太田述正コラム#13630(2023.7.27)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その2)>(2023.10.22公開)

 「隣接する遊牧民から中国に騎乗技術が伝わったのは、前4世紀末のこと。
 そのころの中国は戦国時代で、北方に領土をもっていた趙<(注6)>の武霊王<(注7)>(在位前325~前298年)は「胡服騎射」を導入した。

 (注6)「戦国時代に存在した国(紀元前403年 – 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。・・・秦の王室と同祖とされる・・・。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
 (注7)「粛侯が死去し、その後を受け継ぐ。その際、それまでの侯ではなく、王として即位した。・・・
 ・・・紀元前318年・・・、趙は楚・韓・魏・燕とともに秦を攻めたが、函谷関で敗れた(函谷関の戦い)。この頃、諸国は相次いで王号を称えるようになっていたが、武霊王はこの敗戦を受け、「趙にはその実質が無い」と言ってあくまで君と呼ばせるようにした(子の恵文王の時代から再び王号を使うようになり、父の諡にも王号を贈った)。・・・
 紀元前307年・・・、武霊王は野望を達成するための準備として、胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だった。それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る<ことにした。>・・・
 紀元前296年・・・、それまで何度か攻撃して、半ば征服していた中山を完全に滅ぼし、版図に入れた。・・・
 司馬遷は「武霊王<の最期について、>後継を逡巡し、餓死<させられ>たことで天下の物笑いとなった(為天下笑、豈不痛乎)」、と厳しい評価を与えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
 「中山国(ちゅうざんこく)は、戦国時代の<支那>で、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領土とした国である。中山と改名する前は春秋時代以来の中原の北部にいた白狄が建国した都市国家で「鮮虞」という名で知られていた。当初は太行山脈の西側、つまり現在の山西省の黄土高原上にあったが、紀元前432年に文公が衆を率いて太行山脈を越えて華北平原上に降り、現在の河北省中部に中山国を建国した(ただし必ずしも旧領のすべてを放棄したわけではない)・・・
 他の諸侯国のように都市国家を出自とするのではなく、中原においては少々異質な、遊牧民的要素を持つといわれる狄の勢力が起こした国であるため、史料が少なく、「神秘の王国」と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%9B%BD 

 胡服とは騎乗に適した服装のことで、ズボンに筒袖の体にフィットした服装である。
 騎乗した状態で弓を射るのを騎射という。
 ここに機動性に富んだ騎馬軍団が誕生した。

⇒「鐙のルーツは西晋時代の<支那>もしくは満州に在り、・・・発明されたのは西暦290~300年頃とされる。・・・鐙が出現するまで、騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬していた。姿勢は不安定で、馬の激しい動きに追従するのは難しかった。特に軍事目的で馬を利用する場合、不安定な姿勢で武器を使うのは極めて困難であった。このため騎乗したまま戦う技能(騎射など)は、騎馬民族以外には長期間の鍛錬が出来るごく一部の貴族階級が有する特殊技能であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%99
ということを、著者は書いてくれていないところ、趙や秦(後出)の「機動性に富んだ騎馬軍団」など、たかが知れている、という認識を持った方がよさそうです。(太田)

 騎馬軍団は17世紀に銃火器が本格的に戦争に導入されるまで最強の軍隊であった。
 前世紀末の中国には、林胡(りんこ)・楼煩(ろうはん)・匈奴といった騎馬遊牧民が登場した。
 それら騎馬遊牧民に対抗するため、戦国各国はそれまでの馬に車を引かせる戦車スタイルから騎兵スタイルへと軍事改革をおこなった。
 その先駆けが武霊王の「胡服騎射」であり、秦も積極的に騎兵を導入した。
 秦の中国統一のうらに騎兵の導入があったことは注意しておきたい。
 逆に言えば、騎馬遊牧民の出現が中国社会における軍事改革をもたらしたのである。」(17~18)

⇒むしろ、漢人文明は、内生的に軍事改革というほどのものをもたらすことができなかったからこそ、4世紀以降、北方遊牧民族による(最初は五胡十六国時代の形での北支那が、後には全支那が)征服諸王朝の時代を迎える羽目になってしまった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
と言うべきでしょう。(太田)

(続く)