太田述正コラム#13718(2023.9.9)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その29)>(2023.12.6公開)

 「安禄山勢力とは、安禄山とその麾下の政治・軍事集団をさすが、その残存勢力が、唐に対し、150年にわたって半独立を維持しつづけた河朔三鎮<(注69)>であった。

 (注69)かさくさんちん。「晩唐期に国内各地の節度使が藩鎮として割拠した状況下において、河朔地区(現在の河北省を中心とする地域)の三つの藩鎮、すなわち幽州(盧龍軍。現在の北京及び長城付近)・魏博(天雄軍。渤海湾から黄河以北)・鎮冀(恒陽軍、成徳軍。幽州以南と山西に接する地域)を指す。
 安史の乱はウイグル騎兵の力を借りて763年に一応鎮圧されたが、各地の節度使が半独立勢力となって割拠し、朝廷では宦官が権力をふるって唐朝は著しく衰亡した。乱の余党勢力も一掃されることなく、唐朝は河朔三鎮(盧龍軍・魏博・成徳軍)の割拠を既成事実として承認した。すなわち、唐朝の第11代皇帝代宗(在位:762年 – 779年)は安禄山の旧臣であった李懐仙を幽州に、田承嗣を魏博に、張忠志(後に李宝臣)を成徳軍に封じたのである。
 その後、河朔三鎮は次第に地方勢力として独立し、唐朝の勢力が及ばなくなった。三鎮は「河朔の旧事」と称してその主帥は代々唐朝の任命によらずに世襲や部下による擁立によって就任し、唐朝の許可を得ずに領内の文武百官を任命して租税の上供を拒んだ。これは藩鎮の弊害の嚆矢をなし、北方地区の政情不安の原因となった。これに対して第12代皇帝徳宗(在位:779年 – 805年)は三藩制圧策を用いたが、三鎮側は黄河以南の河南二鎮(平盧節度使・淮南西道節度使)と結んで兵乱を起こし、徳宗を長安から追放するほどの勢威をもった。
 第14代皇帝憲宗(在位:805年 – 820年)が河南二鎮を攻め滅ぼすことに成功すると、これを恐れた三鎮は一時的に唐朝に帰順した。しかし、憲宗崩御後には再び独立して自立を回復した。ただし、その勢力圏は独立国家を打ち立てるには不十分で、なおかつ北方には強大化しつつあった契丹の存在が三鎮の勢力圏を脅かしていた。さらに、三鎮の主帥の地位も不安定で有力な配下武将や親衛軍による下剋上による交代も珍しいことではなかった。このため、唐朝による命令を拒絶しながらも、その権威を借りなければ三鎮そのものが維持できないという自己矛盾を内含していた。一方の唐朝側も王朝自体の衰微もさることながら、契丹の南進を食い止めるために河朔三鎮の自立をあえて放置して、彼らに契丹と対峙させる路線を採るようになった。こうして唐朝と河朔三鎮の関係は不明瞭なまま三鎮の半独立状態が続いた。藩鎮の主帥は概ね、住民にとっては残虐で専横きわまりない存在で、人びとの生殺与奪の権をにぎる軍閥皇帝であった。
 907年、開封を拠点とする宣武軍節度使であった朱全忠が唐の哀帝から禅譲のかたちをととのえて後梁を建て、太祖(在位:907年 – 912年)と称した。すると、これに対立する李克用の勢力との中間地帯に位置した河朔三鎮は一転して両勢力の草刈場となった。こうした情勢に危機感を抱いた盧龍軍節度使劉守光は「燕」(桀燕)を建国して両者に対抗しようとしたが、桀燕は李克用の後を継いで後唐を建てた荘宗李存勗(在位:923年 – 926年)によってたちまち攻め滅ぼされ、魏博節度使は後梁に、成徳軍節度使は後唐に、それぞれ屈服して両勢力の支配下に入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9C%94%E4%B8%89%E9%8E%AE

・・・河朔三鎮の歴代節度使は、その多くが奚<(注70)>や契丹、ウイグル、ソグド系突厥の人びとだった。

 (注70)けい。「4世紀から10世紀頃までモンゴル高原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老哈河、遼河の源流)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に存在していた遊牧民族。初めは庫莫奚(こまくけい・・・)と呼ばれていた。・・・
 <支那>の史書に拠ると、庫莫奚および奚の起源は匈奴系鮮卑の宇文部であるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%9A

 中には漢人もいたが、遊牧文化に染まっていたことは間違いない。
 また、その麾下の軍団には、尚武の気風に満ちあふれた、さまざまなエスニック集団出身の武人たちがいた。
 節度使は、この武人集団を維持することが最重要な課題であり、そのためには彼らへの給与を保障しつづけなければならない。
 それには管轄領域内から租税を徴収し、なおかつ管内の農民も保護するという円滑な行政をおこなう必要がある。・・・
 そ<こで>、長安での科挙の試験に合格したけれども、官職につけない「浪人生」を河朔三鎮がスカウトし、幕職官として利用した・・・。・・・
 唐朝がほろんだあと、河朔三鎮は後唐や契丹に吸収されていく。
 そのとき、沙陀系の後唐や契丹国は、この河朔三鎮のノウハウをとりこんだのだ。
 その結果、遊牧社会に拠点をおき、少数の遊牧系の支配者集団で大多数の農耕民を支配する王朝が生まれていく。
 この意味において、・・・唐朝の歴史的存在意義の一つは、こうした中央ユーラシア型王朝を準備したことだったともいえるのである。」(341~343)

⇒この、森安説を踏まえたと言って良さそうな森部説、なかなか面白いですね。
 しかし、それならば、北魏から始まり唐で終るところの、鮮卑拓跋部系諸王朝、だって、中央ユーラシア型王朝を準備した、いや、それどころか、そもそも、中央ユーラシア型諸王朝そのものだった、と言えそうなのですが・・。(太田)

(完)