太田述正コラム#13634(2023.7.29)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その4)>(2023.10.24公開)

 「例えば、周や秦は農牧接壌地帯の甘粛省からおこり、五胡十六国時代のはじまりをつげる南匈奴の自立も農牧接壌地帯の山西省でおこっている。

⇒周(Zhou)の首都、すなわち、周、は、現在の(山西省の西隣の)陕西(Shaanxi。せんせい)省の岐山(Qishan)
https://en.wikipedia.org/wiki/Shaanxi
https://en.wikipedia.org/wiki/Qishan_County
であり、(陕西省の更に西隣の)甘粛(Gansu)省というのは間違いでしょう。
 念のためですが、岐山の前の周の拠点は豳(Bin)であり、これも、同じく、現在の陕西省です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bin_(city)
 なお、秦(Qin)に関しても、紀元前770年の最初の拠点こそ甘粛省だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E7%9C%8C
けれど、二代目君主の文公が、その半世紀後の紀元前714年に首都を陕西省内に移してからは、転々としつつも、秦の首都は最後まで陕西省内にとどまっているところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%99%BD%E7%9C%8C_(%E9%99%9D%E8%A5%BF%E7%9C%81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E5%9F%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%87%E9%99%BD
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%8E%E9%98%B3%E5%9F%8E%E9%81%97%E5%9D%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E9%99%BD%E5%B8%82 (太田)

 本書の主人公である拓跋部も農牧接壌地帯の山西省北部において成長してきた。
 1世紀中頃、モンゴル高原にいた匈奴が衰えたあと登場するのが鮮卑である。・・・
 ところで、・・・鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問は成立するが、鮮卑全体を指して何系の民族かを問うことはできない。
 なぜなら、鮮卑のなかには文化・習俗が異なる多様な人々が含まれているからである。・・・
したがって匈奴や鮮卑を遊牧民族と呼ぶのは適当ではない。
 遊牧集団と呼ぶほうがいい。
 なお、この集団の単位は、漢文史料では「種」と表記される。・・・
 鮮卑が北方を支配するようにな<った>・・・後、2世紀中ごろに檀石槐<(注10)>(だんせきかい)という英雄が現れると、彼のもとで‥‥統合されること<が>なかった・・・鮮卑は統合されて一大国家を形成する。・・・

 (注10)Tanshihuai(137~181年)。「178年・・・冬、鮮卑は酒泉を寇掠した。このころ、鮮卑の人口が急激に増え、農耕・牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人)・・『三国志』では汙人、『後漢書』では倭人と表記。いわゆる倭人なのかは不明。・・たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという。
 ・・・檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連が代わって立った。檀石槐の死後、それまで選挙制だった鮮卑が世襲制となる<が、勢力は衰え、続かなかった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90

 匈奴にかわる強大な勢力が突如として出現したことに慌てた後漢は、・・・<その>討伐に<失敗し、>・・・檀石槐に王の爵位を与えて懐柔しようとしたが、拒否された。・・・
 しかし檀石槐の死後、各地に部族長が自立した。
 一時期、軻比能<(注11)>のもと統合されたが、軻比能が死ぬと、ふたたび各地の部族が自立し<てしまう。>・・・

 (注11)かびのう(Kebineng。?~235年)。「軻比能は・・・、財物を略奪してきたときには、必ず均等に分配し、皆の前ですべてを定めて、けっして私利をはかることはなかった。それ故に配下の者たちは死を恐れずに彼のために力をつくし、他の部族の大人たちも敬し畏れた。しかし、それでもかつての檀石槐には及ばなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%BB%E6%AF%94%E8%83%BD

 <このように、>遊牧部族はカリスマ性を持った優れたリーダーのもとで大きく発展することがよくある。
 匈奴の全盛期を築いた冒頓単于(ぼくとつぜんう)やモンゴルのテムジン(チンギス)も<そうだ。>・・・
 <その後、>三国魏の後継王朝である西晋の混乱に乗じて国家を樹立していくことになる。
 五胡十六国である。
 そのなかに拓跋部もいた。」(19、22~24、26~27)

⇒農牧接壌地帯の(鐙出現以前の)遊牧民は、農業社会から見れば、雑多な構成員からなるところの、優れたリーダーがいない時は強盗一味、いる時は山賊団、といった感じだったのではないでしょうか。(太田)

(続く)