太田述正コラム#13831(2023.11.5)
<皆さんとディスカッション(続x5704)>

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

 ウクライナ問題。↓

 <快哉哉。↓>
 Russia Sees Staggering Jump in Losses in a Month, According to Kyiv Figures–Crimea Satellite Photos Show Russia’s ‘Minsk’ Landing Ship Stripped Down・・・
https://www.newsweek.com/russia-ukraine-avdiivka-losses-1840890

 <残念でしたー、後一声なんだけど、その一声が出せない人ばっかしなんだよね。↓>
 「・・・キプチャク汗国のやりかたは、ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし、かれらを隷従させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしぼりあげるというもので、これにたえられずに逃げてしまう農民もあり、悲惨なものでした。首長が、すこしでも抵抗の色を見せれば、汗国から軍隊が急行するのです。軍隊はその町を焼き、破壊し、ときに住民をみなごろしにし、女だけを連れ去るというやり方をとりました」(前同)  この「タタールのくびき」は259年の長きにわたりました。タタールとはモンゴル人のこと。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時に首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代という意味です。  「外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくはないのです・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/29053517b51947bd1a25bf8b101f1aa8351df004
 <最初のが触媒、後のは成分。↓>
 「なぜ失敗国家は「不屈のウクライナ」に豹変できたのか・・・
 ロシアの理不尽な蛮行に対する怒り。  自律的に動くコサックの伝統。  自由と民主主義への渇望。  国土・郷土への愛着。  勇気とユーモア。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0a44adc0a3854088e34757dcf49c47207f79b43

 ガザ戦争。↓

 <やや、トンネルに突入してんじゃん。よーやるよ。↓>
 「スラエル軍 ハマスの地下トンネルに特殊部隊が突入 映像公開・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/244fa163e6f7aef33b17b9826c9fadb6ddcc39bf

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 それ、「在日」なんて無関係で、「実学」しか存在しない「東京大学」がワルいんだよ。↓

 「・・・集英社が創業95周年記念企画として刊行している「アジア人物史」シリーズが、批判の矢面に立たされている。
発端は、2024年4月公開予定の第12巻「アジアの世紀へ」で、鄧小平や孫文らと並んで台湾の元総統・李登輝氏とチベットの宗教的指導者ダライ・ラマ法王を「中国の歴史的人物」として扱ったことだ。「李登輝基金会」の董事長(会長)で、李元総統の次女である李安妮は2日、「極めて残念に思う」との声明を発表した。台湾の行政院長の陳建仁も3日に立法院での答弁で、「台湾は独立した主権国家だと認識していた李登輝の生前の意志を集英社は尊重すべきだ」と、見直しを促した。権威ある国立の研究機関・台湾国史館の陳儀深館長も「李登輝元総統の伝記である以上、本人の意志から離脱したことが書かれるのは論外だ」とメディアに語った。
 台湾教授協会の陳俐甫会長も「チベット人とモンゴル人、それに台湾人は中国人ではないのは自明のことだ。台湾人は日本で震災が起こるたびに支援してきたにも関わらず、裏切られた」と不満の声を発した。・・・
 「アジア人物史」の総監修者は在日韓国系知識人の代表格の姜尚中・元東京大学教授である。姜氏は在日としての精神的葛藤について語り続けて来たのに、同じ境遇に置かれていた台湾人と満蒙の人間の心情を汲み取ろうとしなかったのではないか。李登輝氏とダライ・ラマ法王を「中国人」とするのは、在日を日本人だと決め込むのと同じではないか。・・・
 <ここ↓は間違い。紛れもなく支那史の一環。朝鮮半島を入れるかどうかは微妙だが・・。↓>
 満洲とモンゴルは長城の北にあり、文明的にも歴史的にも中国の一部ではなかった。
 1912年早春に清朝の皇帝が権力を孫文に禅譲する前年の暮れに、モンゴル人は既に独立を宣言している。その独立したモンゴルはチベットと外交関係を結んでいたし、世界からも承認されていた。
モンゴルの半分、即ち内(南)モンゴルは日本に支配されなかったら、1945年以降に中国に取られることもなかった。このように、台湾も南モンゴルも日本が占領し、しばらく統治してから中国に「売り渡した」に過ぎない。その道義的・法的責任について、日本は一度も反省しなかったのではないか。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%97%A7%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%82%B7%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%92%E9%A6%B3%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E7%A4%BE/ar-AA1jnaep?ocid=msedgntp&cvid=7319595fddd4414f80fb3cc2cda015dd&ei=3

 なんやねんそれ?↓

 「・・・近年、白峰旬氏が小山評定虚構説を唱え、本多隆成・笠谷和比古・藤井讓治の各氏が反論し、改めて実在説を唱えた・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AF%E5%9C%A7%E5%80%92%E7%9A%84%E3%81%AB%E4%B8%8D%E5%88%A9%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%B1%B1%E3%81%A8%E8%A5%BF%E8%BB%8D8%E4%B8%87%E3%81%AB%E5%9B%B2%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%8A%B6%E6%85%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%82%92%E6%8E%B4%E3%82%93%E3%81%A0%E4%BD%9C%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C/ar-AA1jojMg?ocid=msedgntp&cvid=bb3958a914144ab4905695033f70ead5&ei=6

 その小山評定のハナシ。↓

 「・・・正則を口説いたのは、家康派の黒田長政でした。
 ・・・根回し役を引き受けた長政は、「三成の挙兵は、豊臣家の名を借りた自分の天下取りだ。騙されてはいけない」と、正則の「三成憎し」の気持ちを刺激し、三成との対決への決意を迫ります。
 「明日の評定で、そなたが諸侯に先駆けて、内府殿にお味方申し上げる、と大声で切り出せば、迷う方々の決意も固まるだろう」
 正則に、どの程度の時代認識と理解があったかは疑わしいのですが、もしこの戦いで、文治派の三成が勝利すれば、武断派の自分の、将来の目がなくなることは理解していたようです。
 長政は、この正則説得の成功によって、後日、いちはやく筑前50万2400余石を家康から与えられています。
 翌25日、いよいよ上杉征伐軍の大名たち全員が参加しての評定が開かれました。
 ・・・評定の冒頭で正則が、「私は家康殿にお味方いたします。このたびの三成の挙兵は、豊臣家の名を借りた三成の天下取りの企みに他ならないから──」と、大声で切り出しました。
 効果は絶大でした。彼は秀吉の子飼い中の子飼いの大名だったからです。その正則が三成と戦うと言っているのですから、もはや諸大名は何も恐れる必要はありません。・・・
 つづいて、数人の諸侯が異口同音に発言します。・・・
 このとき、突如立ち上がって、予想外の発言をした大名がいました。
 遠江掛川6万9000石の城主・山内一豊です。
 一豊は、賢妻のおかげで、のちに土佐20万石を手に入れたと、やっかまれることになりますが、真の功績はこの小山評定における、一豊自身の次の発言によりました。
 「東海道を馳せのぼるには、城と兵糧が必要でありましょう。そこで私は、居城の掛川城を内府殿に明け渡し、進上申し上げる」
 これを聞いた諸侯は、みな一様にこの発言の重要さに、ひと呼吸遅れて気づき、東海道筋に城を持つ大名たちは、「私の城も進上申し上げる」「私の城も──」と、次々に名乗りを上げました。
 家康は一豊のひと言によって、労せずして海道筋の主要な城を、傘下に収めることができたのです。
 これらの城は、もとはといえば秀吉が、関東へ移した家康が大坂に攻め寄せてくる事態への備えとして、配置したものでした。・・・
 ・・・「わが城に兵糧をつけて家康に進上する」というアイデアを最初に思いついたのは、実は発言者の一豊ではなく、このとき掛川城の隣の浜松城主をつとめていた堀尾忠氏でした。
 この日、評定へ出かける道すがら、忠氏が「自分は、わが城に兵糧をつけて内府殿に進上し、人質を吉田の城に入れ、自分は合戦に先陣しようと思う」と言うと、それを感心しながら聞いていた一豊が、それをそのまま先に、評定の場で提案したというわけです。
 いかなる急場、土壇場にあろうとも、図太く何かをつかんで、あるいは禍(わざわい)を転じて福となす人物がいるものです。
 同じ勝ち馬に乗ろうとするにしても、積極的か否かで、成果は大きく違ってくるという事実を、山内一豊は、われわれに教えてくれているともいえるでしょう。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%AA%E3%81%9C%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AF%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%AE%8C%E5%8B%9D%E3%81%A7%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%8C%E5%AE%8C%E3%82%B3%E3%83%94%E3%81%97%E3%81%9F%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%9C%80%E5%BC%B7%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E6%96%B9/ar-AA1joCpi?ocid=msedgntp&cvid=e4a8b002b3234008bbce95406627889e&ei=6

やっぱし、秀吉より格段にオツル人物だってことがはっきりしただけじゃん。↓

 「・・・これまで知られていなかった三成像が次々と明らかになってきたのだという。
 例えば慶長元(1597)年、秀吉の命令で宣教師ら26人が処刑された事件に関する研究では、三成が命令に背いてでも宣教師らの命を救おうともがいた事実が判明。朝鮮出兵で三成らが現地の状況をメモ書きした「豊臣家三奉行連署書状案」などの史料からは、明(中国)まで征服すると豪語した秀吉の面目を保ちつつ、冷静に現実を見て戦争終結を模索していたことが分かった。「秀吉の命令に盲従する手先」といった人物像は過去のものになったという。
また、豊臣家五大老の上杉景勝に宛てたと推測される三成の書状からは、武将の娯楽だった鷹狩りに喜々として興じる姿が浮かび上がり、現在の封筒のように、のりで封をして書状を送り始めた人物であることも明らかになった。
「堅苦しいインテリ」という人物像は、最新研究によって「多趣味で創造性豊かな文化人」に刷新されつつある。・・・」
https://www.sankei.com/article/20231104-TZD3MMN4FFPTDIPMT46FAFXRIA/

 日・文カルト問題。↓

 <日系だとか韓国系だとかにどうしてそんなにこだわるのさー。↓>
 「「無念の死刑宣告」…韓国人イ・チョルスを救った日系の友人–当時の事件を追ったドキュメンタリー映画公開・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/11/02/2023110280137.html
 <朝鮮日報がこういう一方に偏った内容の記事を載せるようじゃ、まだ、文カルトはチョー健在やな。↓>
 「忘れられていく独島と「平和線」のドラマ–10月25日は「独島の日」–しかし実質的な独島の実効支配の完成は李承晩の「平和線」宣言–力なき国が力による外交で領土を守った一編のドラマ・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/11/02/2023110280147.html
 <こういうコラムを前政権時代に一切載せなかったこともその証左だよ。↓>
 「韓国左派も右派も『帝国の慰安婦』を誤読した【朴裕河教授寄稿】–90年代に東京で慰安婦の証言集会…涙を流しながら通訳したのが最初の縁–だが『帝国の慰安婦』を出版した後、あるがままを読む読者は少数–9年4カ月ぶりの無罪判決で、執筆の動機を理解されたという思い–ハルモニたちは常に疎外されてきた…冥福と平安を祈る・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/11/02/2023110280148.html
 <日韓交流人士モノ。
 でも、やっぱし、匠を尊敬する文化が朝鮮半島にはないのね。↓>
 「韓国行きという「険しい道」選んだ日本の天才囲碁少女・・・
 囲碁は日本が文化的に誇りを持っている分野の一つだった。江戸時代の約400年間にわたり、官職まで設けて養成した囲碁が国技として定着し、その伝統が20世紀末まで続いて日本人の自負心を守ってきた。
 韓国と日本にまつわる囲碁の歴史も険しい道をたどってきた。その一例を挙げてみよう。韓国の囲碁黎明(れいめい)期の1962年、国手戦で趙南哲(チョ・ナムチョル)九段に挑戦して惜敗した金寅(キム・イン)四段が日本に留学すると、日本棋院は藤沢朋斎九段と置き碁(ハンデ戦)をさせた。これは韓国の囲碁を見下した無礼な措置だった。完勝した金寅に日本は三段を許した。だが、金寅は日本の仕打ちが不当だということを見事な成績で証明した。ところが、鼻高々だった日本の囲碁はさまざまな理由で1990年代末から没落し、約20年間にわたり韓中両国の脇役にとどまっている。・・・
  プロ棋士の社会的地位はまだ日本の方が韓国より高い。収入も依然として日本の方がずば抜けている。・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/11/04/2023110480034.html
 <一応、日韓交流人士モノ。↓>
 「DJ SODA、胸触った日本人観客3人の謝罪受け入れる…告発取り下げ・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/310993
 <邦語版には不要。↓>
 「韓国環境部長官「日本、国際的基準に合致するよう汚染水放流履行しなければ」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/310996

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <日中交流人士モノ。
 残念ながら、具体的な紹介が出て来ない。↓>
 「100年前、松本亀一郎先生は教育家として中日友好関係と教育事業のために東奔西走した。松本先生の率先垂範なご姿勢は私たち後輩の憧れである。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b923114-s10-c60-d0052.html

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太田述正コラム#13832(2023.11.5)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その32)>

→非公開