太田述正コラム#13674(2023.8.18)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その7)>(2023.11.13公開)

 「・・・「玄武門の変」<で>・・・李世民<は、>兄<で>・・・皇太子・・・<である李>建成<(注11)>を殺<し、>・・・<その>のち、皇帝に即位した。

 (注11)589~626年。「玄武門の変にて弟の李元吉とともに次弟の李世民(太宗)に殺された。・・・
 李建成の5人の男子は、事件に連座して処刑された。・・・
 正史では、李建成は好色で酒を嗜み、狩猟を好んで節度がなく、驕慢で士をあわれまない人物として描写されている。・・・玄武門の変にいたる経緯をみても、記録上では李建成・李元吉兄弟が積極的に李世民を追い落としにかかり、李世民は受け身で自衛的な対応に終始しているが、それほど一方的なものだったのかは判らない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BB%BA%E6%88%90
 李元吉(603~626年)の5人の男子も処刑され、李世民は元吉の妻の楊氏を妃にし、男子を成している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%83%E5%90%89

⇒日本にも、叔父と甥の争いで、姉弟・・但し母は異なる・・間の争いでもあったところの、壬申の乱(672年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
の例こそあるけれど、母を同じくする、2対1に分かれた3人の兄弟間の争いである玄武門の変(626年)のような例はありません。
 玄武門の変は、実質、父親を皇帝の座から引きずり下ろすクーデターでもあったところの、極めて暴力的な事件であったと思います。
 付言すれば、壬申の乱での敗者の弘文天皇(大友皇子)の男子2人は、その一方は大海皇子(天武天皇)自身の娘の子でもあったとはいえ、どちらも御咎めなしでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E5%A4%9A%E7%8E%8B (太田)

 廟号をとって太宗(在位626~649年)という。・・・
 次の年の正月、元号を貞観(627~649年)と改めた。・・・
 太宗の治世は23年間つづいたが、世にいう「貞観の治」は、最後の抵抗勢力・・・が平定され、国内に平和な時代が訪れてからのことをいう(628年)。・・・
 『新唐書』では、貞観のはじめの状況として、次のように伝えている。
 「この年(630年)、米一斗は四銭から五銭となり(「開元通宝」1枚が1銭)、家の戸締りが不必要となり、牛馬の数が増え、旅行者は食糧を持参する必要がないような平和な時代が到来した。年間の死刑囚もわずか29人だった」と。
 さすがに、治世4年目にこの史料が伝えるような状況が出現したというのは、誇張であろうが、太宗の治世中にこのような状況になったことは確かだろう。・・・

⇒参考までですが、当時の唐の人口は1200万人強だったと推定されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90 (太田)

 太宗が明君といわれるのは、天下泰平の世をもたらしたのみならず、よく人材を登用し、臣下の諫言をうけいれたところにある。・・・
 それは、これまでの中国王朝の皇帝には見られない、まったく新しいタイプの皇帝だった。
 太宗は、臣下と政治問答をおこない、それらはのち玄宗の時代にまとめられた。
 これが『貞観政要』<(注12)>である。・・・

 (注12)「本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した・・・重臣45名との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。・・・
 本書の編纂は呉兢<(ごきょう)>によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・韓休(かんきゅう、672年 – 739年)がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、『貞観政要』が世に広まったのである。・・・
 『貞観政要』は遅くても平安時代には日本に伝来しており、『日本国見在書目録』の中にも表れる。一条天皇の時代に惟宗允亮は『政事要略』の中で取り上げ、ほぼ同じ頃に大江匡衡は藤原行成から借り受けて書写し、・・・1006年・・・に一条天皇に対して進講している。また、・・・1177年・・・には藤原永範が高倉天皇に進講を行っている。鎌倉時代には北条政子が菅原為長に命じて和訳させ、日蓮もこれを書写した。江戸時代初期には徳川家康が藤原惺窩を召して講義させ、更に足利学校の閑室元佶に命じて活字版を発刊させてその普及に努めた。家康が金地院崇伝に命じて起草させた「禁中並公家諸法度」の第一条には天皇の主務として学問を挙げ、その根拠を『貞観政要』において解説している(「不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也(学ばなければ昔からの古来の道義・学問・文化にくらくなり、それで政治を手落ちなく行い太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』に明確に書かれている))。明治天皇も侍講の元田永孚の進講を受け、深い関心を寄せた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E6%94%BF%E8%A6%81

⇒前にも記したことがあると思います(コラム#省略)が、太宗は、死後、その妃の一人(武氏)によって唐を一時滅亡させられてしまい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
また、玄宗は、唐の崩壊を決定づけてしまった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%AE%97_(%E5%94%90)
のですから、『貞観政要』を読んだって何の役にも立たなさそうですね。(太田)

 <また、太宗>は・・・遠征軍をおくりこみ、ついに東突厥をほろぼすことに成功したのである(630年)。・・・
 モンゴリアの遊牧系諸部族はこぞって使者を唐へおくり、ついに太宗李世民にテングリ=カガン・・天可汗・・の称号をたてまつった。・・・
 もともと、モンゴリアの遊牧民らは唐を「タブガチ」すなわち「拓跋」とよんでいた。
 このことは、唐を鮮卑拓跋氏の「カガン」が支配する国とみなしていたことを意味する(実際は違うのだが)。

⇒違いますかねえ。(太田)

 7世紀のはじめのころの唐の李淵は、東突厥の大カガンに従属する小カガンの一人にすぎなかった。
 しかし、その「小カガン」が大カガンをうちたおした。
 つまり、李世民はテングリ=カガンとして遊牧世界に君臨する唯一無二の存在となったのである。・・・」(51、56、62~64)

(続く)