太田述正コラム#13720(2023.9.10)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その1)>(2023.12.7公開)

1 始めに

 著者の森安孝夫(1948年~)については、既に(コラム#13706、13716で)紹介済みだが、もう一度。
 「福井県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院在学中に、フランス政府給費留学生としてパリ留学。金沢大学助教授、大阪大学教授、近畿大学特任教授などを経て、・・・(財)東洋文庫監事・研究員、大阪大学名誉教授。博士(文学)。」(奥付より)
 なお、取り上げるこの本は、2007年2月に『興亡の世界史』第05巻として講談社より刊行されたものを原本とし、その誤植等を直し、かつ、執筆当時分量圧縮のために落とした諸箇所を復活させたものであり、執筆当時以降の、著者のものを含めた新しい研究成果群は反映されていない(377~378)とのことです。

2 『シルクロードと唐帝国』を読む

 「・・・インドから漢代の中国に伝来した仏教は、<唐の>歴代皇帝による保護・尊崇と相俟って、唐は中国仏教の黄金時代となった。

⇒「五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺3万、僧尼200万と記して<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AD%A6%E4%B8%80%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3
という記述には直接の典拠は付されていませんが、五胡十六国時代ではなく唐が支那における仏教の黄金時代であったと著者は主張する以上、その主張の典拠を付けて欲しかったところです。
 唐の時代には、三武一宗の法難中最大であり、徹底されていたところの、武宗(在位 : 840年 – 846年)によるところの、会昌年間における会昌の廃仏、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%98%8C%E3%81%AE%E5%BB%83%E4%BB%8F
もあっただけに・・。

 それゆえ唐を仏教王国、唐都・長安を仏教都市といっても決して過言ではない。・・・

⇒「唐の・・・太宗のとき、宮中での僧・道の順序を、道先仏後とした」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E6%95%99-103310
のですから、それを逆転させた則天武后の時代(典拠省略)を除き、常識的には、唐は仏教王国ではなく道教王国、そして、長安は仏教都市ではなく道教都市、でしょう。(太田)

 ところが近現代の中国人や欧米人に唐が仏教王国だったという印象が薄れているのは、宋代以降、とりわけ明代以降に編纂された大型の漢籍叢書類に見られる傾向として、仏教・仏教文化に関する史料が、遊牧文化や少数民族に関する情報と並んで意図的に排除ないし無視されていったからである。
 しかるに仏教が現代にまで生きのこった日本に住む我々が唐帝国に抱く印象は、やはり仏教とは切っても切り離せない。

⇒それは、江戸時代の檀那寺制
https://kotobank.jp/word/%E6%AA%80%E9%82%A3%E5%AF%BA-95362
の対象となった日本の仏教諸派が、多かれ少なかれ唐時代の支那仏教の流れを汲むものであったことから、そういうイメージが定着しただけのことであって、遣唐使を送っていた当時の日本人達・・貴族層・・が抱いていたイメージは異なっていたのではないか、と、私は考えています。
 というのも、私の唱えているところの、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、を持ち出すまでもなく、北魏時代にも唐の時代にも、諸皇帝(やその先祖)を模した仏像群が作られた
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjgyNnz9M6AAxXPqFYBHZbyDy44ChAWegQIDRAB&url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fread0061437%2Fpublished_papers%2F18938710%2Fattachment_file.pdf&usg=AOvVaw3ziOvWFjl-GhzZTLxFPzwz&opi=89978449 及び、コラム#13684
ことが象徴する支那の大方の権力者達の仏教理解の浅薄さ、私物化、に、当時の日本人達は気付いていた、と思われるからです。
いずれにせよ、「近現代の中国人や欧米人に唐が仏教王国だったという印象が薄れている」のは当然でしょう。(太田)

(続く)