太田述正コラム#13680(2023.8.21)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その10)>(2023.11.16公開)

「・・・<結局、武照は皇后になり、>唐朝廷の中枢にいた北周・隋以来つづいてきた関隴集団や唐の建国の中心メンバーは徹底的に排除され、かわってあらたな勢力が台頭することとなる。
 さらに武皇后にとって追い風になったのが、高宗の健康状態である。
 長孫無忌失脚の翌年<の660年>、高宗の「風眩」<(注20)>の発作をきっかけに、武皇后が政務を代行するようになっていくのである。・・・

 (注20)めまいのうちの一つ。「風眩は五臓の「肝」に属します。「諸風掉眩皆肝に属す」といいます。また肝は肝火という火を生みますので火眩にも移行しやすいです。・・・火邪という考え方があります。体の中の火が上昇して突き上げるような表現です。めまいと同時に頭痛がある場合が多いです。」
http://shinkyu.pro/blog/2013/07/31/tyuuigakumemai/

 これを「垂簾の政」<や>・・・「二聖」・・・とよんでいる。・・・
 674年<、>・・・みずからを天后、高宗を天皇(てんこう)とよびはじめた<。>・・・
 675年<、>・・・武天后と高宗との実子で皇太子だった李弘が24歳で亡くなった<が、>・・・武天后が毒殺したのだ、と当時の人びとはうわさしあった。
 というのは、李弘が武天后に歯向かったからだ。・・・
 李弘にかわって皇太子になったのは李賢(654~684年)である。・・・
 <しかし、>素行<が>乱れはじめ、ついには謀反の罪によって、皇太子を廃位され、地方に流された。
 こうして高宗と武天后の間の三番目の子だった李顕<(注21)>が皇太子となった。

 (注21)中宗(656~710年。皇帝:684年、705~710年)。「同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死から7日後・・・に即位した。・・・
 即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか55日で廃位され、均州・房州に流された。
 代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが、載初元年(690年)に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えた。その末期の・・・699年・・・、李顕は武則天により再び立太子され、・・・705年・・・にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位した(唐の再興)。
 中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。
 ・・・710年・・・、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主とともに中宗を毒殺し、末子李重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子の李隆基(玄宗)により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%97_(%E5%94%90)

⇒「第7回遣唐使が「中国ではトップを『天皇』と呼んでいる」という情報を持ち帰り、日本でも「天皇」という称号が採用されるようになりました。そのため、「天皇」という称号を初めて使ったのは、天武天皇ではないかといわれています。」
https://blotabi.net/chinese-history-tou16/
という説もあるようですが、病持ちというハンデこそあれ、ダメ君主であった高宗由来の称号を日本の君主達が使ってきたとするのには違和感があります。
 やはり、「天皇という称号は、・・・古代中国では、神話伝説上の帝王に、天皇氏、地皇氏、人皇氏があるが、一般には、天皇とは道教系の神名で、北極星を神格化した神をいう。・・・日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋(ずい)に送った国書に、「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとのてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀(さいし)を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672
という説を採りたいところです。(太田)

 <そして、>高宗<が、病のため>683年<に>・・・崩御した・・・。・・・
 <そこで、>李顕・・・が・・・即位した。・・・
 廟号により中宗とよぶ。
 しかし、その在位はわずか2か月だった。・・・
 ついで、その弟<の>・・・李旦<(注22)>が皇帝となるが(睿宗。在位684~690年)、それは名前だけのものであって、実権は武皇太后が掌握した。」(96、100~104)

 (注22)睿宗(えいそう。662~716年。皇帝:684~690年、710~712年)。「兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。載初元年(690年)、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された(武周)。
 ・・・705年・・・、武則天の死の直前に中宗が復位し(唐の再興)、李旦は安国相王に封じられる。・・・710年・・・にはその中宗が韋皇后により毒殺された後、韋后一派を三男の李隆基(玄宗)と協力して排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位についた。・・・712年・・・、玄宗に譲位し太上皇帝を称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%BF%E5%AE%97_(%E5%94%90)

(続く)