太田述正コラム#13852(2023.11.15)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その42)>(2024.2.10公開)

「・・・<また、>曹操は、管仲<(注123)>[春秋時代に斉の垣公を輔けて最初の覇者とした]のように貪欲であっても、前漢初期に活躍した陳平<(注124)>のように嫂と密通し賄賂を受けても、「唯才」だけを基準に察挙を行うことを天下に宣言した。

 (注123)?~BC645年。「春秋時代の斉の政治家。公子糾(きゅう)(?―前685)の臣下で、糾と桓公(かんこう)との公位争いで糾が敗れたため捕虜となった。しかし、桓公の臣下の鮑叔牙(ほうしゅくが)の推薦で用いられて宰相となった。以後、桓公を助けて富国強兵政策を進め、とくに農業の振興策や、塩、魚などの海産物資源を利用して商工業を振興させる政策を推し進めた。対外政策では、強力な軍隊を背景とし、他国と会盟を結ぶことによって諸侯間で桓公の指導力を発揮させるようにした。とくに紀元前651年の葵丘(ききゅう)(河南省商丘(しょうきゅう)市の西)の会によって、桓公を覇者にさせたが、管仲の死後、桓公は内政、外交両面で指導力を喪失したといわれる。管仲の思想は道徳より経済を重んじ、国民の生活安定を第一義とする点に特色があり、後の法家思想と通ずるところがある。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%A1%E4%BB%B2-49250
 (注124)?~BC178年。「陽武(河南省原陽県付近)の人。貧農の家に育ったが読書を好み,みずからは労働しないで兄に扶養されていたという。陳勝が挙兵すると,初め魏咎(ぎきゆう)に仕えたが,讒言にあって逃れ,項羽の軍に帰属して都尉(副将)に任ぜられた。しかし,ほどなく項羽の怒りをかって再び逃亡,漢に下って劉邦(高祖)の護軍中尉(軍の監察官)となった。項羽と范増の仲を割いて楚軍に打撃を与えるなど,知謀によって漢の勝利に貢献した。・・・
 高祖が平城で匈奴に包囲されたとき,これを救助し曲逆侯に封じられ,恵帝の時代には左丞相となり,周勃とともに呂氏一族の専権を倒し (→呂氏の乱 ) ,文帝を擁立した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E5%B9%B3-98778

 これは「孝廉」であること、すなわち人間の徳性が、官僚としての才能を保証する、という儒教理念に基づいて行われてきた、後漢の郷挙里選の否定である。
 さらに、曹操は、主観的な価値基準である「文学」による人事を試み、儒教一尊に揺さぶりをかける。・・・
 こうして曹操は、自らの天下平定に向けて、漢を超える制度を施行し、曹丕の曹魏建国を妨げる旧来の儒教を排除したのである。・・・
 <他方、>何休<(注125)>(129~182年)は、漢の儒教の中心であった『春秋公羊伝』の注である『春秋公羊伝解詁』を著し、「聖漢」の「大一統」[中国統一]が理想であると説き続けた。・・・

 (注125)かきゅう(129~182年)。「何休は、従来の『春秋』研究に対し駁論600余條を書き、『公羊伝』こそ『春秋』にとって唯一の解釈書であると主張した。これに対しては、『左氏伝』を擁護する服虔による駁論がある。何休は暦算に優れ、その師である羊弼と李育の説に則り、『左氏伝』『穀梁伝』を難じ、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』を著す。この3つの著作には鄭玄の駁論がある。
 何休は『春秋』を単なる年代記としてではなく、歴史の法則がふくまれた経典として扱い、『春秋』の解釈である『公羊伝』の研究を、経学の一部門として確立した。そこでは、董仲舒に一端が見られる「公羊伝が漢代に制作された」という説と、文化が「乱世・外平・太平」という三段階で発展するという説を強調した。清代に盛んになった公羊学で根拠とされたのは、何休が注釈をほどこした『公羊伝』である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E4%BC%91

そもそも公羊伝は、周に代わるべき「後世の聖人」が、漢であるとは明記していない<というのに・・。>・・・
 <結局、>唐では、『春秋』は、『春秋左氏伝』が尊重される<ことになる>。・・・
一方、同じく漢を最後まで守ろうとした諸葛亮の行動基準は、・・・司馬徽<(注126)>から学んだ・・・『春秋左氏伝』を中心に据える・・・「荊州学」<(注17)><だった。>」(250~253)

 (注126)しばき(?~208年)。「人物鑑定家として名を博した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%BE%BD
 (注127)「この頃の荊州(けいしゅう)は中央の戦乱に比べれば比較的平和で、食糧もあったことから多くの人達が流れて来ていた。・・・荊州けいしゅうは劉表りゅうひょうが学者を保護したことにより、荊州学と呼ばれる学派が誕生していた。荊州学は当時の儒学は豊富な注釈等で複雑になっていたのに意義を唱え、本来の文章を重視するものであった。
 劉表のお抱え学者でもある宋忠に対し、司馬徽は劉表とは距離を取っていた。だが、宋忠・司馬に学びたいと州外からわざわざやってくる者もいるぐらいで(尹黙(いんもく)伝、李譔(りせん)伝)、この二人が荊州の学問の中心と言えるだろう。」
https://kakuyomu.jp/works/16817139556917919246/episodes/16817139557287342974
 「荊州は、<支那>の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に設置された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E5%B7%9E

⇒革命的な曹操に対するに改良的な諸葛亮、といったところですね。
 それにしても、『三国志演義』においても、また、その影響か日本においても、天才で最終的に勝った曹操よりも秀才で蜀を傾かせたまま死去した諸葛亮の方が人気がはるかに高いのは不思議です。
 (さすがに最近ではかなり知られてきたようですが、曹操は、これまで取り上げられた諸事柄以外の面でも天才たる、いわば万能人間でした。(コラム#省略))(太田)

(続く)