太田述正コラム#13838(2023.11.8)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その35)>(2024.2.3公開)

「豪族の社会への規制力を利用する後漢の寛治は、第4代の和帝のころから機能しにくくなっていく。
 外戚と宦官が、政治に関わり始めたためである。
 外戚とは、皇帝の母方の一族で、皇帝が幼いときに代わって政務を担当する。
 後漢の皇帝は多く短命で、和帝以降は幼帝の即位が続き、幼いころは外戚が政権を握った。
 やがて、成長した皇帝は、外戚から政権を取り戻す。
 そのときに、活躍したのが宦官である。
 宦官<には>・・・、幼いころ母が去勢し、宮中に預けたものが多かった。
 皇帝は、宦官を勉強や遊びの相手として育つため、宦官に親近感をもち、宦官も皇帝へ絶対の忠誠心をもっていた。
 したがって、政権を掌握している外戚を打倒するときに、皇帝が最も頼りにできるものは、宦官であった。
 こうして和帝以降、第11代の桓帝期に党錮の禁が起こるまで、外戚と宦官は、交互に政権を担当する。
 むろん、すべての外戚が、漢を蝕んだわけではない。
 また、宦官の中にも、和帝期から第6代の安帝期に活躍し、製紙法の改良者としても有名な蔡倫<(注104)>のように、誠心誠意を尽くして皇帝に仕え、国政の私物化に無縁のものもいた。

 (注104)63~121年。「後漢の明帝の・・・75年・・・から宦官として宮廷に登用された。章帝時期には位の低い小黄門であったが、和帝即位後の89年には中常侍にまで登り詰めた。さらに誠実な人柄や学問や工作を好む点、また潔癖な身の振る舞いが評価され、97年には尚方令という役職を得た。これは剣などの武器類やさまざまな品物の製作監督や製造技術確立を任務とした。
 ・・・105年・・・、蔡倫は[<、>楮を加えることで麻紙を改良したとも考えられる<ところの、>]樹皮・麻クズ・破れた魚網などの廃棄物の材料を用いて紙を製造し、これを和帝に献上した。蔡倫の作った紙は優秀であったため、「蔡侯紙」と呼んで皆が使用した。従来、文章を記すのには竹簡、または絹織物(縑帛‐けんばく)製のもの(蔡倫以前はこれを「紙」と呼んだ)があったが、竹簡は重く、「紙」は高価であるという欠点があった。
 蔡倫は和帝から厚い信頼を得、帷幄(いあく、国家計画を立案する重要な機関)にも加入し、しばしば諫言を奏上したともあった。また、儒者の劉珍などによる古典の校正作業を監督するなど、有能な文人臣下としての能力を発揮した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%80%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%B4%99 ([]内)
 楮(コウゾ)は、「和紙の原料」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%BE

 安帝を支えた外戚の鄧隲<(注105)>(とうしつ)も、「天知る、神知る、我知る、汝知る」<(注106)>と言って賄賂を拒否した楊震<(注107)>(ようしん)など儒教を学んだ官僚を登用し、安定した政治をもたらした。

 (注105)「106年、安帝(六代皇帝)が即位する。この時代、鄧太后とその弟鄧隲(とうしつ)が台頭する。108年、鄧隲は大将軍に就任した。
 この鄧氏は竇憲と異なり、民力の養成に力を入れる。加えて、人材の発掘に心を砕いたという。(後者には、政略的理由もあったが。)・・・
 しかし、専横が長く続くと、安帝の不満は大きくなる。鄧太后死後、安帝は宦官の力を借り、鄧氏弾圧にかかる。結果、鄧隲は自殺(121年)。鄧氏を本当に憎んでいたのは、儒者たちではなく、皇帝であった。
 以後は、宦官が台頭することとなる。儒家官僚たちは、派閥を超えて協力し、共通の敵(宦官)と対する。以後、儒家官僚の力は強まり、朝廷での地位が確立された。(これは、元はと言えば、鄧氏があちこちの名士を登用したおかげ。)」
https://jkkmemstw.com/index-gokan/gokan-gai/
(注106)これは、後漢書による。「資治通鑑<では>・・・「天知る、地知る、我知る、汝知る」・・・となっている<。>・・・<こうして、いわゆる、>「四知」の故事が生まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E9%9C%87
 (注107)54~124年。「名門の政治家に生まれた楊震は、『後漢書』では「自震至彪、四世太尉(震より彪に至るまで、四世が太尉)」の一文で紹介されている。これは楊震、楊秉(楊震の三男で嫡子)、臨晋侯の楊賜、楊彪と子孫四代に亘って宰相に任じられたことを示し、一般には「四世三公」とも称された。楊牧や楊奉の子孫も後漢朝に仕え史書に名を残している。
 子孫は魏では冷遇されたが、西晋以降、北朝の諸王朝で隋、唐に至るまで高官を輩出した。
 なお、『隋書』によると隋を創立した楊堅は楊震を祖と称している。ただし、谷川道雄は「隋の帝室楊氏は、漢代以来の名族として名高い弘農郡の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は北魏時代、長城北辺の武川鎮で国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている。」(上掲)

 しかし、「跋扈将軍」と批判した第10代の質帝を殺し、桓帝を擁立した外戚の梁冀のように、外戚と宦官には、国政を私物化するものが多かった。
 具体的には、郷挙里選において、自分の一族や知り合いを推薦する、というかたちで、地方官に圧力をかけることも多かった。
 これを請託<(注108)>という。

 (注108)「権力者に私事をたのみこむ<こと>。〔後漢書、明帝紀〕今、擧實ならず、佞未だ去らず。門に託し、殘放手(縦(ほしいまま)に)し、百姓愁怨す。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AB%8B%E8%A8%97-167925

 請託は、郷挙里選により豪族を取り込む後漢の寛治を徐々に蝕んでいく。
 豪族出身で儒教を身につけた官僚は、宦官の請託に激しく抵抗した。
 しかし、その対決は常に宦官の勝利であった。
 それは、皇帝の新任厚い宦官が、皇帝の延長として権力を行使していたためである。」(210~212)

⇒著者が紹介する「良い」宦官の蔡倫も、「良い」外戚の鄧隲も、時の皇帝から死を賜って亡くなっている(それぞれのウィキペディアによる)、となれば、宦官にせよ外戚にせよ、「良」くふるまうメリットはなきに等しいわけであり、そうなると、官僚に頑張ってもらわなければならないことになるとはいえ、その官僚もまた・・。
 とんだ「古典中国」であることよ。(太田)

(続く)