太田述正コラム#13672(2023.8.17)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その6)>(2023.11.12公開)

 「・・・李淵が挙兵した太原には、ソグド人のコロニーが存在していた。
 李淵挙兵の際、この太原のソグド人コロニーの住民が兵士として組織化され、これを中央アジア出身のトカラ人<(注9)>である・・・ものがひきいて、李淵にしたがっている。

 (注9)「トハラ人(トカラ人、古代ギリシア語: Τόχαροι、英語: Tocharians)は、古代ギリシア・ローマの史料にグレコ・バクトリア王国を滅ぼした遊牧民(トカロイ、Τόχαροι, Tokharoi)として記されている民族。
 または、バクトリアがトハラ人の土地という意味でトハーリスターン(トハリスタン)と呼ばれるようになった地域に住んだ人々を指し、<支那>や日本の史書では吐火羅人と表記される。
 または、かつてタリム盆地で話されていた・・・印欧系の・・・トカラ語の話者を指す。最近の研究ではトカロイとトカラ語話者が同じともされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%A9%E4%BA%BA

 太原の南にある介(かい)州は、李淵が太原から大興城へと進軍するルート上にあり、・・・この地のソグド人・・・<も>李淵の・・・軍にしたがっている<。>・・・
 また、李淵が大興城に入城するや、原(げん)州(寧夏回族自治区固原市)にいたソグド人<達>・・・が、いち早くかけつけて<きた。>・・・
<更に、>河西回廊を通る交易ルート上の武威・・・のソグド人<達>は・・・武威をのっとり、河西地域すべてをあげて、李淵に帰順<した>。・・・
 中国の律令<(注10)>は、秦漢以来、漢人王朝でつくられ、それらが積もり積もって複雑かつ煩雑になっていた。

 (注10)「<支那>最古の辞書である『爾雅』は、律を常・法、令を告とする。律は恒常的な法律で、令は君主がその都度下す命令である。律は法律と同義で、法律を二分野にまとめる思想はなかった。<支那>では刑法にあたる部分が先に発展し、春秋戦国時代には各国で盛んに刑律が作られた。律は戦国時代に法家によって整備され、商鞅のもとで秦の国制の根幹をなした。この律は刑罰を重視してはいるが、民政に関するものも含んだ。それに対し、令は単行法として雑多にわたるもので、後代の律令制度でいうと格にあたるものだった。
 律と令の関係が変化し、刑法と民政関係諸法という分野の違いに変わる転機は、漢代にあった。漢は初め秦の律を継受し改正を重ねたが、漢の武帝が儒教を国教にすると、刑罰でなく教化を主眼とする法体系が構想されるようになった。それが新たな意味を盛られた令である。律を刑罰、令を教化の二本柱にする考えは、『塩鉄論』に言及があり、以後漢代を通じて様々な機会に表明された。しかしこの思想によってただちに法体系が変更されたわけではなく、律令二元化は改正の機会に織り込まれる形で徐々に進んでいった。・・・
 歴史上最初の律令は、・・・西晋が268年・・・に制定した泰始律令である。内容は大部分失われているが、編纂にあたった杜預は、律は罪名、令は事制という区分を打ち出し、逸文もまたこの区分を裏切らない。ここにおいて、社会規範を規定する律と統治体制を規定する令が明確に区別され、体系的な統一法典としての律令が登場することとなった。西晋が滅亡した後も南北朝時代の諸王朝によって律令が制定・公布された。
 <支那>を再統一した隋の文帝は、581年に開皇律令を公布したが、これは高度に体系化・整備された内容を持ち、律令の一つの完成形とされている。文帝の次の煬帝や隋に代わって<支那>を統一した唐の皇帝たちも律令を制定・公布したが、これらは開皇律令を概ね踏襲している。<支那>史上、律令制が全盛を迎えたのは、隋から唐中期にかけての時期とされている。・・・ 
 この時期の<支那>を中心とする東アジア諸国では共通して、律令に基づく国家統治体制が構築されていたといわれることもあるが、唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。
 このような統治体制を日本では律令制(または律令体制)というが、<支那>にはこのような呼称は存在しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4

 それを遊牧民の目であらためて見なおし、整理して体系化した結果、客観的なものにブラッシュアップされたのが隋の律令であり、それをひきついだのが唐の律令だった。・・・
 「律」とは現在の刑法、「令」は行政法になぞらえられる。
 唐では第6代皇帝の玄宗のときまで、隋と同じく皇帝がかわるごとに、律令が修正され発布された。
 律令は、時間が経過するとともに固定化し、その運用が硬直していく。
 それに対応するため、詔勅をもって修正した。
 ある程度、このような詔勅がたまると、明文化して編集され公布された。
 これを「格」という。
 また、「式」というものがあった。
 これは、律令を施行する際の細目であった。」(38~40)

⇒律令を律令制という形で日本の天武朝が継受したところ、それを、私の言う復活天智朝が(班田収授等とは違って)存続させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
のは、それが、「注10」から分かるように、騎馬遊牧民系の北朝/隋唐由来ではなく、漢人文明の漢由来であることを正しく認識していたからでしょうね。(太田)

(続く)