太田述正コラム#13748(2023.9.24)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その15)>(2023.12.21公開)

 「・・・次に述べる唐の西域進出と合わせて、・・・初唐から草創期を除いた太宗・高宗二代の治世こそが、世界帝国たる唐帝国の絶頂期に当たるのである。
 それはまた、唐代の人民の身分を「良」と「賤」に二大別する良賤制<(注32)>という国家的身分制によって自律的小農民層を維持し、国家が彼らを直接支配する体制を基盤として、均田制・租庸調制・府兵制を運営する唐の中央集権的律令体制が完成する時期と重なっているのである。・・・

 (注32)「秦・漢期に形成され、唐代に完成した。賤民とは、国家に隷属する各種の官賤民、および私家で駆使される私賤民(部曲(ぶきょく)、客女、奴婢(ぬひ))であり、これらの者を除くすべての者(天子も含む)が良民である。賤民は日常生活におけるもろもろの「差別」と、その差別をさらに有効に規定し正当化した国法とを通して、良民と明確に区別され対比される。たとえば刑法においても、賤民の犯罪は、とりわけ良民や主人に対する加害の場合には重罪に処せられ、賤民に対する犯罪の処罰はきわめて軽い。この身分制は、君臣秩序と家族主義的秩序と並んで、皇帝支配を維持し機能せしめるための重要な役割を果たした。宋代以降には、地主制的支配の発達に反比例して、良賤制の締め付けは第一義的なものではなくなったが、賤民の公的な廃止は、清朝の崩壊を待たねばならなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E8%B3%A4%E5%88%B6-1437405
 「日本において・・・良賤法の元となった法令は・・・645年・・・に定められた「男女の法」とされている。・・・
 だが、実際の社会においては良民が賤より課役が重いために却って賤の方が生活が恵まれている場合もあり、8世紀末期にはそれを回避するために意図的に賤との婚姻を図るものもいた。このため、・・・789年・・・には良民と賤の間の子は全て良民として課役を負担させることとし、・・・863年・・・には賤にあたる者を計帳に記載する場合には父母の氏名記載を義務付けて賤の発生を抑制して租税徴収を図る方針を採るようになった。このため、賤の人口は減少し、更に10世紀には戸籍自体が行われなくなったために良民と賤の区別が不可能となったために良賤法の意味を成さなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E8%B3%A4%E6%B3%95

⇒良賤法も秦漢を倣ったものですが、秦漢時代にはなかった均田法(班田収授法)、と共に、日本が実質的に支那から継受しなかった制度のようですね。(太田)

 前後3回にわたって派遣された討伐軍の総数は延べ数十万に上るといわれ、唐は6年という長い年月を費やして、ようやく657年にいたって西突厥に勝利を収めることができた。
 突厥第一帝国の西域進出とそれに続く西突厥の西域支配は、・・・阿史那賀魯<(注33)>の敗北をもって一応の終息をみたといってよかろう。・・・」(181~182、188~189、191)

 (注33)?~659年。「初め西突厥の咄陸可汗 (とつりくかがん) のもとでヤブグ (葉護)としてタラス河畔にいたが,648年に部衆を率いて唐に降伏した。しかし 651年に唐にそむいて独立し,西突厥の諸部族を征服してイシュバラ・カガン (沙鉢羅可汗) と称した。唐は3回にわたってこれを討ち,657年に平定して,西突厥を安西都護府によって統治するにいたった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E8%B3%80%E9%AD%AF-25302
 「阿史那賀魯は京師に連行された<が、>・・・詔で死刑を免除した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E8%B3%80%E9%AD%AF

 再び中国を統一した隋唐帝国・・・の統治理念はまさしく「漢化」しつつあった。
 つまり、政治理念としては儒教思想に基づく律令であり、宗教としては中国在来のシャーマニズムがシルクロードを経て伝来した仏教の刺激を受けて体系化された道教、あるいは東伝後数百年を経てほとんど固有の宗教となりつつあった中国仏教である。
 いずれも「漢文」の素養を必須とするものであるがゆえに「漢化」といわれ、しばしば中華主義者から過大視・誇大視されてきた現象である。
 ただし仏教がもともとは胡族の宗教とされるのはもちろん、律令制の具体相である均田制・府兵制・租庸調制のうち府兵制だけでなく、均田制にさえ北族的要素があると指摘されることも、忘れてはなるまい。
 いわゆる「漢化」とはその程度のものであるが、あくまで「漢語」が宮廷言語・統治言語であったがゆえに、私は隋唐を遼・西夏・金・元・清のようなレベルのいわゆる「征服王朝」(中央ユーラシア型国家)と同列に置くことはしないのである。」(181~182、188~189、191~192)

⇒科挙も、遊牧民の、血筋より能力を重視する文化、と親和性があるからこそ、隋が導入し、唐が引き継いだ、と見ることができるところ、結局、日本は、支那仏教以外、北朝・隋唐の諸制度は、律令制なる形式的なものを除き、一切、(実質的には)継受しなかった、ということになりそうです。
 他方、宦官に関しては、少なくとも殷の時にまで遡るところの、遊牧民とは直接関係のない制度
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A6%E5%AE%98-48536
であるところ、そういうもので、日本が継受しなかった唯一の制度、と、言えそうです。(太田)

(続く)