太田述正コラム#13658(2023.8.10)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その16)>(2023.11.5公開)

 「<こうして、>六鎮<(りくちん)>の乱<(注45)が起こった。>・・・

 (注45)「沃野(よくや)鎮で524年に起こった反乱は、他の五鎮や諸州、諸鎮を巻き込み、北魏全版図にわたる大反乱に発展した。乱は爾朱栄(じしゅえい)によって530年にひとまず終結したが、直後に爾朱氏と北魏朝廷という新たな対立が起こり、さらに東魏、西魏の実力者となる高歓(こうかん)と宇文泰(うぶんたい)の対抗関係を生じた。歓も泰も六鎮の出身であり、北魏の東西分裂は六鎮の乱の帰結であるといえる。」
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 爾朱栄(493~530年)は、「北秀容(ほくしゅうよう)(山西省)に土着した契胡(けいこ)すなわち羯(けつ)種の首長(しゅちょう)であったが、六鎮の乱が起こるとその武力でもって台頭した。528年孝明帝が霊太后派に殺されると、孝荘帝を擁立して洛陽に進軍し、太后、幼主および朝臣2000余人を虐殺(河陰(かいん)の変)、引き続いて六鎮の乱の鎮圧に向かい、530年には7年に及ぶ大乱の鎮静化に成功した。栄は大丞相として洛陽の実権を握り、自らは晋陽(しんよう)(山西省)に本拠を置いたが、反発を強めた孝荘帝と朝臣グループにより、530年宮中で誅殺された。爾朱氏一族はこれに対し帝を殺して一時権力を握ったものの、爾朱氏から離脱し河北の豪族と結んだ高歓(こうかん)によって滅ぼされた。」
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 高歓(496~547年)は、「正史には漢人名族出身と記すが、鮮卑種と思われる。北魏北辺の懐朔鎮(かいさくちん)の卑職にあったが、六鎮の乱に参加、ついで実力者爾朱栄に降(くだ)ってその有力な部将となった。栄の死後、栄に降伏していた北鎮の旧反乱民を掌握し、河北の漢人豪族と結んで爾朱氏を打倒し、孝武帝を擁立した。孝武帝が関中に拠(よ)る宇文泰のもとに奔(はし)ると、孝静帝をたてて鄴(ぎょう)に遷都させ、北魏は東西に分裂した。東魏において彼は大丞相、都督中外諸軍事として晋陽(しんよう)に府を開き、西魏の宇文泰と対峙する一方、長子の高澄(こうちょう)を鄴に派遣して朝廷を制肘し、諸功臣の抑圧を遂行した。のちに北斉(ほくせい)を建てた文宣帝高洋は歓の第2子である。」
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 宇文泰(505~556年)は、「遠祖は匈奴系で遼西の鮮卑諸部落を統帥したという。・・・宇文氏は北魏の政策により武川鎮(内モンゴルのフフホト北方)に移住定着して,代々北辺の守備に任じ,名家として知られた。六鎮(りくちん)の乱が起こると,宇文泰は父兄とともに<支那>内地に南下し,北魏が関中に派遣した反乱討伐軍に身を投じた。軍司令官賀抜岳が殺されると,諸将に推されてそのあとを継ぎ,高歓と対立する北魏孝武帝を長安に迎えて,西魏の事実上の主権者となった。・・・
 府兵制の創始者としても知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E6%96%87%E6%B3%B0-35095

 <その>六鎮の乱が勃発する以前のこと、499年、孝文帝の後をうけ即位した宣武帝の後宮は、ドロドロした女たちの争いの場と化していた。
 はじめに<皇后>となったのは于氏で・・・皇子・・・を生んだ<が>・・・夭折し・・・その後、于氏も急死した。
 この・・・急死に関わっているとされるのが、宣武帝の<その次の>皇后<になる>高氏である。
 彼女も皇子を生んだが、その子も夭折している。・・・
 そこにもう一人、胡氏がくわわる。・・・
 そして<後の>孝明帝を生んだ。・・・
こうして515年・・・。孝明帝が6歳で即位した<が、>生母の胡氏は子貴母死を免れ、皇太妃となった。
 これが<後の>霊太后である。・・・

⇒これも、漢化の論理的帰結、と、言えそうです。(太田)

 霊太后<(注46)>は・・・邪魔な存在であった皇太后の高氏を出家させて・・・寺に幽閉したのち殺害した。・・・

 (注46)?~528年。「臨朝聴政(摂政)するに及んだ。その執政には節度が見られず、その紊乱を理由に一時的に北宮に閉居させられたほどであった。しかし・・・525年)、宦官が実権を掌握し、臣下に政権争いが勃発すると、執政に返り咲いた。
 <父>が没すると、<彼>のために洛陽の永寧寺中に九層の大塔を建立した。その風は北魏の人士に及び、城内に仏寺が乱立する事態を招いた。
 ・・・528年・・・、孝明帝が突然崩御した(一説によれば、帝が爾朱栄を頼ろうとしたため、霊太后が毒殺したとされる)。孝明帝には男子がなく、霊太后は帝の唯一の子であった皇女某を男と偽って皇太子と称し、同年(528年)4月1日にこれを無理やり帝位に就けた。しかし、すぐにそのことが発覚したため、皇女某をわずか1日で廃位し、改めて4月2日に孝明帝の従甥にあたる元釗(幼主)を帝位に就けた。
 このような目まぐるしい廃立は天下を震撼させるに余りあり、将軍の爾朱栄はその欺瞞を疑い、挙兵に及んだ。そして、わずか15日で京師の洛陽を陥落させ、幼主と霊太后を捕らえた。代わって、新たに長楽王元子攸(孝荘帝)が皇帝に擁立された。爾朱栄は幼主と霊太后を連行して河陰に送り、黄河に沈めた(河陰の変)。
 その後、霊太后の妹の馮翊郡君胡玄輝(元叉の妻)により霊太后の遺骨は双霊寺に埋葬された。高歓が爾朱氏を破った後、皇后の礼で改葬され、「霊」と諡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%A4%AA%E5%90%8E

 <そんな>彼女は<、実は>・・・仏教に傾倒して<おり、>洛陽隋一の仏塔をもつ永寧寺を・・・建てた<。>・・・
 528年・・・霊太后は孝明帝を暗殺し、孝文帝の玄孫・・・3歳・・・を即位させた。」(184、187~188)

⇒子貴母死を免れさせた途端に、北魏はその命脈が絶えたというわけです。
 また、霊太后にとっての、そして、恐らくは北魏の国教としての、仏教、は、淫祀以外の何物でもなかった、という感があります。(太田)

(続く)