釈迦が遠くから来るのを見て、軽蔑の念を抱き歓迎を拒んだ。しかし、彼が徐々に近づくと、その堂々とした姿を見て畏敬の念を抱き、自然に立ち上がって座に迎えたといわれる。自らが阿羅漢であり正等覚者(仏陀)であることを宣言した釈迦は、なお教えを受けることを拒む5人を説得して最初の説法<・・初転法輪・・>をなした<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98
 「阿若・憍陳如<は>・・・バラモン出身。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%8B%A5%E3%83%BB%E6%86%8D%E9%99%B3%E5%A6%82
 「阿説示<は>・・・バラモン種と思われるが出身などは不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%AA%AC%E7%A4%BA
 正しくは、五比丘は、初転法輪の結果、「預流果を得た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98
だけとされていて、預流(よる)とは、「正覚への至りが決定し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E6%B5%81
だけで、正覚、私見では解脱、した、というわけではないというのだが、詮索はしないことにしよう。

⇒スジャーターは、恐らく、ドラヴィダ人系のシュードラの一員であり、(これまた恐らくだが、)人間主義者であって、(単に苦行の一環としての断食でもって)やせ衰えたに過ぎない釈迦を誤解して哀れに思い、無償の好意で釈迦に食べ物を提供したからこそ、その行為が釈迦に解脱の大きなヒント・・赤の他人との間にすら、自分は潜在的相互依存関係にある!・・を与えたのだろう。
 (スジャーターが、願掛け成就の返礼を勘違いして行ったのだったのであれば、そんな行為から釈迦が大きなヒントを得られた筈がない。)
 そして、そんな釈迦の背中を最後に押したと見てよいのが菩提樹だ。
 菩提樹(インドボダイジュ)は、「熱帯地方では高さ30メートル (m) に生長する高木<で、>本来は落葉性であるが、常に多湿なところでは常緑とな<り、>・・・絞め殺しの木<(注68)>となることがある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9C%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A5
という木だ。

 (注68)「絞め殺しの木(Strangler Fig)とは、熱帯に分布するイチジク属や一部のつる植物などの俗称である。絞め殺し植物や絞め殺しのイチジクなどとも呼ばれる。他の植物や岩などの基質に巻きついて絞め殺すように(あるいは実際に殺して)成長するためにこの名前が付いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E3%82%81%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9C%A8

 釈迦は、他の木を殺すこともある木が、自分に事実上の家を提供してくれ、雨や暑さ等から保護してくれたことで、スジャーターの件も併せ、衆生(生きとし生けるもの)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E7%94%9F
全てが潜在的相互依存関係にあること、個々の人間を含む衆生は、誰しも、このような顕在的潜在的な相互依存のネットワーク・・縁起!・・の結節点に他ならない、という結論を下し、輪廻の原因とされる特定の個体の行為(カルマ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
は、自分(我)の意思に基づくものではあるように見えても、その意思の形成が他の衆生との相互関係の中でなされる以上は、自分(我)の意思とは言えないと考え、無我
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91
を主張した。
 しかし、既述したように、この考えに徹するのであれば、本来、輪廻そのものを否定することになるはずのところ、釈迦はそこまで踏み込まなかったため、仏教成立後、無我の意味を巡って説一切有部とそれ以外との間で論争が起きたり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8
真諦と俗諦とを区別する二諦(にたい)論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%AB%A6
が登場したりすることになった。
 もう一つ銘記すべきは、釈迦は、衆生に「仏性(ぶっしょう)・・<それを>開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる<もの>・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7
があることに気付いておらず、従って、「この仏性が顕現し有効に活用されている状態<たる、>成仏」(上掲)、なる観念
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
とも、「この仏性が顕現し有効に活用されている」ようになること、すなわち、悟り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A
なる観念とも無縁であったように思われることだ。
 その証拠に、(釈迦のウィキペディアの記述内容が仮に史実に近いとすればだが、)釈迦は、他人に対して人が人間(じんかん)的存在であるとの説法こそしたけれど、利他行・・私の言う人間主義的営為・・を、その生涯にわたって、一切行わないまま入寂しているし、利他行を推奨したこともなさそう、と、きている。
 (ところで、釈迦は、もともとは不特定多数の聴衆に対して説法的なことを行うつもりすらなく、単に、自分のフィールドワークのスポンサーになってくれた浄飯王・・依頼者でもある・・やビンビサーラ王らだけに報告して終わりにするつもりだったとすら考えられるところ、さすがに予行演習をする必要はあると考え、在家のクシャトリアの誰かに説教をしてみたところ、てんで理解してくれなかったので、ダメ元で、長らく自分に奉仕してくれていた件の5人に説教をしてみたところ、彼らは完全に理解してくれた・・阿羅漢となった!・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98
ので一安心したのではなかろうか。
 そして、このことを踏まえ、釈迦は、クシャトリアやバラモンは、出家し、戒を守ってきた者でなければ、自分の、縁起に関する説法は理解できない、ということにしたのではなかろうか。)
 つまり、釈迦は、成仏して(悟って)いないっぽいのだ。
 更に付言すると、既述したことに照らせば、初転法輪・・不特定多数に対する初説法・・時どころか、釈迦の存命中に、彼が(サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想とを区別しているところの)八正道を説いたはずがないわけだが、既紹介の釈迦の生涯の話の輪郭くらいはほぼ正しいとすれば、悟りならぬ解脱にあたって瞑想的なものが必要だったのは釈迦だけで、彼以外で最初に悟った件の5人が、釈迦の説法・・しかも眉に唾しつつ聞いた説法・・だけで瞑想抜きで解脱できた以上は、いかなる瞑想的なものも解脱の必要条件ではないことになる。
 (そもそも、釈迦が悟りなる観念と無縁であったとすれば、釈迦が、瞑想が悟るための必要条件だなどと考えたワケがないことに・・。)(太田)

 「釈迦が成道後初めてカピラヴァストゥ<(カピラ城)>に帰って説法すると[シュードラ出身の優波離<(注69)>が先ず弟子となった後に、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F ]、<釈迦の叔母の>摩訶波闍波提の子である孫陀羅難陀や諸々の王子、そして<釈迦の子である>ラーフラ(羅睺羅)までもが出家してしまった。王はこれを悲しんで、仏に「以後は父母の許可なくして出家するのを得ざる制度を設けてくれ」と要請すると、仏はこれを受け入れたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E9%A3%AF%E7%8E%8B

 (注69)うぱり。「カピラ城で釈迦族の王子たちの理髪師だった。釈迦が悉多(シッダルタ)として太子だった頃には執事だったともいう。・・・
 諸王子たちは釈迦より、儀礼に従い先に出家した者を敬い礼拝するように命じられると、自分たちの使用人であったシュードラ出身の優波離にも礼拝した。これを見て釈迦は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と讃嘆した。・・・
 釈迦の十大弟子の一人<となり>、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから持律第一と称せられ、釈迦入滅後の第一結集では戒律編纂事業の中心を担った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E6%B3%A2%E9%9B%A2

 釈迦に対する事実上のフィールドワーク依頼主であった浄飯王は、そのような立場であっただけに、釈迦が自分に対して拝復して行ったところの、説法(回答)、を、なんとか理解はでき、ついて行けた・・預流果の境地に達した(下出注70)・・けれど、釈迦の弟達や子供は理解できなかった(注70)ので、どうしたら理解できるようになるのかを訪ね、釈迦は、五比丘達に、何とかしてやってくれと委ねたのではなかろうか。

 (注70)「根本説一切有部毘奈耶破僧事によると、釈迦仏が帰城した際、<釈迦の妃の一人で>・・・羅睺羅(らごら、ラーフラ)を生んだとされる・・・耶輸陀羅<(やしゅだら)>・・・は他の女性衆と共に身を飾り香をつけて出迎え、仏の教えを聞いたが、皆が預流果(聖者の流れに入った位)の境地に達したが、彼女だけは得なかったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E8%BC%B8%E9%99%80%E7%BE%85

⇒釈迦の説法を聞いても、出家の五比丘は阿羅漢、在家の浄飯王は(出来が良かったがそれでも)預流、という「差」をつけたのは、既述の、出家主義を導き出すための釈迦が行った小細工の一つだと私は解している。


[釈迦は五比丘への説法後、カピラ城に直行したのかしなかったのか]

 表記について、私は、釈迦のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 α
に拠って、釈迦は、五比丘以外の出家信徒ゼロ、在家の信徒ゼロ、で、かつ、いまだ教団を形成していない状態、で、カピラ城に帰還した、的に書いたわけだが、Buddha(仏陀)の英語ウィキペディア・・仏陀ならぬ釈迦の英語ウィキペディアは存在しない!・・
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Buddha β
には、’The Theravāda Vinaya and the Catusparisat-sūtra also speak of the conversion of Yasa<(注71)>, a local guild master, and his friends and family, who were some of the first laypersons to be converted and to enter the Buddhist community. The conversion of three brothers named Kassapa followed, who brought with them five hundred converts who had previously been “matted hair ascetics”, and whose spiritual practice was related to fire sacrifices.’という、5人の比丘なる出家以外に、在家達・・最初の人物は地域のギルドの主というのだからヴァルナはヴァイシャだろう・・が信徒になった話、と、信徒がどんどん増えて教団が形成された、という話、が、出てくる。

 (注71)耶舎(やしゃ)。ある仏典では「五比丘に次ぐ6番目の弟子となった人」、別の仏典では、「ある日天上から帝釈天の声を聞き、出家して仏のみもとで直ちに阿羅漢となったという。彼の父は悲しみ後を追うと、最初の優婆塞(うばそく、在家の男性信徒)となったという。翌日、彼の父は仏と耶舎を招き教下してもらうと、彼の母と妻も最初の優婆夷(うばい、在家の女性信徒)となった。彼の出家によって親友の4人、そのまた親友50人も出家したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E8%88%8E

 しかし、コラム#13730で紹介したところの、Trapusa と Bhallikaという2人の商人・・当然、ヴァルナはヴァイシャ、ということになる・・が、クシャトリアやバラモン以外の、しかも、在家の初信徒となった、という話は、αでもβでも言及されていない。
 また、βには、αのように、釈迦がカピラ城に帰還した話が明確には紹介されていない。(だから、βは、釈迦が浄飯王と2度と会う機会がなかったかのように読ませてしまう。)

 なお、Trapusa と Bhallika(Bahalika)の挿話は、a fifth-century apocryphal sutra in two parts, traditionally attributed to the northern Chinese monk Tanjing<(注72)> であるところの、The Sutra of Trapusa and Bhallika<(注73)> に出てくるらしい。
https://www.degruyter.com/document/doi/10.7312/salg17994-046/html

 (注72)誰のことか、不明。
 (注73)不詳。

 そもそも、Trapusa and Bahalika なる英語ウィキペディアまで存在し、これには、更に様々な典拠が出てくる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Trapusa_and_Bahalika
 このTrapusa と Bahalika が、日本でいかなる名前で紹介されているのか、それとも紹介されていないのか、ご教示いただけるとありがたい。

 なんとも、インド人自体が不必要に饒舌過ぎることに加え、仏教のことを調べ出すと、典拠によって書かれていることがバラバラでワケが分からなくなる、という私の悩みの一端をご理解いただけただろうか。


[マガダ国のビンビサーラ王]

「<表記は、>釈迦<の>成道<後、>・・・深く仏教に帰依したといわれる。彼は釈迦に対し竹林精舎を寄進した。また、仏が長く止住し説法したグリドラクータ(霊鷲山、耆闍崛山)の山上を通る石段も、彼自身が釈迦の説法を拝するために造ったという。・・・
 彼が娶った妃の一人、差摩(Ksemaa、ケーマ)は、釈迦仏に帰依し比丘尼となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
 「<ビンビサーラの子の>アジャータシャトルは、釈迦仏に反逆し新教団を形成せんとしていた提婆達多<(注74)>・・・に唆され、その言を入れてビンビサーラを幽閉し・・・ついに父王は餓死し命終してしまった。

 (注74)だいばだった(Devadatta)。「釈迦の従兄弟に当たるといわれ、・・・釈迦族の諸王子たちと共に釈迦仏の弟子となったが、その後は驕慢の心を起こし、サンガの教導を提案。釈迦に「五事の戒律」を提案するも受け入れられなかったので、分派して新しい教団をつくったという。彼が釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通り。
・人里離れた森林に住すべきであり、村邑に入れば罪となす。
・乞食(托鉢)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。
・ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。
・樹下に座して瞑想すべきであり、屋内に入れば罪となす。
・魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
 ちなみに、これら提婆達多が提示した五事の戒律が厳しいことや、釈迦仏が入滅の直前に純陀からスーカラマッタヴァという豚肉(あるいは豚が探すトリュフのようなキノコとも)を供養をしてから食した事などから、仏教学においては、初期の釈迦仏教教団の戒律はそれほど厳しいものではなかったという指摘がされている[要出典]。・・・
 釈迦仏の仏教から分離した彼のサンガデーヴァダッタ派は、後世にまで存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E5%A9%86%E9%81%94%E5%A4%9A

 しかし、その後アジャータシャトル<(阿闍世。BC5世紀初頭頃)>はその罪を悔い、激しい頭痛を感ずるようになった。そして医者である耆婆(ジーヴァカ)大臣の勧めにより、釈迦に相談した所頭痛がおさまったため、仏教に帰依し教団を支援するようになったと伝えられている。釈尊が入滅後、王舎城<(注75)>に舎利塔を建立して供養し、四憐を服して中インドの盟主となり、仏滅後の第一仏典結集には、大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB

 (注75)おうしゃじょう(ラージャグリハ)。「マガダ国の首都。・・・
 釈迦がこの都市でマガダ国王ビンビサーラと高弟シャーリプトラ(舎利弗)、マウドガリヤーヤナ(目犍連)の有力な帰依者を得たことが、教団発展の助力となった。
 大乗仏教においても、般若経典はじめ『法華経』『無量寿経』など多くがこの都市近郊にあった霊鷲山や竹林精舎を説法の舞台としている。同様に説法の舞台となることの多い祇園精舎のあった舎衛城と並んで、仏教にとっては重要な八大聖地。
 外輪山の中に「七葉窟」といわれる洞窟があり、ここで釈迦入滅後に弟子達が集まり、伝えられた教えを確認し合う第一回結集が行われたと伝える。仏典編纂の原点ともなった地。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%88%8E%E5%9F%8E

 他方、ジャイナ教の邦語ウィキペディアには、「ジャイナ教<の>・・・祖師・・・マハーヴィーラ在世時、・・・ビンビサーラ・・・や・・・アジャータシャトル・・・などの帰依・保護を受けて、<ジャイナ教は、>すでに強固な教団を形成していたと思われるが、彼の没後はその高弟(ガナダラ、「教団の統率者」)たちのなかで生き残ったスダルマン(sudharman、初代教団長)などにより順次受け継がれ、マウリヤ朝時代にはチャンドラグプタ王や宰相カウティリヤなどの庇護を得て教団はいっそうの拡大をみた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
 Jainismの英語ウィキペディアにはこの時代のマガダ国への言及がないが、
https://en.wikipedia.org/wiki/Jainism
Mahaviraの英語ウィキペディアには、’ Jain tradition mentions Srenika and Kunika of Haryanka dynasty (popularly known as Bimbisara and Ajatashatru) and Chetaka of Videha as his royal followers.’とある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mahavira
 一体どちらが正しいのか?
 Bimbisaraの英語ウィキペディアは、彼のジャイナ教との関りを仏教徒の関りの前に記し、
https://en.wikipedia.org/wiki/Bimbisara
Ajatashatruの英語ウィキペディアもそうしている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ajatashatru

 どちらもクシャトリアが興したところの、クシャトリアにとってバラモン教よりも好都合な宗教だったけれど、クシャトリア以外が遵守すべき戒律の厳しさ(後述)がジャイナ教の布教上の弱点であったのに対し、縁起概念の難しさが仏教の布教上の弱点であった、と、私は考えているところ、前者の弱点が後者の弱点より大きかったために、仏教の普及がジャイナ教の普及を上回る勢いだったことから、クシャトリアのビンビサーラもアジャータシャトルも仏教の檀越(だんおつ)になったが、二人とも、対外戦争を行ってマガダ国の領域拡大を行っており(それぞれの英語ウィキペディア参照)、アジャータシャトルに至っては、親殺し・・ジャイナ教文献では幽閉した父親が自殺した(上掲)・・までやらかしたため、在家のクシャトリアに対しても平和志向を求める仏教よりも国のための戦争は積極的に肯定するジャイナ教の教義の方に、よりシンパシーを有していたのではなかろうか。

 また、「注70」は女性達の話であるところ、これでは、男性達についても、大部分が預流したはずだということになるが、女性達を含め、そうは考えにくい。
 五比丘の戒を守った長年の研鑽は一体何だったのか、ということになってしまうからだ。
 よって、そうは考えにくいということを前提に話を進めるが、釈迦は、彼の弟達や子に対し、五比丘達は長年戒をやってきた(守ってきた)からこそ預流果の境地に達した(釈迦の説法を完全に理解ができた)と思うので、あなた方もそうしたらどうか、と話をし、五比丘に彼らをよろしくと頼んだところ、集団には代表者が必要なので、釈迦がこの集団を率いるように五比丘から要請され、釈迦もやむなくこの要請を受け入れたのではないか、そして、この時点から、この集団は宗教団体的な様相を帯びだした・・サンガ(僧伽)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7
となった・・のではないか、と、想像を逞しくしている。
 女性達についても、耶輸陀羅のウィキペディア(前掲)によれば、「彼女自身も叔母の摩訶波闍波提や5百人の女性と共に出家させてもらえるよう、釈迦仏に三度にわたり懇願したが、なかなか受け付けてもらえず大声で泣いて帰城した。釈迦仏の一行は既にカピラ城を離れヴァイシャリー城の郊外にある大林精舎(重閣講堂)へ赴いたが、あきらめきれなかった彼女たちは剃髪し黄衣を着て跡を追って行った。講堂の前で足を腫らして涙と埃や塵でまみれ大声で泣いていたが、彼女らを見た阿難(アーナンダ)が驚いて・・・、女性の出家を認めるよう<釈迦に>頼み、阿難陀の説得もありようやく出家を許された(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高い)。出家後は自分を反省する事に努め、尼僧中の第一人者になったといわれる。」ということから、男女ともほぼ同時期にサンガが成立した、と言えそうだ。
 (ちなみに、日本の最初の「出家」は6世紀後半、三名の尼・・善信尼、禅蔵尼、恵善尼・・だ。その後、この三名は百済に留学し、受戒している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E4%BF%A1%E5%B0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E8%94%B5%E5%B0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E5%96%84%E5%B0%BC )
 結局、こういうことだ。
 釈迦は思想家ないし哲学者ではあっても宗教家ではなかったとの中村元や植木雅俊の指摘は正しくないと思う。
 私は、釈迦は宗教家を目指したわけではなかったが、結果的にその生存中に、前述したような、無教義の新しい宗教を成立させることとなった、と、考える。
 但し、その時点での仏教は、クシャトリアによって形成されたところの、(優波離のような例外はあったものの、)もっぱらバラモンとクシャトリアのための、リクツっぽい宗教、であったところ、それが万人のための宗教に変化したのは、大乗仏教系においては、仏像、呪術、利他行の奨励、の全部または一部を伴う宗派が出現した時であり、上座部仏教系においては、仏像、呪術、ヴィパッサナー瞑想、の全部または一部を伴う宗派が出現した時である、と、私は考えるに至っている。
 なお、このうち、仏像には芸術的観点から人間世界におけるプラスの資産となっているものがあるけれど、後は、私の言う人間(じんかん)主義的観点から利他行の奨励が高く評価されるだけで、それ以外の、呪術はもとより、ヴィパッサナー瞑想なんてものは論外として、座禅ないしサマタ瞑想やヨーガ等の瞑想もまた、それだけ行うのであれば時間の無駄である、とまで、私は思うに至っている。
 というのも、例えばヴィパッサナー瞑想について言えば、釈迦だけが自力で解脱できたことから、菩提樹下での釈迦の瞑想・・サマタ瞑想だったと考えられる・・が、実はそれまで、釈迦や「弟子」の比丘達が時として行っていた瞑想とは全く異なるものであった、と主張し、その時の釈迦の瞑想のやり方を再発見したとの詐言を弄し、それにヴィパッサナー瞑想と名付けて売り出したところの、上座部仏教の誰か、がいた、と、私は想像するに至っているからだ。
 (ヴィパッサナー瞑想についての、これまでの私の主張(コラム#省略)を全面的に改めた。)
 なお、何度も恐縮だが、釈迦が発見した慧(般若)なるものは、クシャトリアが輪廻から脱し、その反射的利益として、現世においてバラモンの権威を貶めることができるリクツ・・無常、 苦、 無我・・を理解する能力以上でも以下でもないのであって、悟り(涅槃)・・私の言葉によるところの、法華経とも親縁性のある、人間主義者、への回帰(の必要性と可能性)・・ではなかった、と、私は見るに至っている、と、再度申し上げておく。
 (釈迦の入滅後、随分経ってから、少し前で既述したように、仏教の教義宗教化が起こった、と私は考えるに至っている次第だ。)
 釈迦の仏教も、ジャイナ教同様、統治階級であるクシャトリアのニーズに応えた宗教だったので、マガダ国はジャイナ教を採用し(後述)、マガダを含むいわゆる十六大国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD
の他のいくつかの国では仏教が普及した。(注76)

 (注76)例えば、「コーサラ国<は>、ゴータマ・ブッダの出身と信じられている釈迦族を属国としていた<が、やがて、>・・・ゴータマ・ブッダを信奉<するようになった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%A9%E5%9B%BD
 「ヴァッジ国<は、>・・・ヴァッジ族、リッチャヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデーハ族など、8つの部族が連合して形成していたと伝えられている<が、>・・・リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、仏典は伝えている。・・・
 <ちなみに、>ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考えられている。「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表者から成り、国政を取り仕切っていたものと考えられている。近年、このような古代インドの国家をガナ・サンガ国というようになっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%B8%E5%9B%BD
 「ヴァツサ国<の>・・・ウダヤナ王の治世に・・・ブッダは・・・何度か首都カウシャーンビーを訪れ、その教えを広めていて、ウダヤナ王も仏教の在家信者となったと伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%84%E3%82%B5%E5%9B%BD
 「クル国<の>・・・王族の一部には、仏教を信仰した者もいたことが伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%9B%BD

 (脱線だが、「ガナ・サンガ国・・・とは、古代インドにおいて有力者の集会によって指導・統治される制度を有した国々を指す。・・・
 ギリシア人<は、>サンガと呼ばれるインドの政体を「民主制」と理解し<てい>た<。>・・・
 釈迦の出身部族である釈迦族(シャーキヤ族)は後世の仏典では王政の国であり釈迦はその王子であったとされるが、最も初期の仏典の記録では釈迦族も隣接部族との戦争や外交問題に際して「ラージャーの集会」で行動を決定しており、ガナ・サンガ政体を持っていたと考えられている。・・・
 ガナ・サンガ国の政体的特長は仏教教団の構成に大きな影響を与えた。恐らく初期の仏教教団の組織はガナ・サンガ国のそれを手本として形成されたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%9B%BD
というのは興味深い。
 これは、アーリア人に元々その気(け)があったということではなく、やはり、インダス文明下を含む、人間主義的なドラヴィダ人がそのような形の自治をしていいて、それを一部のアーリア人が統治する国で採用した、ということではなかろうか。)
 以下、釈迦の入滅後、どういう順序で何が起こったかについて、私の現時点での考えを、できるだけ簡潔に時系列的に説明してみたい。
 まず、自身は人間主義的言動を行わなかった釈迦だったが、釈迦の入滅後、彼を聖者化すべく、ジャータカ(注77)が創作された。

 (注77)「ジャータカ<は、>・・・本生譚(ほんしょうたん)ともいう。釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語である。十二部経の1つ。・・・
 パーリ語経典経蔵小部に収録され<ている。>・・・
 法隆寺蔵の玉虫厨子には、ジャータカ物語として施身聞偈図の雪山王子や、捨身飼虎図の薩埵王子が描かれていることで知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
 「パーリ仏典<は、>・・・南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた仏典である。・・・
 パーリ仏典は、部派仏教時代に使われていたプラークリット(俗語)の1つであり、(釈迦が生きた北東インドのマガダ地方の方言ではなく)西インド系の、より具体的にはウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種であると推定されるパーリ語で書かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E4%BB%8F%E5%85%B8

 次いで、このジャータカにおける前世の釈迦の人間主義的言動・・歴史上の釈迦は行わなかった!・・が、四無量心(注78)として定義づけられた。

 (注78)「慈・・・悲・・・喜・・・捨・・・<の>四無量心<。>
 <それぞれ、>相手の楽を望む心<、>・・・苦を抜いてあげたいと思う心<、>・・・相手の幸福を共に喜ぶ心<、>・・・相手に対する平静で落ち着いた心<、>動揺しない落ち着いた心<。>・・・パーリ仏典, 中部 大ラーフラ教誡経」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%BF%83

 「推古天皇御厨子」たる「玉虫厨子」は、厩戸皇子ゆかりのものと思われるが、その「須弥座の絵画のうち「捨身飼虎図」と「施身聞偈図」はジャータカ、つまり釈迦の前世の物語である。「捨身飼虎図」は、薩埵王子が飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという物語で、出典は『金光明経』「捨身品」である。・・・「施身聞偈図」の出典は『涅槃経』「聖行品」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%99%AB%E5%8E%A8%E5%AD%90
ところ、厩戸皇子が、慈悲の行為をいかに重視していたかが分かる。)
 また、釈迦を特別視すべく、解脱した人間のうち、釈迦だけを仏陀と呼び、それ以外は阿羅漢と呼ぶこととし、縁起を自分だけで発見できる人、従ってできた人、は釈迦のみで、それ以外の人は、出家し戒を守った生活を送った後、解脱した釈迦、すなわち仏陀、から、またその仏陀が入寂した後は、阿羅漢の誰かから、縁起についての説教を受けなければ縁起を完全に理解することはできない、とした。
 そして、この聖人化した釈迦、すなわち仏陀、の彫刻・・仏像・・を製作すると共に、釈迦の遺骨・・仏舎利・・を仏塔(注79)に収蔵し、それらを礼拝の対象とすることとし、読経等の呪術も創作し、それらが相俟って(個人の極楽への往生や病気の治癒や金運、及び、国家鎮護、等の)現世利益が得られる旨すら宣伝し始めた。

 (注79)「仏塔(ぶっとう)とは、仏舎利(釈迦の遺体・遺骨、またはその代替物)を安置した仏教建築をいう。卒塔婆(そとば)、塔婆(とうば)、塔(とう)、ストゥーパ・・・、供養塔とも呼ばれる。・・・
 その後、ストゥーパが増え仏舎利が不足すると、宝石、経文、高僧の遺骨などを、しかるべき読経などをしたうえで仏舎利とみなすようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%A1%94

 その上で、1世紀頃、四無量心を簡略化して慈悲(注80)とした上で、慈悲心の発動、すなわち、人間主義的言動を奨励するところの、大乗仏教が成立する。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99-91358

 (注80)「慈悲とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。・・・
 元来、4つある四無量心(四梵住)の徳目「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念<。>・・・
 これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。・・・
 <ちなみに、>慈はサンスクリット語の「マイトリー (maitrī)」に由来し、「ミトラ (mitra)」から造られた抽象名詞で、・・・悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 釈迦が気付いたところの、縁起(=自然/生きとし生ける者が潜在的/顕在的相互依存関係にある)、を踏まえれば、人は私の言う人間主義的に生きるべきであることに思い至り、ジャータカを著し始めた人物や慈悲を強調し始めた人物、すなわち、仏教をローカルな「宗教」から時と地域を超えたグローバルな思想、もとい、科学、へと変貌させた、仏教信徒たる人物、は不明だ。
 あえて、大胆な想像をすれば、この(これらの)人物(達)は、慈悲だけを訴えたかったけれど、マーケティングの観点から、仏教を信仰すれば現世利益も得られますよ、という下劣な宣伝文句、や、もっぱらかかる現世利益を得るための手段として、彼(彼ら)以外の人々によって「開発」された(と思いたいところの、)仏像、ストゥーパ、呪術、といった仏教小道具類、を排斥しなかったことに、内心忸怩たる思い、疚しさ、を抱いていたために、名乗ることを避けたのではなかろうか。
 しかし、そんなことよりも、遥かに深刻な過ちは、慈悲に満ちた社会ができたとして、全世界がそのような社会で覆い尽くされるようになるまでの間、そんな社会がどうやって、非慈悲勢力からの脅威に対処するか、に、この(これらの)人物(達)が思いを致さなかったことだ。
 そのため、かかる慈悲の普及を目指した社会は、ことごとく、早期に、内外の非慈悲勢力による瓦解を運命づけられることとなり、そのせいもあって、世界は、日本社会等、ごく一部を除いて、未だに非慈悲の社会がその大部分を覆った状態にある。
 これが、私の言う、仏教の呪い(コラム#省略)というやつだ。
 さはさりながら、この(これらの)人物(達)が出現しなかったならば、このアポリアを解く手掛かりを発見したところの、厩戸皇子(注81)のような人物が出現することも、彼が私の言う聖徳太子コンセンサスを形成することも、それを踏まえた私の言う桓武天皇構想が策定されることも、日蓮主義が生まれることも、また、それを踏まえて私の言う島津斉彬コンセンサスが形成されることも、更に、それを踏まえて杉山構想が策定されることも、日本以外で慈悲の社会ができる可能性が生じることも、なかったのだから、この(これらの)人物(達)の偉大さは銘記されるべきだろう。

 (注81)厩戸皇子は、その著の『法華義疏』の中で、「四安楽者。一智慧行。二説法行。三離過行。四慈悲行」と書いている。
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E6%82%B2-74800
 私なりの思い切った現代語訳をすれば、「人にとって4つの楽しみがある。我々が人間(じんかん)的存在である(自然や生きとし生ける者は相互依存関係にある)ことを知ること、その認識を社会に広めること、非人間主義的言動を行わないこと、そして、人間主義的言動を行うこと、だ」といったところか。
 なお、紫式部は、『源氏物語』の蜻蛉の中で、「仏のし給ふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれと、思ひ続け給ひつつ、行ひをのみし給ふ」と書いている(上掲)ところ、こちらは、人間主義的言動を行うことは人として当たり前のことだ、といったところか。

 (そして、この(これらの)人物(達)のおかげで、棚から牡丹餅的に大偉人ということにされてしまった釈迦は、なんという果報者だろうか。)
 「初期仏教・・・において菩薩(巴: bodhisatta)は悟りを開く前の釈迦本人を指してい<た>。・・・
 大乗仏教は『ジャータカ』の慈悲行を行う釈迦を理想とし、修行者自身が「仏陀」になることを目ざした。このため大乗仏教の修行者はすべて菩薩と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9
 この大乗仏教において、慈悲の実践に関し、慈悲に関する教宣だけをもっぱら行うべしとする保守派と教宣だけではなく人間主義的言動をも行なうべきであるとする革新派とが出現したと考えられる。
 但し、ここでの保守、革新両派とも、それだけでは、マス・マーケティングの観点からは魅力、迫力不足だと考え、解脱/悟り/救いへの道として、この人間主義的アプローチの他、座禅(サマタ瞑想)による自力アプローチ、や、阿弥陀如来や呪術頼みの他力アプローチ、も、取り揃えて提示した。
 (ここでの革新派が作ったと私が考えている)法華経の中でも、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四で、「常に坐禅を好んで、閑(しず)かなる処にあって、其の心を修摂(しゅしょう)せよ」と座禅を推奨しており、
http://minobu-betsuin.jp/blog/view.cgi?mode=view_html&id=226
また、その化城喩品第七で、「たとえば、人跡未踏の荒野があるとする。五百由旬の悪路を大勢の人たちが、宝を求めて歩いていくとする。道は険しく、 人びとは途中で口々に不平をいい始める。疲れた、これ以上は歩けない、前途なお遠い、引き返そう、と。道案内人は、このままでは 宝の処まで行けないと判断し、方便を使って一行を導こうとした。すなわち神通力で、道の途上に城を作って、一行に言ったのである。 あそこに城がある、ゆっくり休んでいこう、そこに滞在してもいい、と。一行は大いに喜んで、そこに止宿した。そうして道案内人は 人びとが、ゆったり保養し元気を回復したのを見はからって、城を消滅させて、言ったのである。諸君、宝の場所はもうすぐ近くだ、 この城はみんなを休養させるために、私が仮に作ったものだ、と。一行はまた元気よく、宝の場所へ向かって歩き出した。」とし、
http://james.3zoku.com/pundarika/pundarika07.html
その「道案内人」の中に、「西に二仏あり、 阿弥陀如来といい、また 度一切世間苦悩如来という。」(上掲)
と、阿弥陀如来を登場させているところだ。
 厩戸皇子の凄いところは、安楽行品第十四の上掲引用経文について、著書の『法華義疏』で、「心が顛倒(てんどう)しているからこそ、山間で常に坐禅をするというようなことをするのであって、それならば、この『法華経』を世に広める暇なぞないではないか、だから経に、常に坐禅を好むとあるが、それは反対の意味でなくてはならない」としている
http://minobu-betsuin.jp/blog/view.cgi?mode=view_html&id=226 前掲
ことだ。
 つまり、皇子は、法華経の説く自力(や他力)は方便である、と見抜いているのだ。
 となれば、日蓮は、良く言えば、厩戸皇子の嫡流、悪く言えばエピゴーネン、であり、仮に日蓮自身が晩年に自身が本仏である(注82)と本当に考えるに至っていたとすれば、夜郎自大も甚だしい、ということになりそうだ。

 (注82)日蓮本仏論。「釈尊は法華経に説かれるように五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)に始まる有始有終の仏である<ので、>釈尊の教えは、末法では役に立たない(白法隠没=びゃくほうおおんもつ)<のであり、>末法の世では釈尊の代わりに、無始無終の久遠元初の根本仏である日蓮の教えによって救われる<、というもの。>」
https://www.japanesewiki.com/jp/Buddhism/%E6%9C%AC%E4%BB%8F.html

 それを言うなら、厩戸皇子本仏論・・但し、私は、日蓮本仏論を唱える人々よりも釈迦観において徹底していて、釈迦の教えはいかなる時代においても役に立たないと考えるに至っているわけだ・・じゃなきゃアカンやろ、ということだ。
 話を続けよう。
 同じく、大乗仏教において、出家と在家の共存を図る保守派と在家主義(注83)をとる革新派とが出現したと考えられ、後者が生み出したのが、『維摩経』や『勝鬘経』だろう。

 (注83)「大乗仏教は,諸部派の出家者も参加したであろうが,主として在家者が中心であり,その教義も従来の部派仏教の出家中心主義と異なり,在家を中心としたものといえる。この時代にいたると,居士仏教は在家仏教とほぼ同じ意とみなされるがそれでもやはり,居士は知識のある指導者的在家の意味あいが深い。大乗経典の中で居士として有名な人物は《維摩経》の主人公の維摩であ<る。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A8%E5%AE%B6%E4%BB%8F%E6%95%99-271869
 「居士<は、>・・・サンスクリット,グリハプティの訳。インドでは家主の意で,商工業を職とする資産家をいう。<維摩がまさにそうであったわけだが、>転じて<支那>では在家の仏道修行者を意味したが,現在,日本では仏教に帰依した男の在家信者の称。鎌倉時代以後,禅宗の有力な信者にこの号を贈り,武将の戒名の下に付けた。後世には一般化し,庶民も戒名の下につける。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%85%E5%A3%AB-64641

 そして、慈悲における革新派と在家主義をとる革新派とは、概ねオーバーラップしていた、と、考えられる。
 厩戸皇子が、『法華経義疏』と併せ、『維摩経義疏』と『勝鬘経義疏』を執筆した趣旨は言うまでもなかろう。
 皇子は、徹底した在家主義者だったのだ。
 出家(僧、僧尼)もまた方便なり、と、考えていたのだろう。
 出家し、そのまま生涯を終えた日蓮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
は、この点でも、厩戸皇子に比して堕落した存在だった、と、言えるのかもしれない。
 このように、仏教は、日本で、厩戸皇子によって、最も普遍的にして科学的な宗教・・但し、慈悲実践推奨が教義とは言えないのであれば、教義なき宗教だが・・へと上り詰めたのだ。
 しかし、仏教は、日本以外では、法華経が出現した時をそれなりの頂点として後は転落の一途を辿ったのに対し、日本では、私の言う、縄文人、の実践、というか、生き様、そのものを厩戸皇子が仏教用語で書き表したに過ぎなかったこともあり、現在でも、日本においてだけは、かかる厩戸皇子的仏教/縄文人的生き様、は、基本的に維持されている。(太田)


[アショーカ王とカニシカ王の位置付け]

一 アショーカ王

 (一)チャンドラグプタ(?~BC298?年)

 「チャンドラグプタ<(注84)は、>・・・紀元前4世紀末に北西インド地方で、<マガダ国の>ナンダ朝<(注85)>に反旗を翻して挙兵した。・・・

 (注84)「チャンドラグプタの出自については明らかではない。バラモン教系の文献ではシュードラ(インドのカーストの中で最下位)の出身であるとされ、仏教系の文献ではクシャトリア(バラモンに次ぐカースト)の出身であるとされている。
 これはマウリヤ朝が仏教という、当時のインド世界においては非正統派に属した宗教を保護したために、バラモン教の高位者たちがその王を軽視したことによるといわれるが、正確な所は分からない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
 (注85)「紀元前4世紀頃・・・のマガダ国に勃興した王朝。シュードラ出身の王朝として当時、また後世においても忌避されたが、強大な軍事力を持ってガンジス川流域に帝国を築き上げた。旧来の身分秩序を崩し、後のマウリヤ朝によるインド亜大陸統一の土台を作ったと評される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9C%9D

 首都パータリプトラを占領するとダナナンダを殺害してナンダ朝を滅ぼし、新たにマウリヤ朝を創建した。この挙兵には、思想家カウティリヤ<(注86)>が深く関与したといわれている。・・・

 (注86)「バラモン<である>・・・カウティリヤの残したと伝わる「実利論」はサンスクリット語で書かれた冷徹な政治論であり、マックス・ヴェーバーは「マキアヴェッリの『君主論』などたわいのないものである」と評している。・・・
 王朝草創期において引き続き政治顧問の役割を果たし、事実上の宰相となっていた。・・・チャンドラグプタの死後も、その息子で後継者のビンドゥサーラ王のもと、引き続き補佐を行っていたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%A4

 紀元前317年から316年頃、アレクサンドロス大王がシンド(インド北西部)の太守に任命した北部太守代行エウダモス・タクシレスと南部太守ペイトンの軍勢をインド北西部から放逐した。紀元前305年頃、アレクサンドロス大王の遺将(ディアドコイ)の一人でセレウコス朝の創始者セレウコス1世がインダス川を越えて北西インドに侵入したが、チャンドラグプタは60万とも言われた軍事力を背景にセレウコス1世を圧倒し、優位な協定を結ぶことになった。・・・
 ガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含む、インド史上空前の巨大帝国を形成した。・・・
 チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家し、ジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)

⇒チャンドラグプタは、もともと、仏教よりもジャイナ教に惹かれていたと考えられ、だからこそ、「インド史上空前の巨大帝国を形成」できたわけだ。(太田)

 (二)ビンドゥサーラ(BC293?~268?年)

 「チャンドラグプタの息子<。>・・・ビンドゥサーラはアージーヴィカ教<(注87)>の信者であったと伝えられる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9

 (注87)「仏教やジャイナ教と同時期に生まれた宗教である。マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた。さらに意志に基づく行為や、修行による解脱をも否定した。・・・現在信徒はいない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AB%E6%95%99

⇒ビンドゥサーラもまた、仏教信者ではなかったからこそ、「巨大帝国」を維持できたわけだ。(太田)

 (三)アショーカ(阿育王。BC1268?~BC232?年)

 「ビンドゥサーラ・・・の息子であったと伝えられる。・・・
 彼の治世第8年頃(紀元前260年頃)に仏教に改宗したと推測されるが、当初はそれほど熱心ということは無かった。しかし、治世9年目に行われたカリンガ戦争がアショーカの宗教観に大きな影響を及ぼすことになる。・・・
 激戦の末カリンガ国を征服した。この時15万人もの捕虜を得たが、このうち10万人が殺され、戦禍によってその数倍の人々が死に、多くの素晴らしきバラモン、シャモン<(注88)>が殺され、多くの人が住処を失ったという。

 (注88)「バラモンと並び称される沙門とは、一般にヴェーダ聖典の権威を認めない宗教者を指した語であり、バラモン教以外の宗教権威者の総称であった。当時仏教やジャイナ教の修行者は沙門とよばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D

 アショーカ王はこれを深く後悔し、この地方の住民に対し特別の温情を持って統治に当たるよう勅令を発した。以後対外遠征には消極的になり「法(ダルマ)の政治」の実現を目指すようになったという。・・・

⇒アショーカが、インペリアル・オーバーストレッチを直感し、周辺諸国に与える脅威感を緩和し、かつ、国内における叛乱の芽を摘もうとして、意図的に敬虔な仏教徒を演じた可能性も排除できない。(太田)

 漢訳の仏典で菩薩に相当する部分が、石柱ではブッダとなっており、大乗の菩薩思想が登場する以前の資料としても注目されている。 アショーカ王の時代は仏教の歴史でいう「根本分裂」の時代に相当し、石柱にも分裂を諌めるアショーカ王の文章が掲載されている。内容からみてアショーカ王は上座部を支持していたようである。・・・
 治世10年頃から釈迦縁の地を回り、また自らの命じた「法の政治」を宣伝し、またそれが実行されているのかどうかを確認してまわる「法の巡幸」を開始した。治世11年にはブッダガヤの菩提樹を詣でている。そして釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して新たに建てた8万4千の塔に分納したと伝えられる。この数字自体は誇張であるが、インドの仏塔の中にアショーカ時代に起源を持つものが数多く存在するのは事実である。また、こうした統治の理想を定めた詔勅を国内各地に立てた円柱などに刻ませた。この碑文はアショーカ王碑文と呼ばれ、現代でもアフガニスタンからインド南部の広大な地域に残存している。・・・
 アショーカ王は、第三回仏典結集を行なった。また法の宣布を目的とした新たな役職として法大官(ダルマ・マハーマートラ、Dharma-mahāmātra)を設定し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した。中央アジアへの仏教の伝播や仏教勢力の急速な拡大は、こうしたアショーカ王の治世を要因とすると考えられている。その他、マイルストーンもアショーカ王によって設置された。
 彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮することなどが上げられている。
 ただし、統治上の理由から辺境の諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮がなされている。彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明しており、バラモン教やジャイナ教、アージーヴィカ教は仏教と対等の位置づけを得ていた。
 こうした法の政治がどの程度成果を収めていたのかははっきりしないが、アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。・・・
 アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂し、その王統や歴史の復元は困難である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B

⇒アショーカ王の慈悲(人間主義)的行為は、仏教を中心とした宗教の振興だけだったように見受けられる。例えば、アショーカ王の碑文に出てくる医薬の提供についても、バラモン、シャモン及びそれに準ずる者(比丘)への提供だったようだ。
 すなわち、「<南伝仏典によれば、>王の即位8年に長老テイッサが病気を治さうとして行乞したが掌量の酥も得ることが出来ないで般涅槃したことを聞き、「我が治世に於てかくの如きの比丘尼資具の得がたきことのありけるかな」といって、城の四門に倉庫を造らせ、薬品を満たして施与したといふ。・・・医療施設を設けたことは、詔勅<(碑文)>の中にも、インド本土は勿論、セイロン島、シリアなどの隣接地方に人間と家畜のための医療所を設け、人畜用の薬草のない処にはこれを移植させたと見えてゐる・・・。」と、大野達之助(注89)は「アショーカ王碑文の研究(一)」の中で指摘しているところ、
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20307/KJ00005098739.pdf
大野は、この医療所や薬草は、巡礼のためのものであったことを示唆しているように思われる。

 (注89)1910~1984年。一高、東大文(国史)卒、駒澤大文教授、同大博士(文学)。日本仏教史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E9%81%94%E4%B9%8B%E5%8A%A9

 実際、アショーカ王当時のマウリヤ朝の「農民生活はさほど豊かではなかったらしい。当時の浮き彫りなどからは農民のみすぼらしさが読み取れ、恐らくそれまでの時代と比較してその生活が向上するようなことはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
のであり、アショーカの平和主義が庶民を裨益したであろうことは疑いないけれども、彼が、慈悲(人間主義)に基づく統治を行ったとは言えなさそうだ。
 アショーカは仏教信徒ではあっても大乗仏教信徒ではなかった、ということになりそうだが、まだ大乗仏教は成立していなかったのだから、そうは言えない。
 より深刻なのは、国王が(少なくともタテマエ上)敬虔な仏教徒になったことに伴う平和主義が、全盛期のマウリヤ朝を一挙に衰退させてしまったらしいことだ。
 もちろん、その結果として、仏教自体も衰退し始めたに違いない。
 にもかかわらず、上座部仏教はもちろんだが、来るべき大乗仏教が、このアポリアに悩んだ形跡すらなく、従って、対策を一切講じなかったことが、一体どうしてなのか、私にはいまだに理解できない。(太田)

二 カニシカ王(概ね2世紀半ばの人物)

 「クシャーナ朝<は、>・・・イラン系の王朝<だが、>・・・<その支配層は、>大月氏の一派であるとも、土着のイラン系有力者であるともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D
 「クシャーナ朝の君主。・・・
 カニシカが王位を得た後に根拠地としたのは北西インドであった。彼は北西インドの都市プルシャプラ(現在のペシャーワル)を首都とした。カニシカは一族郎党を引き連れ、夏はアフガニスタンの草原へ、冬はインドの平原へ移動した。地方の有力者を従属させ、「王の中の大王」として君臨した。東部領支配のため、今日のデリー近くのマトゥラーを副都とした。・・・
 カニシカの時代にはクシャーナ朝はガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となっていたが、彼の治世の後半以降、クシャーナ朝に関する記録は乏しくなり、その歴史の詳細は分からなくなってしまう。・・・
 カニシカの称号の一つは、「シャーヒ・ムローダ・マハーラージャ・ラージャ=アティラージャ・デーヴァプトラ・カイサラであるカニシカ王」であった。「シャーヒ」は月氏の伝統的な言葉で、王を示す。「ムローダ」はクシャーナ族の前にインドを支配したサカ族の言葉で、首長を示す。「マハーラージャ」はインドの言葉で、大王を示す。「ラージャ=アティラージャ」はイランに由来する言葉で、諸王の王を示す。「デーヴァプトラ」は<支那>に由来する言葉で、「デーヴァ」は神、「プトラ」は子の意味で、両方をつないで天子の意味となり、<支那>の「天子」をインドの言葉に翻訳したもの。「カイサラ」はラテン語でのカエサル(帝王)を示す。・・・
 仏典の伝説によれば、カシミール地方の王にシンハと言う人物がおり、仏教に帰依して出家し、スダルシャナと称してカシミールで法を説いていた。カニシカは彼の噂を聞いてその説法を聞きに行き、仏教に帰依するようになったという。カニシカ王は各地に仏塔を建造したことが知られているほか、彼の治世に仏典の第四回結集(第三回とも)が行われたとも伝えられている。
 同じく仏典の記録によれば、カニシカ王は中部インドに遠征軍を派遣し、攻撃させた。同地の王は和平交渉を行い、カニシカ王は3億金を要求した。同地の王がこれを支払い不可能であると回答すると、カニシカ王は2億金を減額する代わりに、宝の「仏鉢」と、サーケータ出身の詩人アシュヴァゴーシャ(漢:馬鳴。弁才比丘)を送るように要求した。アシュヴァゴーシャは同地の王に、広く諸国に仏道を弘める道理を説き勧めた。中部インドの王は2つの宝をカニシカ王に与えることにした。こうしてカニシカ王の下に来たアシュヴァゴーシャは、カニシカ王の手厚い待遇を受け、大臣マータラ(漢:摩吒羅)、医師チャラカ(漢:遮羅迦)と並んで「三智人」とされ、カニシカ王の「親友」となり、カニシカ王の精神的な師となった。
 日本や<支那>の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが、実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい。アシュヴァゴーシャの残した作品などから、カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教、特に説一切有部<(注90)>であったといわれている。

 (注90)「説一切有部(せついっさいうぶ・・・)は、部派仏教時代の部派の一つ。・・・
 主体的な我(人我、アートマン)は空だが、現象世界を構成する要素(法、ダルマ)は・・・過去・未来・現在の・・・三世に渡って実在するとした。・・・
 現在有体・過未無体を主張する大衆部(だいしゅぶ)あるいは経量部と対立し、また西暦紀元前後に興った大乗仏教も“無自性・空”を主張して説一切有部の説を批判した(このことは大乗仏教が教学を形成する上で大きな働きをした。)しかし大乗も中観派についで登場した唯識派になると説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった。・・・
 説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、その成立はやや遡って、前2世紀後半と考えられている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8

 実際にはカニシカ王は仏教だけではなく、他の宗教との関係も濃密であった。彼の発行したコインにはシヴァ神・太陽神・月神・スカンダ神・ヴィシャーカ神・火神・風神など伝統的なインド等の神の図像が表わされている。また、彼の支配した時代のタクシラにはおそらくゾロアスター教の拝火神殿と思われる建物も存在している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%AB1%E4%B8%96

⇒「クシャーナ朝のもとで大乗仏教の確立とガンダーラ美術の開花とがみられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99-91358 前掲
にもかかわらず、仏教との関りが喧伝されてきたカニシカ王にして、仏教はワンオブゼムに過ぎず、しかも、その仏教が上座部仏教、大乗仏教の双方から異端視された説一切有部であった、というのだから、もはや、インド亜大陸における仏教の衰退は決定づけられるに至っていた、と見てよいかも。
 恐らく、領域拡大、維持のための戦争に次ぐ戦争にあけくれたと思われるカニシカ王は、アショーカ王の悲劇を知っていたこともあり、仏教全宗派に共通する不殺生戒が気に入らなかったのだろう。

 しかし、仏教にも強い関心を示しただけでも、仏教の呪いは成就してしまった、ということらしい。(太田)

 (なお、私は、厩戸皇子は、将来日本に生れるであろうところの、武士的な人々の毀損された人間主義修復の手段として、私の言う、この大乗仏教の革新派を信仰させたいと考え、この信仰への誘因として、仏像、仏塔、呪術、も併せ導入することにした、と、考えている。)
 縷々述べてきた上記の諸事柄について、これまでなされてきた一般的な説明を批判的に紹介する形で再述すると共に、上記以後の仏教の成行にも触れることとした。↓(太田)

 (3)仏教を巡って

  ア 部派仏教(小乗仏教≒上座部仏教(Theravada Buddhism))

 「小乗(・・・Hīnayāna)とは仏教用語で、小さい(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)を意味する語。個人の解脱を目的とする教義を大乗側が劣った乗り物として貶めて呼んだもの<。>・・・
 竹村牧男は、大乗と小乗(部派)の違いについて、小乗(部派)では人間は釈尊にはほど遠く、修行しても及ばないと考えられているのに対して、大乗では人間は釈尊と同じ仏になれると考えられているとしている。また、小乗(部派)では修行の最終の地位は阿羅漢であるのに対して、大乗では最終的に仏となることを目標に掲げるとしている。植木雅俊は、小乗は出家至上主義とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B9%97

⇒異論はないが、出家至上主義の実態は、出家と在家のギブアンドテイク・・出家は在家から生活の資を得て輪廻からの解脱を果たし、在家は出家への支援の功徳により、輪廻において良い生まれ変わりを果たしたり、現世利益を得たりする・・である、というのが、私の見方だ(後で再述)。(太田) 

 「<大乗仏教においては、>三法印・・・諸行無常印<、>・・・諸法無我印<、>・・・涅槃寂静印<。>・・・上座部仏教においては、三相・・・諸行無常,一切行苦,諸法無我・・・
 中村元は、三法印は部派仏教のものであり、それに対して、大乗仏教は諸法の実相を説く「実相印」を標幟とするとしている。大乗仏教では部派仏教の三法印とは別に、諸法実相の「一法印」がよく説かれるとされる。中村は実相印を第四の印としている。なお、諸法実相が意味する内容は諸宗派の教学によって異なる。中村は、龍樹(ナーガールジュナ)<(注91)>は三法印のほかに別の法印を立てなかったとしている。

 (注91)150~250年頃。「中観派の祖である<と共に、日本の>・・・蓮如以後の浄土真宗では八宗の祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。・・・<また、日本の>真言宗では、龍猛が「付法の八祖」の第三祖とされ<る。>・・・<更に、>哲学者の梅原猛は、龍樹は釈迦の仏教を否定し、大乗仏教を創始したとしている。一方、中村元は、<大乗仏教を創始したとは言えないとする。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9
 「八宗<とは、>・・・八つの宗旨を表すのではなく、全ての大乗仏教の宗旨・宗派のこと。大乗八宗の祖龍樹菩薩と呼ぶ場合はこちらの意味。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%AE%97
 「付法八祖<とは、>真言宗八祖の一つで、付法を相承した八人の祖師をいう。大日如来・金剛薩埵・龍樹・龍智・金剛智・不空・恵果・空海」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E6%B3%95%E5%85%AB%E7%A5%96-2080396
 「付法<とは、>・・・師が弟子に教法を授けること。この伝授の連続は付法相承といわれ,その印として衣鉢を授けたり,付法の証明書である印信 (いんじん) を与えたりする。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E6%B3%95-125736

 袴谷憲昭はエジャートンの『Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary』には“dharmamudrā”の用例が三つしか挙げられておらず、すべて梵文の法華経によるものであると指摘している。また袴谷は、坂本幸男による「小乗教は三法印、大乗は諸法実相印。」という言明について、天台宗の智顗の所説に依っていることを推測している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%95%E5%8D%B0

⇒これらは意味のない詮索だという気がする。
 なお、「注91」に出てくる、梅原、中村「論争」について言えば、結論的には私は中村説乗りだが、理由は、中村らとは違って、私は、大乗仏教の上座部仏教との最大の違いを、慈悲(人間主義性)の重要性を説いているか否かであると考えているところ、龍樹の伝記である『龍樹菩薩伝』の中に、龍樹が慈悲に基づく何らかの実践をした形跡が皆無
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2047.pdf
だからだ。(太田)

  イ 中観派

 「中観派の教理は、般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。
 この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナ<(龍樹)>に始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。・・・
 ナーガールジュナの思想の流れは中国にも伝えられた。それはクマーラジーヴァの翻訳による中論と十二門論および、アーリヤデーヴァの百論に基づく宗派として成立し、三論宗と呼ばれる。三論宗の大成者は吉蔵(549-623年)である。・・・
 日本には、吉蔵の弟子であった慧灌が625年に来日して三論宗を伝えた。三論宗は、平安時代の末には密教と融合して衰えた。
 中村元は、中論や大智度論などに基づいて空・仮・中の三諦円融や一心三観を説く天台宗もナーガールジュナの思想に基づくとしている。また、ナーガールジュナの十住毘婆沙論の浄土教関係の部分は後世の浄土教の重要な支えとなり、密教もまたナーガールジュナの思想の延長上に位置づけることができるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE
Madhyamaka
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiz-_ierpWBAxUys1YBHQI4CD0QFnoECBkQAQ&url=https%3A%2F%2Fen.wikipedia.org%2Fwiki%2FMadhyamaka&usg=AOvVaw2p2QjdTGyfkniyfsF1Zt10&opi=89978449
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiz-_ierpWBAxUys1YBHQI4CD0QFnoECBsQAQ&url=https%3A%2F%2Fplato.stanford.edu%2Fentries%2Fmadhyamaka%2F&usg=AOvVaw2UxwdObw_idgNny9orvpMb&opi=89978449
 龍樹(Nāgārjuna。2世紀に生れる。)「鳩摩羅什訳『龍樹菩薩伝』によれば南インドのバラモンの家に生まれ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

⇒縁起について、釈迦自身が語ったことをより精緻に語ろうとしたところで、そんなものは、何も生み出さない。
 何かを生み出したいのなら、科学的に取り組まなければならなかった。
 例えば、(太陽の発する熱によるところの)太陽と地球の縁起、(植物による光合成によるところの、或いは動物による植物の受粉によるところの、或いはどちらも細胞によって成り立っているところの、もしくは食物連鎖を通じての)地球と植物、或いは植物と動物の縁起、の追究、といった・・。
 なお、中村とは違って、私は、天台宗は慈悲を重視する法華経を重視していることから、「天台宗<が龍樹>の思想に基づくと」は考えておらず、また、「<龍樹>の思想<が>・・・浄土教の重要な支えとなり、密教もまた<彼>の思想の延長上に位置づけ<られ>る」とも思わない。
 浄土教については後述参照、また、密教については、「真言密教の学者としての<龍樹>・・・は・・・『中論』などの空思想を展開させた著者・・・とは大分色彩を異にしているので別人ではないかとおもわれる」とする中村元説(上掲)に従う。(太田)

  ウ 瑜伽行派(唯識派)

 「もともとは、坐禅瞑想・・サマタ瞑想だろう(太田)・・の間に外界の存在や心象が消えうせ、根源的な心識のみが唯一の実在として残る観行(かんぎょう)に基づいて生じた思想であった」
https://kotobank.jp/word/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E6%B4%BE-144960
 「ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。 とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え、深層意識の阿頼耶識が自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)。
 弥勒(マイトレーヤ)を祖とし、無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)が教学を大成した。のち、論理学を完成した陳那(ディグナーガ)、『成唯識論』の思想を展開した護法(ダルマパーラ)などが出ている。・・・
 東アジアには唐時代に玄奘(三蔵法師)の仏典請来により体系がもたらされ、唯識を元に法相宗が立てられた。日本へは奈良時代に伝来した。興福寺、薬師寺に伝わっている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
 「弥勒(・・・Maitreya・・・<。>270年頃-350年頃(宇井伯寿 説)<、>350年頃-430年頃(干潟龍祥 説)<)。>・・・インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派の開祖とされる人物」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92_(%E5%83%A7)

⇒唯識派の瞑想はサマタ瞑想だったと思われるが、同瞑想は、自然や他の生物との相互依存性(縁起)を体感する手法としては有効だったと考えられるし、同派の副産物としての論理学も評価されるべきだが、後は、中観派への批判がそっくりそのままあてはまりそうだ。(太田)

  エ 大乗仏教(Mahayana Buddhism)

 話を簡単にするために、既に示唆したように、私は、法華経の成立を大乗仏教の成立とみなすことにしたい。
 そして、法華経については、この中村元説を採ることとする。↓
 「現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる。
 中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
 この中村元は、龍樹、つまりは、中観派は大乗仏教ではないと言っている(上述)ところ、「龍樹<自身が>・・・ 「宝行王正論」において・・・、「大乗は徳の器であり、己の利を顧みず、衆生をわが身のように利する」として大乗の思想を称賛し、 ゴータマ・ブッダの根本教説を「自利・利他・解脱」とし、六波羅蜜は「利他・自利・解脱」を達成するものであるから仏説であると主張している。また同書において、大乗を誹謗する者に対しては、忠告を行なっている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
と、自身を大乗仏教者と自己規定していることとの整合性がとれないところ、中村元がこのことをどう考えていたのか調べる労を惜しみつつ、私としては、『宝行王正論(ラトナーヴァリー)』は、それが龍樹の著作であるとしているのが 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%A1%8C%E7%8E%8B%E6%AD%A3%E8%AB%96
7世紀の人間である、中観派の月称(チャンドラキールティ。600~650年)だけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E7%A7%B0
、らしいことから、龍樹の著作ではない、としたい。
 なお、瑜伽行派(唯識派)の出現は、3世紀後半なので、中観派や大乗仏教の成立後、ということになるわけだが、中観派による縁起の理論的説明に異議を唱えたのが瑜伽行派(唯識派)であると達観すれば、瑜伽行派(唯識派)は、時系列を超越し、中観派と対の位置付けとすべきだと考え、浄土教の前に唯識派を置く、このような配列にした次第だ。

  オ 浄土教

 「阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる[要検証 – ノート]。極楽にたどりつくまでに”夜見の国”などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる[要検証 – ノート]。・・・
 紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。
 浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 – 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある[要出典]。天親の浄土論は、<支那の>曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。

⇒中観派の教理と阿弥陀如来論/西方浄土論とは水と油の印象があるので、私は、龍樹と阿弥陀如来論/西方浄土論とは無関係であるとする寺本婉雅の説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%9C%AC%E5%A9%89%E9%9B%85
に共感を覚える。(太田)

 なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して<支那>的要素が加味されたと推定される。しかし<支那>・日本の浄土教には大きな影響を与える。・・・
 <支那>では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 – 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の<支那>浄土教の主流となる[要出典]。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは唐の道綽・善導と懐感の一派であった。これらとは別に慧日(慈愍三蔵)も念仏をすすめ、教団を発展させた。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった。
 山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 – 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 – 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。
 道綽の弟子である善導(613年 – 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。
 こうして「称名念仏」を中心とする<浄土教(>浄土思想<)>が確立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99
 (「日本<では、>・・・7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる[要出典]。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。
 比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まった。
 <しかし、>平安時代の著名な浄土教家<は、>・・・いずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。・・・
 <なお、既述したところだが、>法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、と・・・書かれている。」(上掲))

⇒浄土教なるものは、迷信が仏教に混入したもの、というのが私の考えだ。(太田)

  カ 弥勒信仰

 「兜率天で修行中で,釈迦没後56億7000万年にこの地上におりてきて竜華三会の説法を行うとされる弥勒菩薩・・・(マイトレーヤMaitreya)・・・を信仰する弥勒浄土信仰には,弥勒下生信仰と弥勒上生信仰の二つがあり,それぞれ《弥勒成仏経》《弥勒下生経》と《弥勒上生経》に説かれていて,これらを〈弥勒三部経〉とよぶ。・・・
 弥勒信仰は,この未来仏である弥勒菩薩・・・に対する信仰で,仏教に内包されたメシアニズムであ<り、>・・・<この>弥勒<菩薩>の前身の一つは,ヒンドゥー教における救済者カルキ・・・である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0-393035
 「カルキ(Kalki・・・)は、ヒンドゥー教に伝わるヴィシュヌの10番目にして最後のアヴァターラ<(注92)>。

 (注92)「ヒンドゥー教において、アヴァターラ(・・・Avatāra)とは、不死の存在、または究極に至上な存在の「化身」「権現」(肉体の現れ)である。これはサンスクリットで「低下、転落、降下」を意味し、通例特別な目的の為に死のある者への意図的な転落を意味する。ヒンドゥー教ではこの語を主に救済の神ヴィシュヌの化身へ使う。ダシャーヴァターラはヴィシュヌの特に偉大な10の化身である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9

 その名は「永遠」、「時間」、あるいは「汚物を破壊するもの」を意味する。白い駿馬に跨った英雄、あるいは白い馬頭の巨人の姿で表される。はるか未来の暗黒時代(カリ・ユガ)に出現し、宇宙に跋扈するあらゆる悪(アダルマ)を滅して善(ダルマ)を打ち立て、新たな黄金時代(クリタ・ユガ)の到来を促す救世主とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%AD_(%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99)
 「<支那>における弥勒浄土信仰は,道安とその門弟に始まるとされ,法顕も西域やインドの弥勒信仰を伝え,北魏時代には隆盛をきわめ,竜門石窟の北魏窟,つまり5世紀末から6世紀前半にかけての時期には弥勒像が目だつ。しかし,隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。・・・
 白蓮教(びゃくれんきょう)は、<支那>に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山の慧遠の白蓮社に淵源を持ち、・・・明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。・・・
 元代には、・・・何度も禁教令を受けた<が、>元末、政治混乱が大きくなると白蓮教の勢力は拡大し、ついに韓山童を首領とした元に対する大規模な反乱を起こした。これは目印として紅い布を付けた事から紅巾の乱とも呼ばれる。
 明の太祖朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した。朱元璋が最初から白蓮教をただ利用する目的だったのか、あるいは最初は本気で信仰していたが皇帝となって変質したのか、真偽のほどは不明である。
 清代に入ったころには「白蓮教」という語彙は邪教としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した民間宗教結社をまとめて白蓮教と呼んだ。この時代、宗教結社側が自ら「白蓮教」と名乗った例は一例もなく、白蓮教と呼ばれた団体にも白蓮教徒としての自己認識はなかった。邪教として弾圧されることにより白蓮教系宗教結社は秘密結社化し、1796年に勃発した嘉慶白蓮教徒の乱へとつながった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
 「<日本では、>平安中期に弥勒(みろく)信仰が盛んになり,金峰山は弥勒浄土の兜率(とそつ)内院に擬せられ,金剛蔵王は弥勒の化身とされた。これによって御嶽詣(みたけもうで)するものが多く,金峰山は天下第一の霊験所,蔵王は日域(日本)無二の化主とまでいわれた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0-393035 前掲
 「<また、>布袋(ほてい、生年不詳 – 917年(?))は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中<共>浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。・・・<死後、>実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったという。・・・水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。・・・
 中世以降、<支那>では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。・・・
 日本では鎌倉時代に禅画の題材として布袋が受容された。
 庶民には福の神の一種として信仰を集め、室町時代後期には七福神に組み入れられるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B
 「<なお、朝鮮半島において、>7世紀初期から中期にかけて造立されたと考えられている半跏思惟像は,三国の統一を目ざした新羅の支配階層,とりわけ,花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作されたものといわれている。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0-393035 前掲

⇒マイトレーヤについては、誰も主張していないようだが、アブラハム系宗教・・この場合はヘブライ教とキリスト教・・のメシア思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2
が仏教に混入したものに過ぎない、というのが私の考えだ。
 私は、これまでの私の説(コラム#省略)を改め、厩戸皇子は弥勒信仰を退けた、という説に改める。
 「京都府京都市太秦の広隆寺霊宝殿に安置されている・・・<は、>・・・朝鮮半島からの渡来仏だとする説<が有力だが、>・・・聖徳太子から譲り受けた仏像<がこの像であるとの説>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E6%80%9D%E6%83%9F%E5%83%8F
を採り、かつ、「『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝がこの仏像を譲り受けて「蜂岡寺」を建てたという。一方、・・・838年・・・成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や・・・890年・・・頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。
 蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。
 一方、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であるという。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
を踏まえ、厩戸皇子は、この弥勒菩薩半跏思惟像を手元に置いておきたくなかった一方で、贈呈者の心情にも配慮し、下賜した、と、見るわけだ。(太田)

  キ 鎮護国家 

 「鎮護国家<とは、>・・・国家のわざわいをしずめ、安泰にすること。・・・
 《仁王経(にんのうきょう)》や《金光明経(こんこうみょうきょう)》が護国の経典として尊ばれ<た。>・・・
 マウリヤ王朝以後の仏教に現れた傾向で,<支那>・朝鮮・日本などに受容される際にも古代国家の支配者はこの傾向に着目して仏教を保護した。
 <日本では、>奈良時代の仏教政策に端的に現れ,平安期の天台・真言宗もこの役割を担<い、>・・・そのために法華経・仁王般若経・金光明最勝王経などの護国経典を読誦し、あるいは息災増益などの修法を行<った>。」
https://kotobank.jp/word/%E9%8E%AE%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AE%B6-98657
 「仁王経<と>・・・金光明経<は、>・・・姚秦鳩摩羅什(344年-413年)・・・以後南朝梁(502年-557年)以前の選述と推定され、古来、両経とも偽経と言われている。また、その証左として玄奘(602年-664年)訳『大般若波羅蜜多経』(660年-663年)の諸経には共に、該当する経典は含まれていない。・・・
 日本にも古くから伝わり、『仁王般若波羅蜜経<(注93)>』・・・、『法華経(妙法蓮華経)』・『金光明経(金光明最勝王経)<(注94)>』<は、>・・・護国三部経<として>、鎮護国家のために仁王経を講ずる法会(仁王会<(注95)>=におうえ)や不動明王を中心とした仁王五方曼荼羅(仁王経曼荼羅ともいう)を本尊として修される仁王経法が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E7%B5%8C

 (注93)「十六大国は,鎮護国家のためには般若波羅蜜多を受持すべきであると説かれている。また,この経を受持し講説すれば,災難を滅して幸福を得ると説かれている」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C-110881
 「十六大国<は、>・・・ブッダと同時代(前6世紀~前5世紀初め)にインドに存在した16の有力国家。16国のそれぞれについては文献間で一部に出入りがあるが、パーリ語仏典では次の諸国をあげる。(1)アンガ、(2)マガダ、(3)カーシ、(4)コーサラ、(5)バッジ、(6)マッラ、(7)チェーティ、(8)バンサ、(9)クル、(10)パンチャーラ、(11)マッチャ、(12)スーラセーナ、(13)アッサカ、(14)アバンティ、(15)ガンダーラ、(16)カンボージャ。これらのうち、(15)(16)は西北インド、(13)はデカン高原北部、その他の諸国はガンジス川流域に位置している。
 政治形態からみると、(5)(6)は部族共和制をとる国、その他はほとんどが王制をとる国である。部族共和制国家とは、集団、組合などを意味する「ガナ」「サンガ」という語でよばれる国で、ブッダの出たシャーキヤ(釈迦(しゃか))人の国家もその一つであった。ブッダ時代にもっとも有力であったのはリッチャビ人を主体とするバッジ国であったが、紀元前5世紀初めごろマガダ国に滅ぼされた。ガンジス川流域では、やがて王制をとるマガダ、コーサラ、バンサ、アバンティの4国が強力となり「四大国」と称されたが、コーサラ国を併合したマガダ国が他の諸国を圧倒し、前4世紀なかばまでにガンジス川流域の統一を完成させた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD-77524
 (注94)「この経を信受するところには、諸仏菩薩・諸天善神の加護を得ると説く経典。・・・
 本経は空、懺悔の思想を中心とし、四天王、吉祥天、地居天(じごてん)などの仏法守護や、国家鎮護の信仰を配した幅広い、物語性に富む経典である。わが国では国分寺(金光明四天王護国之寺の略)の所依(しょえ)経典であり、最勝会(さいしょうえ)、金光明懺法(せんぼう)、放生会(ほうじょうえ)などの根拠となった。・・・
 のち『法華経(ほけきょう)』に首座を譲った。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C-67211
 「四天王<は、>・・・須彌山(しゅみせん)の中腹にある四王天の主で、東方の持国(じこく)天、西方の広目(こうもく)天、南方の増長(ぞうじょう)天、北方の多聞(たもん)天または毘沙門(びしゃもん)天のそれぞれを主宰する王の総称。八部衆を支配して帝釈天に仕え、仏法と仏法に帰依する人々を守護する。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B-74335
 「吉祥天(きっしょうてん)<は、>・・・後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。・・・
 吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%A4%A9
 (注95)にんのう え。「<支那>では陳の永定3 (559) 年に・・・初めて行われた<ところの、>・・・天下太平・鎮護国家を祈願するために、<仁王般若波羅蜜経>を講説・讃嘆する<もの。>・・・<日本の場合、>100の仏菩薩像と100の高座を設け,100人の僧を請じ,鎮護国家・万民快楽などを祈願した勅・・・法会<(ほうえ)の形で、>斉明天皇6年(660)に始まり、奈良・平安時代には年中行事化した。宮中の大極殿・紫宸殿・清涼殿などで行われた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E4%BC%9A-110879

⇒重祚した斉明天皇の下、実権は皇太子の中大兄皇子にあった中、660年に百済が唐と新羅によって滅ぼされた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
ので、急遽、支那の南北朝時代の南朝の最後の王朝である陳(557~589年)・・<創朝>前から梁末の混乱により、益州は北周に奪われており、また梁から梁の皇族が北周へ亡命して後梁(西梁)が梁から分裂して成立しており、その西梁は江陵を拠点として独自の政権を継続させていた。さらに梁の残党も郢州を拠点として梁の復興をはかっていた。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)
が、安全保障上の観点から藁にも縋る思いで始めたと私が想像するところの、仁王会、を継受して、中大兄皇子が、亡き厩戸皇子に笑われると思いつつも、同じく、藁にも縋る思いで安全保障上の観点から始めたものと思われる。
 それが、爾後、慣習化した、ということではなかろうか。(太田)

 「鎮護国家思想は奈良時代には一般的なものであり、とりわけ聖武天皇による国分寺建立や大仏建立事業は、国家の存在(安泰)と仏教の存在が一体的に取り扱われる象徴的なものでした。また、南都七大寺を保護する等、国家によって仏教研究が奨励されました。
 鎮護国家思想の中では、僧尼令や度牒制度等、仏教に携わる人物を国家により一定程度統制したり、ライセンスを与えるような仕組みが構築され、仏教が国家にリスクを与えないような措置が講じられました。
 統制の一方で、過度な懲罰や信仰の強制、神道の弾圧等が行われていた記録はなく、「仏教=国家(国家仏教)」と言う程の事はなかったとも考えられます。
 鎮護国家思想は平安時代以降にも一定程度受け継がれ、仏教思想の中における「護国」的な考え方や国家と仏教の関係は長らく重要な位置を占めることにはなりますが、奈良時代程には国家的事業・制度と仏教がはっきりとリンクすることはなくなります。」
https://narakanko-enjoy.com/?p=31495

⇒私は、聖武天皇と光明皇后とは仏教政策において同床異夢であって、天皇の方は隋の仏教治国策(注96)を継受したのに対し、皇后の方は、父の藤原不比等から与えられた生前の密命・・聖徳太子コンセンサスへの回帰の環境整備目的で厩戸皇子の仏教観を普及・実践せよ・・を実行した、と、考えるに至っている。

 (注96)「隋<では、>・・・仏教治国策<がとられ、>・・・国寺としての大興善寺を国都の大興城の中心に建立<、>「五衆」や「二十五衆」と呼ばれる教化担当の僧官の設置<、>晩年の仁寿年間(601年 – 604年)の、全国諸州への舎利塔建立<、が行われた。>・・・
 奉仏皇帝として知られる梁の武帝と対比的に語られることが多い。しかし、梁の武帝の場合は皇帝の個人的な信仰に基づく修功徳行為に対し、隋の仏教治国策は、公共事業としての仏教施設建立や、農民への宗教政策など、国家全体の政策として取り組まれていた点が大きく異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E7%AD%96
 「<南朝斉の後、陳の前の>梁<の>・・・武帝<(464~549年。皇帝:502~549年)>の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。・・・
 <但し、>527年・・・以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また・・・寒門<(低い家柄)>出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E8%A1%8D
 「北朝の北魏において、皇帝は「当今の如来」とみなされた・・・が、それに対して、南朝の諸皇帝は、「菩薩戒弟子皇帝」という呼称に見られるように、自らを如来の弟子と見なしたのであった。皇帝を仏そのものとみなして称えるか、仏弟子とみなすかという点は、当時の仏教における南北の総意を考える上で極めて興味深い。
 <ちなみに、北朝系と言える隋の>[文帝<は、>・・・自らを「菩薩戒仏弟子皇帝」と称し<、>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E7%AD%96 ]
<その子>煬帝<は、二代目の皇帝に即位する以前の>・・・591<年、>・・・天台智顗より・・・受戒を果たし(法名は「総持」)、皇帝即位後には「菩薩戒弟子皇帝総持」と自称している。」
https://projects.iq.harvard.edu/files/vinaya/files/funayama_toru_the_transmission_of_mahayana_vows_from_india_to_china_2011.pdf
 「楊堅が・・・生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったという。この時代、熱心な仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは一般的なことではあったが、楊堅の場合は乳母役を引き受けて養育したのが智仙という尼僧であったという。このようなことから、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。
 また、・・・その般若寺は北周の武帝の廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%A0%85
 「開皇10年(590)、当時大きな影響を与えていた天台宗の創始者智顗禅師に対して、文帝楊堅はつぎのような勅書を下している。
 「皇帝、敬しく光宅寺智顗禅師に対して問う。朕は仏教において敬信、情重し、むかし周武の時の仏法の毀壊に対し、発心立願すらく、……
 朕は正法を尊崇し、蒼生を救済し、福田をして永く存し、津梁として無極ならしめんと欲す。………仰いで妙法の門を恐れ、さらに来れる謗讟(ぼうとく)に、宣しく相歓励し、もって朕の心を同じくせん。………」
 ここには文帝が皇帝として、北周武帝の廃仏を目のあたりにして、逆に崇仏の念を強めたこと。そして、仏教の正しい教えを妙法の門に仰ぎ、非難中傷を恐れず、ともに励まし勧めていくとの決意を、天台智顗禅師に披歴している様子がうかがえる。この妙法の門とは、すなわち天台智者・智顗の宣揚した天台法華、妙法蓮華経の法門のことである。
 翌開皇11年(591)晋王(のちの煬帝)が、この天台智顗禅師を楊州に招き、彼を師として菩薩戒を受けている。」(「早稲田大学リポジトリ」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiC0bzqyJ2BAxVLlFYBHQnqDXAQFnoECBUQAQ&url=https%3A%2F%2Fwaseda.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D2689%26item_no%3D1%26attribute_id%3D20%26file_no%3D21%26page_id%3D13%26block_id%3D21&usg=AOvVaw0QUz04XyhN7h-_pMy9JE7Z&opi=89978449

 隋の仏教治国策とは何だったのか。
 下掲に目を通して欲しい。↓
 「一般的に南朝では宋代以降、皇帝により仏教は保護され優遇されていたと見られるのに対して、隋は北周を簒奪した楊堅によって建国された王朝であり、北周の廃仏の後、一転して仏教復興政策を推進したとされる。・・・
 智顗は「大蘇開悟」の後、三十歳のとき陳都金陵に移り『法華経』題目の講説や禅の弘通などに努めるも、やがて都における教化活動から身を引き天台山への入山を決意する。入山後も陳宣帝から優遇を受け、同時に都で教化活動するよう要請を受け続ける。
 その後至徳三年(585)、智顗四十八歳の時、陳後主と永陽王(陳伯智)の要請により、再び金陵に向い、後主とその皇后沈氏にも菩薩戒を授け、『法華文句』や護国経典の『仁王経』の講説を行ったのもこの時期である。・・・
 智顗は単に王朝に随順していたわけでは無く、北周の廃仏を認知していた立場から、いつ豹変するか分からない皇帝の態度に恐々としながらも皇帝に仏教の理念を伝えることによって国家全体をより正しい方向に向かわせることを願っていたと言えるであろう。
 一方、王朝からの働きかけはどうであろうか。江南仏教界の第一人者たる智顗の指導的立場は、陳隋両朝とも決して無視することは出来ず、智顗に崇拝の念を起こすことは人民統治の点からすれば有効であったに違いない。」(坂本道生(注97)「智顗と王朝の交接」より)
https://nbra.jp/files/pdf/2015/2015_08-01.pdf

 (注97)さかもとどうしょう。北大博士(文学)、種智院大学非常勤講師、叡山学院准教授。
https://ci.nii.ac.jp/naid/500000544572
https://tg-kyoto.consortium.or.jp/course-list/show/140
http://www.tendaitokyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2023/04/r05_kouzaichiran_0407.pdf

 隋が創建された頃は、北朝における累次の廃仏政策にもかかわらず、南北朝地域において、仏教を信じる者は多かった上、楊堅(541~604。皇帝:581~604年)は仏教的環境の下で生まれ育てられたことから、彼は仏教信徒として人となったこともあり、乗っ取った北周の人々に対し、仏教重視政策を打ち出すことは、人々の支持を固めるためのものだっただろうし、智顗に礼を尽くしたのは、征服した陳の人々の人心収攬のためだっただろうし、仏教の布教に務めたのは、平和志向の教義を浸透させることで反乱の気運を醸成させないためだろう。
 この楊堅が、真の仏教信徒と言えないのは、北周の武官として立身出世し、対北斉戦で戦功を挙げ、反乱を武力で鎮圧し、帝位を簒奪した上で北周の皇族を前皇帝を含め、多数殺害したこと、隋を建ててからも、後梁、次いで陳を滅ぼし南北朝を統一し、今度は、高句麗遠征を行う、という一方で、救恤的、福祉的な施策を行った形跡がない、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%A0%85
という、彼の反仏教的生涯から明らかだろう。
 楊広(煬帝)(569~618。皇帝:604~618年)に至っては、「腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って<皇太子であった兄の>楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめ<、>604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した・・・。即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、・・・国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾・林邑・流求(現在の台湾、一説に沖縄)などに出兵し版図を拡大した<だけでなく、>612年には・・・高句麗遠征を<開始するも、結局>失敗に終わ<り、>」もちろん、救恤的、福祉的な施策など皆無、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
という、仏教信徒云々以前の、人非人だった。
 楊堅と楊広の違いは、前者は、全支那において仏教の布教に務めることだけで十分なる利他行であってそれが自分の解脱/悟りをもたらす、と信じていた可能性があるのに対し、後者は、そんなことに関心があったとは思えないことだ。
 晋王時代に智顗から菩薩戒を受けたのは、智顗を重視する姿勢をとっていた父楊堅の気を引くために過ぎず、また、皇帝即位後の仏教治国策の継続は、楊堅と同様の目論見の継続だったことに相違あるまい。
 さて、肝心の光明皇后についだ。
 「光明皇后<は、>・・・母の県犬養橘三千代・・・<が>不比等邸で同居していたと考えられることや、のちに<自身(光明子)が>・・・不比等邸で出産していることから、不比等邸で育てられた可能性が高い。<彼女>の誕生と同じ年に、文武と宮子の間に嫡子の首皇子(聖武天皇)も誕生した。宮子は首を出産したのちにひどいうつ病に罹り、首は母と離れて養育された。首<も>・・・、外祖父の不比等と三千代に養育されたとする説があり、事実であれば首と光明子は幼いころに不比等邸で共に育った幼馴染であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
、と、天皇と皇后は同じ環境で幼児期を過ごした可能性すらあるけれど、天皇は母を通じて祖父の藤原不比等らの考えをインドクトリネートされる機会がなく、また、首皇子は、「当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の<藤原氏の>母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことから、青年時代は、藤原氏とは意識的に距離を置いていたのではないかとも想像され、かつまた、「724年<に>・・・24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位」(上掲)はしたものの、「<元正天皇は>譲位後も・・・太上天皇<たる>・・・後見人としての立場で聖武天皇を補佐し<、>・・・743年<に>・・・聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発して<おり、>晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって・・・政務を遂行していたと見られている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
上、「729年・・・に長屋王の変が起き<るまでは、天武天皇の孫で、天武朝の>・・・皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた<し、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
「<また、>737年<からは、>・・・756年<までは、>・・・橘諸兄<が政権を担当した>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84
ところ、諸兄の父の美努王(みぬおう。?~708年)は大友皇子(弘仁天皇)を裏切って大海人皇子(天武天皇)にすり寄ったと見てよい人物であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%8A%AA%E7%8E%8B
県犬養三千代がこの美努王と別れて藤原不比等と再婚するまでに生んだ子の一人が諸兄であって、彼女は天武天皇の子の草壁皇子の子の文武天皇の乳母を務め、かつまた、草壁皇子の妻である阿閇皇女(元明天皇)にも出仕した(可能性があった)ことから、三千代は宮中で隠然とした力を持ち、再婚相手の不比等、と共に、実子の諸兄の出世を実現させた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E4%B8%89%E5%8D%83%E4%BB%A3
という、両親の七光り出世人物であり、不比等とは違って、天武朝命の人物だったと見てよい。
 私が何を言いたいかというと、光明皇后は、最新の注意を払って自分の真意を隠しつつ、父不比等の天智朝的遺命を実行する使命を帯びていたと思われる、ということだ。
 そこで、光明皇后は、「聖武天皇<が即位してから>・・・災害や疫病(天然痘)が多発した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことを「利用」して、聖武天皇に対して、自身は信じていなかったけれど、鎮護国家思想を、隋の仏教治国策を引き合いに出して吹き込み、「728年・・・聖武天皇<に>・・・<自分達の>幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うためとの名目で、若草山の麓に「山房」を設け<させ>、9人の僧を住まわせ<、やがて、>・・・金鐘寺<とした上で、>741年・・・には国分寺建立の詔が発せ<しめ>、これを受けて翌・・・742年・・・、金鐘寺は大和国の国分寺兼総国分寺と定められ、寺名は<鎮護国家思想の>金光明寺<(上出)>と改め<させ>た。・・・743年<には>・・・大仏造立の詔を発<せしめた。ちなみに、>・・・747年・・・の頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
 「<また、>729年・・・8月に光明子が皇后に立てられ<ると、>・・・翌9月には皇后の家政機関として皇后宮職(皇后付の役所)が置かれた<が、>皇后宮職の設置<は>初めての事である。・・・翌・・・730年・・・4月・・・に、皇后宮職に施薬院が設置され・・・、同じころに悲田院も設置されたと考えられている。施薬院の運営には皇后の職封と不比等から相続した封戸の庸が充てられた。同年4月・・・に光明子は興福寺五重塔の建立を発願する。建立にあたって光明子自らが簀の子をもって土を運んだと伝わっている。五重塔は既に完成していた聖武建立の東金堂と一体となり東院仏殿院を形成した。・・・光明子は病に伏せながらも、733年<に>・・・死去<した母>三千代の菩提を弔うために興福寺西金堂を建立<する>・・・。西金堂はのちに焼失してしまうが、阿修羅像で著名な八部衆や十大弟子など建立当時の仏像が現存している。また、光明子は三千代の死後から法隆寺に度々施入を行うようになる。
 (「現在の東院伽藍は光明子を中心にした三千代の女性親族による建立である可能性が東野治之<(注98)>らによって指摘されており、光明子らが三千代から太子信仰を受け継いだとしている。

 (注98)1946年~。大阪市立大文学部卒、同大院修士、奈良文化財研究所技官、奈良大助教授、阪大共用部助教授、同大文学部教授、奈良大文学部教授、東大博士(文学)、奈良大退職。角川源義賞、毎日出版文化省等を受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%87%8E%E6%B2%BB%E4%B9%8B

 また聖徳太子虚構説を唱える大山誠一<(注99)>は、法隆寺薬師如来像の光背銘文などを捏造して太子信仰を創出した人物を光明子としている。」(同じ典拠)という2説があるが、前述した私の説に基づき、どちらも誤りであると思われる。

 (注99)1944年~。東大文学部(国史)卒、同大院博士課程単位取得満期退学。「各大学の非常勤講師を経て、1991年より中部大学人文学部日本語日本文化学科教授。1999年東京大学より博士(文学)の学位を授与される。2014年定年退職。「大山は、飛鳥期にたぶん斑鳩宮に住み、斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう有力王族、厩戸王の実在は否定していないが、推古天皇の皇太子かつ摂政だった聖徳太子の実在については否定している。大山によればこれらは、720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像である。その目的は、大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くことであった。その後さらに、天平年間に疫病流行という危機の中で、光明皇后が行信の助言により聖徳太子の加護を求めて、法隆寺にある様々な聖徳太子関係史料を作って聖徳太子信仰を完成させた。また鑑真や最澄が、その聖徳太子信仰を利用し、増幅させていった。・・・
 戦前の津田左右吉や戦後の小倉豊文、田村圓澄らが聖徳太子の事蹟を検証し、それらのほとんどが後世の仮託であることを指摘していた。大山はさらに踏み込んでそれらは『日本書紀』を舞台に藤原不比等らが、法隆寺を舞台に光明皇后らが捏造したものとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E8%AA%A0%E4%B8%80

 もちろん、三千代も不比等から厩戸皇子の仏教をインドクトリネートされたということはありうるし、大山説は、私のように、聖徳太子=厩戸皇子、という説に立てばだが、「律令国家の主宰者である天皇」像が私見では厩戸皇子の考えではありえないことはともかくとして、私の説を補強しているとも言える。)(太田)

 「741年・・・2月・・・、聖武は国分寺<(注100)>建立の詔を出すが、これは光明子の勧めによるものであった。

 (注100)「各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。・・・
 国分尼寺は国家が認めた尼を置く規定であったが、奈良時代中期に戒律が伝わると、朝廷は正式な僧侶の要件に授戒を受けるという条件を追加しながら、女性の授戒を禁止するという矛盾した方針を採ったために、国分尼寺に止住出来る尼がいなくなってしまい、結果的には国分尼寺そのものの存在意義が否定されてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA

⇒「756年に鑑真和上が大仏殿前に戒壇を築き、聖武<上>皇・光明皇<太>后など440余名に[菩薩]戒を授け、翌年に戒壇院が建立された。」
https://nara-jisya.info/%E6%88%92%E5%A3%87%E5%A0%82/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F ([]内)
 「<また、>筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇<が>築<かれ>た(天下の三戒壇)。・・・
 ただし、当時三戒壇では女子の授戒は認めておらず、延暦寺もこれにならったために、鎌倉時代に諸派が独自に授戒を行うまで尼が正式な僧侶として否認されていた時代が長く続くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%A3%87
 といったことを踏まえると、光明皇太后が、女性の受戒、つまりは女性僧侶、を否定する筈がないので、彼女が聖武上皇に押し切られ、2人の子である、女性であるところの孝謙天皇も、父の側に与してそれを了としてそのように定めた、と考えざるをえない。
 ここからも、(天武朝の大義を背負った)聖武天皇/孝謙天皇と(天智朝の大義を密かに背負った)光明皇太后の仏教観には著しい齟齬があったことが分かろうというものだ。(太田)

 光明子は詔が発せられる1月前に不比等から相続していた食封5000戸を返上し、その一部を国分寺に施入している。・・・
 林陸朗<(注101)>・・・は、記録にはないが国分尼寺の建立も光明子の発案であったであろうとしている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

 (注101)1925~2017年。國學院大學文学部(史学)卒、同大助手、専任講師、助教授、教授、同大博士(文学)、國學院短大学長、国學院大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%99%B8%E6%9C%97

 「光明皇后は仏教を自心の救いとするだけでなく、慈悲の実<践>によって社会にも諫言した。その代表的な例が皇后宮職(ぐうしき)(皇后付きの役所)に<設>けた悲田院と施薬院である。前者は古千谷貧者を救う<施設>、後者は病人に薬を与え治療する施設で、薬の購入費用は父・不比等から相続した財産などから出した。・・・不比等から相続した土地土地には、はじめ皇后宮が置かれ、それが平城遷都に伴って宮寺に替えられた。その寺が遅くとも・・・747<年>には法華寺と呼ばれるようになった。全国の国分寺の代表が・・・東大寺であり、国分尼寺の代表となったのが・・・法華寺である。女性のための寺院が男性の寺院と同様に国家により全国規模で整備されたことは、世界の文化史上、類を見ないことといってよい。
 法華寺が光明皇后の発願(ほつがん)によって建立されたこと、尼寺の中心の寺となったことは、『法華経』や『金光明経』の説く女人済度の思想と関係が深い。・・・皇后の諱は安宿媛(あすかべひめ)であるが、・・・740<年>より光明子と称するようになった。その根撰は『金光明経』「滅業障品」に出る「福宝光明」から来ているとする説が有力である・・・。光明皇后が・・・734<年>に法隆寺の東院を造営し、のちにそこで毎年『法華経』を講義させるようにしたのも、『法華義疏』を著した聖徳太子に対する崇敬とともに『法華経』そのものへの帰依があったからであろう。なかでも光明皇后が女人済度の思想に心を動かされたことは間違いない。」(金岡秀郎(注102)「観音菩薩の宗教15」より)
https://www.takaosan.or.jp/takaosanpo/pdf/2019/201903_p10-11.pdf

 (注102)東大院修了、東京外大講師などを経て国際教養大学特任教授。
https://bukkyo-joho.com/cgi-bin/news.cgi?vew=28

 「大仏造営の発願は、<740>年に聖武と光明子が河内国知識寺に行幸し盧舎那仏を見たことがきっかけであり、これも光明子が勧めたことであった。・・・
 745年・・・、平城京の皇后宮があった場所は宮寺に改められ、さらに・・・747年・・・までに法華寺に改称されて大和国国分尼寺となった。法華寺には光明子作、あるいは光明子をモデルにしたと伝わる十一面観音菩薩像<(注103)>が現存している。・・・

 (注103)「十一面観音(じゅういちめんかんのん)・・・)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の1つでもある。・・・
 密教の尊格であり、密教経典(金剛乗経典)の十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経(不空訳)、仏説十一面観世音神咒経、十一面神咒心経(玄奘訳)に説かれている。
 十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。
・十種勝利
離諸疾病(病気にかからない)
一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
水不能溺(溺死しない)
火不能燒(焼死しない)
不非命中夭(不慮の事故で死なない)
・四種功德
臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
不非命終(早死にしない)
從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)・・・
 密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、十一面観音像が多く祀られた。観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3

⇒十一面観音菩薩については、「密教系の尊格であるが、・・・病気治癒などの現世利益を祈願して」ではなく、私見では「密教系の尊格なので、・・・<以下同じ>」だが、光明皇后は、むしろ、自身を含めた在家が行うべき慈悲の言動を指し示してくれる尊格、と、受け止めていたのではなかろうか。(太田)

 <745年、>・・・大仏造営が再開される。この際、聖武と光明子も裾に土を入れて運び基壇を作ったと伝わる。この直後に難波宮に行幸していた聖武は体調を崩す。・・・光明子は聖武の回復を願って新薬師寺を建立した。・・・
 752年・・・に大仏開眼が盛大に行われた。・・・
 光明子の功績として大規模な写経事業を行ったことも挙げられる。光明子の写経事業は私的な写経所から始められたが、これが皇后宮職写経所、東院写一切経所、福寿寺写経所、金光明時写経所、東大寺写経所と変遷・拡大していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

⇒このように、光明皇后は、(厩戸皇子の)仏教の日本全国への布教に務めたところ、国の資金だけではなく、自分の私財・・そして部分的には自分自身・・も投入している上、救恤・福祉を自分の私財・・そして部分的には自分自身・・を投入して行ったわけだ。
 最後に、改めて、聖武天皇の方についてだ。
 同天皇が。「749年・・・、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
、と、天皇の出家の初めての例となった
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E7%9A%87-131801
ところ、これは、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』を書き、在家主義を事実上奨励したと考えられる厩戸皇子の考えに反するものであり、(正しくも)日本全国への仏教布教なる利他行を行っただけでは不安で、楊堅らとは違って、出家までして、自らの解脱/悟りを確実なものにしようとした、と、思われる。
 要するに、聖武天皇にとって、仏教は、自分自身のためのものだったのであり、ある意味、それは、小乗的な仏教でしかなかった、と、言えよう。
 以下蛇足だが、「奈良時代における鎮護国家の理論的支柱と言える『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』・『金光明経(こんこうみょうきょう)』に対して平安時代には『法華経』が加えられ<た。>」
https://narakanko-enjoy.com/?p=31495
 「この三部経の括りを定めたのは最澄だという。
 『溪嵐拾葉集』では真言密教における三つの「経王」(『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』)と護国三部経(こちらは「鎮護国家経王」と呼ばれる)を対応させる説が引用されている。それによると『大日経』には『法華経』、『金剛頂経』には『仁王経』、『蘇悉地経』には『最勝王経』(義浄訳の『金光明経』)が対応する。顕教のものである『法華経』、『仁王経』、『最勝王経』はそれぞれが対応する密教経典の「浅略」であるという。
 円仁は大日経、金剛頂経、蘇悉地経を「鎮護国家の三部」と位置づけた。日蓮は『曽谷入道殿御書』において、この説を最澄以来の鎮護国家を破壊するものとして否定し、これによって比叡山に邪義が生まれ、その邪義が鎌倉に侵入し、やがては日本を滅ぼすとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C 
 「しかし「百座百講の儀」という文言を用いて仁王会・仁王講の流行が批判の対象とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E7%B5%8C 前掲
 金光明経(Golden Light Sutra)の邦語と英語のウィキペディアには、同経が偽経であるとの記述もないけれど、同経が編纂された経緯(についての説)の紹介もまたなされていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C
https://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Light_Sutra
 ここで、下掲を参照されたい。↓

 「紀元前3世紀のアショーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期を迎えた。南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 「シュンガ朝(シュンガちょう、紀元前180年頃 – 紀元前68年頃)は、古代インドのマガダ国に起こった王朝。マウリヤ朝の将軍だったプシャミトラが同王朝を滅ぼして建て1世紀余りの間続いた。・・・ 
 当時シュンガ朝の主要な脅威はギリシア人の来寇であった。・・・
 プシャミトラは仏教を手厚く保護したマウリヤ朝とは一線を画し、仏教教団を弾圧してバラモン教の復興に努め、バラモン教的な儀式を好んで執り行った。彼は当時仏教信仰の中心地であったケイ円寺(雞円寺)で仏僧を殺戮したという伝説が仏典に残されている。ただし、考古学的発見によってプシャミトラの廷臣には仏教徒が含まれていたことが知られており、彼がバラモン教を信奉したにせよ仏典に残されているほど徹底的な弾圧を実際に行ったのかどうかは疑問の余地が大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%9C%9D
 「カーンヴァ朝(カーンヴァちょう 紀元前68年頃 – 紀元前23年頃)は、古代インドのマガダ国に起こった王朝。シュンガ朝に仕えていたヴァースデーヴァ(ヴァスデーヴァ)がシュンガ朝の王デーヴァブーティを廃して(又は暗殺して)建設したとされる。・・・
 実際にはカーンヴァ朝時代にもシュンガ家が何らかの影響力を保持していた可能性がある。
 カーンヴァ朝<も>バラモン教を重視した王家であった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%B4%E3%82%A1%E6%9C%9D
 「サータヴァーハナ朝(Sātavāhana、<BC>3世紀/<BC>1世紀? – <AD>3世紀初頭)は、・・・アーンドラ朝と<も>よばれる。サータヴァーハナが王家名で、アーンドラが族名である。デカン高原を中心とした中央インドの広い範囲を統治した。パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。・・・
 サータヴァーハナ朝が最も重要視したのはバラモン教であった。ガウタミープトラ王の碑文では、彼が四姓(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)の混乱を正し、絶えず祭礼や儀式、集会を行ったと賞賛された。彼自身も非常にバラモン教的な修辞によって自らを称揚しており、国家の宗教としてバラモン教は繁栄した。バラモン出自であることを誇りとする王家にとってバラモン教的秩序の確立は王権強化の意味において重要であった。・・・
 アーンドラ人が非アーリア系であると推定されている・・・が、既に中央インド以南の地域にもバラモンやクシャトリヤといった身分秩序が普及していたことが理解される。・・・
 一方で他の宗教、特に仏教なども国家の保護の下で活動していた。当時王妃を始めとした王家の女性はしばしば仏教教団に種々の寄進を行っており、しかもそれは国家によって奨励されて援助すらされていた。また、各種の仏教教団は国家によるバラモン教の祭礼に協力し、また各地の仏教窟院にはバラモン教の讃歌が刻まれることがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%8A%E6%9C%9D
 「グプタ朝(グプタちょう、Gupta Empire)は、・・・西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。4世紀に最盛期を迎え、インド北部を統一した。・・・
 グプタ朝はヒンドゥー教を国家の柱として位置づけ、アシュヴァメーダ(馬祀祭)などのヴェーダの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の一部に組み込んだ。村落へのバラモンの移住が始まるのもこの時代である。バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。また、王家はヴィシュヌ神を特に信仰し、「至高のヴィシュヌ信者」との称号を持ち、バラモンの言葉であるサンスクリット語を公用語とした。一方で、ナーランダ僧院<(注104)>がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。

 (注104)「ジャグリハ(現在のラジギール)近郊、パタリプトラ(現在のパトナ)の南東約90キロの・・・ゴータマ・ブッダ が訪れ、”Pavarika” と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法した・・・場所に位置し、427年から1197年まで運営されていたとされる。
 ナーランダはグプタ朝時代に設立され、仏教徒・非仏教徒の両方を含む、多くのインド人やジャワ人の後援者に支えられていた 。約750年にわたり、その教授陣には大乗仏教の最も尊敬される学者たちが在籍した。ナーランダ大乗仏教では、ヨーガカラやサルヴァスチバーダなどの6つの主要な仏教宗派・哲学、ヒンドゥー教ヴェーダとその6つの哲学、さらには文法、医学、論理、数学などの科目を教えていた。
 また7世紀には<支那>からの巡礼者が来訪し、玄奘三蔵は657冊のサンスクリット語仏典を、義浄は400冊のサンスクリット語仏典を持ち帰り、それらの仏典は東アジアの仏教に大きな影響を与えた。・・・
 761年に中観派のシャーンタラクシタ(中: 寂護)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(中: 蓮華生)が密教をチベット仏教にもたらした。サムイェー寺の宗論(792年 – 794年)では、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。・・・
 ムハンマド・バフティヤール・ハルジーの軍隊によって略奪・破壊されたが、その後一部が修復され、1400年頃まで存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%83%A7%E9%99%A2

 しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。・・・
 その後、北インドは混乱期を迎え、606年にハルシャ・ヴァルダナが台頭し、ヴァルダナ朝を興した。しかし、647年にハルシャ・ヴァルダナが没すると、「ラージプート時代」と呼ばれる混乱期が続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF%E6%9C%9D

 以上を踏まえ、1世紀に出現した大乗仏教の先駆者達は、非アーリア系のサータヴァーハナ朝の指導層に対して、アーリア系のマガダ国のマウリア朝が大帝国を築き、仏教を事実上の国教としたにもかかわらず、その後急速に衰退したのは、その仏教が大乗仏教ではなかったからであり、また、ジュンガ朝とカーンヴァ朝が栄えなかったのは、仏教を蔑ろにしたからであって、大乗仏教を事実上の国教とすれば、国家が鎮護されるのは必定である、と、説いた、と、私は想像している。
 しかし、このサータヴァーハナ朝も、また、アーリア系のグプタ朝も、仏教を保護こそしたけれど、仏教を事実上の国教とはせず、大乗仏教は、インド亜大陸では衰退の一途を辿ることとなった、と、考えられる。(太田)

  ク 密教(タントリズム)

  (ア)始めに

 「ヒンドゥー教<の>・・・タントリズム<においては、>・・・タントラ文献は、ヴェーダ聖典とはかかわりなく、ヒンドゥー教の神々によって直接啓示されたとされ、ヴェーダとは異なる儀礼、救済、解脱の道を説く。タントラは、カーストや男女の差別を排し、原則としてすべての人に開かれた、より安易な解脱の道を示し、荘厳重厚で閉鎖的なヴェーダやウパニシャッドと対照をなす。ウパニシャッドや原始仏教の厭世・隠遁を良しとする世界観とは異なり、厭世を条件としておらず、この世の生を肯定するタントリズムの大前提は、古いヴェーダの明るく大らかな世界観を受け継ぐものである。元々シヴァ信仰から生じた。
 タントリズムでは、紀元前5 – 3世紀にかけて確立した厭世、現世放棄主義による「主体の否定」に対する反動として生じたと考えられており、我は幻想であるという考えに対し、現実に苦しみの主体として実感される「我」が我でありながら救済されることが目指され、我は人格神である絶対者(例えばシヴァ神)の限定された一部である、という形で救済が理論化された。ここで言う絶対者は梵我一如におけるブラフマンのような非人格的存在ではない。
 自らの経験を通じて最高真理を知る道であり、神と一体になるために儀式に参加することが重視された。公開された儀式だけではなく、多くの非公開の儀式があり、それはグルを通して明かされる。真理を得るために、男女に代表されるすべての統一が必要とされ、シヴァと神妃、リンガ(男性器すなわちシヴァ)とヨーニ(女性器すなわち神妃)の統一という考えから、性儀式が生じ、性愛または性交を通じて宇宙の最高真理を認識することが目指された。
 生前解脱と現世の享受が主な関心事であり、行者は超越者と同化しながら自己の内にそれを取り込み、世界の生成消滅をコントロールし、自己だけでなく宇宙全体の主になることを目指した。

⇒「正統派」ヒンドゥー教がガンガーがらみの死んだ後に解脱する簡易な方法を提示しただけでなく、「異端派」ヒンドゥー教たるタントリズムは、即身解脱する方法を追求した、というわけだ。
 しかも、即身解脱すれば、あらゆる煩悩の追求、謳歌、つまりは現世利益の追求、が許される、というのだから・・。
 仏教界は震撼したに違いない。(太田)
 
 タントリズムで重要な概念にシャクティの概念があり、これは宇宙だけでなく個体に生命あらしめる原動力で、神の属性とも、一様相ともされる女性原理である。二元論のサーンキヤ哲学同様に、宇宙の最高原理である神は永遠不滅で自らは活動しないとし、神妃になぞらえられるシャクティが宇宙の生成消滅を司った。シャクティは、最高女神から下は魔女、妖精まで女性に帰せられ、人間の緊縛も解脱もその中にあるとされる。解脱の障碍にも宇宙支配の手段ともなるシャクティをなだめ支配する必要があるとされ、これは性の謳歌に通じた。一方、退廃の危険性をはらみ、淫乱・狂操という性格も持っていた。人間を生贄にする人身供犠のような、血なまぐさく陰惨な側面もみられた。
 タントリズムには、従来のインドの宗教における主体性の放棄の姿勢に対して主体性の回復という側面があり、自己はその「欲望する主体」としての価値が回復されるが、単なる現世肯定ではなく、修行の過程では、瞑想において「これは自己ではない」という徹底的な自己否定がなされ、その積み重ねの果てに、真の我としての人格神である絶対者が見いだされる。
 宇宙全体の主になりコントロールするという考えから、治病、蘇生、占星術、魔法などの俗信的要素とも結びついた。神通力・神秘力の体得がもてはやされ、特有の行法の秘儀・神秘的人体学が発達した。こうした神秘的な人体生理学は、古くヴェーダの神学者が祭式を宇宙のめぐりの象徴としてみたように、個人の生命力を宇宙のエネルギーと同一視し、そこに人間を参加させるものである。宇宙生命力としてのプラーナが、人体のナーディー(脈管)を循環し、チャクラに集約されると考えられた。ヨーガが真理に到達するための主な方法のひとつである。
 ヨーガによって会陰部のムーラダーラ・チャクラのクンダリニー女神(プラーナ(気)、シャクティ(明妃)、ビンドゥ(精滴)とも。・・・)を目覚めさせ、頭頂のサハスラーラのシヴァ神と合一することで法悦に浸るとされ、このヨーガに関連して、マンダラ、ヤントラ(聖なる幾何学模様)、チャクラ、ムドラー(印契)といった神秘的道具、附属物が考案され、グルによる入信聖別式は秘密性を深めた。
 秘儀性は常識を超えた社会的禁忌へと接近させ、肉食、飲酒、乱交の勧めともなった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9

  (イ)密教

 「部派仏教<においては、>・・・迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていた。
 呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教のマントラに影響を受けて各仏尊の真言・陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。・・・
 新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として密教の理論体系化が試みられて中期密教が確立した。中期密教では、・・・釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏・・・が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』、『初会金剛頂経』・・・やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。
 中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、却ってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった。・・・
 インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。・・・
 インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶した<。>
 日本密教の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗(即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は円(法華経)・密(密教)・禅(止観)・戒(大乗戒)の四宗を兼ねるとか、八宗兼学の教えと言われる。天台宗における基本的なスタンスは、密教と顕教である法華経を同等の立場に置く「顕密一致」であり、この点で真言宗とは異なる。・・・
 日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道などの神仏習合の主体ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99

⇒ヨーガの一環としての読経を含む呪文の発声は可だが呪術は禁じられたところから仏教がスタートしたのは当たり前であり、即身成仏や鎮護国家を含む現世利益を呪術で得られることをウリにして信徒をかき集めることを始めた瞬間、仏教は堕落し始めた、と言ってよかろう。
 後期密教に至っては、言語道断で箸にも棒にもかからない反社会的な代物だ。
 また、日本に導入された中期密教についても、空海にせよ、真言宗にせよ、それぞれ、宗教家、宗教、としては、私は全く評価していないし、最澄についても、その密教への強い関心は、浄土宗への関心と共に、彼の恥部であると言ってしかるべきだろう。
 なお、「イスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶した」とされることについては、ヒンドゥー教は杜絶しなかったのだから、どうして仏教だけが途絶したかが説明されなければなるまい。(太田)

  ケ チベット仏教

 表記については、取敢えずの考えだが、後期密教△性的実践
https://daisho-in.com/tibetan_buddhism.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
+中観派(上掲)+出家至上主義仏教(上掲参照)+ヴィパッサナー瞑想(後述)、というもの。
 出家至上主義仏教の出家至上主義とは、植木雅俊が用いた言葉である(前述)わけだが、その意味として記述した内容(同じく)は、藏本龍介(注105)「ミャンマーにおける出家者の開発実戦の変遷と行方」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2018/0/2018_133/_pdf/-char/ja
からヒントを得ている。

 (注105)1979年~。東大院博士課程単位取得退学、同大博士(学術)、同大東洋文化研究所准教授。専攻は文化人類学、ミャンマー研究。
https://pub.hozokan.co.jp/author/a222980.html

  コ 現行の上座部仏教(参考1)

 取敢えずの考えだが、出家至上主義仏教とヒンドゥー教の事実上の混交宗教というベースに、ヴィパッサナー瞑想が時折混じっている、というもの。

  サ ナヴァヤーナ「仏教」(参考2)

 ダリット出身のアンベードカル(Ambedkar。1891~1956年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AB
は、「独自のパーリ仏典研究の結果として「ブッダは輪廻転生を否定した」とする仏教理解に立脚しており、カースト差別との関連から、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報を拒否する。・・・
 アンベードカル(初代インド法務大臣、インド憲法の起草者)が三帰依・五戒を受け、彼を先頭に約50万人のダリットが仏教に改宗したことで、仏教がインドにおいて一定の社会的勢力として復活した。・・・
 アンベードカル主義者は、この運動をナヴァヤーナ(・・・Navayāna, 「新しい乗り物」の意)と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%BE%A9%E8%88%88%E9%81%8B%E5%8B%95

⇒ナヴァヤーナは、社会運動なのか、仏教なのか、という議論がある(上掲)ことはさておき、釈迦は輪廻を否定した、或いは仏教の本質は輪廻否定論である、といった考えに立脚した考え方が社会を若干なりとも動かしたのはこれが初めてであり、むしろ、遅きに失したと言うべきだろう。
 ちなみに、和辻哲郎は、「和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
が、殆ど影響力を持たないままだ。(太田)

 (4)私見

 ギリシャ文明の影響下、仏教が「汚染」され、「1世紀頃から仏像が盛んにつくられるようになった」ことで、仏教は強力な民衆布教手段を獲得したけれど、それを契機としてインド亜大陸に偶像崇拝文化・・彫像、浮彫、絵画・・が根付いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F
結果、生まれつつあったヒンドゥー教もまた、諸神の偶像を作り、礼拝の対象とするようになり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
それが「グプタ時代の5世紀頃から・・・本格化する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E7%BE%8E%E8%A1%93
ことで、この点での仏教の布教上の優位性は急速に失われていく。
 また、バラモン教においては、「解脱の可能性は祭式によって生じるものだと考えており、個人がヨーガの実践を通して智慧を得て解脱する道は<邪道視されていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC
のに対し、仏教は、釈迦の時から、ヨーガ・・サマタ瞑想と見る(太田)・・を重視していた点は相対的に評価できるものの、「勢いが衰えていた<バラモン教>が仏教や土着の信仰を取り入れて生じたヒンドゥー教・・・も・・・仏教の影響<を受けて、>、個体の精神的至福の追求を重視するようにな<り、>・・・ヨーガ(古典ヨーガ)<が>、4-6世紀頃に体系化されたと考えられて<おり、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC
この点でも仏教の布教上の優位性は失われることになった。
 (「3 – 5世紀のインドの大乗仏教では、ヨーガの実修を好む瑜伽師(ゆがし、ヨーガ行者)によって、般若の空の思想と修行者のヨーガの最中の体験をベースに、徹底した主観的観念論の哲学体系を構築した瑜伽行唯識派(瑜伽行派、ヨーガチャーラ)が生まれ<、>彼らはヨーガの実修を通じ、人間が日常的に経験する事象はすべて心が作り出したイメージでしかなく、心そのものは存在せず、根源的な心識のみが唯一の実在である(唯識)と説き、この唯識観を理解し己のものとし最終的に悟りの境地に到達するには、ヨーガによる段階的な実践があってはじめて可能になるとした」(上掲)わけだが、この派が、「ヨーガで縁起を自覚するのが悟りであり解脱(輪廻からの解放)することができる」との主張に留めず、縁起をどう理論的かつ厳密に表現するかに拘泥したために大乗仏教に成りきっていなかったとも言える中観派との不毛な観念的論争を招来してしまった、と言えよう。
 但し、この論争の結果生まれた因明・・仏教論理学・・
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/9371/files/Buddhist%20Seminar_109_03_Moro.pdf
だけは、正の産物だと言えそうだ。)
 決定的だったのは、ヒンドゥー教が解脱のための難行たるヨーガに加えて易行たるガンガー活用法(前述したが、より詳しく後述)を「発見」し、売り物にし始めたことだった。
 その結果、ヒンドゥー教は、信徒を急速に増やし、やがて、仏教を駆逐していくこととなった。


[ヴィパッサナー瞑想再考]

一 インダス文明

 「インダス文明の遺跡から<の>・・・出土<品に>・・・獣角の冠を戴いて坐す人物像を表した印章があるが、この人物はヨーガの行者を表したものと思われ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E7%BE%8E%E8%A1%93

⇒私は、かつて(コラム#省略)はともかくとして、現在では必ずしもそうとは思わない。
 但し、腰かけず座る生活は、人間主義を維持したり毀損人間主義を修復したりすることに決してマイナスではなさそうだ、と、私は、最近、考えるに至っている(コラム#省略)ところだ。(太田)

二 ヨーガ(後出)

三 ヴィパッサナー瞑想

 The interest in meditation was re-awakened in Myanmar (Burma) in the 18th century by Medawi (1728–1816), who wrote Vipassana manuals.
https://en.wikipedia.org/wiki/Vipassana_movement
 「現代のヴィパッサナー瞑想は、比丘であるレディ・サヤドー(1846年 – 1923年)から伝えられたミャンマー上座仏教の伝統的なヴィパッサナー瞑想法が、サヤ・テッ・ジ(1873年 – 1945年)によって在家の瞑想法として確立されたものである。在家者用に、時間がかかるサマタ瞑想の修行を省略し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを修行していく方法がサヤ・テッ・ジによって確立され、サヤジ・ウ・バ・キンを経てサティア・ナラヤン・ゴエンカに受け継がれた。彼らやマハーシ・サヤドーらの在家瞑想者や出家によって普及され、組織も作られた。ミャンマーを中心としたスリランカやタイなどの上座部仏教圏だけでなく、欧米にも紹介されている。」※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
 ※には出てこないが、メダウィ(Medawi。1728~1816年)(ミャンマー人上座部仏教比丘)may have been the first practitioner in the modern vipassana movement. Medawi’s first manual dates from 1754. Medawi was highly critical of the Burmese attitude at the time, which did not see meditation as important and did not believe that enlightenment was possible at the time due to the decline of the Buddha’s teachings. Most believed that the only option left was to make enough merit to be reborn in the presence of the future Buddha, Metteya<(Maitreya=弥勒菩薩)>
https://en.wikipedia.org/wiki/Medawi
 そして、※に出てくるレディ・サヤドー(Ledi Sayadaw。1846~1923年)(ミャンマー人上座部仏教比丘)についてだが、In 1885, Ledi Sayadaw wrote the Nwa-myitta-sa・・・, a poetic prose letter that argued that Burmese Buddhists should not kill cattle and eat beef, since Burmese farmers depended on them as beasts of burden to maintain their livelihoods, that the marketing of beef for human consumption threatened the extinction of buffalo and cattle and that the practice was ecologically unsound. He subsequently led successful beef boycotts during the colonial era, despite the presence of beef eating among locals and influenced a generation of Burmese nationalists in adopting this stance.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BC
 同じく、※に出てくるサヤ・テッ・ジ(Saya Thet Gyi。1873年 – 1945年)は殆ど情報が得られなかったが、富裕農だったようだ。
 また、同じく※に出てくるサヤジ・ウ・バ・キン(Sayagyi U Ba Khin。1899~1971年)は、ミャンマーの会計士。経済相(Accountant Genera)だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sayagyi_U_Ba_Khin
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3
 そして、やはり※に出てくるサティア・ナラヤン・ゴエンカ(1924~2013年)は、インド系ミャンマー人で、「レディ・サヤド<ー>系の瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、[まず、インドに、それから、]欧米・世界に普及させた」人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3 前掲

⇒ざっと調べた限りでは、上掲中に登場したヴィパッサナー瞑想推進者達の誰一人として利他行(≒人間主義的営為)を行った者はいなさそうだ。(レディ・サヤドーによる牛肉食禁止運動はそれには当たらないだろう。)
 なお、「上座部仏教において代表的なメソッドとして紹介される「ヴィパッサナー瞑想法」について、チベット仏教<においては、>「シャマター・ヴィパシュアナ(止観)」と<称されているらしい>が、それ<は>チベット仏教において・・・基礎的なものとみなされて<いる>」
https://www.amazon.co.jp/review/R1MEISKO1XX7I0
とのことながら、「ダライ・ラマの神聖政治期には、土地をはじめほとんどの生産手段は、三種類の地主に押さえられていた――役人、貴族、高位のラマ僧だ。かれらは人口のわずか五パーセントでしかない。チベット人の大半は農奴や奴隷であり、1951 年には百万人にのぼった。かれらは極貧にあげぎ、主人の領有する土地の付属物とされ、教育も保健も個人の自由も、一切の地位や権利もなかった。そして無給の労働(ウラグ)を強制され、すさまじい地代を搾り取られていた。
 農業は焼き畑式。近代産業はないも同然。交通輸送はもっぱら動物や人間の背。人生はおおむね悲惨で短く、病気が猖獗をきわめ、人口は停滞し、平均寿命は 36 歳。旧チベットでは、僧侶や尼が人口の一割を占めていた。この抑圧的な封建神権制の頂点にいたのが、ダライ・ラマという制度にして個人なのだった。
  1951 年以前のチベットには、まともな学校はなかった。千年前から続く、仏教経典学習と部分的にチベット語に特化した僧院学校が教育の主要形態だった。僧院の外には役人に対してごく基本的な教育――読み書き算数と仏典暗唱――を提供する学校はないわけではなかったが、その生徒数は千人以下。当然ながら、文盲率は九割以上だった。」
https://cruel.org/economist/tibet.html
という記述がそれほど的を外れていないとすれば、だが、チベットにおけるチベット仏教の事実上の最高位たる歴代ダライ・ラマによるチベット統治は、あらゆる意味において反他利的(≒反人間主義的)統治であったと言わざるを得ない。
 以上を踏まえれば、まことにもって遺憾なことだが、ヴィパッサナー瞑想的なものの実践者中のパイオニア達は、揃いも揃って、利己的な生涯を送った者達ばかり・・ミャンマー系の巨魁達はヴィパッサナー瞑想なる詐欺的商品の販売者達、歴代ダライ・ラマは仏教なる装飾で身を守り人を誑かす利己的権力者達・・だった、と言ってもあながち過言ではなさそうだ。
 ヴィパッサナー瞑想に対する私の買いかぶり(コラム#省略)は、誤りであった、と、大反省している次第だ。
 但し、ミャンマー系のこのパイオニア達(やそのエピゴーネン達)がやったことは効用なき暇つぶし的ルーティンの販売に過ぎなかったけれど、歴代のダライ・ラマ達がやってきたことは搾取であり罪深かった、と、言えるのではないか。(太田)

四 マインドフルネス

 「マインドフルネス(mindfulness)という用語は、仏教の重要な教えである中道の具体的内容として説かれる八正道<(注106)>のうち、第七支にあたるパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(パーリ語ラテン翻字: Samma-Sati、漢語: 正念、正しいマインドフルネス)のサティの英訳である。

 (注106)はっしょうどう。「四諦<(したい)>のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる。・・・「道(magga)」とは仏道、すなわち解脱への道のこと。・・・
 それはすなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
 「四諦<とは、>・・・仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。・・・四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになった<もの。>・・・苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

⇒正念=マインドフルネス(≒ヴィパッサナー瞑想)、とするウィキペディアはあるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
このウィキペディアは、正定=正しい集中力(サマーディ)を完成すること、とするだけであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
定(じょう)のウィキペディアは、定=サマーディ=三昧=仏教の三学である戒・定・慧の一つ、等とするのみで、それが更に、=サマタ瞑想、である、とはしていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
 「正定・・・は・・・禅定(ジャーナ)の4段階<たる>・・・四禅の達成である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A6%85
とするこのウイキペィアは、、解脱するにあたっての不可欠な手段の一つである瞑想が完遂されるための、必要条件が正定(四禅)、十分条件がマインドフルネス(正念=ヴィパッサナー瞑想)、としているように読める。
 正直言って、何が何だかさっぱり分からない。(太田)

 サンマ・サティは「常に落ちついた心の行動(状態)」を意味する。・・・
 西洋の世俗的なマインドフルネスは、「わたし」を中心に据えた自己修養、自己成就、自己増進のためのものと理解され、実践されている。・・・
 <しかし、>仏教において、八正道として説かれる8つの教えは互いに有機的に関連し合った一つの修行システムであり、独立して行われることは想定されていない。八正道により「分離した自我」、孤立的に存在する実体的存在としての自我という(仏教において)誤った認識を解体し(無我)、全てが相互につながりあって生起している(縁起)という正しい認識に基づいて生きることができるようになると考えられ、正念もこのヴィジョンに基づいて理解され実践された。正念は、人を苦しみからの完全な解放や悟りと呼ばれるものへと徐々に導いていく自己認識や智慧を発達させることに役立ち「無我」や「無常」という真理を悟り解脱に至るための方法として実践されてきた。
 曹洞宗国際センター所長の藤田一照<(注107)>は、現代的なマインドフルネスのように、仏教において根本的誤解(無明)であるとされる「自分というものがここにいて、それと分離した形でいろいろなものや人が自分の周りに存在している」という分離・分断のヴィジョンに基づいてマインドフルネスを行うと、そのヴィジョンが強化され、「呼吸に対する気づき」と共に「呼吸に対してマインドフルであろうと努力してるわたしという意識」も強化される、つまり注意の対象である客体と主体が同じく強化されるため、「わたし」が呼吸に対してマインドフルであろうと努力すればするほど、対象である呼吸との断絶は深まり、力づくのマインドフルネスにならざるを得ない、と意見している。
 (注107)1954年~。東大教(教育心理)卒、同大院博士課程中途退学、出家(曹洞宗)、国際布教使、一旦日本に帰国後、サンフランシスコの曹洞宗国際センター所長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E4%B8%80%E7%85%A7

 仏教的に言えば、マインドフルネスは「ただのマインドフルネス」ではなく、正見に相応した正念、正しいマインドフルネスでなければならず、「わたし」にとってのメリット、測定可能な効果を求めてマインドフルネスを行うことは、仏陀のアプローチとは正反対とも言え、苦しみの原因である「わたしという意識」が強化され、解決とは程遠いという。精神科医の北西憲二<(注108)>も、・・・マインドフルネスの重視する瞑想に対する「内面に注意を払い過ぎている、それは本当の意味で世界に開かれていない」という批判について、同感であると述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9

 (注108)きたにしけんじ(1946年~)。精神科医。慈恵医大卒、同大博士(医学)、バーゼル大留学、日本女子大教授等を経て、森田療法研究所所長・北西クリニック院長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%A5%BF%E6%86%B2%E4%BA%8C
 Morita’s training in Zen influenced his teachings, though Morita therapy is not a Zen practice.
https://en.wikipedia.org/wiki/Morita_therapy

⇒人は人間(じんかん)的存在なのであり、釈迦自身が気付いたと私が理解している、慧(え)、は、釈迦が、この、人が人間的存在であること、を言語的に説明しようとしたものである、という認識で私はある(既述)ところ、藤田一照も北西憲二も、この慧、の観点からマインドフルネスを批判していて、マインドフルネス=ヴィパッサナー瞑想、と、理解しているところの、私、も、もちろん同感だ。
 では、サマタ瞑想や森田療法については、一体どう評価すべきなのだろうか。
 私は、座禅・・サマタ瞑想のことだと現在は考えている・・は、慧の体得のために不可欠なものではないけれど断じてマインドフルネス/ヴィパッサナー瞑想のようにマイナスなものでもない、と、考えるに至っていて、座禅/サマタ瞑想による療法、と言えそうな、森田療法、についても、’there is very low evidence available and it is not possible to draw a conclusion based on the・・・studies .’(上掲)である以上、「強迫性障害などの神経症」の治療に有効であるか否かについても、座禅/サマタ瞑想について申し上げたこととほぼ同じことがあてはまるのではないか、という気がしている。

 但し、それはそれとして、中共において、森田療法の積極的活用が行なわれているらしい(上掲)ことは大変興味深いものがある。(太田)


[インド亜大陸における仏教のほぼ消滅]

一 ヒンドゥー教の成立

 (一)始めに

 「バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
 更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 – 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。・・・
 紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 – 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。・・・
 キリスト教に見られるような教会制度や宗教的権威は存在せず、また預言者も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。・・・
 ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論・・精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 – 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。・・のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。・・・
 神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。・・・
 『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、・・・一度生まれるだけのエーカージャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され<ている。>・・・
 <また、>再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。解脱を目指して修行するヨーガ行者<に>も<なれなかった。>・・・
 <また、>他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。・・・
 不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避するので菜食主義の人が多い。・・・
 牛は崇拝の対象となっている。・・・
 心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説<く派もある。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
 「ガンジス川(現地ではガンガーと呼ぶ)は、川そのものが神格化され「母なるガンガー様」(Gangamataji)と呼ばれている。ガンガーを流れる水は「聖なる水」とされ、沐浴すればすべての罪を清め、死後の遺灰をガンガーに流せば輪廻からの解脱が得られると信じられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E5%B4%87%E6%8B%9D
‘Those who are lucky enough to die in Varanasi, are cremated on the banks of the Ganges, and are granted instant salvation. If the death has occurred elsewhere, salvation can be achieved by immersing the ashes in the Ganges. If the ashes have been immersed in another body of water, a relative can still gain salvation for the deceased by journeying to the Ganges, if possible during the lunar “fortnight of the ancestors” in the Hindu calendar month of Ashwin (September or October), and performing the Shraddha rites.
 Hindus also perform pinda pradana, a rite for the dead, in which balls of rice and sesame seed are offered to the Ganges while the names of the deceased relatives are recited. Every sesame seed in every ball thus offered, according to one story, assures a thousand years of heavenly salvation for each relative.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Ganges

⇒仏教もジャイナ教も、輪廻からの解脱という虚構の課題を否定せず、この課題への解答を提示したと称するにとどまったため、より実行し易い解答を提示したヒンドゥー教になすところなく敗れてしまうことになった、というわけだ。
 なにせ、ヨーガで解脱するのは容易ではないけれど、解脱できれば、死後の輪廻からの解脱のみならず、生存中に現世利益も得られるのだし、ヨーガでの解脱を追求しなかった者、できなかった者の方も、ガンガーで沐浴するか、死後の遺灰をガンガーに流せば解脱できる、というのだから、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教のその他の諸功徳を比較するまでもなく、この一点だけでも、ヒンドゥー教が仏教やジャイナ教に対して圧倒的な比較優位を得たのは当然だった。(太田)

 (二)その歴史

 以下、再び、植木雅俊『維摩経』に拠って記述を進める。↓

 「紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 – 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 – 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。

⇒(ジャイナ教もそうだが、)ヒンドゥー教も仏教も、ほぼ同じ時期に、バラモン教を母体として形成されたわけだ。(太田)

 その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
 三神一体(トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
・ブラフマー:宇宙、世界に実存、実在の場を与える神
・ヴィシュヌ:宇宙、世界の維持、平安を司る神
・シヴァ:宇宙、世界を創造し、その寿命が尽きた時に破壊、破滅を司る神
は一体をなすとされている。
 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、またシヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ。・・・
 仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。・・・
 バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
 更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 – 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。
 ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。・・・
 バラモン教は・・・具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99

 「ガンガー沿いの聖地「ワーラーナシー」で死に、遺灰をガンガーに流すとただちに天国に昇れる。ヒンドゥー教の輪廻転生の考え方では輪廻は84万回(つまり無限に大きい)続くとされているが、ガンガーの力でこの輪廻から解脱できるとされる。そのため自分の死期が近いことを悟った老人がインド各地からワーラーナシーを訪れ、毎日祈りを続けながら静かに死を待っている光景が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E5%B4%87%E6%8B%9D

⇒ヒンドゥー教「各派」共通の最大のウリは、ガンジス河に遺灰を流す等でもって解脱できると謳ったところにあった。(太田)

 「森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。古ウパニシャッドの『カタ・ウパニシャッド』では、感覚器官(インドリヤ、感官)の堅固な総持(制御)がヨーガであるとされており、インドの宗教・仏教の研究者奈良康明<(注109)>は、ヨーガを簡潔に説明すると、呼吸を調整しながら、あるものを思念瞑想し、ついには恍惚状態となってその対象と合体する技法であるとしている。

 (注109)1929~2017年。東大文(哲学梵文学)卒、同大院修士(指導教官は中村元)、カルカッタ大院博士課程修了、駒澤大仏教学部非常勤講師、講師、助教授、教授、東大博士(文学)、駒澤大学長、総長、名誉教授、曹洞宗総合研究センター所長。法清寺住職、東堂、永平寺西堂。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%BA%B7%E6%98%8E

 インド哲学研究者の島岩<(注110)>は、基本的に意識を一点に集中する瞑想の技法であり、心の働きを止滅させることを目的とすると説明している。

 (注110)しまいわお(1950~2007年)。明大院博士課程中退、インド・マハラシュトラ州西部のプーナ大学留学、金沢大文学部助教授、教授、同大博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B2%A9

 インド思想研究者の保坂俊司<(注111)>は、インド的・仏教的な伝統においては、悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法自体と、その世界をトータルに表す言葉として「ヨーガ」があり、密教の手法を含めた瞑想法、念仏、唱題、座禅など 仏教の行のすべてはヨーガの範疇に入るとしている。・・・

 (注111)ほさかしゅんじ(1956年~)。早大社会科学部卒、同大院博士課程修了、デリー大で学びグル・ナーナク研究所研究員、麗澤大国際経済学部専任講師、助教授、教授、中大総合政策学部教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%9D%82%E4%BF%8A%E5%8F%B8

 ・・・解脱は、伝統的に特定のバラモンのみが行える祭式の力によって可能になるとされていたが、誰でも実践できる修行、苦行によって、のちにヨーガ(静的なヨーガ)によって達成できると考えられるようになった。ヨーガの伝統は紀元前7 – 6世紀頃に萌芽がみられるが、ヨーガという言葉及び思想は、インドの長い歴史においては比較的新しいものである。

⇒ヨーガによる解脱方法は、依然として、参入障壁が残っていると言えよう。
 ヨーガについて、いわゆるヒンドゥー教の「各派」の信徒がどう考えているかを追求する以前に、奈良康明は観(ヴィパッサナー瞑想)だと言っているようだし、島岩は止(サマタ瞑想)だと言っているようだし、保坂俊司は、行(修行)(注112)だと言っているようであり、ヨーガが何を意味するか、人によって定かではないこと・・そもそも、例えば、この3人が言っていること自体が意味が必ずしも明確ではないことはさておくとして・・、自体が、参入障壁になっているように思われる。(太田)

 (注112)「釈迦本人は・・・初転法輪<において、>・・・何が二つの極端なのか。一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。二つめは、自分に苦難を味わわせることは、苦痛であり、無意味で無益である。比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A6%E8%A1%8C#%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%8B%A6%E8%A1%8C
 「涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定<、すなわち、>・・・八正道<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

 ヨーガはインドの諸宗教で行われており、仏教各派でもそれぞれ独自の修行法が発展した。紀元前4 – 6世紀には、仏教の開祖であるブッダ(ガウタマ・シッダールタ、釈迦)、ジャイナ教の<事実上の>開祖マハーヴィーラ(大雄)が、当時はまだ未発達だったヨーガの伝統に沿って瞑想修行を行っており、ジャイナ教でもヨーガの修行は必須となっている。 仏教でいう禅定や止観、またはマンダラを用いた瞑想法なども広義のヨーガといえ、ヨーガの行法は<、支那>・日本にも伝えられた。
 個体の精神的至福を追求するヨーガの行法は、初期仏教において重視された。仏教が誕生し衰退するまでの5・6世紀 – 10・13世紀には、インドのヨーガにおいて仏教のヨーガが主流もしくは大動脈の一つであった。古ウパニシャッド時代の初期には、正統バラモン階級は解脱の可能性は祭式によって生じるものだと考えており、個人がヨーガの実践を通して智慧を得て解脱する道は、仏教のような(正統バラモン階級から見て)異端の集団でまず重視されるようになった。保坂俊司によると、ブッダはヨーガを万人に解放された智慧による解脱の道として重視して再構成し、大転換をもたらした。
 ヒンドゥー教(バラモン教)の古典ヨーガの発展に先行し、3 – 5世紀のインドの大乗仏教では、ヨーガの実修を好む瑜伽師(ゆがし、ヨーガ行者)によって、般若の空の思想と修行者のヨーガの最中の体験をベースに、徹底した主観的観念論の哲学体系を構築した瑜伽行唯識派(瑜伽行派、ヨーガチャーラ)<(前述)>が生まれた。彼らはヨーガの実修を通じ、人間が日常的に経験する事象はすべて心が作り出したイメージでしかなく、心そのものは存在せず、根源的な心識のみが唯一の実在である(唯識)と説き、この唯識観を理解し己のものとし最終的に悟りの境地に到達するには、ヨーガによる段階的な実践があってはじめて可能になるとした。・・・
 勢いが衰えていたヴェーダの宗教が仏教や土着の信仰を取り入れて生じたバラモン教(ヒンドゥー教)もまた、個体の精神的至福の追及を重視するようになった。正統バラモン教のヨーガ(古典ヨーガ)は、4-6世紀頃に体系化されたと考えられている。古典ヨーガによる解脱を目指すヨーガ学派(瑜伽派)の教典『ヨーガ・スートラ(瑜伽経)』が現在に残されているが、ヨーガの萌芽がみられた紀元前6-7世紀から1000年以上後に成立している。ヨーガの発祥からかなりの時間が経過しており、ヨーガ学派の伝統の中には様々な瞑想体系が取り入りこまれ、仏教の影響がうかがえる。仏教の理論がバラモン教のヨーガの体系付けに取り入れられたと考えられており、バラモン教と仏教は相互の影響が強く、不可分の関係であるといえる。しかし、『ヨーガ・スートラ』が仏教の影響を受けていることは、インドのヨーガ関係者の間ではあまり重視されていない。
 『ヨーガ・スートラ』前後に成立した後期の古ウパニシャッドは、ヨーガの実践を説くことが大きな特徴の一つであり、正統バラモン教ではヨーガ学派に限られずヨーガが行われた。ウパニシャッドの梵我一如思想の流れをくむ解脱への道ジュニャーナ・マールガ(智道、知識の道)では、感覚器官を抑制し、輪廻の根源となる行為、さらにその根源である欲望を断つ必要があったため、感覚器官と心の動きを抑制するヨーガは解脱への手段として重視された。とはいえ、ヨーガ学派<こそ>ヨーガ自体を解脱への方法と見做したが、ヒンドゥー教全般で見ると、ヨーガは解脱への道の一種の補助的な手段に過ぎない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

⇒引用したウイキペディアの以上のくだりは、中村元や紹介した3名を含む、日本人研究者達の論考群を典拠としているが、かなり説得力がある。
 ちなみに、全く日本人の研究には言及していないところの、Yogaの英語ウィキペディアの記述
https://en.wikipedia.org/wiki/Yoga
、との間にもほぼ矛盾は見出せない。
 これは、ヨーガないしヒンドゥー教についての日本人研究者達の指摘のネタ元が英語研究群であることを推測させる。(太田)

 「ヴェーダや初期ウパニシャッドといったヒンドゥー教の最も古い聖典では、救済論的な用語「涅槃<(Nirvana)>」について言及していない。この用語はバガヴァッド ギーター(Bhagavad Gita)やニルヴァーナ・ウパニシャッド(Nirvana Upanishad)などのテキストに見られ、釈迦以降の時代に創作された可能性が高い 。
 涅槃の概念は、仏教とヒンドゥー教<と>では異なって説明されている 。ヒンドゥー教はアートマン(自我・魂)の概念を持ち、すべての生物に存在すると主張しているが、一方で仏教は無我の教義を通じて、いかなる存在にもアートマンは存在しないと主張している 。
 ヒンドゥー教における古代の救済論的概念は解脱(Moksha)であり、自己認識・永遠の存在であるアートマンと形而上学的ブラフマンのつながり(梵我一如)による、生と死のサイクルからの解放として説明されている。・・・Mokshaは「解放、自由、魂の離脱」を意味する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

⇒この涅槃の邦語ウィキペディアは、もっぱら、英語研究群に依拠して書かれている。(太田)

 「解脱(げだつ<)(>・・・モークシャ(mokṣa)<)>とは、解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態であり、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教において様々な形で語られる。解脱を果たしたものを解脱者(梵: vimukta, 巴: vimutta)と呼ぶことがある。
 もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。
 ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である。これら4つの目的はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。
 仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること。・・・
 釈迦は菩提樹で成道し、輪廻からの解放を達成したとされる。・・・
 わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。
—聖求経<(注113)>

 (注113)しょうぐきゅおう。「パーリ仏典経蔵中部に収録されている第26経。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%B1%82%E7%B5%8C
 「現在パーリ語は上座部仏教の経典と儀式に用いられる文語(典礼言語)として形を留めるのみであり、元来どの地方の方言であったかは不明確である。上座部仏教では自らの経典を仏の直接の教えとする観点から北東部のマガダ語と同一と見られてきた。しかし現在ではアショーカ王碑文との比較からインド中西部のウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種とする説が有力である。ただし、マガダ語とパーリ語は、言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている。
 最古の仏教文献は、釈迦の故郷であるマガダ地方の東部方言からパーリ語へ翻訳されたと推定されている。このために、パーリ語はアショーカ王碑文のうち西部のギルナールの言語に最も近いが、その中にマガダ語的な要素が指摘されている。
 大乗仏教でサンスクリット語<(梵語)>が多用されたのに対し上座部仏教においてパーリ語が多用されたのは、仏教伝道において民衆に分かりやすい口語(すなわちプラークリット)を利用することでその効果を高めるためであったからと推測される。後に、観念的な議論を特徴とする大乗仏教が盛んになると専門性の低いとされたパーリ語よりもサンスクリットが用いられることになる。
 パーリ語などのプラークリットはサンスクリットとインド近代語の中間の発展形態であ<る。>・・・
 インド・ヨーロッパ語族<->インド・イラン語派<->インド語派<->パーリ語」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E8%AA%9E

 比丘たちよ、このように見て、聖なる言葉を聞く弟子は、色を厭離し、受を厭離し、想を厭離し、サンカーラを厭離し、識を厭離する。
 厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。解脱すれば「解脱した」という智慧が生じる。
 「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされ、もはや二度と生まれ変わることはない」と了知するのである。
—初転法輪<(注114)>

 (注114)「”Paramattha-jotikā”は<パーリ語経典>『スッタニパータ』の、”Therīgāthā-Atthakathā”は<パーリ語経典>『テーリーガーター』の・・・ブッダゴーサによる註釈書<だが、初転法輪は、この二つの注釈書に拠っている。>・・・<しかし、初転法輪に出てくる>四諦や八正道という概念は最古層経典では確認できない<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%BB%A2%E6%B3%95%E8%BC%AA 

 仏教における解脱は、本来は涅槃と共に仏教の実践道の究極の境地を表す言葉であったが、後に様々に分類して用いられるようになった。
 相応部ラーダ相応<(注115)>では、比丘ラーダより「解脱は何を目的としているのか?」と問われた釈迦は、「解脱は涅槃を目的としている」と答えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1

 (注115)「パーリ仏典経蔵相応部に収録されている第23相応。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E7%9B%B8%E5%BF%9C

⇒再度、強調しておくが、「注114」「注115」から、釈迦は、解脱を輪廻からの解放のためとだけ考え、悟り(涅槃)のためだなどとは考えておらず、また、解脱の方法として、サマタ(止)、ヴィパッサナー(観)の如何を問わず、瞑想が不可欠であるとも、その狭義のヨーガたる瞑想を含んだところの、保坂俊司の言う広義のヨーガが不可欠であるとも、考え(説明し)ていなかったと思われる。
 すなわち、釈迦が、不可欠であると考え(説明し)ていたのは、出家し、戒の下で思索生活を送り、解脱者の説法を聞くことだったと思われる。
 結局、これでは、出家者が出家してしまっても耐えられるだけではなく、出家者本人をいざという時に面倒を見ることができるだけの財産等がある家出身の、相当程度以上の知的能力がある者しか解脱することなどできない相談であり、ヨーガ方式はともかくとして、ガンガー方式で解脱できるヒンドゥー教の簡便さの前に仏教が魅力を失うことになったのは必然であったと言えよう。(太田)

二 仏教の衰退

 「釈尊滅後、次第に様相は変化する。
 釈尊の入滅から約百年ほど経ったころ、ヴァイシャーリーにおける第二回仏典結集(けつじゅう)(編纂会議)において、ヴァイシャーリーの出家者たちが、時代や地方によって異なる習慣・風土等に応じて10項目の戒律(十事)を緩和するように要求したことがきっかけで、伝統的で保守的な上座部と、現実的で進歩的な大衆部に分裂した(根本分裂)。<(注116)>

 (注116)「釈迦在世の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地 域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。戒律の変更に関して、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれた。また、その他いくつかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者に<分>かれた。
 この問題を収拾するために、会議(結集、第二結集)が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部が発生した。大衆部と、戒律変更を認めない上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律維持を支持したグループが現在の上座部仏教<・・大乗仏教が言う小乗仏教・・>に相当する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99

⇒著者の論理からすれば、「伝統的で保守的な」⇒「修正主義的で機会主義的な」、「現実的で進歩的な」⇒「釈迦に忠実で普遍性がある」、では?
 著者が、(恐らく)無意識に書き間違えてしまっているココロは、釈迦自身が戒律に厳しかったからでは、と、いう気がする。
 考えてもみよ、「目覚める」ための核心的方法は、自分自身が「目覚める」ために行ったところの、世俗生活から離れ、厳しい規律を自らに課した日々を送ることだ、と、釈迦が考えなかった方がむしろおかしいだろう。(太田)

 それに続いて、紀元前3世紀後半以降、教団は分裂を繰り返し(枝末分裂)、部派仏教の時代に入った。
 伝統的・保守的な部派では、教義の緻密な体系化がなされる一方で、男性・出家者中心主義や、隠遁的な僧院仏教と言う傾向を強め、煩瑣な<教理>の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離してしまった。
 部派仏教の中で、特にカシュミールを中心に西北インドで勢力を振るっていたのが、説一切有部であり、小乗仏教と貶称(へんしょう)されたのはこの教団のことであった。
 保守・権威主義的な傾向を強め、在家や女性を差別し始め、説一切有部の論書では、釈尊の言葉に仮託して、「私は人間ではない……ブッダである」「私を喬答摩(ゴータマ)と呼ぶものは、激しい苦しみを受けるであろう」とまで語られるようになった。
 仏弟子を意味する「声聞」から在家や女性は排除され、小乗仏教の男性出家者をさす言葉に限定された。
 その結果、大乗仏典で非難の対象となる「声聞」は、もっぱら小乗仏教の男性出家者のこと<を指すようにな>った。
 説一切有部の実践論は、釈尊の神格化とともに、一、成仏の困難さの協調、二、修行の困難さの協調、三、歴劫(りゃつこう)修行(天文学区的な時間をかけた修行)の協調、四、仏の十号(十種類の名前)<(注117)>の一つであった阿羅漢の格下げ–などと相まって論じられた。

 (注117)「如来(にょらい、梵: tathāgata) – 多陀阿伽度と音写されている。真如より来現した人。真実に達した者。
     応供(おうぐ、梵: arhat) – 阿羅訶、阿羅漢と音写されている。煩悩の尽きた者。
     明行足(みょうぎょうそく、梵: vidyācaraṇa-saṃpanna) – 宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
     善逝(ぜんぜい、梵: sugata) – 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。
     無上士(むじょうし、梵: anuttara) – 悟りの最高位である仏陀の悟りを開いた事から悟りに上が無いと言う意味。
     調御丈夫(じょうごじょうぶ、梵: puruṣadaṃyasārathi) – 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。
     天人師(てんにんし、梵: śāstā-devamanuṣyāṇāṃ) – 天人の師となる者。
     仏(ぶつ、梵: buddha) – 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。
     世尊(せそん、梵: bhagavat) – 福徳あるひと。幸いあるもの。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

 小乗仏教において、遥か昔の過去の六仏<(注118)>を除いて、未来の仏であるマイトレーヤ(弥勒)菩薩が如来となって出現するまでは、ブッダは釈尊<(注119)>一人であり、その釈尊も天文学的な時間をかけて修行した結果、ブッダになったとされた。」(21~22)

 (注118)「毘婆尸仏   梵: Vipaśyin、巴: Vipassī、びばしぶつ。毘鉢尸などとも音写し、勝観、浄観と訳。姓を拘利若(巴: Koṇḍañña、コンダンニャ)で憍陳如と訳す。・・・クシャトリア出身。・・・
     尸棄仏    梵: Śikhin、巴: Sikhī、しきぶつ。式、式棄などとも音写する。・・・クシャトリア出身。・・・
     毘舎浮仏   梵: Viśvabhū、巴: Vessabhū、びしゃふぶつ。毘舎符などとも音写、一切勝、一切有などと訳。・・・クシャトリア出身。・・・
     倶留孫仏   梵: Krakucchanda、巴: Kakusandha、くるそんぶつ。拘留孫、迦羅鳩忖陀などとも音写し、成就美妙、頂結などと訳す。現在賢劫における千仏の始めの仏とされる。・・・バラモン出身。・・・
     倶那含牟尼仏 梵: Kanakamuni、巴: Koṇāgamana、くなごんむにぶつ。迦那伽牟尼、拘那含牟尼などとも音写し、金仙人、金寂静などと訳す。賢劫千仏の第二仏。・・・バラモン出身<。>・・・
     迦葉仏    梵: Kāśyapa、巴: Kassapa、かしょうぶつ。迦葉波などと音写し、飲光と訳す。・・・バラモン出身。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F
 (注119)釈尊=釈迦(釋迦(シャーキヤ))=釈迦牟尼/釈迦牟尼仏=ガウタマ・シッダールタ(サンスクリット)=ゴータマ・シダッタ(パーリ)=ブッダ(仏陀(佛陀))=覚者=仏=タターガタ=多陀阿伽度=如来=釈迦如来=バガヴァント=婆伽婆(薄伽梵)=世尊=釈迦牟尼仏=釈迦牟尼如来=釈迦牟尼世尊=釈尊=牟尼=釈迦尊=仏様=お釈迦様
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲

三 インドにおける仏教のほぼ消滅への過程

 「インドにおける仏教の衰退」の邦語ウィキペディア↓の記述は極めて分かりにくい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80
 そこで、「インドにおける仏教の弾圧」の邦語ウィキペディアでもって話を進めることにしよう。↓

 「5世紀中期にアフガニスタンで勃興し、5世紀末にはグプタ朝と衝突し、ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた。・・・

⇒しかし、桑山正進(注120)やUpinder Singh(注121)は、この話の信憑性に疑問符を付けている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mihirakula 

 (注120)1938年~。京大文(考古学)卒、同大院博士課程満期退学、同大教授、同大博士(文学区)、同大人文科学研究所所長、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E9%80%B2
 (注121)?年~。マンモハン・シン元インド首相の令嬢。St. Stephen’s College, Delhi卒、 University of Delhi修士(歴史、及び、哲学)、カナダのMcGill University PhD、Department of History at Ashoka University 教授。
https://en.wikipedia.org/wiki/Upinder_Singh

 ということは、桑山は、仏教は、「内生的」に、この時期に、既に急速に消滅に向かっていた、と考えているわけだが、私も同感だ。(太田)

 弾圧された仏教側では、この事件を契機に末法思想が盛んになり、東アジアに伝えられることとなる。・・・
 中世における後期インド仏教(後期密教)はパーラ朝<(注122)>のもとで庇護を受けていたが、6世紀にインド南部で始まったヒンドゥー教改革運動のバクティ運動や、12世紀にアフガニスタンからのイスラム教政権(ゴール朝<(注123)>)のインド侵略で、インドの仏教徒は壊滅状態となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%BC%BE%E5%9C%A7

 (注122)「8世紀後半から12世紀後半まで、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配した仏教王朝(750年 – 1162年あるいは1174年)。首都はパータリプトラ、ガウル。・・・
 7世紀後半にヴァルダナ朝が滅亡したのち、ベンガル地方とビハール地方は無政府状態に陥り、北西インドのプラティーハーラ朝とデカンのラーシュトラクータ朝の侵入もあって、この地域は「マンスヤンヤーヤム(魚の法律、すなわち弱肉強食をあらわす)」と呼ばれた。
 そのため、この地方の混乱を収拾しようという動きがあらわれ、750年頃にゴーパーラが各地の名士たちによる公式な選挙で王に選出された(ゴーパーラの父シュリー・ヴャプヤタは、この混乱期に武力で小王国を建設した有能な戦士だったようだ)。・・・
 この王家の起源は不明であるが、ラージプートの王朝などのように、その祖先を神話や史詩の英雄にさかのぼらせていない点から、クシャトリヤでもバラモンでもなかったと推定される。・・・
 パーラ朝の歴代の王は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、のちのビハールの語源となるほどであった。
 8世紀の後半に、インド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどを、チベットへ仏教使節を派遣した。
 パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。
 また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名となり、その美術は「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られている。
 とはいえ、民衆は仏教のみならず、ヒンドゥー教を信仰する者もいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A9%E6%9C%9D
 (注123)「現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いた・・・イラン系の言語を話していた人々<を戴く>・・・イスラーム王朝(11世紀初め頃 – 1215年)。
 <その後、>デリーを中心にデリー・スルターン朝と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラーム化が進んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%9C%9D

⇒ただちに起きる疑問は、ゴール朝は、ヒンドゥー教に対して仏教に対して行ったような潰滅的弾圧を行なわなかったのはどうしてか、と、そもそも、インド亜大陸におけるイスラム王朝として、先行するガズナ朝があったところ、同朝の時に、仏教またはヒンドゥー教の壊滅的弾圧が行なわれなかったのはどうしてか、だ。
 ’The Ghaznavid dynasty ・・・ or the Ghaznavid Empire was a Persianate Muslim dynasty and empire of Turkic mamluk origin, ruling at its greatest extent, large parts of Persia, Khorasan, much of Transoxiana and the northwest Indian subcontinent from 977 to 1186.
 Mahmud of Ghazni led incursions deep into India, as far as Mathura, Kannauj and Somnath. In 1001, he defeated the Hindu Shahi in the Battle of Peshawar. In 1004-5, he invaded the Principality of Bhatiya and in 1006 the neighbouring Emirate of Multan. In 1008-9, he again vanquished the Hindu Shahis at the Battle of Chach, and established Governors in the conquered areas. In India, the Ghaznavids were called Turushkas (“Turks”) or Hammiras (from the Arabic Amir “Commander”).
 In 1018, he laid waste to the city of Mathura<(注124)>, which was “ruthlessly sacked, ravaged, desecrated and destroyed”.

 (注124)「マトゥラー・・・は、インド北部のウッタル・プラデーシュ州にある都市。インドの首都ニューデリーから145kmほど南に、タージ・マハルが在ることで知られるアーグラから50kmほど北に位置し、ヤムナー川に面している。・・・ヒンドゥー教の7大聖地の1つで、町の中を流れるヤムナー川にはガートと呼ばれる沐浴場があり、巡礼者が身を浸す。・・・ヤムナー川は下流の都市イラーハーバード(アラハバード)でガンジス川へと合流する。・・・
 インド神話で、ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)とされるクリシュナの生地とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%83%BC

 According to Muhammad Qasim Hindu Shah, writing an “History of Hindustan” in the 16th-17th century, the city of Mathura was the richest in India. When it was attacked by Mahmud of Ghazni, “all the idols” were burnt and destroyed during a period of twenty days, gold and silver was smelted for booty, and the city was burnt down. In 1018 Mahmud also captured Kanauj, the capital of the Gurjara-Pratiharas, and then confronted the Chandelas, from whom he obtained the payment of tribute. In 1026, he raided and plundered the Somnath temple, taking away a booty of 20 million dinars.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Ghaznavids
 上掲↑から分かるのは、インド亜大陸に侵攻したイスラム勢力は、現地の宗教を潰したりその信徒をイスラム教徒に改宗させたりすることに関心などなく、宗教施設を略奪したのは、もっぱらその財宝が目当てだったということだ。
 ガズナ朝は、パーラ朝の領域まで基本的に侵入しなかったので、ガズナ朝によって略奪されたのは(既に仏教の宗教施設が殆ど残っていなかったので)基本的にヒンドゥー教の宗教施設だけだったのに対し、ゴール朝は、パーラ朝の領域まで侵入し、こちらの方はもっぱら仏教の宗教施設ばかりだったので、略奪の結果として、仏教がインド亜大陸から消滅してしまった、ということのようだ。

 要は、イスラム勢力は、衰退過程にあったところの頭でっかちの仏教の衰退を加速させ、興隆過程にあった裾野の広いヒンドゥー教の興隆にはさして影響を与えなかった、ということのようなのだ。(太田)

7 付論2:仏教的観点からの天武朝小試論

 (1)始めに

 鎮護国家について述べた中で、聖武天皇・光明皇后夫妻の事績を仏教的観点から評価したところだが、天武朝の全体像を取り上げるのは別の機会に譲ることとし、ここで、仏教という補助線をもっぱら用いた天武朝小論を試行的に述べてみたい。

 (2)概観

 「天武天皇<(?~686年)についてだが、>・・・飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。

⇒あらゆる事柄について唐の政府に倣ったところの、天武天皇、ひいては天武朝の正の遺産は、あえて極論すれば、『日本書紀』と『古事記』の編纂くらいだろう。
 もっとも、これは、唐というより、漢以来の歴代の支那政府に倣ったものだが、それまで、日本の個々の国の政府もヤマト王権の国の政府も、史書の編纂を怠ったという「悪弊」がこれをもって改められたことになる。(太田)

 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。・・・

⇒神道を切り捨てるわけにはさすがに行かなかったことを除き、要するに、天武天皇は、唐の政府の宗教的選好をそのまま継受しようとした、ということだ。(太田)

 673年・・・に川原寺で一切経書写の事業を起こした。・・・676年・・・には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、・・・679年・・・には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。・・・
 685年・・・には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが、仏教を広めようとしたのは間違いない。・・・
 天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である。・・・675年・・・に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、・・・679年・・・には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった。
 天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない。天皇個人が仏教に求めたのは、<日本国の最高権威者にして最高権力者である>自身・・・<とその>皇后・・・の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。・・・

⇒自分達の病気治癒なんて現世利益追求そのものだろう。
 それも含めて唐の政府に倣ったと言えそうだが、私の言う、堕落した仏教、を天武朝は推進したわけだ。(太田)

 天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である。天皇が得意だった天文遁甲<(注125)>は、道教的な技能である。

 (注125)「天文観象術<(天文)>とは、天を区画する二十八宿、日月および木火土金水の五星などの運行を読み取り、その吉凶を占うことによって王政を補佐することを目的とした。・・・
 遁甲・・・は五行の気の展開である十干、十二支と、乾(けん)、兌(だ)、離、震、巽、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)の八卦にもとづく干支術一種で時空間に配置された干支(神や星に置き換えられる)が、時間の経過とともに移動してゆく姿をとらえ、どの方位、どの日に天地の冥助が得られるかを探ることを目的とした軍陣兵法用の占術、およびそれにともなう呪術である。」
https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100130/ht000050

 葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。・・・
 和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る二つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である。

⇒故人の遺志だったのだろうとはいえ、天武天皇の諡号を決定したのは持統天皇であり、天武朝が最も尊重しようとしたのは道教だった、ということになるのかも。(太田)

 漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鷗外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。・・・

⇒ここは、鷗外説を採りたい。
 というのも、鮮卑の王朝である、漢人征服王朝たる唐の歴代皇帝・・天武天皇の範!・・が、少なくとも意識の上で最も重視したのは武だったであろうからだ。(太田)

 673年・・・に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。・・・

⇒天武夫妻が奪取した政府は天智天皇の政府であり、大部分の廷臣は聖徳太子コンセンサス信奉者だったので、皇親政治を行うしかなかったのだろう。(太田)

 675年・・・、最初の「肉食禁止令」を発布する。これにより、表向きには獣肉を食べることが不可能となった。・・・676年・・・には下野国司が「百姓が凶作のため飢えたので、子供を売りたい」と申し出があったが<天皇>は許さなかった。・・・

⇒堕落した仏教の禁忌の一つを押し付けようとした、ということ。
 さすがに、大甘の実施だったよう(同じ典拠)だが、不思議なことに、この禁忌が時代を経るに従って次第にホンマもんになっていってしまい、天武天皇自身は175cmもあった(同じ典拠)というのに、日本人の体位は著しく劣化することになる。
 天武朝の最大の負の遺産と言えるかも。(太田)

 天皇と皇后は・・・681年・・・に律令を定める計画を発し<た>・・・が、存命中には完成せず、持統天皇3年(689年)6月29日に令のみが発布された。飛鳥浄御原令である。・・・

⇒さすがに天皇夫妻独裁とは言っても、彼らの知恵と才覚だけで策定することはできず、廷臣達が消極的抵抗を貫いたために、作業は遅れに遅れ、やっとできた飛鳥浄御原令も、その肝心な農地公有化部分は、事実上、実施されず仕舞いだった。(コラム#省略)(太田)

 天皇は、・・・686年・・・に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、・・・元号を定めて朱鳥とした。合わせて、宮殿の名前も「飛鳥浄御原宮」と命名した。朱鳥は道教の発想で生命を充実させ、衰えた生命を蘇らせる存在とされている。また、浄御原という宮名も病魔を祓い浄めることを願ったものであるとされている。いずれも、天皇の病気平癒の願いを込めた応急措置的な発想であったと考えられている。その後も神仏に祈らせたが、・・・病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒護国のためと称しつつ自分達だけは現世利益目的でも仏教を利用しつつ、まさに道先仏後の形で天武天皇はその生涯を終えた。(太田)

 「701年(大宝元年)、藤原不比等らによる編纂によって大宝律令<(注126)>が成立したが、その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた・・・。

 (注126)「刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 – 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
 また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4

⇒持統天皇(645~703年。天皇:690~697年)の下で出世を始めた藤原不比等は、その抜群の能力に加えて妻になったばかりの橘三千代の力添えもあり、朝廷の中心的人物となり、持統天皇がその孫の文武天皇に譲位すると、その直後に娘の藤原宮子が文武天皇の夫人(後に皇后)となり、大宝律令編纂の中心的存在となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89

 もちろん、不比等は、この編纂をさぼりにさぼるわけだ。(太田)

 三代格式の弘仁格式によれば、718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰されている。ところが、720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった(ただし、その後も改訂の企てがあり、最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある)。

⇒そして、不比等は、その死後も大宝律令の編纂作業を中断したままにする手配までして亡くなった。(太田)

 その後、孝謙天皇の治世の757年・・・、藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。旧大宝律令と新養老律令では、一部(戸令など)に重要な改正もあったものの、全般的に大きな差異はなく、語句や表現、法令不備の修正が主な相違点であった。ただし、この通説に対しては近年において榎本淳一は大宝律令から養老律令への改正を一部唐風化による乖離を含むものの全体的には日本の実情に合わせた大規模な改正が行われ、養老律令によって内容・形式が整った法典が完成したとする新説を唱え、以後両者の差異に関する議論も行われるようになった。

⇒藤原仲麻呂によって、律令の令中の農地公有化部分が初めて制定された、という点だけに注目すればよかろう。
 しかし、その実施については、抵抗が大き過ぎて、彼も、事実上先送りせざるを得なかったのではなかろうか。(この点については、機会あらば、更に精査したい。)(太田)

 以後、桓武天皇の時代に養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令(24条)・刪定令格(45条)の制定が行われたが短期間で廃止となり、以後日本において律令が編纂されることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4

⇒桓武朝、つまりは、復帰天智朝、になっても、いきなり律令を事実上の停止に持ち込むわけにはいかず、若干の激変緩和措置がとられてから事実上の停止に持ち込まれた、と、理解すればよいのではないか。(太田)

 「仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、従兄妹で皇太子だった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあった。・・・
 光明皇后の後ろ盾のもとでその権勢は左大臣・橘諸兄と拮抗するようになった。・・・

⇒話を戻すが、藤原氏が、隠れ天智朝復帰志向派であり、天武朝の唐継受政策のサボタージュを行っていることを踏まえ、自分の出身たる藤原氏を裏切り、天武朝の唐継受政策の完遂を期して天武朝の下で自分とその子孫が藤原氏の嫡流となり、ひいては日本政府の事実上の中枢家とすべく、仲麻呂は、まずもって、自分の真意を深く蔵しつつ、隠れ天智朝人間たる有力者の叔母に取り入ろうとし、それに見事に成功した、ということだ。(太田)

 ・・・749年・・・7月に聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は参議から中納言を経ずに直接大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された。・・・
 ・・・752年・・・大仏開眼供養会が盛大に催され、その夜<孝謙天皇>は内裏に帰らず仲麻呂の私邸である田村第におもむき、しばらくここを在所とした。孝謙天皇は後年も平城京の修理を理由として田村第に長逗留したことから、この邸宅は「田村宮」とも呼ばれた。

⇒仲麻呂は、慣例に従い、独身を貫くこととされていた孝謙天皇を誘惑し、彼女を自分の支配下に置くことにも成功したわけだ。(太田)

 この頃の太政官では仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の藤原豊成が左右の大臣として並んでいた。仲麻呂は豊成を中傷しようと機会を窺っていたが、仲麻呂をよく知る豊成は乗じる隙を与えなかった。その一方で・・・755年・・・には諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、聖武上皇はこれを許したものの諸兄は恥じて翌・・・756年・・・に左大臣を辞官した。

⇒その上で、自分の競争相手の諸兄を蹴落とすことにも成功した。
 なお、藤原式家の嫡男・・初代の藤原宇合の長男・・であった藤原広嗣が橘諸兄の排除に動き、処刑された(740年の藤原広嗣の乱)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3
ことが示唆しているのは、橘三千代の(前夫の美努王との間の)子でありつつも諸兄がまさに皇親政治の担い手であったということであり、仲麻呂による諸兄の排除は、大義を同じくする同志・・とは言っても、仲麻呂にとって大義は自身及び自家の権力掌握のための手段でしかなかったと見られるが・・を蹴落とした同士討ちであったことだ。(太田)

 同年聖武上皇が崩御。遺詔により道祖王が皇太子に立てられた。しかし、翌・・・757年・・・3月に道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃され、仲麻呂の意中であった大炊王(後の淳仁天皇)が立太子される。この王は、仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃としており、かねてより仲麻呂の私邸である田村第に身を寄せる身の上であった。5月には祖父の不比等が着手した養老律令を施行するとともに、仲麻呂は紫微内相に任ぜられ大臣に准じる地位に就いた。

⇒今度は、皇太子を陥れ、自分の掌中の大炊王を皇太子とすることにも成功したわけだ。(太田)

 こうした仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂だった。皇太子廃立をうけて奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に上道斐太都らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された(橘奈良麻呂の乱)。

⇒父の遺恨を晴らそうとした橘奈良麻呂による謀議にかこつけて、仲麻呂は、今度は、(大義を異にする)実兄まで葬り去ることに成功した!(太田)

 これによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となった。・・・758年・・・8月に孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)する。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男と正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使や平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させる唐風政策を推進した。

⇒徳治政策は、聖徳太子コンセンサス中の仏教部分の推進を行ってきた光明皇后がまだ存命だったので、彼女に自分の真意を悟られないためのたぶらかしであり、唐風政策は、孝謙上皇や淳仁天皇へのゴマすりだろう。(太田)

 そして仲麻呂自身は太保(右大臣)に任じられる。さらに、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与された。また鋳銭と出挙の権利も与えられ、藤原恵美家には私印を用いることが許された・・・
 この年唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされると、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。・・・759年・・・には新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。

⇒仲麻呂としては、遠征戦争を実施し、国家緊急事態を出来させることで、農地公有化を実現することを目論んだ、と、見たらどうか。
 しかし、それまでに、仲麻呂の正体に気付いていたところの、光明皇太后が、それを察知し、最後の力を振り絞り、孝謙上皇を通じて、この企てを粉砕した、と。
 この過程で、光明皇太后から仲麻呂の「危険性」を吹き込まれた孝謙上皇の仲麻呂に対する愛情も冷めてしまったのではないか、とも。(太田)

 ・・・760年<、>・・・仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任じられるが、同年光明皇太后が崩御。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとってこれが大きな打撃となる<。>・・・
 この頃病になった孝謙上皇は自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになった。

⇒いや、もはや、光明皇太后は邪魔になっていたので、その死は、むしろ、仲麻呂にとっては好都合だったのだが、孝謙上皇の寵愛相手の道鏡への変更が仲麻呂の致命傷となったのだ。(太田)

 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ<た。>・・・
 孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、・・・764年・・・自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡(現:滋賀県高島市)の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて諸共斬首された。・・・
 平安時代初期に最澄や空海と論争した法相宗の高僧徳一は、・・・仲麻呂の末子とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82

⇒このように、どちらも天武朝の大義を追求していたところの、孝謙上皇、と、藤原仲麻呂/淳仁天皇、との権力争いが、(結果として?)子供のいなかった孝謙上皇側の勝利に終わったことで、天武朝の(天智朝復帰による)終焉がもたらされることになるわけだ。
 藤原仲麻呂の子とされる徳一が、復活天智朝へのいやがらせを行ったのは、ある意味、賞賛に値しよう。
 なお、孝謙改め、称徳天皇でもって、(天皇が権力を完全に失っていた江戸時代に2人女性天皇が出るまで)事実上、女性天皇がタブー化してしまって(結果的に)現在に至っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87
のは、天武天皇の皇后だった持統天皇と天武天皇の子の草壁皇子の妃だった元明天皇が、どちらも天智天皇の娘であるにもかかわらず、自分達の子孫に天皇位を継がせていくことを、天智朝の大義よりも重視し、天武朝の大義を追求したこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
孝謙/称徳天皇が、天武朝の大義よりも自分の愛欲を優先させ、隠れ天智朝の大義追求派の力を借りて(下述)、天武朝の大義を積極的に推進していたところの、藤原仲麻呂/淳仁天皇(注127)、を粛清し、結果として大義ともども天智朝の復活という形で天武朝の没落をもたらしてしまったこと、から、女性天皇は、私利を公益よりも優先しがちである、という印象が抱かれてしまったからだろう。

 (注127)養老律令の制定もそうだ。↓
 「養老律令の意義は、施行当時の政治状況と関連づけて理解される。養老律令は、撰修途中の律令であり、あえて施行する必要は特になかったはずである。事実、養老律令を施行しようとする動きは757年まで見られなかった。757年当時の政治状況を見ると、それまで中央政府に君臨していた聖武上皇が756年に没し、政府内で複数の勢力が主導権争いを始めていた。その中で藤原仲麻呂が孝謙天皇と連携して、急速に台頭し始めていた。これらの状況から、養老律令施行の背景には、両者共通の祖父である不比等の成果を活用することで、不比等の政治を継承することを宣言するとともに、孝謙・仲麻呂政権の安定を図ろうとする政治的意図があったと考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4
 こういう観点からは、春名説↓は採りえないことになる。
 「一方、大宝律令の施行から半世紀が経過して律令国家の定着していく中で、より日本の実情に合わせた律令制への再構築の一環として行われたとして積極的評価をする説(春名宏昭説)もある。」(上掲)

 (天皇即位以降は独身を貫く慣例が成立していたのは、卑弥呼当時以来の、女性首長が祭祀を司るが故に独身であることが求められたことの名残だと私は考えているが、天武朝の諸女性天皇、とりわけ称徳天皇、がミソを付けなければ、そんな慣例もなし崩し的に解消されていった可能性が大だと思う。)
 ちなみに、「隠れ天智朝の大義追求派」とは、藤原永手のことだ。
 藤原房前の次男であった彼は、「藤原北家の祖・贈太政大臣藤原房前の娘<で>藤原仲麻呂の室<であった>・・・藤原宇比良古<(ふじわらのおひらこ)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%87%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%8F%A4
が自分の妹であるという因縁が藤原仲麻呂の間にあったが、「757年・・・中納言に任ぜられ、藤原仲麻呂政権下では石川年足あるいは文室浄三についで太政官の第3位の席次にあった。一方で以下のような反仲麻呂的な行動や立場を見せるようになる。・・・
 ・・・758年・・・北家兄弟の唐風名への改名(八束→真楯、千尋→御楯)への不参加。
 ・・・758年・・・仲麻呂による官号改易の際の太政官の会議に議政官では唯一欠席。
 そのため、仲麻呂とは対立関係にあった。あるいは、光明皇太后・孝謙天皇の下で、橘諸兄を中心とした反藤原氏勢力から権力を奪取しようとする仲麻呂に与力してきたものの、淳仁天皇の擁立や藤原恵美家の新設による自家のさらなる貴種化といった仲麻呂の権力掌握姿勢に疑問を持ち、永手は仲麻呂から離反していったとも想定される。
 また、この時期に永手が内臣に任ぜられていた可能性を指摘する説が東野治之や上野正裕から出されている。上野説では<756年>の聖武上皇崩御を受けて恐らくは光明皇太后の意向によって内臣に任ぜられて納言クラスの待遇を与えられたが、紫微中台を基盤とした権力強化を図った仲麻呂によって永手の中納言昇進を口実に内臣を解任されてその権限を仲麻呂に奪われ、両者の対立を深めたとみている。
 <762年に藤原宇比良古が死去し(上掲)、永手はフリーハンドを得る。>
 ・・・764年・・・の恵美押勝の乱では、孝謙上皇・道鏡側が軍事活動を開始した9月11日に早くも正三位・大納言に叙任される等、乱の初期から孝謙上皇側の中心的存在として活動。翌・・・765年・・・には勲二等の叙勲を受けており、直接の軍功は不明ながら、軍事指揮をも含めた孝謙上皇側の新体制の形成や運営に関して、永手が重要な位置を占めていたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B
 
⇒私見では、これは、単なる、藤原氏内の個人的な権力争いでも、藤原氏内の北家と南家の権力争いでもなく、藤原氏内で、ほぼただ一人・・但し、その子供達も含むが・・、(内心はともかくとして、また、いずれにせよ、天武朝における天皇の最高補佐者の地位確立を期すために)天武朝の大義を追求した藤原仲麻呂、と、隠れ天智朝の大義追求者たるところの、(藤原仲麻呂以外の)ほぼ全藤原氏の人々を代表しての藤原永手、との凄絶な戦いだったのだ。(太田)

 (3)天武朝下の諸事件

  ア 大津皇子の死(686年)

 「大田皇女(おおたのひめみこ)は・・・同母<(注128)>妹・鸕野讚良<(うのさらら)>皇女とともに大海人皇子(天武天皇)の妃となり、大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去。薨去当時の大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。・・・

 (注128)遠智娘(おちのいらつめ)。「蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟)の娘。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%99%BA%E5%A8%98
 「蘇我倉山田 石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ)は、・・・645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺を謀った際(乙巳の変)、共に計画に賛同した。これは、蝦夷から入鹿への大臣の継承を石川麻呂(蘇我倉氏)が快く思っていなかったからである。鎌足の案により、石川麻呂の長女を中大兄皇子にめあわせることになったが、契りのできた夜に、長女は一族の日向(身狭・身刺)に奪われてしまった。石川麻呂は憂え恐縮し、なすすべを知らなかったが、父の苦境を知った妹(遠智娘)がかわりに中大兄の妃となることで解決した、という。
 入鹿の暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。・・・
 その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)3月に、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言された。この讒言を信じた中大兄皇子は孝徳天皇に報告し、孝徳は2度マヘツキミを石川麻呂のもとに派遣して事の虚実を問わせた。石川麻呂は使者に対して、直接孝徳に陳弁したいと答えたところ、孝徳により派遣された蘇我日向と穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲した。長男の興志は士卒を集めて防ぐことを主張したが、結局石川麻呂は妻子8人と共に山田寺で自害した。・・・
 <これは、>中大兄皇子が、王権の主導する新政に容易に服そうとしない左右大臣を、左大臣の死をきっかけに一気に粛清しようとした権力闘争の現れ、あるいはそれによって新政に不満を持つマヘツキミ層への示威を行おうとしたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%80%89%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82

 同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E7%9A%87%E5%A5%B3

⇒大田皇女と鸕野讚良皇女は、父の天智天皇は、母方の祖父を(事実上)殺害した敵である、との母の遠智娘の恨み節を聞かされつつその母にそのせいもあってか病死までされたわけであり、大田皇女だって、壬申の乱の時に存命であれば、その妹の鸕野讚良皇女同様、積極的に天武側に立った可能性が高い。
 しかし、問題は大津皇子だった。
 母の大田皇女の逝去後、大津皇子は姉と共に天智天皇に引き取られ、天智天皇から、天智朝の大義・・(私の言う)聖徳太子コンセンサスの推進・・を叩きこまれ、その大義に逆らった蘇我倉山田石川麻呂は粛清せざるを得なかったと説明され、納得していた可能性が高い。
 しかも、この大津皇子は、「抜群の人物と認められていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90
上、「正妃<が>・・・天智天皇の皇女<の>・・・山辺皇女(やまのべのひめみこ)<だった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%BE%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3
のだから、「686年・・・9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に・・・自邸にて自害した<・・>享年24<・・ところ、>・・・事件の背景には、鵜野讃良皇后の意向があったとする見方が有力である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90 前掲
のは当然だろう。
 (山辺皇女は、大津皇子に殉死している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%BE%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3 前掲)
 ちなみに、「天智天皇の第二皇子<の>・・・川島皇子・・・が親友であった大津皇子の翻意および謀反計画を皇太后(持統)に密告したと伝えられる。しかし、『日本書紀』のこの事件に関する記事に川島皇子の名がない上に、褒賞を与えられた形跡もないことから、密告は史実ではないとする見方もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%9A%87%E5%AD%90 
ところ、私も、理念の対立を重視するが故に、なおさらそう思う。
 妃が天武天皇の皇女(泊瀬部皇女)であった(上掲)こともあり、大津皇子は、天智朝の大義を深く胸中に隠したまま、忍従の生涯を送ったのだろう。(太田)

  イ 長屋王の変(729年)

 「・・・720年・・・8月に藤原不比等が薨去すると、翌・・・721年・・・正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。・・・
 721年・・・11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる。同年12月に元明上皇は崩御<し、>・・・724年・・・2月に聖武天皇の即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われ<、>この結果、長屋王は正二位・左大臣に進む。・・・
 聖武天皇は・・・727年・・・11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる。結局、・・・728年・・・9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する。・・・
 <但し、>吉備内親王夫妻及びその所生の皇子の存在そのものを自身の皇位と子孫への皇位継承への脅威とみなした聖武天皇が彼らを抹殺するために引き起こした事件とする見方も存在する。・・・
 ・・・729年・・・2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B

⇒以上を踏まえると、「長屋王<の母の>・・・御名部皇女(みなべのひめみこ)は、天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘<であり、>元明天皇の同母姉であって、>高市皇子の正妃<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%90%8D%E9%83%A8%E7%9A%87%E5%A5%B3
ことから、やはり、母から天智天皇への恨み節を聞かされて育ち、その話を息子の長屋王にもしていただろうが、長屋王の正妃こそ草壁皇子と元明天皇の娘の吉備内親王ではあるものの、妾の筆頭が藤原不比等の娘の藤原長娥子<(ふじわらのながこ)>であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B 前掲
長屋王は、この藤原長娥子から、天智朝の大義を聞かされていたであろうことから、この二つの力が打ち消し合っていたと想像されることに加え、「長屋王の変では、妃の吉備内親王とその所生の膳夫王らは長屋王と共に自経して果てたのに対し、「長屋王の兄弟(鈴鹿王)、姉妹、子孫と妾の罪の縁坐は赦免せよ」という勅令が出され、これにより、長娥子およびその所生の子らは、不比等の血を引くことをもって特に助命された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A8%A5%E5%AD%90
こともあり、一見、藤原四兄弟首謀者説に軍配が上がりそうではあるものの、私は、聖武天皇首謀者説を採りたい。
 というのも、長屋王が「公民の貧窮化や徭役忌避への対策<・・慈悲(人間主義)の統治(太田)・・>を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出<した>」ことから、「律令制維持を図る」は私見では「律令制の目指す土地公有化の凍結の継続を図る」でなければならないけれど、長屋王は不比等の同志だったということにならざるをえないからだ。
 聖武天皇が首謀者であったとすれば、藤原長娥子とその所生の子らが助命されたのは、光明皇后と藤原四兄弟が聖武天皇にとりなしたからだ、ということになる。(太田)

  ウ 藤原広嗣の乱(740年)

 「732年、渤海に山東の蓬萊港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。
 新羅が国力を高めて、735年・・・日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。
 こうして両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。
 翌736年・・・には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
という背景の下、「738年<藤原式家の初代の>藤原宇合の長男・広嗣・・・は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。この人事は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑があったが、広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
 ・・・740年・・・4月に新羅に派遣した遣新羅使が<またもや>追い返される形で8月下旬に帰国した。憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、・・・橘諸兄<「政権」下の>・・・吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送った。同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。・・・
 <結局、>広嗣軍は・・・敗れて敗走し・・・11月1日、・・・広嗣と綱手の兄弟<は>、肥前国唐津・・・で斬<られ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒吉備真備(695~775年)を元正天皇の時の716年に、阿倍仲麻呂、玄昉らと共に遣唐使の留学生として唐に派遣した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99
のは、当時の政務の最高責任者であった藤原不比等
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
であり、真備は、不比等から密かに、天智朝の大義(聖徳太子コンセンサス)に沿った「敵」情視察を命じられた、と、私は見ている。
 というのも、真備は、「735年・・・に多くの典籍を携えて帰朝した。帰朝時には、経書(『唐礼』<(注129)>130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器<(注130)>(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などを献上し、ほかにも史書『東観漢記』<(注131)>ももたらしたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99

 (注129)「唐朝は、なぜそこまで祭祀儀礼を重視していたのでしょうか。
 漢代以後、<支那>の皇帝というものは、天から地上の支配権(天命)を任された人物だと考えられてきました。天命を受けているから、地を支配できる。では天がその皇帝を、不適切だ、皇帝失格である、と判断した場合はどうでしょうか。天災や戦乱が起こり、その王朝は倒れ、天命は他姓の人間にうつっていくわけです。これがいわゆる「革命」思想です。
 だからこそ歴代王朝の皇帝と官府は、天の意向をうかがう必要があった。王朝が祭祀儀礼を執り行うということは、彼らがこうした世界観のなかで生きていたということに基づいているのです。
 唐の『開元礼』は、<支那>の歴代王朝の祭祀儀礼制度の決定版ともいえるほど、詳細な規定がまとめられたマニュアルです。『開元礼』以前の各王朝の国家礼典については、散逸して残っていません。あるいは後の宋朝においても礼典は編纂されていますが、残念ながら唐の『開元礼』のようなほぼ完全な状態のものは、現存していません。」
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/354915
 (注130)「唐代は<支那>の音楽文化が最も盛んだった時代で、胡楽(こがく)と呼ばれるシルクロードの音楽が大量に流入し、<支那>古来の音楽と融合していきます。これには当時の皇帝・玄宗の存在が深くかかわっていました」
http://chugokugo-script.net/chugoku-bunka/ongaku-gakki.html
 (注131)「後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A6%B3%E6%BC%A2%E8%A8%98

 ここから、真備は、広義の意味での唐の軍事について諜報活動を唐で行っていたことが分かる。
 弓矢については説明を要しないが、天文暦書、日時計は、軍事行動に不可欠だし、唐礼は唐の最高軍事指導者(皇帝)の思想を知る縁だし、楽器は、当時の唐の最高軍事指導者(皇帝)の個人的思想を知る縁だし、東観漢記は、漢が、唐の指導層たる鮮卑を含む、遊牧民がどのように漢を滅亡させていったかを解明する鍵、だからだ。
 注意すべきは、唐の(音楽以外の)文化や(礼以外の)国制についての情報に真備は関心がなかったことが明らかであることだ。
 また、玄昉(?~746年)についても、「735年・・・、次回の遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国し<、>・・・聖武天皇の母藤原宮子の病気を雑密の孔雀王咒経の呪法祈祷により回復させ、栄達を得る。翌・・・737年・・・、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入る。これをきっかけに、政治に参与する。法華寺(旧不比等邸)に隣接する隅寺(現海龍王寺)を元の内道場とする説がある。これで、仏教史書で功績を認められ日本への法相宗を伝えた第4祖とされて<おり、>・・・聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%98%89
ということから、不比等から密かに、天智朝の大義(聖徳太子コンセンサス)に沿った、仏教の中において毀損人間主義修復方法を追究することを命じられた、と、見てよかろう。
 玄昉がこの期待に応えられた様子はなさそうだが、帰国後の彼を藤原氏が保護していることに注目すべきだろう。
 その上で、藤原広嗣の乱だが、広嗣は、天武朝の大義に沿った政務を行っていた橘諸兄に、藤原氏が面従腹背を続けるだけで天武朝の打倒に動かないことに業を煮やし、「挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに成功することに期待し<て>」反乱を起こした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
ものだろう。
 真備と玄昉はダシに使われただけで、橘諸兄は広嗣の要求を拒否するだろうから、それを非難してクーデターを起こさせ、諸兄を排除しようとしたのではなかろうか。
 そうしておいて、広嗣は、帰京し、光明皇后や藤原氏の他の3家と共に、聖武天皇を傀儡化して、事実上の復帰天智朝政権を打ち立てようとした、と。(太田)

  エ 橘奈良麻呂の乱(757年)

 「孝謙朝に入ると、光明皇后の信任厚くまた孝謙天皇に寵愛される藤原仲麻呂が急速に台頭して、<橘奈良麻呂(721?~757年)の父の>諸兄と対立するようになった。・・・755年・・・11月に諸兄が酒席で聖武上皇に対して無礼な発言があったとの密告が行われると、・・・756年・・・2月に諸兄は致仕し、・・・757年・・・1月に失意のうちに没した。・・・756年・・・7月に聖武上皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子される。だが翌・・・757年・・・3月に孝謙天皇は道祖王に不行跡があるとして皇太子を解き、5月に仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。
 同年6月に奈良麻呂は右大弁に任ぜられる<が、>奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂・小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策した・・・が、・・・密謀が漏れてしまう。・・・
 孝謙天皇は逮捕された人々を本来は死罪に処すところ、死一等を減じて流罪に処すると詔した。しかし、政治の粛正を図りたい仲麻呂は断固として手を緩めなかった。翌日、謀反に関わった道祖王、黄文王、古麻呂、犢養らに対し、永手、百済王敬福、船王らの監督のもと、全身を訊杖で何度も打つ拷問が行われた(先に拷問された東人も含め)。これらは長時間にわたる拷問の末、次々と獄死した。首謀者の奈良麻呂については『続日本紀』に記録が残っていないが、同様に獄死したと思われる。後に奈良麻呂の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったために記録から消されたと考えられている(橘奈良麻呂の乱)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%BA%BB%E5%91%82
 「<藤原南家の>右大臣・藤原豊成<は>息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。また、<藤原北家の>中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒ここから、これは、どちらも、天武朝の大義を掲げるところの、藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との間の内ゲバであったところ、この機会を利用して、藤原式家の藤原仲麻呂が、橘奈良麻呂だけではなく、身内で味方を装って入るけれど実は敵であるところの、藤原南家と藤原北家も没落させようとし、その全てに概ね成功した、と見ればよかろう。(太田)

  オ 藤原仲麻呂の乱(764年)

 (1)、の中で既述。

  カ 宇佐八幡宮神託事件(769年)

 「葛木戸主<(かずらきのへぬし。?~?年)>は、・・・<光明皇后に仕え、皇太后になってからも、>引き続き光明皇太后に仕えている。・・・
 756年・・・12月、孝謙天皇の勅により京中の孤児を集め、衣糧を給い、養わしめたが、男9人、女1人が成人したので、葛木連姓を賜り、自己の戸に付さしめ、親子の関係とした。・・・なお、妻の和気広虫が藤原仲麻呂の乱後に棄子を収集して83人を養子とし、葛木首の氏姓を賜ったともいうのは、広虫が夫の戸主の先例にならったものとも思われる。」

⇒756年にはまだ光明皇太后(~760年)は存命であり、彼女が孤児救済を葛木戸主に言い含め、娘の孝謙天皇に勅を出させたのだろう。
 このような、光明皇后/皇太后と葛木戸主との間柄から、葛木戸主とその妻である和気広虫(下出)の藤原4家との関係もまた深かったと思われる。(太田)

 「和気広虫<(わけのひろむし。730~799年)は、>・・・15歳・・・の時に・・・葛木戸主の妻となり、孝謙天皇に伴奉する。戸主の死別後も孝謙上皇に仕えている。・・・
 762年・・・<孝謙>上皇に従って出家し”法均”と号し、上皇の腹臣とされ、・・・764年・・・、恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こし誅殺された際には、連坐して斬刑にあたる375人を、法均が孝謙上皇を強く諫めたため、上皇はその切諫を聞き入れ、死罪を減刑して流刑・徒刑にしている。・・・
 また、仲麻呂の乱後は、・・・飢疫に苦しみ、児童を捨てるものが多かったので、人を遣わして収集し、83人を養子として、葛木首の姓を賜ったともいう。・・・
 769年・・・宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、この時は病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させている。その神託の結果が道鏡及び天皇の意に反していたことから還俗させられ、弟の清麻呂は・・・大隅国へ、広虫は・・・備後国へ、それぞれ配流に処せられた。
 ・・・770年・・・9月に帰洛を許され・・・799年・・・、典侍・正四位上で没。・・・淳和天皇の・・・825年・・・に正三位が贈られている。・・・
 若いときに出家して尼になり、高野天皇(孝謙・称徳天皇)に仕え、人柄は貞順で節操を欠くことがなく、桓武天皇が信頼して重用したと記されている。また、弟の清麻呂の薨伝によると、光仁天皇は「諸侍従の臣は毀誉紛紜なるも、未だ法均の他の過を語るを聞かず」(すべての近臣が何かにつけ他人を非難したり褒めたりするなかで、法均だけは他のあやまちを口にするのを聞いたことがない)と言って、法均を褒めている。弟の清麻呂とは仲が良く、姉弟で家産を共有し、当時の人々は孔懐の義(姉弟の互いに思い合う気持ち)を称讃したという。卒するに及んで、初七日や七十七日などの七日ごとの法事や、年々の忌日に追善の供養をする必要はない、二三人からなる僧侶と遺族が静かな部屋で礼仏と懺悔の仏事をすれは十分である、後世子孫の者たちは私たち二人を「法則」(手本)とすることになるであろうと弟と約束し、期待しあっていたともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E5%BA%83%E8%99%AB

⇒上掲ウィキペディアは、葛木戸主による孤児救済について、「広虫の献策があってのことと推察される」との説を採用しているが、私は上述のように光明皇太后説を唱えた次第だ。
 いずれにせよ、和気広虫は、天智朝の大義に基づく慈悲(人間主義)の仏教観を、光明皇太后/藤原4家、の影響下で身に付け、爾後それを実践した生涯を送ったと考えれば、彼女は、仏教を現世利益追求の手段視していたところの、孝謙/称徳天皇/上皇や道鏡の仏教観に強い拒否感を覚えた筈であり、そんな道鏡に法皇の称号を与え、あまつさえ、天皇位を譲ろうとした孝謙/称徳天皇に対し、身を挺し抵抗しようとしたことは理解できるというものだ。
 いささか先走ってしまったが、それ以前からそういったラインでの共通認識が、彼女と、藤原永手らの間で醸成されていて、道鏡の天皇就位話(後出)に関しては、彼女と彼女の弟の和気清麻呂と、藤原永手らの間で、綿密な作戦会議が行われ、対処方針が決した、と、私は想像するに至っている。
 さて、「769年・・・7月頃に[道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E6%B5%84%E4%BA%BA ]と、宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂<(注132)>が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する<← 『続日本紀』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%BF%92%E5%AE%9C%E9%98%BF%E6%9B%BE%E9%BA%BB%E5%91%82 >。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)、自らが皇位に就くことを望む。

 (注132)なかとみのすげのあそまろ(?~?年)。「767年・・・に、宇佐神宮の神職団の紛争調停のために豊前介に任ぜられた。・・・770年・・・に称徳天皇の崩御を通じて道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷された。・・・772年・・・4月に道鏡が没すると、6月に阿曾麻呂はかつて和気清麻呂が神託事件により流された大隅国の国司に任ぜられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%BF%92%E5%AE%9C%E9%98%BF%E6%9B%BE%E9%BA%BB%E5%91%82

 称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂<(733~799年)>を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。・・・
 清麻呂は・・・宇佐八幡宮に参宮<し、>・・・宝物を奉り宣命を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が出現する。大神は再度宣命を聞くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに、・・・大隅国に配流した(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、・・・殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 ・・・770年・・・8月に称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、・・・771年・・・3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。・・・
 最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82
という、宇佐八幡宮神託事件について、「細井浩志<(注133)>・・・は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の・・・詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調していることから、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。

 (注133)ほそいひろし(1963年~)。「九大文(史学)卒、同大院博士後期課程単位取得退学、同大助手、活水女子大文学部講師、助教授、教授、九大博士(文学)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E4%BA%95%E6%B5%A9%E5%BF%97

 また細井は、道鏡<が>左遷<で済んだの>はこの時代の・・・政変<としては>・・・典型的<な措置>・・・であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で<、自分の異母姉を妃とし、その間に他戸親王をもうけているところの、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E6%88%B8%E8%A6%AA%E7%8E%8B >白壁王を後継としたとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E8%A8%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
 
 称徳天皇首謀者説は、同天皇が道鏡に天皇位を譲るつもりであったなら、2度目の託宣を求めるなどという迂遠で不確実な方法を採る筈がないので論外として、私は、「宇佐神宮の神職団<に>紛争<があった>」(前出)、「大神<(おおが)>氏は禰宜職、及び後には大宮司職を継ぎ、769年の道鏡事件の頃に宇佐氏と争ったという逸話もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
「道鏡事件が起こると大宮司職が空席になった為宇佐<氏>が任じられるところとなった。・・・<ちなみに、>平安時代では、大神氏が大宮司、宇佐氏が少宮司と定められたが、石清水八幡宮の勧請の後大宮司職が空席になった隙に宇佐氏が宮司となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E6%B0%8F
という経緯を踏まえば、そんな紛争中の神宮を使った陰謀など危な過ぎて、外部の者は誰であれ試みる筈がないと思う。
 しかし、紛争当事者ならやりかねず、では、陰謀を、大神氏側と宇佐氏側のどちらがやったかと言えば、形式的な大宮司職にあったらしい大神氏側が実質的な大宮司職にあったらしい宇佐氏側に対してではなかろうか。
 つまり、大神氏側が、藤原4家中の中心的な誰か、さしずめ藤原永手あたり、に話を持ち込み、道鏡を天皇にという神託をでっちあげた上でそれを宇佐氏サイドから太宰府に届けさせ、大宰帥の弓削浄人を舞い上がらせて、朝廷に伝達させるので、再度確認の神託を朝廷から求めさせて欲しい、そして、今度は反対の神託を出せば、自分達は宇佐氏に大打撃を与えることができ、あなた方は道鏡を失脚させることができるがいかん、と、問いかけ、永手あたりがこの話に乗った上で、清原姉妹を一味に引き入れた、と、見たらどうだろうか。
 永手あたりとしては、天智朝への実質的な復帰を果たすこと、しかも、それをできる限り穏便な形で果たすこと、が、望ましいわけであり、永手あたりが、政務責任者として関係者すべてに下した処分が極めて穏便なものになったのはそのためだった、とも。
 なお、和気姉弟が復帰天智朝で重用されなかったのは、この2人が立身出世よりも人間主義的な人生を追求してきた人々であり、庶民との気楽な交流がやりにくくなる立身出世など望まなかったからだろう。(太田)

8 終わりに

 「人間」は、日本では、一、「じんかん」、二、「ひとま」、三、「にんげん」、四、「ひとあい」、と、出現順に4つの読み方があり、それぞれ、一、「仏語。六道の一つ。人の住む界域。<・・・※漢語で「この世」のこと・・>」、二、「人のいない時。人気(ひとけ)のない間。人目のないすき。・・・※書紀(720)・・・「間(ヒトマ)を得て、逃出でて」、三、「ひと・・・※今昔(1120頃か)五「天人は目不瞬かず、人間は目瞬く」」、四、「人づきあい。人に対する愛想。・・・※平家(13C前)八「人あひ心ざまゆうに情ありければ」」、という意味、用例・・それぞれ初出の用例と思いたい(太田)・・がある。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E9%96%93-110802
 和辻哲郎の最大の躓きは、「人間」の三の意味に注目しつつも、「人間」にそのような意味を付与したのが漢字文化圏内で日本だけだったことに注目しなかったところにある、と、ここで重ねて指摘しておきたい。
 では、誰がこの意味を付与したのか?
 用例の『今昔物語』の編者だろう。
 というのも、『今昔物語』は、天竺部、震旦部、本朝仏法部、本朝世俗部、の4部からなり、最初の3部の大部分は仏教説話であり、それが、本朝世俗部の長い長いプロローグになっているという構成で、「河合隼雄によると、『今昔物語集』の内容は「昔は今」と読みかえたいほどで、ひとつひとつの物語が近代を超える知恵を含んでおり、その理由としては、当時の日本人の意識が外界と内界、自と他を区別しないまま、それによって把握された現実を忠実に書き止めている点にあるとしている。ポストモダンの問題意識は、それがデカルト的(心身二元論的)切断をいかに超越するかにあり、その点で『今昔物語』は真に有効な素材を提供するとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
からだ。
 換言すれば、『今昔物語』は、縁起を説話群によって説明し、人が人間(じんかん)的存在であること、従って、人を人間(じんかん)という言葉を借りて別の読み方・・にんげん・・をして表現できるしそう表現することが適切である、と、考えた編者がそうした、と、考えられるのだ。
 差し当たり、山勘的には、この編者は、院政期の若くして亡くなったところの、摂政、関白、太政大臣を務めた、実力者の藤原師実(1042~1101年)、の息子たる高僧達の誰か、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F
ではなかろうか。
 和辻哲郎の躓きを追及する過程で、日本文学発祥史に新しい光を照射できたこと、釈迦や仏教に対する理解が私なりに深まったこと、そして、厩戸皇子の偉大さが一層明らかになったこと、は収穫だった。
 そういったことを含め、和辻哲郎に、改めて、深い感謝の念を表明しておきたい。

(一応完)

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太田述正コラム#13760(2023.9.30)
<2023.9.30東京オフ会次第>

→非公開