太田述正コラム#13756(2023.9.28)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その19)>(2023.12.25公開)

 「・・・ビルゲ可汗時代はそれまでの対決姿勢とはうって変わって、基本的に唐と宥和する政策へ転換した・・・。・・・
 突厥第二帝国<は、>・・・ビルゲ可汗の没後は急速に衰えていく。
 それに替わって台頭してくるのがウイグル帝国(東ウイグル可汗国)である。
 古代ウイグル族は、7世紀に一度、鉄勒集団全体が唐帝国の羈縻支配を受けた時に姿を見せてはいるが、中央ユーラシア東部の歴史舞台に主役の一人として華々しく登場するのは8世紀中葉からである。<(注45)>・・・」(277、289)

 (注45)「「高車(こうしゃ)」とは4~6世紀の<支那>北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する。その一部族である袁紇(ウイグル)部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。
 390年、袁紇部は北魏の道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、袁紇部を含む高車諸部族は北魏に服属して漠南へ移住させられた。
 一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主(あるじ)に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。
 6世紀~7世紀、高車は鉄勒(てつろく)と呼ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部も<支那>史書で烏護・烏紇・韋紇などと記され、やがて迴紇・回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に属し最大の構成民族であったが、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
 隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(せつえんだ)部と争った。
 629年に部族長の吐迷度は薛延陀部を破り、鉄勒の盟主となった。646年には唐に帰順し、回紇部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。
 682年、東突厥が再興(第二突厥可汗国)すると回紇(ウイグル)部は再び屈従を余儀なくされたものの、734年に東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が毒殺されると、バシュミル部、カルルク部らとともに東突厥へ度々攻撃を仕掛け、745年に回紇(ウイグル)部の可汗(カガン、君主)となった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐と組んで最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥可汗国を滅ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
 「「モンゴルの歴史」(刀水書房 2002)の中で著者の宮脇淳子<(コラム#13576、13578、13600)>は次のように書いている。
 「モンゴル高原ではじめて遊牧騎馬民の政治連合体、つまり遊牧帝国をつくった匈奴は、モンゴル系だったか、トルコ系だったか、という議論が、かつてわが国の東洋史学界で話題になった。いまでも一般書では、…モンゴル高原で興亡を繰り返した遊牧騎馬民について、モンゴル系かトルコ系か、とりあえず決めて叙述する。しかし、この命題には、重大な欠陥がいくつも存在する。
 まず第一に、その系統が、人種のことを指しているのか、言語のことを指しているのか、はっきりしないことである。
 第二に、モンゴルもトルコも、匈奴よりも後世に誕生した遊牧騎馬民の名称である。かれらより古い時代の遊牧民が、どちらに属していたか、どうして決められるだろう。
 どちらかに決めようとしている人たちにとって、分類の基準は、人種の場合だと、形質学的特徴が、現在のモンゴル民族とトルコ民族のどちらにより近いか、ということになる。ところが、人種の区分でいえば、現在トルコ系に分類される人びとは、…大なり小なり、モンゴロイドとコーカソイドの混血である。古い時代に中央ユーラシアにいたコー力ソイドが西方と南方に移住し、そのあとでモンゴロイドの遊牧騎馬民が広がったと単純に考えると、西にいくほどコー力ソイドの血統が強く残っていることになる。一方、モンゴロイドという名称のもとになったモンゴル民族も、現代に至るまで、中央ユーラシアのさまざまな人種と混血してきたのだ。古代の遊牧民を、モンゴル系かトルコ系かに分類するなどということは不可能だ。
 言語の系統の場合でも、分類の基準は、現代モンゴル語と現代トルコ語のどちらにより近いか、ということにすぎないのだが、中央ユーラシアに住む人びとの言語を、モンゴル系とトルコ系に分類したのは、十九世紀の<欧州>の比較言語学者たちで、その研究の動機は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別するためだった。
 わずかな単語が漢字に音訳されて残っているだけの匈奴のことばから、モンゴル系かトルコ系かを判断することはできない。十三世紀にモンゴル語が誕生した当時、今のようなトルコ語が存在したわけではない。長い歴史的経緯をへて、二つの系統に分かれたのだ。また、言語は生まれた後で習得するものだから、もともと人種とは関係がない。
 そういうわけであるから、モンゴル高原で最初の遊牧帝国をつくった匈奴は、文化的にはまちがいなく、のちのモンゴル帝国の祖といえるが、血統がそのまま後世に伝わったとは考えにくい。…匈奴は、南方へ、あるいは西方へと何度も移住をしているし、そもそも遊牧帝国の支配集団と、被支配集団が、同じ人種だったとは限らないのである。」」
https://ethnos.exblog.jp/495923/

⇒旧遊牧民系諸国・・モンゴル/テュルク系諸国・・中、現時点で、民主制が機能しているのは東西両端のモンゴルとトルコだけで、モンゴルは、トルコよりもその機能度が高そうなのはどうしてかを追究した人は、ネットにざっとあたった限りではいなさそうですが、モンゴルがイスラム教化しなかったことと、早期にソ連の保護国化したこと、のおかげで世俗化が徹底していたことが大きいように思います。
 また、国土面積こそ広いけれど、人口が少なく、まとまり易い・・人口330万弱でその半分弱が首都ウランバートルに住んでいる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
ことも、プラス要因として挙げられるのではないでしょうか。(太田)

(続く)