太田述正コラム#13588(2023.7.6)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その15)>(2023.10.1公開)

 「・・・アレクサンドル・ネフスキー<(注29)によって>・・・ルーシはくびきを受け入れることになり<、>・・・<彼>の時代にくびきの基本構造・内容も固まりました。」(33)

(注29)「1220~1263年。1236年に父・・・ヤロスラフ2世・・・からノヴゴロド公の位を継ぐように命じられた。
 1236年にはバトゥの西征が始ま<っ>・・・たが、モンゴル軍はノヴゴロドには侵攻しなかった。代わりにドイツ騎士団とスウェーデンからその領土を狙われていた(北方十字軍)。
 1240年夏にはビルゲル率いるスウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来た(ネヴァ河畔の戦い)。
 しかしアレクサンドルはこれに対し、現在のウスチ・イジョラ近辺で対抗してわずかな兵力で大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させると共に敵将ビルゲルを討ち取ってしまった。これによりアレクサンドルの勇名はロシア全土に轟き、この戦いに大勝を収めたことにより、アレクサンドルは「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになった(実際には、彼を英雄と称えネフスキーと呼んだのは後世のロシア人である)。
 しかし、・・・突如ノヴゴロド公国はアレクサンドルを罷免・追放した。・・・これはノヴゴロドの都市貴族の内、ドイツと結託、協調路線をとる一派が、ドイツとの強硬な対決姿勢を見せていたアレクサンドルを疎んじた為だといわれている。結局、ノヴゴロドからアレクサンドルが去って間も無くドイツ騎士団はノヴゴロドへの武力侵攻を開始したために「親ドイツ派」の都市貴族は失脚し、アレクサンドルの父ウラジーミル大公ヤロスラフとの二度に渡る交渉を経て、自分たちが追放したアレクサンドルを再び公に招くことになる。1241年再びノヴゴロド公の椅子に座ったアレクサンドルはドイツと結託した「裏切り者たち」を粛清し、ノヴゴロド公国内の姿勢を対ドイツに統一する。
 1242年4月、今度はドイツ騎士団が侵攻して来たが、アレクサンドルは「氷上の決戦」(チュド湖上の戦い)で勝利し、さらに勇名を轟かせた。
 1245年にはヤロスラヴの戦いでハールィチ・ヴォルィーニ大公国が領土拡大を目指す隣国、ポーランド王国・ハンガリー王国に勝利した。1246年9月20日にミハイル2世が暗殺され、ダヌィーロ・ロマーノヴィチがジョチ・ウルスに臣従した。
 1246年9月30日に父ヤロスラフ2世がモンゴル帝国の首都カラコルムに出向き、ドレゲネの推す第3代皇帝グユクの即位式に参列した際に死去した。アレクサンドルは、ドレゲネやグユクらと争う姿勢を見せなかったが、対立するソルコクタニ・ベキやジョチ・ウルスのバトゥと、むしろ自らジョチ・ウルスの首都サライを訪問して臣従することを約束した。1248年4月にグユクが急死して、1251年にソルコクタニ・ベキの長子モンケが第4代皇帝に即位した。
 その経緯からジョチ・ウルス軍を利用して、1252年にジョチ・ウルスに対して反抗的な態度をとっていたアレクサンドルの弟アンドレイ2世を追放した後、ウラジーミル大公の位を継ぐことを許された。その後は大公としての権力と権威を高めるため、国内の反ジョチ・ウルス(モンゴル)運動を弾圧する一方で宗教を保護してある程度の自由を許した。キエフ府主教キリル3世も、ローマ・カトリックへの改宗を強制する西のドイツ騎士団等より、信仰面において比較的寛容な東のモンゴルと同盟する外交政策を支持した(モンゴル軍のうち、ナイマン等はネストリウス派を信仰していた)。
 1260年に、リトアニア大公のミンダウガスと同盟し、ドゥルベスの戦いでサモギティア(リトアニア)が宿敵ドイツ騎士団を再び破ったことにより、大公の権力と権威は大いに高まった[要出典]。
 1263年、4回目のサライ訪問の途上、ゴロジェッツで病に倒れて死去した。ネフスキーは正教会の熱心な信者で、死を目前として修道誓願を望んだが、これは実現していない。ただしこの修道誓願により、後にアレクサンドルが正教会の聖人として列聖されて以降、イコンの上部に修道士の姿をした聖アレクサンドルの姿が、下部の武人としての姿と共に描かれる事がある。43歳没。後を弟のヤロスラフ3世が継いだ。
 アレクサンドルの末子、ダニールがモスクワ公となり、後に、彼の系統から出たイヴァン3世がノヴゴロド公国を含む全ロシアを統一することとなる。
 ・・・ジョチ・ウルスに対して臣従を誓うことでその侵攻と国家の荒廃を防ぎ(バトゥがアレクサンドルの勇名を恐れて侵攻しなかったためとも言われる)、大公になるためにその軍事力を利用するなどした。しかし、一部の史料では国民の反モンゴル運動に対して厳しい弾圧を行なったとされる。
 スウェーデンやドイツ騎士団との戦い(ネヴァ河畔の戦い、氷上の決戦、ドゥルベスの戦い)で勝利を収めたという記録は西欧カトリック勢力には一切記録されておらず、ロシア以外の歴史家からは、彼の戦功は疑問視されている。会戦はあったが戦闘はもっと小規模だったのではないかという説もある。
 死後早くから聖人視されることが始まり、1547年にはロシア正教会から列聖され、正教会の聖人となった。これはアレクサンドルが東方に進出してきたカトリックの影響を排除することに熱心だったことが大きく影響している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

⇒北方のラドガ、ノヴゴロドはもとより、それよりやや南の、モスクワ、ウラジーミル、スズダリあたりも、農業地であれ牧草地であれ、痩せていたので、ヴァイキングにせよ、その後の、モンゴル等の遊牧民にせよ、西方のスウェーデンやドイツ諸侯、ポーランドやリトアニアにせよ、領有意欲を掻き立てられるような地域ではなかった感があります。
 ですから、その地域の支配者となったルーシ(ヴァイキング)自身、その地域と東スラヴ系を中心とする住民にさほど愛着の念があったわけではなさそううです。
 だからこそ、アレクサンドルにしても、住民達に嫌われたと思ったらさっさとその地を捨ててしまうのですし、況や、モンゴルと住民達と共に戦おうとしないのである、と。
 しかし、こういうことを公式の歴史に書くのは憚られたので、あたかも西方からの脅威が大きかったかのように装い、挟撃されることを恐れてやむなくモンゴルの軛を受け入れた、ということにしたのではないでしょうか。
 小競り合い程度だったと想像される西方の「脅威」との戦いに対して、ネヴァ河畔の戦い、だの、氷上の決戦、だの、と、はでばでしく宣伝したのはそのためだったとも。(太田)

(続く)