太田述正コラム#13592(2023.7.8)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その17)>(2023.10.3公開)

 「・・・モスクワが14世紀、とりわけ後半以降に目に見えて北東ルーシの中心になっていったことには、大きく二つの要素が関わっていると言えます。

⇒著者は、私の言う広義のモスクワ地区内におけるモスクワの中心としての浮上の話をしているわけです。(太田)

 それは第一に、モスクワ諸公によるウラジーミル大公位の獲得とその長期的な保持です。
 そして第二には、ルーシの府主教座をモスクワが確保し、この府主教とモスクワ公とが緊密な関係を構築したことです。<(注30)>

 (注30)「キエフと全ルーシの府主教ピョートルは対トヴェリ闘争においてモスクワを支持し、当時の府主教座がウラジーミルにあったにも拘わらず、継続的にモスクワに滞在した。次の府主教フェオグノストは1328年に公式に府主教座をウラジーミルからモスクワに移した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B31%E4%B8%96

 そしてこの二要素の形勢は共に、タタールのくびきという背景があって実現したことでした。・・・

⇒「第二」については、不同意です。(後に述べるところを参照されたい。)(太田)

モスクワの強化はユーリーの弟イヴァン1世<(注31)>(モスクワ公としては在位1325~40)の時代に一定程度前進しましたが、その際に、当時のカン・ウズベク<(注32)>との関係を考慮せずには済まされません。

(注31)イヴァン1世ダニーロヴィチ(Иван I Данилович。?~1340年)。「14世紀初頭、モスクワ公がイヴァン・カリタの兄ユーリー(1303年 – 1325年)であった時代、モスクワ公国とトヴェリ公国はウラジーミル大公位をめぐって競い合っていた。1324年にジョチ・ウルスにて、ウズベク・ハンの面前でこのユーリーがトヴェリ公ドミトリー・ミハイロヴィチによって殺害され、次の年にドミトリーもまたウズベク・ハンよって処刑された後、ウズベク・ハンはドミトリーの弟アレクサンドル・ミハイロヴィチにウラジーミル大公位を与えた。
 1327年にウズベク・ハンは半ば廃れていたバスカク制度(ハン国の代官制度、またハン国に入る税の徴収制度)の復興を目指し、トヴェリに息子チョル(シェフカルとも呼ばれる)を派遣した。その圧政に耐えきれず、生神女就寝祭(8月15日)の日に、トヴェリ公国でタタールの圧制に対する民衆の暴動が起き、チョルは民衆によって殺害されてしまう。このとき、モスクワ公であったイヴァン・・・はウズベクの許可を得て5万人のタタール軍とともにトヴェリ公国へ進撃し、トヴェリを破壊。大公アレクサンドルはプスコフに逃亡した。その功績を認められ、イヴァンは1328年にウズベク・ハンから大公位を与えられた。
 1337年、逃亡したトヴェリ大公アレクサンドルはリトアニア大公国の支援を受け、息子フョードルとともに、イヴァン・・・に対する反撃に出る。しかし、彼は最終的にはウズベク・ハンのもとに出頭し、一時的には放免されるものの、イヴァン1世の讒言を受けてウズベクはアレクサンドルを再度ハン国に召喚し、そこで1338年に息子フョードルと共に処刑された。
 イヴァン・・・はジョチ・ウルスに忠誠を誓い、ジョチ・ウルスの徴税人となってモスクワを裕福にした。彼が「カリター」・・「金袋(財布)」・・とあだ名されるのはこの事実による。その財産を使って周辺の諸公国内部に所領を増やし、その結果、それらの公国は実質的にモスクワの支配下に入った(ベロオーゼロ公国、ガーリチ公国、ウグリチ公国、コストロマー公国)。また、ハンの同意を得て、息子セミョーンに大公位を相続させて以来、モスクワは北東ルーシ地方の諸公国のなかで領袖的地位を得た。」(上掲)
 (注32)ウズベク・ハン(Özbek Khan。1313~1342年)。「ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知られている人物<。>・・・
 彼の治世から王族や諸侯はじめジョチ・ウルス領内全域でも遊牧諸勢力のムスリム化が顕著になる。ウズベク以降のジョチ・ウルスの君主は、皆イスラム教を信仰していた。ティムール朝やムガル朝などのペルシア語、アラビア語資料において、シャイバーニー朝の君主はじめジョチ・ウルス系の諸勢力は「ウズベキヤーン(ウズベクの者たち)」という名で呼ばれている。これは、14-15世紀にかけてムスリム化が促進したジョチ・ウルス内部の諸勢力が、自らのアイデンティティをジョチ家の系統かつムスリムであることを標榜し、その権威をムスリムであるジョチ・ウルスの宗主ウズベク・ハンに因んで呼んだ、他称ないし自称であろうと現在の研究では有力視されている。・・・
 ウズベクは拡張しつつあるリトアニア大公国に対しても、ロシアと同様に武力による圧力をかけた。1340年にイヴァンの跡を継いでモスクワ大公となったセミョーンにウズベクは好意を示し、リトアニアに対抗する兵力を供給した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3
 「ウズベク人<という>民族名・・・は ジョチ・ウルスの最盛期を築き、支配下の遊牧民たちをイスラム教に改宗させたウズベク・ハンに由来するとの説が有力であり、15世紀頃に中央アジアの南部にいたチャガタイ・トルコ人(ティムール朝の人々)が北の東部の遊牧民たちを「ウズベクたち」(ウズベク族)と呼んだことが知られる。・・・
 ウズベク人はイラン系民族とモンゴル系民族の中間に位置している。・・・
 ティムール朝を滅ぼしたウズベクの名を冠した民族がティムールを自民族最大の英雄として賞賛するという矛盾が生じている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%99%E3%82%AF%E4%BA%BA

⇒「注32」前段から、ジョチ・ウルスがルーシに対する西からの「脅威」への対処に助力したことがあることが分かりますが、例外的な出来事ではないでしょうか。(太田)

 総じて言えば、イヴァンはカンの忠実な僕として振る舞い、カンの後ろ盾を得て競合者を排除することでモスクワ公国を強化しました。・・・
 イヴァンが大公国全域を支配下に収めたのち、ロストフにおいて、彼がタタール税を搾り取ったことが当時の聖者伝に記載されています(ほかの地域についても証拠があります)。
 さらに、売買した商品からの一定率の税(タムガ)や境界を越えた際の交易手数料(ムィト)がこの時代にタタール人に入る税として現れますが、これをイヴァンが自らの手中に収めたとする研究者もいます。
 ・・・またやや判然とはしない部分もありますが、タタールから徴税を請け負うなどの手段でモスクワの国庫を富ませたと考えられます。・・・」(47、51、53)

⇒イヴァン1世は、モンゴルに、足蹴にされつつもヒトやカネをひたすら貢ぎ続けることによって、モンゴル圏たるルーシ諸公国内での筆頭的地位を確立すると共に私腹を肥やし続けたところの買弁政治屋、だったわけです。
 戦後日本の岸カルトと米国との関係に相通じるところがありますが、日本はその結果脳死してしまったのに対して、後にロシア人となるところの、ルーシ諸公国住民達、は、モンゴルの軛症候群を発症してしまい、次第に重篤化しつつ現在に至っている、という風に私は考えるに至っています。(太田)

(続く)