太田述正コラム#13728(2023.9.14)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その5)>(2023.12.11公開)

 「・・・<このところ>。内モンゴル草原ベルトそのものよりも、むしろその南側にある・・・半農半遊牧地帯の重要性に注目する研究者が少しずつ増えている。・・・
 ここ<を>・・・私は「農牧接壌地帯」と呼んできた<。>・・・
 河北・山西北部の「燕雲十六州」から陝西<(せんせい)>・寧夏・甘粛の六盤(りくばん)山・賀蘭(がらん)山・祁連(きれん)山にいたるまで横長に広がるこの農牧接壌地帯は、中国諸王朝にとって両刃の剣であり、そこをうまくコントロールできたことによって唐朝は前半期の大繁栄をみるが、同じところが今度は安史の乱を支える勢力の揺籃の地となり、さらに五代の沙陀諸王朝(トルコ系)と遼朝(モンゴル系)・西夏(タングート系)といういわゆる「征服王朝」出現の舞台となったのである。・・・
 妹尾達彦によれば、秦漢時代以来、中国の大都市はこの農業=遊牧境界地帯に沿って発展し、長安・洛陽・太原・北京<(注8)>などという歴代中国の首都ないし副都となった大都市のほとんどは農業=遊牧境界地帯のすぐ隣に集中するという。

 (注8)「<関中の>長安・・・は、・・・現在の陝西省の省都西安市に相当する。・・・周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%89
 「洛陽<は、>・・・洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。・・・河南省西部にあり、黄河の中流にある。・・・
 周の成王の時代に殷を滅ぼした周の東方経営の拠点の下都として洛邑の都城が築かれて、王城、成周、東都と呼ばれたことに始まる。平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都が移された。
 こうした経緯から、<支那>古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた「長安」と華北平原の経済力と結びついた「洛陽」が対になって首都機能を担う形が出来上がっていった。
 その後、後漢・三国魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて「洛陽」に都が置かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82
 「黄土高原の東部、太原盆地の北端に位置し、北・西・東の三方を山に囲まれている。山西<省>最大の河川である汾河が北から南へ約100kmにわたり市域を貫く。・・・洛陽周辺と北京周辺を結ぶ重要な街道が汾河沿いの盆地を通るため、太原は交通の要衝でもあった。北方の遊牧民族にとって太原は中原を攻めるための拠点で、漢民族にとって太原は北方の守りの要衝であった。・・・
 古くは晋陽と呼ばれ、・・・五胡十六国時代、・・・淝水の戦い<で>・・・敗北し<た後に一時期>・・・前秦の首都とな<り、また、>・・・五代十国時代後期、後漢の崩壊後に一時期北漢が太原を首都として成立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E5%B8%82
 北京については、下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82

 本書で私が提案するネットワークとしてのシルクロードは、当然ながらこれらの大都市を含まなければ完結しないのである。
 ・・・「シルクロード」とは、もとはといえば19世紀のドイツ人地理学者リヒトホーフェンが造り出したドイツ語のザイデンシュトラーセン「絹の道」に由来する術語であるが、その後イギリスのオーレル=スタインが英訳してシルクロードとなり、それが今では世界中で、実に多種多様な意味と範囲で使用されるようになったのである。・・・
 <当初は、>シルクロード<は>もっぱら、「オアシスの道」の代名詞として定義され、その意味で使用されて<い>た<。>
 しかしながら、明治以来、我が国の東洋史学、とりわけその中核の一翼を担った内陸アジア史学と東西交渉史学がめざましい発展を遂げると、1930年代以降、シルクロードは「オアシスの道」だけでなく、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と、東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。
 その際、もっとも大きな役割を果たしたのは、松田壽男博士の研究である。
 博士はまず、モンゴル高原~天山山脈の広大な草原の上に建てられた匈奴・鮮卑・突厥・ウイグルなどの遊牧国家の主要産物たる馬と中国の絹とが平和時には恒常的に交易されたという事実を掘り起こし、それに「絹馬(けんば)交易(絹馬貿易)」という名称を与えた。
 そして、中央ユーラシアの遊牧国家の発展にとって商業が必要不可欠の要素であったこと、とりわけ絹が商品とも貨幣ともなって移動した遠距離交易路としての「草原の路」がいかに重要であったかを明らかにした。・・・
 今ではその主張が学界の定説となったのである。」(64~67)

⇒習近平の提案で始まったところの、一帯一路の構築は、その正式名称が「シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード」である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF
ところ、それは、事実上、松田壽男説に拠っている、と言えそうです。(太田)

(続く)