太田述正コラム#13656(2023.8.9)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その15)>(2023.11.4公開)

 「<まず、>羽林の変<だが、>519年・・・、羽林<(注42)>(近衛兵)1000人が張仲瑀の邸宅を焼き討ちし、息子の張始均を焼き殺す事件が起きた。<(注43)>・・・

 (注42)「羽林(うりん)は、前漢に設立された皇帝直属の部隊名で、明代まで置かれた。
 前漢の武帝の太初元年に光禄勲の下に「建章営騎」が設立されたことに始まる。皇帝に従うことを職とした。後に「羽林騎」と改称された。
 羽林には令、丞が置かれたが、宣帝は中郎将(秩比二千石)と騎都尉(秩比二千石)に羽林を監督させた。
 また従軍して戦死した者の子を引き取って羽林で養い、武器の使い方を教え、これを「羽林孤児」と称した。
 後漢においても光禄勲に属し、羽林中郎将(秩比二千石)が宿衛侍従を職とする羽林郎(秩比三百石)を司った。羽林郎は漢陽(天水)、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の人間から選抜された。
 また中郎将とは別に羽林左監と羽林右監(各秩比六百石)がおり、それぞれ羽林左騎、羽林右騎を司った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9E%97
 (注43)「武人の清品官への就任制限に対する、羽林・・・の暴動。 当時の北魏は漢化政策の進行と軍事の減少によって、余禄を伴う文官職が貴重されたが、就任者は宗室や一部の鮮卑大姓・漢人士族に限られて武官からの転任は絶望的で、文尊武卑の風潮は鮮卑の名族子弟で構成された禁衛兵の間でも深刻となっていた。・・・
 張仲瑀<は、>・・・件の案件の建議者である<。>」
http://home.t02.itscom.net/izn/ea/c111.html

⇒漢化には、当然文尊武卑化も含まれるところ、それは必然的に北魏の滅亡を運命づけてしまう、というわけです。(太田)

たまたま函使(かんし)(鎮と洛陽の連絡係)として洛陽を訪れ、この事件を目撃した高歓は、時代の変化を敏感に感じ取ると、懐朔鎮に戻り、財産を投げうって仲間を集めた。
 これにより高歓はこのあとの混乱の時代を勝ち抜き、北斉の基礎を築くことになる。

⇒「六」鎮は、恐らく、後漢の「六」郡に倣っているのでしょうが、北魏の羽林が、後漢の羽林同様、六郡ならぬ六鎮の人間から選抜されたのかどうか、突き止められませんでしたが、その可能性も当然あります。(太田)

 <次に、>懐荒鎮民の反乱<だが、>523年・・・4月、柔然可汗の阿那瓌<(注44)>(あなかい)が、柔玄鎮と懐荒鎮を荒らしまわり、鎮民2000人、家畜数10万頭を奪った。

 (注44)?~552年。「柔然の最後のカガン(在位 520~552)。北魏末の混乱に乗じて勢力をふるい,東魏,西魏を圧迫するとともに南朝の梁とも交易した。その支配下にあった突厥の族長,土門(→伊利可汗)に敗れて自殺した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E9%82%A3%E7%93%8C-26310
 「北魏<時代>の・・・520年・・・、醜奴がその母の侯呂陵氏と大臣に殺されると、弟の阿那瓌が立って可汗となった(この時点では可汗号がない。また、阿那瓌から柔然の元号を立てなくなる)。阿那瓌が即位してから10日、族兄の俟利発(イルテベル:官名)の示発が数万の軍勢を率いて攻撃してきた。阿那瓌は戦ったが敗れ、弟の乙居伐を伴って軽騎で北魏に逃れて帰順した。まもなく阿那瓌の母である侯呂陵氏と二人の弟は示発に殺害された。・・・521年・・・1月、阿那瓌ら54人が別辞を述べることを求めた。孝明帝は西堂に臨御すると、阿那瓌と叔父や兄弟5人を引見し、堂上に昇らせて座を賜い、中書舎人の穆弼に慰労の言葉を伝えさせた。孝明帝は侍中の崔光・黄門の元纂に詔を下し、城外で阿那瓌を激励して見送らせた。時に阿那瓌が出奔した後の柔然本国では、阿那瓌の従兄の俟利発の婆羅門が数万人を率いて示発を討伐し、これを破ったので、柔然人は婆羅門を推戴して可汗とし、弥偶可社句可汗(在位:521年 – 524年)と号していた。この時、安北将軍・懐朔鎮将の楊鈞は阿那瓌が復権することが難しいことを上表した。しかし孝明帝は聞き入れず。2月、孝明帝は柔然使者の牒云具仁を派遣して、婆羅門に阿那瓌を迎えて国を返すよう説得させた。しかし、婆羅門は傲慢で従わず、牒云具仁に礼敬を強要した。牒云具仁は節を持って屈服しなかった。そこで婆羅門は牒云具仁に莫何去汾・俟斤の丘升頭ら6人と2千の兵を付けて、阿那瓌を出迎えさせた。5月、牒云具仁は懐朔鎮に帰還し、柔然の情勢を報告した。阿那瓌は懼れて入国しようとせず、上表して洛陽への帰還を求めた。しかしこの時、婆羅門は高車に放逐され、十部落を率いて涼州に赴き、北魏に帰順・投降したので、阿那瓌は数万人の柔然人に迎えられ復権することができた。孝昌元年(525年)春、阿那瓌は軍を率いて破六韓抜陵を討伐した。孝明帝は詔を下して牒云具仁を派遣し、阿那瓌を慰労して届けさせた各種の品々を賜った。阿那瓌は詔命を拝受し、兵十万を指揮して武川鎮から西の沃野鎮に向かい、何度も破六韓抜陵軍と戦って勝利した。4月、孝明帝は再び通直散騎常侍・中書舎人の馮儁を阿那瓌への使者として派遣し、慰労の言葉を伝えて各々に下賜を行わせた。すでに阿那瓌の部落は平穏であり、兵馬は次第に大勢力となったので、阿那瓌は敕連頭兵豆伐可汗と号した。・・・534年・・・12月、孝武帝が毒殺されると、北魏は東西に分裂し、翌・・・535年・・・1月、東魏と西魏が成立した。東魏と西魏は柔然と婚姻関係を結び、以後頻繁に政略結婚が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E7%84%B6

 困窮した懐荒鎮民は、鎮都大将・・・に食糧をもとめたが拒否された。
 これに怒った鎮民は反乱を起こし、<大将>とその妻を縛り上げて監禁したうえで衣服を奪い、・・・ひと月ほど辱めたのち殺害した。・・・
 北魏は逃亡した柔然の阿那瓌を討つべく、10万の軍を派遣したが、功なくして帰還した。
 それをみた鎮民たちは、北魏政府に失望し、反乱に加担する気持ちがめばえていった。・・・」(183~184)

⇒北から南へ、柔然、北魏、斉(←宋)、の三地域・三国体制が、突厥、西魏/東魏、梁、の三地域・四国体制に変った、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
というわけです。
 後の唐は、その初期において、この三地域を統一することになります。
 注意すべきは、この間、北方地域には(東トルキスタンより西の領域を含む)トルキスタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
が一貫して含まれていたことです。(太田)

(続く)