太田述正コラム#2769(2008.9.3)
<読者によるコラム:硫黄島の戦いと黒人兵士>(2008.10.24公開)
 (これは、バグってハニーさんによるコラムです。)
“The only thing new in the world is the history you don’t know.”
この世界で新しいものといえば、あなたの知らない歴史だけである。
               合衆国大統領ハリー・トルーマン
1 はじめに
 以下は、米国を代表する二人の映画監督の間で繰り広げられた、ある有名なハリウッド映画にまつわる論争です(太田コラム#2606、2610も参照のこと)。
 「クリント・イーストウッドは硫黄島の映画を二つも撮って上映時間は全部で4時間以上もある。それなのに、スクリーンにはただの一人も黒人俳優が出てこない。彼がなぜそうしたのか俺には知りっこない…。でも、それは誰かに指摘されたはずだし、変えようもあったはずなんだ。彼は知らなかったとかそういうんじゃない。」
 「彼は硫黄島の映画を続けて二つも撮ったのに黒人兵士はどちらの映画にも一人も出てこない。あの戦争を生き抜いた大勢の退役軍人、アフリカ系米国人がクリント・イーストウッドにうろたえたよ。彼の見立てでは硫黄島には黒人兵士は一人も存在していないんだ。そんな単純な話さ。俺の映画は違うよ。」(スパイク・リー)
 「彼は一度でも歴史を学んだことがあるのかな?彼ら(黒人兵士)は旗を掲げなかったんだ。」
 「これは父親達の星条旗、つまりあの旗を掲げる、有名な写真の話なんだ。彼らは旗を掲げなかった。」
 「もしも僕がかまわずにアフリカ系米国人俳優を映画に出していたら、みんな『こいつ頭がおかしくなったんじゃないか』ってなるだろう。それは正確じゃないってことさ。彼みたいなやつは黙ってるべきだね。」(クリント・イーストウッド)
http://blogs.guardian.co.uk/film/2008/06/clint_eastwood_vs_spike_lee_the_new_battle_of_iwo_jima.html
 このやり取りを見て、硫黄島の戦いで黒人兵士が実際にどんな役割を果たしたのかに興味を持ちました。両監督のうち、どちらの言い分が正しいのかは最後のお楽しみに。
2 モントフォード・ポイント基地
 1941年12月8日(米国時間)、真珠湾奇襲の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領(当時)による、かの有名な『屈辱の日(Day of Infamy)』の演説の後、下院は日本に宣戦を布告し、米国は戦時体制に移行します。演説に高揚した男性は志願兵に殺到し、足りなくなった国内の労働力は銃後の女性が穴埋めしました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Infamy_Speech#Impact_of_the_Infamy_Speech
http://en.wikipedia.org/wiki/Homefront-United_States-World_War_II#Labor
 太平洋戦争・第二次世界大戦は米国にとって国家がもてる全ての力を動員する総力戦であり、それは少数派と呼ばれるアフリカ系・アジア系・アメリカ原住民にとっても例外ではありませんでした。これに先立つ同年6月、ルーズベルト大統領は「公正雇用実施委員会(Fair Employment Practices Commission、FEPC)」を創立するための大統領令にサインします。これは黒人などの少数派が銃後産業(homefront industry)に従事するのを促進することを狙ったもので、「防衛産業や政府が労働者を雇用する際、人種、信教、肌の色、出自に基づいて差別することが禁止」されました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fair_Employment_Practices_Commission
 それまでアフリカ系やアメリカ原住民など少数派を受け入れてこなかった海兵隊では、軍指導者達が異議の声を上げるも、1942年から黒人兵士の募集を始めさせられます。海兵隊初の黒人新兵達は北カロライナ州レジューン駐屯地(Camp Lejeune)に隣り合うモントフォード・ポイント(Montford Point)という黒人専用の基地で基礎訓練を受けることになりました。モントフォード・ポイントでは1949年まで2万人以上の黒人兵士達が訓練を受けました。
http://library.uncw.edu/web/montford/index.html
 その中には、ローランド・ダーデン(Roland Durden)氏とトーマス・マクファター(Thomas Mcphatter)氏がいました。ちなみに、『父親達の星条旗』の主役の一人、アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)は、同時期に海兵隊員になった、これまた少数派のアメリカ原住民です。
3 ダーデン二等兵(Private Durden)―黒人初の海兵隊員の誕生
 (以下は、
http://library.uncw.edu/web/montford/transcripts/Durden_Roland.html
http://www.guardian.co.uk/world/2006/oct/21/usa.filmnews
にあるインタビューをもとに構成しました。「」内は彼の答えを訳したものです。)
 ダーデン氏はニューヨーク・ハーレム地区で生まれ育ちました。1943年(1944年?)、中学校で一年飛び級したために他の人よりも一年早く黒人白人共学の高校を卒業したダーデン氏は海兵隊に参加しました。
 「18歳になったすぐ後、海兵隊に入りたいと思ったんだ。男になるためにね。」
 「訓練と経験を積むことができるだろうと思った。当時は、忠誠心とか男の友情とか英雄とか、そういうのを高揚させる映画がたくさんあった。だから、たぶんその影響を受けたんだろう。あと、当時、戦争の只中にあっても、ちゃんとした仕事がもらえなかったんだ。」
 「そのときは(それまでは海兵隊は黒人の入隊を認めていなかったことを)知らなかった。海軍では、我々(黒人)はメス・マン(Mess men)として従軍していたからね。(自分が歴史を切り開いてるなんて)露とも知らなかった。」
 ダーデン氏の記憶によると、母に見送られつつ、ニュー・ジャージーから北カロライナ州ロッキー・マウントまで兵士専用列車で移動し、さらにバスを乗り継ぎモントフォード・ポイントにたどり着きます。
 「キャンプにいるときはブート(海兵隊の新兵)として扱われる。今まで一般市民だったことは忘れさせられる。たとえば、君が帽子をかぶってるとするだろ。軍曹はそれを剥ぎ取って足で踏みつけるんだ(笑い)。」
 「いつも気を張り詰めさせる教官がいて、行進したり、射撃場でいろんなことを練習する。柔道スタイルの戦い方、銃剣の使い方、いろんな匍匐前進のやり方を練習する。」
ダーデン氏が生まれ育った北部とは異なり、モントフォード・ポイントのある米国南部では奴隷制が廃止された後も人種隔離(segregation)の名の下、黒人差別的な待遇・政策が続けられました。兵員専用列車では差別的な待遇はありませんでしたが、休暇中、一人で旅行する際に、ニューヨークから首都ワシントンまでは列車のどこにでも座れたのに対して、ワシントン以南は黒人は給炭車の後ろの車両に座らなければなりませんでした。エアコンがなく窓が開いているので、北カロライナ州に着くころにはカーキ色の制服が汚くなったそうです。町に出れば、映画館では二階席に座れなければならず、バスでは後部座席に座らなければなりませんでした。
 訓練を終えたダーデン氏は、ヘルニアを患っていたこともあり、第33兵站部隊に配属されます。第33・34兵站部隊は列車で西を目指します。列車は途中ニュー・オーリンズでドイツ軍捕虜を拾いました。
 「西部のどこかで石炭か水を補給するために停車したとき、赤十字の看護婦が列車に乗ってきてコーヒーとドーナッツを配ったんだ。我々の将校、大尉は白人だったんだけど、『ドイツ人に先に配れ』と言った。赤十字の看護婦は『いいえ、私達の兵隊さんに先に配ります』と答えた。」
 カリフォルニア州ペンドルトン駐屯地に一時滞在した後、サン・ディエゴからドイツ軍の捕獲船でハワイ真珠湾を目指します。ハワイに3、4ヶ月滞在した後、今度は戦車揚陸艦(LST)で行き先を伝えられないまま出撃します。途中、グアムで艦隊を整え、1945年2月19日未明に硫黄島に到着しました。
 座って戦況を眺めるだけの日々を過ごした後、23日に、ダーデン氏の部隊は上陸を試みますが、日本軍による迫撃砲が激しく、失敗します。翌24日の朝、ダーデン氏の部隊は再び硫黄島に上陸します。ダーデン氏は埋葬部隊に配属されました。
 「ひたすら埋葬に明け暮れた。毎日が終わらないようだった。我々は海兵隊員と言うよりも作業員のような扱いだった。」
 ダーデン氏には三人の白人将校がいましたが、大尉(既出の大尉とは別人)は偏見に満ちていたようです。
 「彼は黒人と一緒に戦うのや嫌だって家に手紙を書いたんだ。黒人海兵隊員の検閲官がいたんだよ。手紙は全て検閲しなければならなかったんだ。」
 その一方で、白人兵士との心温まる交流もありました。
 「こんなことがあったんだ。我々黒人海兵隊員四人くらいが白人の海兵隊員を囲んで座っていた。彼はまだ若く、戦闘で疲れていた。そして、彼はこう言ったんだ。『僕は間違ったことを教えられてた。今、君達と出会って、君たちの事を誇りに思う。』彼がしゃべったことで思い出せるのはそれで全部。でも、彼がしゃべったこと、それをどういう風に言ったか、私は決して忘れません。」
 ダーデン氏は擂鉢山の頂上に掲げられた旗を見ることはなかったようです。(註:星条旗は2月23日に掲揚されましたが、この日はダーデン氏の部隊が日本軍による激しい攻撃のために弾薬の荷揚げを諦めざるを得なかった日です。)
 「旗が上ったとき、旗は見なかった。いや、本当なんだ。まだ船に乗っていたから、旗が揚がったかどうかなんて気づかなかった。旗を見たなんて言えないよ。」
 また、ダーデン氏は日本兵と直接戦うこともなかったようです。
 「いいや、戦闘は見なかった。迫撃砲が自分達のほうに飛んでくるのはあったが。時どき飛んでくるときは、もちろん、死人の間で伏せるんだ。」
 (黒人初の海兵隊員であることをどう思うか問われて)
 「一緒にいた連中が私の誇りです。我々は全体としては教養があるとはいえないが、我々は忠実だった。友達だった。こういう経験を共有すると、それ以外どこでも手にすることができない、ある種の兄弟愛が芽生えるんだ。」
4 第8弾薬中隊マクファター軍曹の場合
 (このセクションは
http://www.guardian.co.uk/world/2006/oct/21/usa.filmnews
にあるインタビューと
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Iwo_Jima
をもとに構成しました。)
 マクファター氏は硫黄島で、ダーデン氏とは少し異なる経験をしています。擂鉢山の星条旗掲揚にも一役買っており、日本軍との直接的な戦闘も経験しました。
 硫黄島に到着した海兵隊は1945年2月19日、上陸を開始します。マクファター氏は上陸用舟艇に乗船し、海岸に向かいました。
 「そこらじゅうに死体がぷかぷかと浮いていました。死んだ兵士たちがね。」
 「私たちは匍匐しながら浜に上がっていきました。壕に飛び込むと、家族の写真を握り締めた若い白人の海兵隊員がいました。この兵士は榴散弾にやられて、耳と鼻と口から血を流していました。それを見て私は怖くなりましてね。ただそこに横たわって、主の祈りを何度も何度も繰り返すことしかできませんでした。」
 4日間の激戦の後、海兵隊はついに擂鉢山頂上に到達します。実は、擂鉢山では2月23日の午前と午後の二度にわたって星条旗は掲揚されたのですが、写真家ジョー・ローゼンタールによる、かの有名な写真は二度目の掲揚時に撮影されたものです。Wikipediaには一度目の様子を写した写真も掲載されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Raising_the_Flag_on_Iwo_Jima#Raising_the_first_flag
 マクファター氏はこの一度目の掲揚に関わっています。
 「硫黄島に最初の星条旗を立てた人は、旗を取り付けるための水道管を私から受け取ったんですよ。」
 擂鉢山を巡る攻防はその後も続きますが、日本軍は次第に追い詰められ全滅します。35日間にわたる激戦は、米軍による公式の制圧宣言によって終了しました。しかし、組織的戦闘が終わった後も、隠れていた日本兵による最後の玉砕は続きました。これに応戦したのはマクファター氏ら黒人海兵隊員でした。
 「私達の後に、飛行場を直すために陸軍の人たちがやってきてテントに寝泊りしていました。…(日本兵は)『バンザイ』と叫びながら、抜刀して穴から出てきました。日本兵は(陸軍兵士用のテントの)ロープを切り、キャンバス地の中、剣を手に(陸軍兵士達を)追いかけ回していました。私達の所までやってきたとき、我々はまだ泥の中眠っていました。私達が彼らを倒したんです。倒したのは黒人兵士たちなんです。(しかしながら、こんな活躍も)今まで一度も顧みられたことがない。」
5 終わりに
 『The Marines of Montford Point』の著者であり、それを基にしたテレビ・ドキュメンタリーを監督したメルトン・マクローリン(Melton McLaurin)北カロライナ州立大学ウィルミントン校教授(ウィルミントンはモントフォード・ポイントの近くの港町)によると、35日間続いた戦闘の初日から硫黄島には何百人もの黒人兵士がいました。黒人海兵隊部隊の大部分には弾薬補給業務が割り当てられていたのですが、上陸後の混沌の中、この戦闘計画はすぐに頓挫します。浜辺に着いたとたん、抵抗があまりにも激しかったために弾薬の移動はそっちのけでライフルで反撃するしかありませんでした。
http://www.guardian.co.uk/world/2006/oct/21/usa.filmnews
 このように、海兵隊初の黒人兵士達は人種差別という内なる敵と戦いながら、主敵である日本軍と硫黄島で戦ったのです。しかしながら、この戦争が米国における黒人の役割、彼らの地位、彼らに対するまなざしが見直されるきっかけとなったのも確かだと思います。
 さて、冒頭の二人の映画監督による論争に戻りましょう。実のところ、Wikipediaによると、硫黄島映画『父親達の星条旗』では三箇所で黒人兵士が出てきます。
・ニール・マクドノー演じるセベランス大尉が硫黄島について島の特徴などの概要や上陸作戦について説明する場面(証拠の写真を掲示板とMixiに上げてあります)。
・最初の上陸の場面では、負傷した黒人海兵隊員が運ばれていきます。
・また、最後のクレジットに用いられた、硫黄島の戦いの記録写真には黒人海兵隊員が写っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Flags_of_Our_Fathers_%28film%29
 最初の場面では次のような音声がかぶせられています。
“The 28th will land here at Green Beach”(吹き替え:第28連隊はグリーンビーチから上陸)
“The 8th Ammo Company will land here to resupply”(吹き替え:第8弾薬中隊は、ここで補給にあたれ、字幕:補給部隊はここから上陸)
http://diary4.cgiboy.com/0/unforgiven/index.cgi?y=2008&m=5#26
 つまり、リー監督の「スクリーンにはただの一人も黒人俳優が出てこない」という主張はまったくのデタラメです。おそらく彼は映画をちゃんと見ていないのでしょう。ガーディアンまでその事実を指摘せずに、いわばとぼけて報道を続けているのが不思議です。
 硫黄島の戦いでは米軍の兵力が11万人であったのに対して
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Iwo_Jima
黒人海兵隊員は約900人。
http://www.guardian.co.uk/world/2006/oct/21/usa.filmnews
 総兵力の1%にも満たないわけです。にもかかわらず、イーストウッド監督は黒人兵士が出てくる場面をわざわざ挿入し、なおかつ史実に忠実に描いているということは、むしろ、彼が映画の中で黒人海兵隊員を大切に取り扱っていることをよく示している思います。
 
 ちなみに、イーストウッド監督による別のアカデミー賞受賞作『バード』(1988年、ジャズ・サックス奏者チャーリー・パーカーの伝記映画)では、『父親達の星条旗』とはまったく逆に黒人ばかりが登場しますが、イーストウッド監督によると、リー監督はこの映画にも難癖を付けてきたそうです。「なんで白人がそんなことするんだ?」と。他に誰もチャーリー・パーカーの映画を作る人がいなかったから監督したまでで、リー監督が撮りたかったんだったら私が撮る前にそうすればよかっただけだ、そうじゃなくて彼は別の映画を撮ってたんだから、とイーストウッド監督は反論しています。
http://www.guardian.co.uk/film/2008/jun/06/1
 黒人俳優が出てきても出てこなくても文句があるというのは節操がないですね。
<太田>
 すばらしいコラムですね。