太田述正コラム#13776(2023.10.8)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その4)>(2024.1.3公開)

 新書の字数制約によるところが大きいのでしょうが、著者による「戎」、「秦」、についての説明が不足しているので、ここで、下掲の2つの囲み記事で、ほんの少し、補足しておきたいと思います。


[春秋時代の「戎」について]

 渡邊英幸(1974年~)による表記論文のさわりを紹介する。
 ちなみに、渡邊は、東北大博士課程修了、同大東北アジア研究センター講師、日本学術振興会特別研究員を経て、東北学院大・石巻専修第非常勤講師、博士(国際文化)、という人物だ。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%B8%A1%E9%82%89%E8%8B%B1%E5%B9%B8_200000000740042/biography/

 「・・・春秋時代の諸戎は、本来自前の都邑を持たない、非城郭民の集団であった。後世に残存した戎関連の邑の痕跡は、春秋時代の戎が中原諸国によって定住化され、再編されて行く過程において建設された・・・聚落の痕跡である。・・・<すなわち、>特定の考古学文化や民族集団に限定されうるものではなく、・・・近隣の非城郭民による武装組織に対し、諸国が与えたマージナルな別称であったと考えるべきであろう。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjCm6aP9-OBAxUwU_UHHSkwDkwQFnoECBQQAQ&url=https%3A%2F%2Ftohoku.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D135165%26file_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3JAMVA2ULvAn8w9UxG3lZN&opi=89978449

⇒「近隣の非城郭民による武装組織」は「近隣の非城郭民」でいいと思うが、最新の諸研究を踏まえた叙述であり、首肯できる。(太田)

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[早期秦文化の起源と形成]

 「西安市にある総合大学の一つである」西北大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6
の梁雲氏による表記論文のさわりを紹介する。
 同氏については殆ど調べがつかなかった。

 「早期・・・秦文化<には、>・・・主として3つの起源がある・・・。それは殷文化、周文化、そして西戎文化である。
 殷文化の要素<については、>・・・秦の祖先と殷は密接に関係しており、そのため周代秦文化は一側面において濃厚な殷文化の遺風を留めることになった。<例えば、>殉葬および人身犠牲の習俗<、>・・・君主・・・専制主義<、等がそうだ。>・・・
 戦国時期の秦はその君主の権威によってこそ、変革を徹底して推し進めることができたのであり、それによって、一躍最大の強国として頭角を現し、天下を統一することが出来たのである。・・・
 周文化の要素<については、>・・・西周から春秋時期に至るまで、秦と周は密接な関係性を保っている。・・・秦はその出現期の発展の過程において、周人に近づき用を果たし、周礼を学び、周制を吸収し、周と婚姻関係を結び、襄公<(注9)>は周王室をたすけた。・・・

 (注9)じょうこう(?~BC766)。「襄公7年(前771年)春、周の幽王は褒姒(ほうじ)を寵愛し、太子を廃して褒姒の子を嫡子とした。また、しばしば諸侯を欺いたので、諸侯は幽王に叛き、西戎・犬戎・申侯とともに周を撃ち、幽王を驪山の麓で殺した。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦い、周の洛邑東徙でも周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。ここにおいて襄公は秦国を創始し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)

 <その上、>秦は・・・宗周の故地に居していた<こともあり、>文化上では周の古い部分を依然として多く有しており、多くの面で周文化の特徴を踏襲している。・・・
 西戎文化の要素<については、>・・・秦は西戎の地において興り、その文化が地理的にみてある程度の「戎狄性」があることは免れない。争いは必ず文化交流をもたらし、早期秦文化の一部の要素は、あるものは西戎文化に由来するものであり、あるものは西戎が媒介となっている。・・・
 早期秦文化は、・・・殷遺民文化を基礎としており、周文化と西戎文化の要素を大量に吸収して形成されたものなのである。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjV0tfh-eOBAxVUGYgKHUbdCIkQFnoECAYQAQ&url=https%3A%2F%2Frepository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp%2Frecord%2F2000772%2Ffiles%2FConf_20210620_005.pdf&usg=AOvVaw11AFGm16akT4UVMGFNLePH&opi=89978449

⇒瞠目させられた。(太田)

 この2つの囲み記事を踏まえれば、「北方狩猟民出身の殷を倒して取って代わった周<も>、西方遊牧民出身<だった>」(既述)ことから、秦は、その狩猟民的要素の基礎の上に、周の遊牧民的な西戎的要素がその後も上書きされ続けたことによって、好戦的にして(指導者を選ぶ際のことは立ち入らないことにしますが)トップダウン的な遊牧民的精神が横溢した指導層を戴き続けた、という印象があります。
 となれば、「<支那>では春秋時代までは戦車が主流であったが、都市国家から領域国家の時代に移行する戦国時代ころより歩兵戦が主流となった。趙の武霊王は紀元前307年に胡服騎射を取り入れ、これ以降は騎兵の時代となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88
という説が流布しているけれど、BC659年~BC621年の「穆公のときから、西方異民族との交戦を通じて騎馬戦術を導入し<た>」とする著者(既述)ら、の指摘「史実」、の方が支那史上、より画期的なのかもしれないという気がしてきました。(太田)

(続く)