太田述正コラム#13686(2023.8.24)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その13)>(2023.11.19公開)

「・・・突厥は、三度(みたび)、独立運動をおこした。
 阿史徳元珍(トニュクク)が阿史那骨咄禄<(注28)>(クトルク)を担ぎあげ、陰山山脈によって突厥諸族を糾合したのである。

 (注28)あしなこちとろく(?~692年)。「680年・・・、阿史徳温傅は頡利可汗の従兄の子である阿史那伏念を夏州に迎えて可汗とし、諸部落はふたたびこれに従い、反乱を起こした。・・・681年・・・閏7月、高宗はまた詔で裴行倹に将軍の曹継叔・程務挺・李崇直・李文暕らを率いさせてこれを討たせた。阿史那伏念と阿史徳温傅は行き詰まって裴行倹に降った。裴行倹は彼らを捕えて京師に凱旋した。10月、・・・阿史那伏念および阿史徳温傅ら54人は東市で公開処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E4%BC%8F%E5%BF%B5
 「681年・・・、阿史那伏念が敗北すると、阿史那骨咄禄は残党を糾合し<、>・・・682年・・・、・・・5千余人で群盗をなし、・・・多くの羊馬を得て次第に強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、・・・黒沙城に拠り、并州・・・定州・・・蔚州・・・嵐州・・・朔州・・・代州などの州を寇略した。
 <結局、武則天は阿史那骨咄禄討伐に失敗した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E9%AA%A8%E5%92%84%E7%A6%84

 この独立運動は唐朝の討伐軍をはねかえし、ついに阿史那骨咄禄は自立することを得た(682年)。
 これを突厥第二帝国という。・・・
 モンゴリア南部で独立をはたした突厥は、勢力を北へのばし、モンゴリアの遊牧民の聖地ウチュケン山に拠点をうつしていく。
 阿史那骨咄禄はモンゴリア北部のテュルク系遊牧民を支配下に組みこみ、「国家(イル)を集めたるカガン」の意味でイルテリシュ・カガンと称した。
 彼が病死すると(691年)、弟の默啜<(注29)>(もくてつ)がカプガン・カガンとして立った。

 (注29)?~716年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E9%BB%98%E5%95%9C

 カプガン・カガンは武則天の「周」へ軍事侵攻して、その勢威をしめす一方、・・・契丹の反乱では「周」の味方となり、「周」と有利なとりひきを<ま>とめた。・・・
 <彼の時、>多くの漢人の農民たちが突厥の捕虜となってつれさられた。
 それは、突厥がモンゴリア南部の陰山南山麓の農耕地を支配下におき、そこで農業に従事させる労働者として働かせることが目的だった。

⇒ルーシ諸国とジョチ・ウルスないしその後継諸勢力との関係を彷彿とさせますね。
 もっとも、唐ないし周と突厥第二帝国とでは、ルーシ諸国の場合とは違って唐ないし周側が優位で推移しますが・・。(太田)

<また、>営州付近にとどまった高句麗遺民集団・・・の中<の>大祚栄<(注30)>が、契丹の李尽忠<(注31)>らが反旗をひるがえした機会に乗じ、靺鞨人と高句麗の遺民をひきいて、唐の支配から逃れた。

 (注30)だいそえい(?~719年。渤海国王:698~719年)。「靺鞨族。契丹の反唐活動に乗じて、高句麗遺民と靺鞨族とを統合し、高句麗の故地に渤海を建国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9A%E6%A0%84
 「靺鞨(まっかつ・・・)は、・・・隋唐時代に<支那>東北部・沿海州に存在したツングース系農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎・挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
 (注31)?~696年。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%B0%BD%E5%BF%A0

 彼等は東北方面にむかい、牡丹江上流の敦化・・・あたりに拠点をかまえ、独立して振国王(震国王)を名のった。
 これが渤海国の誕生である(698年)。」(126~127、131)

⇒一体、漢人は何をしていたのか、と言いたくなるくらい、遊牧民系の人物ばかりが政治軍事面で跳梁する唐時代ですね。(太田)

(続く)