太田述正コラム#13752(2023.9.26)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その17)>(2023.12.23公開)

「安史の乱をはさんで中唐になると<そんな>唐は急速に内向的になり、中華主義に陥っていく。
 ・・・『旧唐書』<は、>・・・「胡風」に染まったことが安史の乱の原因であると非難しているのである。・・・
 国家・宮廷の組織である太常寺<(注38)>・教坊<(注39)>・梨園<(注40)>にいたのは、最高位で良民扱いされる太常音声人(たいじょうおんせいじん)を除いて、あとはすべて官賤民すなわち国有隷属民であり、民間にいたのはほとんどが私賤民(大部分は奴隷)であった。

 (注38)「王朝時代の<支那>の官署である。九寺のひとつ。漢代の太常を起源とする。北斉のときに太常寺が置かれ、陵廟の諸祭祀や礼楽と儀式制度・天文術数や衣冠の類を管掌した。隋のとき、郊社・太廟・諸陵・太祝・衣冠・太楽・清商・鼓吹・太医・太卜・廩犧などの署を統括し、おのおのに令や丞が置かれた。唐代には、王朝の礼楽・郊廟・社稷のことを管掌した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B8%B8%E5%AF%BA
 「皇帝祭祀は、史書では郊廟としてあらわれており、皇帝の祖先を祭る宗廟で行われるものと、都の郊外で行われる郊祀に分けられる。また、郊祀は天の主宰神への祭祀である南郊と、地の自然神への祭祀である北郊とに大きく分けられる。・・・
 <北京に残存する>天壇<で、>明清時代に南郊が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%A5%AD%E7%A5%80
 (注39)「唐以降の<支那>王朝における宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関をさす。楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、官妓にあたる妓女を統括する役割もあった。その後の王朝に引き継がれ、清代まで続いたが、雍正帝の時に廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%9D%8A
 (注40)「語の由来は、唐の玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達を梨が植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部とが属した。玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。
 安史の乱で宮廷の音楽も壊滅して衰退したが、その後再興され、838年には法曲を仙韶曲と改め、梨園を仙韶院と改めた。後、唐末の動乱によって、消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E5%9C%92
 法曲については、下掲に詳しい。↓
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/1983/GKH018411.pdf

 初唐で1万以上、中唐で2/3万はいたといわれる太常寺の楽工の新規供給源は、主として犯罪のために良民から奴隷に堕ちた者であるが、いったん官賤民となればその身分は世襲されるから、楽工の子弟がまた楽工となる場合が多かったであろう。
 この楽工は当番期間のみ上京して太常寺に入るのであって、非番の時は故郷の州県で生活する。
 賤民同士で結婚して子女を生むこともできる。
 一方、歌妓(かぎ)(歌姫・舞妓(まいこ)・芸妓)については、宮中や役所・軍営に所属する「公妓(こうぎ)」と、上流家庭や私営の妓館にいる「私妓(しぎ)」がいた。・・・
 <ちなみに、>奴隷の供給源はおおまかにみて2つある。
 一つは戦争や購買によって異郷からもたらされる外国人奴隷であり、もう一つは犯罪や債務などにより国内で生み出される同国人奴隷(ただし帝国の場合は民族が異なる場合がある)である。
 いずれも、奴隷が生んだ子は奴隷となって、再生産されていくのが普通である。・・・
 人口の20パーセント以上を奴隷が占める場合を奴隷制社会と定義するならば、市民による「民主的」政治が行なわれた古代ギリシアを世界史上最初の例として、古代ローマと近代アメリカ合衆国南部、さらには植民地時代のカリブ海諸島やブラジルなどが奴隷制社会に当たる。
 それに対し、唐帝国は奴隷制はあったが奴隷制社会ではなかった。
 中国の奴隷は一般に「奴婢」といわれるが、唐代の人口に占める奴婢の割合は、敦煌トゥルファン文書に残る戸籍類などの分析と漢籍との比較から、私奴婢(しぬひ)・官奴婢を合わせても全人口の20パーセントに至るとはおよそ考えられないからである。」(225~226、247~248)

⇒著者は、「私賤民(大部分は奴隷)」という表現から、賤民イコール奴婢(奴隷)ではなく、後者は前者の一部である、としているようですが、「奴婢・・・は、律令制における身分制度、社会階級の一つであり、良民(自由民)と賤民(非自由民)がある中の後者に相当する。奴・・・は男性、婢・・・は女性を意味する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%A9%A2
が事実であるとすれば、疑問符がつきます。
 なお、奴婢については、その後、「宋代に奴婢身分の世襲,無償労働,終身契約,自由意志に基づかない契約が禁止され、法的身分も良人と成り雇用主-奴婢間の争いも公的機関が法により裁判する対象となった。
 奴隷制国家のモンゴルが建てた元代に入ると再び最下層身分として扱われ、魏晋南北朝時代と変わらない王家や諸侯,貴族が多数の奴婢を抱える社会体制へ変わった。
 明・清代にも奴婢は残っていたが、基本的に私奴婢が中心で徐々に廃れていき、宣統元年(1909年)、清朝の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀によって法的に奴隷制は廃止された。」(上掲)という経過を辿ったようです。(太田)

(続く)