太田述正コラム#13854(2023.11.16)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その43)>(2024.2.11公開)

 「荊州学の特徴は、人間中心の合理主義的な経典解釈にあった。
 このため、漢代の儒教、さらにはそれを集大成しながらの次代の規範を示そうとした鄭玄の経典解釈で大きな役割を果たした緯書の宗教性に批判を向けた。
 天が「赤帝赤熛怒」<(注127)>などという名を持ち、赤龍<(注128)>を媒介として人を妊娠させるはずなどない、と考えるのである。

(注127)「後漢の鄭玄が唱えた天の働きをいう学説<であるところの、>・・・六天説<(りくてんせつ)、において、>・・・彼は五行説に基づき,霊威仰(れいいこう)は春と東,赤熛怒(せきひようど)は夏と南,含枢紐(がんすうちゆう)は土用と中央,白招拒(はくしようきよ)は秋と西,汁光紀(じゆうこうき)は冬と北をつかさどるとし,この五帝の上に天の主宰者たる上帝北辰耀魄宝(ほくしんようはくほう)を加えて,天は六なりとした。これは当時流行した讖緯の書(讖緯説)によるもので,のち,魏の王粛(おうしゆく)は《聖証論》を著し,天体は唯一なりとしてその非合理性を批判した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E5%A4%A9%E8%AA%AC-148554
 (注128)せきりゅう。「竜の名称の一つである。南方赤竜。紅竜とも呼ばれる。名称通り、全身の鱗が真っ赤で、太陽や火山から生まれたと言われており、口からは炎を吐き出す。・・・
 五行思想においては、赤は南を位置するものな為、赤龍を朱雀と同様、『南方を守護する神聖な龍』としている異説がある。・・・
 前漢を建国した劉邦には、眠っている母の体の上に赤龍が乗った後に彼が生まれた、つまり赤龍の子だという言い伝えがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%AB%9C

 また、荊州学は、儒教を「経世済民」[国家を経営し民を救う]に役立てることを重視した。・・・
 王粛<(注129)>(おうしゅく)は、鄭玄説に基づく曹魏の明帝の礼制改革に反発する中から、自らの経学を練りあげ、緯書を否定する合理的解釈を生み出した。

 (注129)195~256年。「曾孫は王雅。外孫は司馬炎(西晋の武帝)。・・・魏に仕えた。・・・
 礼制について鄭玄の説に反対し、鄭玄説を擁護する王基などと議論した(「王基伝」)。そのとき、孔子と弟子たちの言行録である『孔子家語』に注を施し、これを根拠にしたという。なお、この『孔子家語』は王粛の偽作ともいわれ、また一から捏造したのではなく、元来あったものを王粛が改竄したともいわれている。渡邉義浩は、曹魏の禅譲正当化の根拠となった鄭玄説を否定することによって、司馬氏の簒奪を正当化する狙いがあったのではと推定している。
 西晋では王粛説が羽振りを利かせたが、以降は鄭玄説が再び有力となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B2%9B

 王粛の緯書否定は、やがて南宋の朱子にも継承される。
 しかし、朱子が尊重したものは、王粛ではなく諸葛亮であった。
 それは、諸葛亮が、「古典中国」となっていく「漢」の最終的な継承者であることによる。・・・
 長期的には諸葛亮が「漢」民族の規範となったことを『三国志演義』は今に伝えるのである。・・・
 梁の劉勰<(注130)>(りゅうきょう)『文心雕龍』<(注131)>史伝篇は、『史記』と『漢書』を比較し<ているが>、・・・儒教に基づき規範としての「古典中国」を描いた『漢書』を高く評価していることが分かる。 」(253~256)

 (注130)?~?年。「南朝斉から梁にかけての官僚・文人。・・・仏教に帰依し、たびたび建康の寺塔や名僧の碑誌の文章を作った。武帝の命により慧震とともに定林寺で経証を編纂し、完成すると出家の許可を武帝に求めた。先だって髭と髪を焼いて覚悟を示しておいたため、武帝も出家を許した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%8B%B0
 (注131)ぶんしんちょうりゅう。「<支那>文学史上で有数の体系的なおかつ総合的な文学理論の書<。>・・・
 六朝は<支那>文学史において、初めて文学が文学として自立した時代であるが、本書はその記念碑的な存在である。しかしながら、単なる文学理論にとどまらず、広く六朝時代の時代層を反映しており、この時代全般を考える上でも重要な書物である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BF%83%E9%9B%95%E9%BE%8D

⇒曲学阿世(注132)の徒ばかりが登場するのにはげんなりさせられます。(太田)

 (注132)「「史記」に出てくることばで、轅固<(えんこ)>という学者が後輩の公孫弘を諭した発言の中にあります。「正しい学問に励み、世の中に発言してくれ。学を曲げて世に阿(おもね)るな」 最後の部分が「曲学阿世」です。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B2%E5%AD%A6%E9%98%BF%E4%B8%96-479326

(続く)