太田述正コラム#13594(2023.7.9)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その18)>(2023.10.4公開)

 「1374年には、・・・モスクワは「ママイと<(注33)>不和に陥り」ました。

 (注33)Mamai(?~1380年)。「1359年に[ジョチ・ウルスの第13代君主<の>]ベルディ・ベクが[弟の]クルナによって暗殺された後、・・・混乱期に入ったジョチ・ウルスでは、多くの王族がハーンの地位を争<った。>・・・
 ママイはチンギス・カンの血を直接引いていなかった<ため、ハンにはなれなかった>が、ハンの擁立に強い影響力を有しており、ウズベク・ハンの末裔であるアブドゥッラーを初めとする多数の王族をハンに擁立した。
 ジョチ・ウルスはヴォルガ川を境に東西に分裂、ママイはヴォルガ以西のキプチャク草原、クリミア半島を支配し、東の白帳ハン国の<やはりハンにはなれない>指導者オロスと敵対した。・・・
 1373年ごろにモスクワ大公国はジョチ・ウルスへの貢納を停止し、ママイはリトアニア大公ヨガイラ、リャザン公オレーグと同盟してモスクワの圧迫を企てた。ママイは有力な同盟者であるトヴェリ大公ミハイルをウラジーミル大公に任じようとするが、ウラジーミル市民の抵抗とモスクワの攻撃によって失敗する。
 1377年にモスクワはスーズダリの軍隊と共にジョチ・ウルスの臣従国であるヴォルガ・ブルガールを攻撃し、翌1378年にヴォジャ河畔の戦いでママイが派遣した将軍ベギチの率いる軍隊を破った。1380年にママイはモスクワ討伐の軍隊を動員、同年9月8日のクリコヴォの戦いでママイはモスクワ公ドミートリーが率いるルーシ諸侯の連合軍に敗れる。・・・
 ママイの死後、彼に従属していた遊牧民は次代のハンであるトクタミシュに帰順し、ジョチ・ウルスが再統一される道を切り開いた。イヴァン4世の母エレナ・グリンスカヤの生家グリンスキー家はママイの子孫を自称しており、事実であれば、イヴァン4世はクリコヴォの戦いの勝者と敗者双方の血を引いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%9E%E3%82%A4_(%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%83%88%E9%83%A8)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AF ([]内)

 これは、・・・タタール税の支払い、あるいは増額を巡るものでしたが、ドミトリー<(注34)>はこれを拒否したようです。

 (注34)ドミートリー・ドンスコイ(Дмитрий Донской。1350~1389年。モスクワ大公:1359~1389年)。「イヴァン2世の子。イヴァン1世の孫。本名はドミートリー・イヴァーノヴィチ。ドミートリー・ドンスコイという名は「ドン川のドミートリー」という意味の称号で、ドン地方で武功を挙げたことによる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A4

 報復として・・・タタール軍がニジニ・ノヴゴロドに送られますが、この地を支配していたスズダリ公ドミトリー(モスクワのドミトリーの義兄弟)はタタール軍を粉砕します。
 この時点で、ウズベクの時代のモスクワと異なり、北東諸国の結束のようなものが見えてきていることは注目に値するところです。
この結束が目に見える形になったのが、1374年のペレヤスラヴリでの諸公会議とその成果として北東ルーシ諸公間で結ばれた軍事同盟でした。・・・
 ほかにも、タタール税に関して、「協議の上、支払わない」という選択肢もあり得ることが書き込まれている点が興味深いところです。・・・
 1380年<、>・・・ママイはリトアニアの新大公ヨガイラ<(注35)>・・・と同盟を結び、モスクワとの決戦に備えました。・・・

 (注35)「ヨガイラ(Jogaila)、後のヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Pl-Władysław Jagiełło.ogg Władysław II Jagiełło、1362年頃–1434年・・・)は、リトアニア大公(1377年 – 1434年)、ポーランドの王配(1386年 – 1399年)及び単独のポーランド国王(1399年 – 1434年)。1377年からリトアニアを統治し、最初は叔父のケーストゥティスと共同で統治した。1386年にクラクフでヴワディスワフの名で洗礼を受けて若き女王ヤドヴィガ・アンジューと結婚し、ポーランド国王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとして戴冠した。1387年にはリトアニア全土をキリスト教に改宗させた。ヤドヴィガの死を受けて1399年からヴワディスワフ2世による単独の統治が始まり、それは35年以上にも続き、数世紀に及ぶポーランド・リトアニア合同の土台が築かれた。ヴワディスワフ2世は己の名前を帯びたヤギェウォ朝の創設者である一方、異教徒としてのヨガイラはリトアニア大公国を創設したゲディミナス朝の後継者であった。王朝は両国を1572年まで支配し、中世後期及び近世の中・東欧で最も影響力のある王朝の一つとなっている。その統治期間中、ポーランド=リトアニア合同はキリスト教世界で最大の国家であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%952%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 <結局、>クリコヴォの戦いはモスクワを中心としたルーシ同盟軍の勝利に終わったのです<。>・・・
 ママイ陣営の瓦解により、結果としてジョチ・ウルスを統一したのがカン・トクタミシュ<(注36)>でした。

 (注36)1342~1406年。「ジョチ・ウルス左翼(東部)の小王族からティムール朝の援助を受けてハン位に立ち、分裂していたジョチ・ウルスの再統合と再編を果たすが、のちにティムールと対立し、敗れて没落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AF%E「3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A5

 トクタミシュの場合、ママイと異なり、ルーシに奇襲をかけたことが遠征を成功に導いた第一の条件でした。・・・
 モスクワは・・・3日間の包囲の末、・・・落<ちまし>た・・・<。>・・・
 ドミトリーにはサライへの出頭が求められたのですが、結局のところ彼自身は出頭せず、息子ヴァシーリー(のちの大公)を人質のような形で送ることで済みました。
 こうしてようやく1383年にドミトリーはトクタミシュによりウラジーミル大公の勅許状を獲得しました。・・・」(59~62、64~65)

⇒ジョチ・ウルスの内紛による弱体化を前にして、依然、ルーシ諸公国の足並みが揃わず、ジョチ・ウルス勢力に、ルーシ諸公国にとっての西からの脅威中、とりわけ強大化しつつあったところの、リトアニアと同盟関係に入らせてしまったことは大失敗であり、その後の、リトアニア(ないしポーランド・リトアニア連合)によるところの、現在のベラルーシやウクライナ西部の浸食を許すところとなってしまい、それが、それより前の、モンゴルによるキエフ公国の蹂躙と荒廃も与かって、その後のウクライナ(やベラルーシ)のロシアとの反目をもたらす遠因になったと言えそうですね。(太田)

(続く)