太田述正コラム#13696(2023.8.29)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その18)>(2023.11.24公開)

 「・・・「安史の乱」が勃発する直前、帝国の西のはしでも、大きな事件がおきていた。
 東ユーラシアに君臨した唐朝と、西アジアから興ってきたイスラーム帝国アッバース朝との衝突である。・・・
 唐朝軍は、・・・大敗北を喫してしまった。」(184~186)

 (注39)「751年、唐はタラス河畔の戦いで、アッバース朝イスラーム帝国の軍と戦い大敗を喫した。この戦いは東西の世界帝国が直接交戦した重要な出来事である。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。
 唐ではアラビア人またはイスラーム教徒を大食(タージー)と言った。これはイラン語でアラビア人をタージーと言っていたのが伝わったものと思われる。アッバース朝のことは黒衣大食と言っている。唐王朝の成立するころアラビアに登場した<預言者>ムハンマドは、・・・イスラーム帝国を成立させた。その後、正統カリフ時代、ウマイヤ朝時代を経て、750年にアッバース朝が成立した。タラス河畔の戦いはその直後であった。
 この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの<石国の>王を捕虜として<長安に送り、斬死させたところ>、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵で<石国の勢力がこもる>タラス城を<攻めてい>た<のだ>が、一部の現地の<テュルク>系<のカルルク部族>がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-109.html
 (<>内は、186頁より。)

⇒唐は、安禄山や高仙芝(注41)のような「異国人」を起用し大活躍させたと言えば聞こえがいいけれど、漢人はもとより、唐の王室の出身であるところの鮮卑系の人すら、騎乗部隊の司令官が務まる者が殆どいない有様だったことが想像できようというものです。(太田)

 (注41)こうせんし(?~756年)。「高句麗の出身で、・・・騎射に長け<ていた。>・・・西域72国<を>唐に降伏<させ>、その威<を>西アジアにまで及<ばせた>。・・・安史の乱<の最中に刑死。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BB%99%E8%8A%9D


[安史の乱]

 「安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使の安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。 安禄山・史思明両者の姓をとって、「安史の乱」と呼称される。
 安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃の楊貴妃に取り入ることで、・・・北方の辺境地域(現在の河北省と北京市周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。
 史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
 李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の又従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月に・・・挙兵した。
 盟友である史思明、参謀の次男の安慶緒、漢人官僚の厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲ら・・・が参画した。
 当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、蕃漢10万〜15万の軍団で構成された。
 唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1カ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
 756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する。・・・
 唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀へと敗走する。その途上の馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊暁・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士<(注40)>によって楊貴妃は絞殺された。

 (注40)690~762年。「少年時代に去勢しており、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名の少年とともに、嶺南安撫討撃使の李千里(呉王李恪の長男)により武則天に献上される。・・・
 その後、景龍年間に皇子時代の李隆基と結び、恩顧をもって接した。・・・
 玄宗の内廷の臣として、各地から来た上奏文は全て高力士が読んでから玄宗に進められ、小さいことは自分で決裁した。・・・安禄山が不穏な動きを始めた後も、朝廷と彼との調停役として活動している。・・・
 唐代の宦官の勢威は高力士より始まったと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8A%9B%E5%A3%AB

(続く)