太田述正コラム#13698(2023.8.30)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その19)>(2023.11.25公開)

 これは馬嵬<(ばかい)>駅の悲劇といわれる。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が・・・粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。・・・
 756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求め・・・10月に、・・・ウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。・・・
 <また、同じ>756年、アッバース朝のカリフであるマンスールは、唐を支援するために4000人の<傭>兵を派遣した。彼らは戦後<も引き続き支那>に駐留した。<(注42)>・・・

 (注42)マンスールの邦語ウィキペディアに言及はない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%AB
が、(al-Mansurの)英語ウィキペディアにこうある。↓
 ’In 751 the first Abbasid caliph al-Saffah had defeated the Chinese Tang dynasty in the Battle of Talas. Chinese sources record that al-Mansur sent his diplomatic delegations regularly to China. Al-Mansur’s delegations were known in China as Heiyi Dashi (Black Clothed Arabs). In 756 al-Mansur sent 3,000 mercenaries to assist Emperor Xuanzong of Tang in the An Lushan rebellion. A massacre of foreign Arab and Persian Muslim merchants by former Yan rebel general Tian Shengong happened during the An Lushan rebellion in the Yangzhou massacre (760)’
https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Mansur
 「揚州大虐殺<とは、>・・・760年・・・、安史の乱や李希烈の乱平定に参与した田神功(?-774年)が、揚州で掠奪し、胡人やペルシア人商人やイスラム教徒(大食)などの外国人を数千人虐殺した<もの>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA

⇒アッバース朝初代カリフとなった異母弟サッファーフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%95
の後を襲って第二代カリフとなったマンスールでしたが、初代の時にタラス河畔の戦いに勝利した唐と修好したサッファーフもその方針を踏襲したマンスールも、どちらも、なかなか見識があったと言うべきでしょうか。
 とりわけ、サッファーフが、安史の乱の時に、いかなる思惑の下かは定かではないものの、部隊を唐王朝支援と称して唐に送っているのは機敏な動きだったと思います。
 その後に起こった揚州大虐殺を含め、この部隊がいかなることをしたのか、或いはしなかったのか、興味あるところです。(太田)

 757年・・・11月、<唐・ウイグル軍は>長安<を奪還する。>・・・
 759年4月に葛勒可汗が死去すると、・・・次男の移地健が第三代カガンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である。
 この状況を見た史思明は唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人らが自分の殺害を計画していることを知ると、降伏を撤回し、759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される。
 762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する。
 762年8月、唐の代宗は安史政権の残党の史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガンに再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグ・カガンを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。
 唐の使節・・・はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグ・カガンを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた・・・<ものの、義父の>説得に<は>応じた<ブグ・カガン>は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
 762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、・・・763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。
 なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒安史の乱当時、王室が遊牧民出身家ながら被統治者の圧倒的多数は漢人であったところの、唐、が、人口の少ない、290~300年頃に発明された鐙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%99
を用いた騎乗兵達を駆使する、遊牧民、の国家であるウイグルや吐蕃(注43)に翻弄され続けたことからしても、いかに、唐が漢人達の軍事軽視風潮に染まってしまっていたかが想像できる、というものです。(太田)

 (注43)’The Old Book of Tang states:・・・The natives generally follow their flocks to pasture and have no fixed dwelling-place. They have, however, some walled cities.・・・The men of rank live in large felt tents・・・. ‘

https://en.wikipedia.org/wiki/Tibetan_Empire

(続く)