太田述正コラム#13876(2023.11.27)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その11)>(2024.2.22公開)

「・・・残る最大の強国は南唐<(注85)>であった。

 (注85)937~975年。「937年・・・呉より禅譲<、>・・・958年・・・後周に臣従し、皇帝号を去り国号を江南に改める<。>・・・
 五代十国時代に華北では、異民族の侵入もあり、戦乱が相次いでいた。このため、華北に住んでいた文化人達は南方に避難した。南唐もこういった文化人達の避難の受け皿となり、文化を大いに発展させた。・・・
 南唐は江南地方を安定的に支配し、この地方の開発を進めた。後の南宋時代にはこの地域は大穀倉地帯になるが、それもこの頃の開発によるものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%94%90

 すでに後周世宗の討伐を受けて領土は半減し、国勢は急激に減退していたとはいえ、その力はなお他の諸国よりはるかに大きかった。・・・
 <その南唐>征服の結果、南方で残った国は浙江に拠る呉越と福建の漳<(注86)>(しょう)・泉州に拠る陳洪進政権とであったが、ともに自立できる国勢を有していなかったから、江南が滅亡したいま、この両国が宋に帰順してくるのは時間の問題であった。・・・

 (注86)漳は呉越の属国のようだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%94%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%90%8E%E5%91%A8%E5%BD%A2%E5%8A%BF%E5%9B%BE%EF%BC%88%E7%B9%81%EF%BC%89.png
が、ネット上では不詳。
「“漳河Zhāng Hé”は山西省に源を発し,衛河に流入する川の名.“漳江Zhāng Jiāng”は福建省にある川の名.」
https://kotobank.jp/zhjaword/%E6%BC%B3

 一、二年の準備期間をおいて・・・<太祖は、>再度、北漢を討つ・・・北伐<を>する計画であったと思われるが、惜しくも江南征服の翌年、この世を去った。・・・
 太祖は気が弱く、たえず何かにおびえていた・・・<ように>みえる。
 太祖は自分の不安な気持ちを説明するのに、睡眠や寝室を持ち出している。
 「杯酒釈兵権」で「枕を高くして眠れない」といい、江南の<君主>に「ベッドの側で寝息を立てられてたまるか」といい、趙普<(注87)>の家を訪れて「寝ようにも寝つかれない」と述べている。

 (注87)ちょうふ(922~992年)。「元は後周の下級役人に過ぎなかったが、当時義成軍節度使であった北宋の太祖趙匡胤の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなった。・・・959年・・・に世宗が急逝し、その後継者となった恭帝が幼少であったために軍部が動揺すると、趙匡義とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国した。
 太祖からは左右の手と評されるほどの信頼と重用を受け、枢密使を経て・・・964年・・・には宰相となった。一時は翰林学士盧多遜の讒言を受けて失脚したが、再び宰相へ復帰し、・・・992年・・・に致仕するまで在職した。
 下級役人上がりで教養がないと批判されたが、「沈毅果断、天下を以って己が任と為す」といわれた冷静沈着な名宰相で、盛唐から五代十国時代にかけて戦乱の原因となった節度使の無力化や、文人の登用などを進言し、北宋・南宋合わせて300余年にわたる王朝の基礎を築いた立役者と言われる。
 ただし、清廉潔白な人物とは言え<ない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%99%AE

 これらは天かがまだ統一されていないことの比喩ではあるが、実際に、あれこれ気にやみ不安にかられていたように思われる<のだ>。
 <また、頻繁に>「微行」したのは、彼みずから実見しなければ気が休まらなかったからであろう。
 そして、何か気にかかる問題がおきると、すぐさま信頼する趙普の家を訪れ、相談をもちかけたのであった。
 こうしてみると、太祖の性格は神武英断とか豪放磊落といったものとは、およそかけ離れた、弱々しいイメージを受けるのである。
 一体、太祖は君主独裁体制をつくった皇帝とされるが、のちの太宗のような絶対君主としての自信に充ちた言動にかけ、内外の重要施策は宰相趙普の指示のままであった。
 皇帝になった「陳橋の変」そのものが、実は趙普と弟趙匡義が仕組んだ策略であったと指摘されており、彼の治世を通じて、太祖自身の強い意志とか個性といったものが、現存史料ではどうも明らかでない。
 何となくベールにつつまれた感を拭いきれないのである。
 それは、彼の死についても同様であった。」(127、135、138)

⇒私がこの本を読んでいてずっと前の時点で抱きご披露した太祖観と全く同じ太祖観を著者が開陳しており、我が意を得た思いです。(太田)

(続く)