太田述正コラム#13864(2023.11.21)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その5)>(2024.2.16公開)

 「・・・山西軍閥が華北を制覇できた原動力は、いうまでもなく、沙陀族を主力とする精悍無比の軍隊であったが、その軍隊を支えた山西の豊かな経済力も見逃すわけにはいかない。
 山西の晋陽<(注12)>付近は古来、鉄の産地として知られる・・・

 (注12)「今の太原市南西晋源鎮」
https://kotobank.jp/word/%E6%99%8B%E9%99%BD-1345026
 太原(たいげん)市は、「黄土高原の東部、<黄河のコの字の湾曲の東にある>太原盆地の北端に位置し、北・西・東の三方を山に囲まれている。山西最大の河川である汾河が北から南へ約100kmにわたり市域を貫く。・・・
 盆地内の地形は平坦で土壌も肥沃であり、古くから農業が発達してきた。・・・
 山麓では泉が湧き水は比較的豊富。市域内には大きな池沼が六つあ<る。>・・・
 洛陽周辺と北京周辺を結ぶ重要な街道が汾河沿いの盆地を通るため、太原は交通の要衝でもあった。北方の遊牧民族にとって太原は中原を攻めるための拠点で、漢民族にとって太原は北方の守りの要衝であった。・・・
 隋の時代には長安・洛陽に次ぐ黄河流域第三の都市になっており、唐の李淵はここで起兵し唐を興した。この由緒から唐の時代に太原府は陪都として「北都」「北京」とされ、京師(西都)長安、東都洛陽に次ぐ都となり、これら三つの大都会が三都と称された。
 五代十国時代には後唐が国を起こす拠点、および別都となった。当時この地域は鉄と石炭の両者を産出したため、以降、後晋・後漢・後周そして宋と続く五代の沙陀系政権の大陸統一を支える主要な経済基盤の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E5%B8%82

 <また、>山西は鉄のほかにも石炭や銀を産出し、またこの地の特産品に明礬があった。
 明礬は獣皮をなめすために必要な物資で、五代の戦乱の世では、武具の皮革製造のためにその需要が激増したとみられる。
 山西軍閥はこれらの物資を占有して鋭利な武器を製造し、あるいはこれを他国に販売して財を殖やし、強大な勢力を持つにいたったようである。・・・
 後唐以後の王朝を構成したいま一つの大勢力は河北人であった。
 河北<(注13)>はかつて有名な安禄山・史思明の本拠地であ<り、>・・・反中央的気風のさかんな地域であった。・・・

 (注13)「河北省<は、>・・・北京市・天津市を取り囲むように位置し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81

 後梁<の時、>・・・河北軍閥は後梁にそむいて、これまで仲の悪かった晋国側に寝返ったため、晋王李存勗はにわかに勢力を挽回して、ついに華北の覇権を握ることができたのであった。
 このとき河北の軍隊は山西軍閥に併合され、その後各王朝の主力部隊の一翼を担った。
 後周を建てた郭威や宋の太祖の父趙弘殷(ちょうこういん)らはいずれも河北出身の武将である。
 したがって五代の後半は山西軍閥内の政権争奪であったといっても、石敬瑭・劉知遠という沙陀族出身の、いわば生粋の山西軍閥系統から、河北出身の漢人に政権が移行したのである。
 そして後周が成立すると、山西の晋陽には劉知遠の弟の劉崇<(注14)>(りゅうすう)が自立して漢の正統をつぐものと号した(北漢<(注15)>)。

 (注14)895~954年。「太原の人。・・・テュルク系突厥沙陀族の出身。・・・
 兄の劉知遠が後晋の「河東節度使」に任命された際、劉崇は都指揮使を担当し、劉知遠が「後漢」を建国して皇帝になった後は、劉崇は「太原尹」に任じられた。
 甥の劉承祐(隠帝)が次の皇帝に即位すると、劉崇はそこで「河東節度使」に任命された。
 ・・・950年・・・、枢密使の郭威が軍を率いて反乱を起こし、その反乱軍が後漢の都城の開封に迫ると、隠帝(劉承祐)は逃亡した。
 しかし隠帝(劉承祐)は反乱軍に捕まり殺害され、郭威がそのまま国の政治を執ることとなった。
 その時、劉崇は当初、郭威の反乱軍に対抗して自ら軍を率いて南下することを計画したが、郭威が劉崇の長男である「武寧軍節度使」の劉贇を皇帝に擁立する計画を知り、劉崇は軍事行動に出ることを思いとどまった。
 しかし・・・951年・・・、郭威は自らが皇帝に即位して「後周」を建国し、劉贇を殺害した。(後漢の滅亡)
 このことを知ると、劉崇は太原にて自ら皇帝に即位して、「北漢」を建国した。この北漢は、後漢の正統を継ぐものとして内外に示し、劉崇は名を劉旻と改めた。
 建国当初の北漢は国土が矮小であり国力も民力も貧しかったが、劉崇は後漢の復興を目標に活動し、遼に対し支援を要請した。
 そして、遼と北漢を父子の関係になぞらえ、遼帝を「叔皇帝」として敬い、劉崇は自らを「姪皇帝」と称すなど遼に対する服従外交、迎合政策を実施した。
 遼もこれに応え、北漢の皇帝の世祖(劉崇)を大漢神武皇帝に冊封した。
 遼の支援を受けた北漢は、後周に対する軍事行動を数多く起こした。
 特に・・・954年・・・、郭威の死去に乗じて劉崇は大軍を率いて後周に侵攻したが、後周の世宗柴栄の軍に北漢軍は大敗し、その時、北漢の皇帝の世祖(劉崇)は農民に変装して戦場から逃亡した。
 これにより北漢は深刻な打撃を受け、国力は低迷し、後周を攻撃する余力がなくなった。
 その後、北漢の皇帝の世祖(劉崇)は、国勢が凋落する中で崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B4%87
 (注15)951~979年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%BC%A2

 こうしてみてくると、五代は河南・河北・山西の三大勢力が華北のなかで角逐抗争をくりひろげた時代であったといえよう。」(37~40)

⇒著者は、華南、そしてそこでの十国中の(北漢以外の)九国に触れることなく、華北の五代だけに焦点をあてた前宋史を記してきたわけですが、それでいいのだろうか、と、率直に思います。(太田)

(続く)