太田述正コラム#13878(2023.11.28)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その12)>(2024.2.23公開)

「・・・中央集権体制をきずき、君主独裁の制度をつくる大方針は、太宗<(注88)>も太祖と変わるところはなかった。

 (注88)939~997年。皇帝:976~997年。「太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅に改めた。・・・
 太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の次男の趙徳昭を自殺させ、太祖の四男の趙徳芳が・・・981年・・・に不可解な死を遂げた後に自らの子の趙恒を太子としたこと・・・<、更には、>本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、太祖の次男の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったことなど・・・は、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。・・・
 978年・・・には独立勢力であった泉州の清源軍節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し、翌・・・979年・・・に北漢を滅ぼし、<支那>の再統一を達成した。その余勢を駆って遼から燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高梁河において敗れ、開封に撤退した。また・・・980年・・・には前黎朝大瞿越の黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
 内政面では太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。・・・
 984年・・・、太宗は入宋した日本の使者である僧の奝然を厚遇し、紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し(万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して宰相に次のように語った。・・・
 「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。<支那>は唐李の乱(朱全忠による禅譲)により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、その存続期間が短くており、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳はたとえ太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせるのが朕の願いである」・・・『宋史』巻491, 日本伝」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)

⇒「宋元時代に僧侶や商人の往来が盛んに行われたので、書物の交流も当然のように盛んであった。」
https://core.ac.uk/download/pdf/235622639.pdf
というのですから、1345年に完成した『宋史』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2
も、室町時代初めの足利尊氏(1305~1358年)存命中にも日本に伝わっていた可能性があるところ、儒教的観点から、支那(宋)の皇帝自身が日本における統治が支那におけるそれよりも優れていることを認めていることが日本の人々に知られるに至ったわけであり、このことも、広義の日蓮主義の、日本の支配層への浸透を促進させた、と、思われます。(太田)

 ただ、<紹介しなかった(太田)が、>・・・太宗の即位は一種の小革命であり、「年を踰(こ)えずに改元」して並々ならぬ決意を内外に表示したが、その翌年早々から打ち出された諸政策をみると、その方向は太祖と少しく違っていた。
 その一つは軍閥制御策にみられる。
 太祖は軍閥の権限を押さえたが、辺防の任にある武将にはその地に長く留まることを許し、経済的特権を与えて優遇した。
 ところが、・・・977<年>正月、太宗は軍閥の営利行為を一切禁止する詔勅を発布した。・・・
 これは実に太宗の最初の施策であった。
 独裁君主の下では一人の特権者も許されないという、太宗の徹底した考えから出たものであるが、これより辺防が弛緩したのは太宗のこの施策のせいであるとして、後世では評判がよくない。・・・
 太宗の施策の第二弾は、同年8月の藩鎮の支郡廃止であった。
 唐末以来、藩鎮の領域は数州に及び、そのうち幕府のある州を会府州といい、他の州を支郡とよんで、その地方の民政・財政の権をも掌握していた。・・・
 ここに至って、全面的に、節度使の所領は1州、幕府の置かれた州に限り、その他の支郡は中央に直属せしめることになったのである。・・・
 しかも節度使に残された州にも、中央から知州・通判などを派遣し、民政・財政権を収回したので、節度使の権限は次第に失われ、名目的な官職にすぎなくなった。」(161~163)

⇒この2つの施策の妥当性はさておき、かかる施策群を実施することで弱体化が見込まれた軍事力の弱体化防止策を、別途講じなければならないのに、それを太宗が怠ったことが、北宋の「滅亡」を運命づけた、と、先回りして指摘しておきましょう。(太田)

(続く)