太田述正コラム#13600(2023.7.12)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その21)>(2023.10.7公開)


[コサック]

一 総論

 「宮脇淳子はコサック<(cossack(英))>の起源について、ジョチ・ウルスの分裂後にロシア正教に改宗した遊牧民集団であろうと述べている。その根拠として「アタマン」はトルコ語で百人隊長、コサックの語源もトルコ語で「自分の部族から離れて自由行動を取った人々、冒険者」であり、モンゴル語史料ではドン川やヤイク川のコサック集団を長い間タタール遊牧民の名で呼んでいたことを挙げている。半遊牧生活を送り、狩猟漁労に長け、時に略奪行為を行っていた。
 13世紀、ジョチ・ウルスの侵攻によってキエフ・ルーシが滅亡した後、ウクライナ東南部の草原地帯は荒れ果て人口が希薄化した。ジョチ・ウルスも14世紀末より衰退し始めクリミア・ハン国などの汗国に分裂し、草原地帯は遊牧民が跳梁した。このような背景から、この草原地帯は16世紀以降の文献で「荒野」とよばれることとなる。・・・
 15世紀後半、モスクワ大公国、ポーランド、オスマン帝<等>・・・から逃れてきた人々が「荒野」に移住した。
 1500年頃にはオスマン帝国式の遊牧騎兵集団となった・・・。
 こうしてテュルク系民族、タタール、スラブ人など様々な民族的出自の人々がコサックを構成した。割合で言えばスラブ人が大多数を占めるとの研究結果がある。当初のコサックは、周辺国家に依存しない独立した集団であった。
 15世紀後半以降、クリミア・ハン国はオスマン帝国の庇護を得て勢力を増していた。当時クリミア半島で奴隷の売買が盛んにおこなわれており、クリミア・ハンは奴隷の捕獲を目的としてたびたび「荒野」を襲撃。
 主要なコサック共同体はクリミアに近いドニエプル川、ドン川、ヴォルガ川、ウラル川周辺に存在していたため、ポーランド、モスクワなど周辺国家の政府は、防衛政策の一環として「荒野」の管理をコサックに任せる代わりに、自治を認めて武器や火薬、資金を提供するようになった。このような軍務提供集団として組織化された最初期のものがザポロージャ・コサックとドン・コサックであった。結果的にクリミア・ハンの度重なる襲来は、コサックの軍事力の維持、強化に一役買うこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF

二 ウクライナ・コサック

 現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して西欧における小国家(ドイツ地域の王国、公国などのような)と同じような小共同体を形成していた。
 16世紀初頭、ポーランドはドニエプル川周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ<(注39)>・コサックを組織し南部の防衛を任せた。1552年、ルテニア<(注40)>系貴族のドミトロ・ヴィシネヴェツキは現在のザポリージャに近いドニエプル川のホールツィツャ島に最初のシーチ<(注41)>を築いた。シーチの首領はオタマンと呼ばれた。

 (注39)あるいはザポリージャ。「現代のウクライナのドニプロペトロウシク州、ザポリージャ州、キロヴォフラード州、ムィコラーイウ州、ヘルソーン州の全地域およびオデッサ州、ドネツィク州、ルハーンシク州の一部の地域を含む。・・・
 コサックは「荒野」を開拓していくに連れて、ザポロージャの境界線が拡大していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3
 (注40)「「ルテニア<(Ruthenia(英))>」は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を指すが、広い意味ではウクライナあるいはウクライナとベラルーシを合わせた地域を指す。ルテニアとは「赤ロシア」の意味を持つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%8B%E3%82%A2
 (注41)「「要塞」あるいは「木製の城」を意味している。そのような要塞は、河中の島または川岸という攻めにくく守りやすい土地に築城されるのが一般的であった。・・・
 ウクライナ・コサックの内外政は共和制に基づいており、シーチにおけるコサックの最高機関は、コサック全員が参政権を有して直接に政治に参加する軍の議会(Військова рада)であった。時としてその議会が地域代表制のもとに開かれたこともあった。普段の議会は、一年に一回か三回で定期的に開会されていたが、一般のコサックの要求に応じて臨時的の「黎民の議会」(Чорна рада)も集められた事例がある。議会では法律、行政、裁判、戦争、外交などコサックの生活に関わる合議が行われ、議事の可否は過半数によって目測で決められていた。
 コサック軍の議会ではシーチの政府に当たるキーシュの長官も選任することが一般的であった。その政府の頭は、キーシュのオタマーンと呼ばれ、行政についての権能を持っていた。キーシュのオタマーンには、議会で選ばれた軍の書記官(Писар)、軍の裁判官(Суддя)、軍の取締役(Осавул)と数人のクリーニのオタマーンという補佐役が付属していた。キーシュのオタマーンは、出陣の時には独裁者として振る舞い、平時には議会と長官たちと協議する行動をとっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%81 

⇒ウクライナ戦争下、現在、ロシア軍の占領下にあるザポリージャ原子力発電所を巡る攻防は、象徴的な意味がありそうだ。(太田)

 1558年にクリミア・タタール人によって破壊されたためシーチは移転再建された。以後シーチは破壊による移転再建をたびたび繰り返すこととなる。
 1569年にポーランドとリトアニアの連合によるポーランド・リトアニア共和国が成立。1572年、コサックが政府に届け出ることによって地位や給与、土地の所有などの権利を保障する登録コサックの制度を開始した。すべてのコサックが登録を許されるわけではなく、最大2万人程度であった。支配者であるポーランド・リトアニアに対する反感もあり、1591年のコシンシキーに始まり、1594年のナリヴァイコほかコサックによる蜂起がたびたび発生し、登録コサックの人数が削減された。
 1600年代、コサックを率いたペトロ・サハイダーチヌイはタタールとの戦いで戦果を挙げたほか、1621年のホティンの戦いではポーランド軍の主力を率いてオスマン帝国を撃破した。
 1648年、ポーランド・リトアニアに対する蜂起を決意したボフダン・フメリニツキーはヘトマンに就任。クリミア・ハン国と同盟を結び、ジョーウチ・ヴォーディの戦いをはじめとする戦いに次々と勝利しポーランドからコサックの権利に関する大きな譲歩を勝ちとった。こうして1649年ヘトマン国家<(注42)>が樹立した。

 (注42)「ヘーチマン国家(ウクライナ語: Гетьма́нщина)は、1649年から1782年の間にドニプロ・ウクライナに存在したコサックの国家である。ポーランド・リトアニア共和国における最大のコサック反乱であるフメリニツキーの乱によって誕生した。国家の君主であるヘーチマンによって統治されたことから、ヘーチマン国家と呼ばれた。正式な国号はザポロージャのコサック軍(Військо Запорозьке)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%9B%BD%E5%AE%B6

 独立国家を手に入れたコサックであったが、その後も周囲の国家との争いが絶えることはなく、1654年に軍事的安定を求めロシア・ツァーリ国とペラヤスラウ協定を妥結しその保護下に入った。ロシアによる扱いが次第に厳しくなる中、1709年、ヘトマンのイヴァン・マゼーパはスウェーデンのカール12世と同盟しピョートル1世と戦い敗れた。1734年、最後のシーチとなるノヴァ・シーチが建設されたが、エカチェリーナ2世の時代、1775年にロシア軍によって破壊された。
 1730年代以降、コサックは農民を率いてたびたびハイダマキ運動とよばれる蜂起を企てた。
 ザポロージャ・コサックの残党は一部ドナウ川流域のオスマン帝国領へと逃れ、ドナウ・コサック軍として存続したが、19世紀のオスマン帝国との戦いの中でドナウ・コサックの拠点も破壊された。」(上掲)
 「ウクライナ・コサックの存在は、その伝統が廃れたのちもウクライナ人の心の拠り所となった。多くの文学作品や詩などで積極的にウクライナ・コサックが題材にされ、それは帝政・ソ連時代を通じて続いた。また、軽乗用車ザポロージェツィのように商品でもウクライナ・コサックのイメージが利用された。
 また、ウクライナが独立を目指す時代にはウクライナ・コサックのイメージが必ずといってよいほど用いられた。ロシア革命後のウクライナ内戦期には、ウクライナの反ボリシェヴィキ革命戦士は「ハイダマーク」を名乗った。また、ウクライナ中央ラーダの精鋭部隊はシーチ銃兵隊を名乗り、オーストリア・ハンガリー帝国下の西ウクライナで編成された軍隊もウクライナ・シーチ銃兵隊を称した。ドイツ帝国の傀儡政権として成立したウクライナ国でも、ウクライナ国民への懐柔策としてウクライナ・コサックのイメージが大いに利用された。また、その首領は「ヘーチマン」を名乗った。
 独立後のウクライナでも、到るところでウクライナ・コサックがキャラクターとして用いられているのを目にすることができる。紙幣にも、ウクライナの「初代」大統領ミハイール・フルシェーフスキーや国民的詩人レースャ・ウクライーンカに並んで2人のウクライナ・コサックが選ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF

⇒キエフ大公国ではなく、ヘーチマン国家こそ、現在のウクライナの原型であると言えよう。
 悩ましいのは、ヘーチマン国家は、当時クリミア・ハン国の領域であった黒海沿岸地域や現在のウクライナのルハンスク州やドネツク州の領域に支配が及んでいなかったことだ。
 このことが、プーチンを含む大部分のロシア国民が、ウクライナ全土がダメでも、せめて、これらの諸領域はロシアに併合されなければならない、という強迫観念の虜になっているゆえんだろう。(太田)

(続く)